私はプロレスラーの闘う姿に惹かれて来たファンである。
それが例え偽の闘いであれ、本当の闘いであれ、闘うプロレスラーが好きである。
特に昨今は完全に「プロレスはプロレス」と開き直った事実上の敗北宣言をしてしまっているような気がしてならない。
一般的なプロレスが例え偽の闘いであれ何であれ、闘うことをテーマにしたジャンルには違いない。
なによりプロレスというジャンルは闘う事に関してのイメージ産業である。
逆に言うとイメージから逸脱する必要も無い。
リアルに闘う事無くとも、イメージを守る事、それが大切である。
闘いに関するイメージ産業である事を放棄している時点で、もうプロレスというジャンルは成立しなくなっているのだ。
そういう意味で杉浦をのぞいて格闘技には関わらず、それでも、闘いをテーマに黙々と真面目なプロレスを遂行しているノアは、総合出陣とは別のところで、強さのイメージ産業としてのプロレスを守り抜いている。
逆に、新日本は、何度かの格闘技での敗戦を経て、完全に闘うイメージ産業としてのプロレスに敗北宣言をしてしまっている。
もはやジャンルとしての本質を無くしているのだ。
闘うイメージを無くせば、もはや、ジャンルとして残されたテーマはお笑いかアクロバットショーしか無い。
それらが核となって形成されつつ有るのが、平成のプロレス村で有る。
私はドラゴンゲートに関しては殆ど知らないが、さすがにストーカー市川の名前は知っている。
総合に出るというのが確かな事かどうかは定かではないが、弱さをイメージとする最たるレスラーの市川が、強さのみで価値が決まるリングに立つ理由が、もう一つ分からない。
最弱レスラーが総合で勝てば、団体のイメージは高まる部分も有る。
また負けても傷は最小限に抑えられる。
しかし、団体の若手や二番手あたりが出て行く以前の出陣ではなく、あまりにも、強さとかけはなれた役割を担うレスラーが、もし、総合で勝てば、ますますプロレスと格闘技は別物であるという棲み分けが強くなり、ジャンルとしての強さのイメージは更に必要なくなるであろう。
かといってプロレスラーが出陣するとなれば応援せざるを得ないのが、プロレスファンの性分でもあるが。
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2007年11月10日
西村修・人の為の自分探し
西村修という男は、プロレスオタク出身者達の狭いムラ社会となったプロレス界で、見聞の高い男でもある。
読書を欠かさず、限られた人生にクオリティを求める上質の男でもある。
私は、プロレス界にああいう男は必要だと思っている。
海外修行での水平の旅こそが見聞を広めたり、人間的に成長させるものではなく、一カ所での垂直の旅も有る。
西村は西村で海外での経験によって多くの見聞を広めたのだから、後は、垂直での自分探しを初めてもいいものだ。
私が、西村の言葉を聞いていて、感じるのは、解釈の飛び方が極端という事である。
例えば、試合前、控え室でアルコールを飲むヨーロッパのレスラーがいれば、試合前練習だけのプロレスラーはレベルが低いとなる。
行動すれば必ず批判が来ると思っている。
経験した事柄に対して、解釈が極端すぎるのである。
誤解を怖れずに言えば、西村修の魅力とは弱さである。
病気での弱さではなく、常に自己を見つめてるからこそ、自分の弱さを誰よりも知っている。
しかし、その自己に対峙する事は無く、自己を肯定する。
本当に自分が自信があるならば、あそこまで自分を守る為に言い訳がましい他者批判は繰り返さないはずであるが、自らの怯えを隠すために、必死に他者を批判する。
自分に実体が無いから、ドリー・ファンク・ジュニアやジャック・ブリスコ、ゴッチさん、ヒロ・マツダ、好みの伝説を絶対化する。
絶対化した象徴を自分を守る砦のように利用しているのだ。
私は西村がストレスを受けない生き方にこだわっているとしたら、もっと自分の弱さをさらけだしても良いのではないかと思っている。
弱さを隠す為に他者の悪口ばかり繰り返す事がストレス対策になるはずもない。
何も出来ない、何も取り柄の無い自分をさらけだしたらいいのだ。
さらけだし、こだわりの部分とこだわりない部分を上手く整理し、もっと楽に生きて行って欲しい。
右か左かの極端な解釈ではなく、もっと中庸意識を持って、柔軟な生き方をすれば良い。
哲学の文字の中に溺れるくらいなら、もっと汗を流して、無になれば良い。
癌をとことん免罪符にしているようだが、癌から生還して金メダルを取ったレスラーもいれば、同じ患者の方に少しでも勇気を与えようとする小橋や小林邦明もいる。
彼らがファンに与えてくれた勇気や刺激を、西村は一度たりともファンに与えて来たであろうか?
現段階では少しもプロとしてファンに対する徳を与えていないではないか?
人の為よりも自分の事に必死な弱い男そのものではないか?
アントニオ猪木ですら、あまりの身勝手さ、冷酷さで、例え側近の多くの人間達を傷つけて来たとしても、こと、ファンに対しては徳の貯金の方が大きい男なのである。
実は、そういう自分に誰よりも気付いているのは西村修自身ではないかと私は思っている。
気付いているからこそ、自分を守る為に伝説の選手たちへの崇拝振りと、病気とを、免罪符に、また哲学と上質の生活とやらに身を包んだ生き方をしていくのであろうか?
私は西村修が嫌いな反面、平成のプロレス村の匂いを全く感じさせない部分に関しては、ものすごく好きな男でもある。
プロレス村に染まらない経験値と素養は持つ男である。
自分がしたい事は何なのか?
少なくとも西村は金を稼ぎたいと公言したのである。
好きな事を貫きたいならば鶴見五郎のように堅実な小箱で草プロレスをすれば良い。
そうではなく、良い生活をしたいと公言した以上、自分でもっと銭の取れる方法を考える事だ。
自分の生き方ではなく、そこにファンに何かを与える義務の有るプロレスラーとしての生き方を重ねるべきなのだ。
自分の商品価値、人に提供出来る、金を稼げる自分の特性を考えたらよい。
銭を稼ぐ為に、人に何を与えられるか?
自分がプロレスラーとして、何をファンに与えられるか?
人の為の自分探しを始めたとき、西村修は絶対に大物になる。
それだけの器の男で有る。
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読書を欠かさず、限られた人生にクオリティを求める上質の男でもある。
私は、プロレス界にああいう男は必要だと思っている。
海外修行での水平の旅こそが見聞を広めたり、人間的に成長させるものではなく、一カ所での垂直の旅も有る。
西村は西村で海外での経験によって多くの見聞を広めたのだから、後は、垂直での自分探しを初めてもいいものだ。
私が、西村の言葉を聞いていて、感じるのは、解釈の飛び方が極端という事である。
例えば、試合前、控え室でアルコールを飲むヨーロッパのレスラーがいれば、試合前練習だけのプロレスラーはレベルが低いとなる。
行動すれば必ず批判が来ると思っている。
経験した事柄に対して、解釈が極端すぎるのである。
誤解を怖れずに言えば、西村修の魅力とは弱さである。
病気での弱さではなく、常に自己を見つめてるからこそ、自分の弱さを誰よりも知っている。
しかし、その自己に対峙する事は無く、自己を肯定する。
本当に自分が自信があるならば、あそこまで自分を守る為に言い訳がましい他者批判は繰り返さないはずであるが、自らの怯えを隠すために、必死に他者を批判する。
自分に実体が無いから、ドリー・ファンク・ジュニアやジャック・ブリスコ、ゴッチさん、ヒロ・マツダ、好みの伝説を絶対化する。
絶対化した象徴を自分を守る砦のように利用しているのだ。
私は西村がストレスを受けない生き方にこだわっているとしたら、もっと自分の弱さをさらけだしても良いのではないかと思っている。
弱さを隠す為に他者の悪口ばかり繰り返す事がストレス対策になるはずもない。
何も出来ない、何も取り柄の無い自分をさらけだしたらいいのだ。
さらけだし、こだわりの部分とこだわりない部分を上手く整理し、もっと楽に生きて行って欲しい。
右か左かの極端な解釈ではなく、もっと中庸意識を持って、柔軟な生き方をすれば良い。
哲学の文字の中に溺れるくらいなら、もっと汗を流して、無になれば良い。
癌をとことん免罪符にしているようだが、癌から生還して金メダルを取ったレスラーもいれば、同じ患者の方に少しでも勇気を与えようとする小橋や小林邦明もいる。
彼らがファンに与えてくれた勇気や刺激を、西村は一度たりともファンに与えて来たであろうか?
現段階では少しもプロとしてファンに対する徳を与えていないではないか?
人の為よりも自分の事に必死な弱い男そのものではないか?
アントニオ猪木ですら、あまりの身勝手さ、冷酷さで、例え側近の多くの人間達を傷つけて来たとしても、こと、ファンに対しては徳の貯金の方が大きい男なのである。
実は、そういう自分に誰よりも気付いているのは西村修自身ではないかと私は思っている。
気付いているからこそ、自分を守る為に伝説の選手たちへの崇拝振りと、病気とを、免罪符に、また哲学と上質の生活とやらに身を包んだ生き方をしていくのであろうか?
私は西村修が嫌いな反面、平成のプロレス村の匂いを全く感じさせない部分に関しては、ものすごく好きな男でもある。
プロレス村に染まらない経験値と素養は持つ男である。
自分がしたい事は何なのか?
少なくとも西村は金を稼ぎたいと公言したのである。
好きな事を貫きたいならば鶴見五郎のように堅実な小箱で草プロレスをすれば良い。
そうではなく、良い生活をしたいと公言した以上、自分でもっと銭の取れる方法を考える事だ。
自分の生き方ではなく、そこにファンに何かを与える義務の有るプロレスラーとしての生き方を重ねるべきなのだ。
自分の商品価値、人に提供出来る、金を稼げる自分の特性を考えたらよい。
銭を稼ぐ為に、人に何を与えられるか?
自分がプロレスラーとして、何をファンに与えられるか?
人の為の自分探しを始めたとき、西村修は絶対に大物になる。
それだけの器の男で有る。
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2007年11月09日
船木誠勝という希代のナルシスト3
大晦日の桜庭と船木の試合が近づいてきた。
私にとっては、かつてはプロレスラー同士の総合格闘技ほど観るに辛い試合は無かったが、総合格闘技黎明期と比べ、格闘技イベントの中でプロレスラーの価値が低下している現在、例え、プロレスラー同士の闘いであっても、大晦日のイベントとしての軸となるカードがプロレスラーによって形成されるのは嬉しい限りである。
このカードがイベントの軸であるとの格闘技メディアでの評価は存在しないが、私はそうは思わない。
HERO'Sに未だにファンの核の部分は存在していない。
核の部分が空洞化しているのがHERO'Sであり、桜庭対船木の試合が例え、懐メロ枠であっても、熱狂的なマニア層の核が空洞化しているイベントの中で、桜庭対船木を見つめるファン層の熱気は一つのイベントの核となり得るからである。
私と同世代のプロレスファンにとって船木誠勝というレスラーの闘いの過程というのは、特別な刺激に満ちていたものだ。
船木引退直後のパンクラスほど空虚感溢れるリングは無かった。
少なくとも、もう少し、船木のファンは船木の闘いを観ていたかったはずである。
しかし、リングに立つだけでオーラを発する船木であったが、実はヒクソン戦の前より、我々の期待する船木誠勝の姿を殆ど魅せてくれることは無くなっていた。
前田日明との試合、モーリス・スミスに勝った試合、鈴木みのるとの試合、バス・ルッテンとの試合、いずれの試合も、船木の内に秘めながらも洩れてくる感情の気配と、船木自身の肉体と技とが一致していた。
しかし、それらの試合を経て、競技性が明確になるにつけ、船木の内に秘めた感情が、肉体の動きに昇華されること無く、淡々とした動きに爆発的な余韻の無いまま、勝っても負けても消化不良の試合が多かったような気がする。
もっとも、消化不良の試合であっても、船木誠勝の闘う姿だけで充分に価値のあった時代でもあった。
私が船木を知らない世代にこそ、船木誠勝という男を観てもらいたい。
あれだけストイシズム、ナルシズム、を兼ね備え、それらに包まれた感情の気配を発しながら闘う男はいない。
格闘技の実力うんぬんではなく、格闘技の試合で、あれだけオーラを醸し出せる選手も珍しいはずである。
船木の魅力は、勝ち負けでも、格闘技のスキル、レベルでもない。
全てのプロスポーツがショースポーツでもあるならば、船木の突出した感情と肉体の醸し出すショーマンぶりを確かめてほしい。
なら、普通にプロレスの試合を行えばよいと思われそうだが、船木のショーマンとしての魅力は、リアルな逃げ場所の無い闘いの中でこそ、発揮されるはずである。
それが船木誠勝という希代のナルシストの特性でもあるのだ。
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私にとっては、かつてはプロレスラー同士の総合格闘技ほど観るに辛い試合は無かったが、総合格闘技黎明期と比べ、格闘技イベントの中でプロレスラーの価値が低下している現在、例え、プロレスラー同士の闘いであっても、大晦日のイベントとしての軸となるカードがプロレスラーによって形成されるのは嬉しい限りである。
このカードがイベントの軸であるとの格闘技メディアでの評価は存在しないが、私はそうは思わない。
HERO'Sに未だにファンの核の部分は存在していない。
核の部分が空洞化しているのがHERO'Sであり、桜庭対船木の試合が例え、懐メロ枠であっても、熱狂的なマニア層の核が空洞化しているイベントの中で、桜庭対船木を見つめるファン層の熱気は一つのイベントの核となり得るからである。
私と同世代のプロレスファンにとって船木誠勝というレスラーの闘いの過程というのは、特別な刺激に満ちていたものだ。
船木引退直後のパンクラスほど空虚感溢れるリングは無かった。
少なくとも、もう少し、船木のファンは船木の闘いを観ていたかったはずである。
しかし、リングに立つだけでオーラを発する船木であったが、実はヒクソン戦の前より、我々の期待する船木誠勝の姿を殆ど魅せてくれることは無くなっていた。
前田日明との試合、モーリス・スミスに勝った試合、鈴木みのるとの試合、バス・ルッテンとの試合、いずれの試合も、船木の内に秘めながらも洩れてくる感情の気配と、船木自身の肉体と技とが一致していた。
しかし、それらの試合を経て、競技性が明確になるにつけ、船木の内に秘めた感情が、肉体の動きに昇華されること無く、淡々とした動きに爆発的な余韻の無いまま、勝っても負けても消化不良の試合が多かったような気がする。
もっとも、消化不良の試合であっても、船木誠勝の闘う姿だけで充分に価値のあった時代でもあった。
私が船木を知らない世代にこそ、船木誠勝という男を観てもらいたい。
あれだけストイシズム、ナルシズム、を兼ね備え、それらに包まれた感情の気配を発しながら闘う男はいない。
格闘技の実力うんぬんではなく、格闘技の試合で、あれだけオーラを醸し出せる選手も珍しいはずである。
船木の魅力は、勝ち負けでも、格闘技のスキル、レベルでもない。
全てのプロスポーツがショースポーツでもあるならば、船木の突出した感情と肉体の醸し出すショーマンぶりを確かめてほしい。
なら、普通にプロレスの試合を行えばよいと思われそうだが、船木のショーマンとしての魅力は、リアルな逃げ場所の無い闘いの中でこそ、発揮されるはずである。
それが船木誠勝という希代のナルシストの特性でもあるのだ。
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2007年11月07日
PRIDE最後の試合/ジェフ・モンソン対藤田和之
K-1心中様のこちらの記事には驚き感心しました。
PRIDEの歴史が実は高田のタップで始まり藤田のタップで終わった歴史である事をここまで端的に、かつウェットに包みながらも、ストレートに記されたブログは無いと思っているからです。
ブログというかメディア自体ありません。
いつもながらK-1心中様の「気づき」には感心するばかりです。
情報に対してこう思う、ああ思う程度の記事ならば誰でも書けます。
しかし、誰も気付かない点に気付き、記事にされるブログは、当ブログも含め殆どありません。
私がK-1心中様を支持する理由は単に経験者だからという理由だけではありません。
このような「気付き」を何気ない点からも与えてくれる事が大きいからです。
後出しジャンケンになってしまいますが、つい藤田をタップアウトさせたジェフ・モンソンが気になってしまいました。
私が忘れられないのは藤田和之に片足タックル(シングル)を決め、レスリングの定石通りのテイクダウンをモンソンが決めた時でした。
私にとっては谷津がグッドリッジに同じ技を決めた時、レスリングの定石など知らないグッドリッジのやみくもな暴れ方に逃げられたシーンの悪夢があるからです。
おそらく藤田和之はレスラーだったからこそジェフモンソンの余りにも基本的なレスリングの動きに制されたのでしょう。
そこでジェフ・モンソンが気になりネットを中心に探しました。
おそらくレスリングキャリアは全米三部リーグにも満たないでしょう。
しかし、そこがアメリカです。
ジェフ・モンソン程度でも藤田がプレッシャーを感じるほど簡単に倒されない、かつ、藤田をテイクダウンさせられる技量を持っているのです。
ジェフモンソンのレスリングの技量については、このグラップリングの動画のハイクラッチタックルを見て下さい。
まず自分の頭が相手の相手の足の外側に行くように思いきり相手の股間めがけ自分のリーチを伸ばします。
その後、両足に組み換えるパターンが多いですが、モンソンは相手の片足だけを最後まで捉えテイクダウンさせています。
絵に描いたようなとはいえませんが、ハイクラッチが出来る選手が総合に進出して行けば、総合格闘技界は小さな技術革命を起こす事でしょう。
それくらいハイクラッチはまだ総合格闘技界に浸透していない技です。
なんとかヒョードル相手にテイクダウンくらいは成功して欲しいものです。
しかし意外とヒョードルはアメリカンタイプのレスラーに簡単にテイクダウンさせられる事が多いので、それくらいは可能かも知れません。
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PRIDEの歴史が実は高田のタップで始まり藤田のタップで終わった歴史である事をここまで端的に、かつウェットに包みながらも、ストレートに記されたブログは無いと思っているからです。
ブログというかメディア自体ありません。
いつもながらK-1心中様の「気づき」には感心するばかりです。
情報に対してこう思う、ああ思う程度の記事ならば誰でも書けます。
しかし、誰も気付かない点に気付き、記事にされるブログは、当ブログも含め殆どありません。
私がK-1心中様を支持する理由は単に経験者だからという理由だけではありません。
このような「気付き」を何気ない点からも与えてくれる事が大きいからです。
後出しジャンケンになってしまいますが、つい藤田をタップアウトさせたジェフ・モンソンが気になってしまいました。
私が忘れられないのは藤田和之に片足タックル(シングル)を決め、レスリングの定石通りのテイクダウンをモンソンが決めた時でした。
私にとっては谷津がグッドリッジに同じ技を決めた時、レスリングの定石など知らないグッドリッジのやみくもな暴れ方に逃げられたシーンの悪夢があるからです。
おそらく藤田和之はレスラーだったからこそジェフモンソンの余りにも基本的なレスリングの動きに制されたのでしょう。
そこでジェフ・モンソンが気になりネットを中心に探しました。
おそらくレスリングキャリアは全米三部リーグにも満たないでしょう。
しかし、そこがアメリカです。
ジェフ・モンソン程度でも藤田がプレッシャーを感じるほど簡単に倒されない、かつ、藤田をテイクダウンさせられる技量を持っているのです。
ジェフモンソンのレスリングの技量については、このグラップリングの動画のハイクラッチタックルを見て下さい。
まず自分の頭が相手の相手の足の外側に行くように思いきり相手の股間めがけ自分のリーチを伸ばします。
その後、両足に組み換えるパターンが多いですが、モンソンは相手の片足だけを最後まで捉えテイクダウンさせています。
絵に描いたようなとはいえませんが、ハイクラッチが出来る選手が総合に進出して行けば、総合格闘技界は小さな技術革命を起こす事でしょう。
それくらいハイクラッチはまだ総合格闘技界に浸透していない技です。
なんとかヒョードル相手にテイクダウンくらいは成功して欲しいものです。
しかし意外とヒョードルはアメリカンタイプのレスラーに簡単にテイクダウンさせられる事が多いので、それくらいは可能かも知れません。
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総合格闘技で見たい曙
K-1心中様でも記されているが、私も曙の総合格闘技での闘いが見たい一人である。
プロレスを行う曙もそれはそれで魅力的ではあるが、すでにリアルな実力の底が割れている男が、いくらプロレスのリング上で、怪物振りを発揮しても、その怪物性に幻想は無い。
幻想の無い中を、暖かいファンの後押しを受けて、プロレスを行い続けても
どこかに刹那さを感じざるを得ない。
リアルに闘ってきたのだ。
プロレス界が総合での敗戦にイメージを重ねることなど無くなってもきた。
いくら総合で負けても、プロレスはプロレスだからである。
それが昨今のプロレス界の大人で暖かい風潮である。
しかし、プロレスは幻想なのだから、逆に、何よりも、強さのイメージにこだわらなければいけない。
総合格闘技黎明期、総合に挑戦するならベルトを置いていく位の、強さの幻想、イメージにこだわってきたプロレス界は無い。
プロレスは、そのこだわりを強く持ってきたイメージ産業でもあったのに、強さの幻想を無くした選手を必要以上に重宝している風景はやや情けなくもある。
業界全体が強さへのこだわりを捨てた。
つまり、強さのイメージ産業としてのプロレスの存在を見失っているのである。
曙はプロレスファンでもあり、意外とプロレス頭は秀でている選手でもある。
その肉体的個性と相まって、格闘技よりプロレスに向いていることは確かであろう。
しかし、プロレスでその魅力を更に開花させる為にも、総合に出るべきである。
もう、極端に弱い選手、ジャイアントシウバのような肉体的に優位性を持ったかませ犬でなく、今度こそ、本当のかませ犬を当ててでも、曙には総合での勝利を飾って欲しい。
また、私的には、同じ笑うなら、曙のプロレスワークではなく、格闘技の試合でのあの異形ぶりを楽しみたい気持ちも内心ある。
しかし、今度だけは笑うことなく、何とか勝利を飾って欲しくもある。
そういえば格好の相手がいる。
かませ犬とはいえないがプロ転向後の因縁深いボブ・サップである。
幸運なのは、サップが最も人気を博していた時代、サップが勝ち続けていたということである。
サップの失速振りは意外と世間の人のイメージには無いものである。
ひょっとしてサップをコーナーに詰めて圧力をかけ続ければ、今のサップなら気持ちが折れるのではないかとの期待もある。
そうなると世間的にはまだ強いサップにリベンジしたというイメージを大晦日の多くの視聴者に植えつける事が出来る。
総合で勝てば必ず曙の幻想は少しは取り戻せる。それがサップとなればかなりのイメージ回復である。
怪物プロレスラーとして必要不可欠な幻想を取り返すためのイメージ戦略として再び、曙には格闘技に挑んで欲しい。
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プロレスを行う曙もそれはそれで魅力的ではあるが、すでにリアルな実力の底が割れている男が、いくらプロレスのリング上で、怪物振りを発揮しても、その怪物性に幻想は無い。
幻想の無い中を、暖かいファンの後押しを受けて、プロレスを行い続けても
どこかに刹那さを感じざるを得ない。
リアルに闘ってきたのだ。
プロレス界が総合での敗戦にイメージを重ねることなど無くなってもきた。
いくら総合で負けても、プロレスはプロレスだからである。
それが昨今のプロレス界の大人で暖かい風潮である。
しかし、プロレスは幻想なのだから、逆に、何よりも、強さのイメージにこだわらなければいけない。
総合格闘技黎明期、総合に挑戦するならベルトを置いていく位の、強さの幻想、イメージにこだわってきたプロレス界は無い。
プロレスは、そのこだわりを強く持ってきたイメージ産業でもあったのに、強さの幻想を無くした選手を必要以上に重宝している風景はやや情けなくもある。
業界全体が強さへのこだわりを捨てた。
つまり、強さのイメージ産業としてのプロレスの存在を見失っているのである。
曙はプロレスファンでもあり、意外とプロレス頭は秀でている選手でもある。
その肉体的個性と相まって、格闘技よりプロレスに向いていることは確かであろう。
しかし、プロレスでその魅力を更に開花させる為にも、総合に出るべきである。
もう、極端に弱い選手、ジャイアントシウバのような肉体的に優位性を持ったかませ犬でなく、今度こそ、本当のかませ犬を当ててでも、曙には総合での勝利を飾って欲しい。
また、私的には、同じ笑うなら、曙のプロレスワークではなく、格闘技の試合でのあの異形ぶりを楽しみたい気持ちも内心ある。
しかし、今度だけは笑うことなく、何とか勝利を飾って欲しくもある。
そういえば格好の相手がいる。
かませ犬とはいえないがプロ転向後の因縁深いボブ・サップである。
幸運なのは、サップが最も人気を博していた時代、サップが勝ち続けていたということである。
サップの失速振りは意外と世間の人のイメージには無いものである。
ひょっとしてサップをコーナーに詰めて圧力をかけ続ければ、今のサップなら気持ちが折れるのではないかとの期待もある。
そうなると世間的にはまだ強いサップにリベンジしたというイメージを大晦日の多くの視聴者に植えつける事が出来る。
総合で勝てば必ず曙の幻想は少しは取り戻せる。それがサップとなればかなりのイメージ回復である。
怪物プロレスラーとして必要不可欠な幻想を取り返すためのイメージ戦略として再び、曙には格闘技に挑んで欲しい。
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馬鹿馬鹿しいプロレスが見たい
私が子供の頃のプロレスの風景は馬鹿馬鹿しさの塊であった。
子供の頃、不思議だったのはブッチャーやシークの凶器シューズであった。
尖端の部分が何故か自分の足の甲に向いている不思議な凶器シューズに私が感じたのは、
どこか平和で牧歌的なプロレス界の風景であった。
国際プロレスがサンテレビで中継された時、驚いたのがマイティ井上がヘッドロックに捉えた相手の顔面にパンチを連発している風景であった。
正確には相手の顔面にではなく、自分の胸に連続パンチを放っていた事であった。
チャボ・ゲレロが来日すれば藤波と毎週、お約束の攻防を繰り広げる。
それよりも多く見たのがジャンボ鶴田がエプロンのマスカラスやドスカラスのボディに頭突きを繰り返し、回転エビ固めで切り返されるシーンであった。
ジャンボ鶴田といえば、相手に倒され、痙攣する手足が忘れられない。
まだ小学生の私であったが、プロレスがショーかどうかなど、どうでも良い潜在意識を持ってプロレスを見つめていた。
アントニオ猪木の前では毎週、正座してブラウン管を見つめる私であったが、外国人レスラーの不思議な異人ぶりを素直に楽しめた。
わざとタイツを退きすり下ろされるお約束も現れた。
笑いを取る為のマイクも使い出された。
しかし、どこにいってもプロレスはパラエティーでは無く、他に比類無きプロレスと言うジャンルでしか無かったのだ。
プロレスの中の馬鹿馬鹿しさと言う一要素が、笑いを取っても、良かったと私は思っている。
私が新日本プロレスの馬鹿馬鹿しさを最後に見たのは、何年前か札幌のリングでアントニオ猪木が当時の精鋭にマイクを向け、喋らせた、滑稽なシーンであった。
滑稽では有るが、馬鹿馬鹿しさ極まりない、プロレスの一部分でもある。
しかし、何時頃からか、プロレスラー達が馬鹿馬鹿しさよりも、おふざけの考えを持ち出すようになった。
実は、これは長州が去った後の新日本プロレスに多く見られる構図である。
CTUなるものは、その最たるものであろう。
客を笑わす前に自分たちが楽しんでいるのである。
ハッスルというリングは、ねんみつに練り上げられたプロとしてのクリエイティヴな意識を持ってスタッフが取り組んでいるのは分かる。
しかし、そこに馬鹿馬鹿しさ等無いのだ。
プロレスと言うジャンルの馬鹿馬鹿しさに、練り上げられたものなど無いからだ。
練り上げられていない馬鹿馬鹿しい風景にこそ、私たちは笑みをこぼしていたのだ。
私がハッスルを好まないのは、これまでも記して来たが、色々な理由が有る。
素人を容易にリングに上げる事で、プロレス技術の特価性が薄れ、容易なジャンルであると思われる事。
プロレスが実はリアルで無い事は誰でも知っている事なのに、ファン、プロレスラー、マスコミ共に、一応は競技として鑑賞する、不思議な共犯関係を持って、成り立つジャンルであるのに、ハッスルには共犯関係等はなから存在しない事。
そして何よりも、主催者側に、プロレスに対してのどこかプロレスへの近親憎悪の意識が見え隠れするからである。
ハッスルの世界観は「紙のプロレス」から来ている事は周知の事実で有る。
私が夢中になっていた時の初期の「紙のプロレス」は、まさしく私が好んだプロレスの馬鹿馬鹿しさを懐かしみ笑いながらも、どこかプロレスへのリスペクトを感じさせる誌面創りであった。
また、格闘技に進出するプロレスラーを応援し、プロレスの枠内で、小川直也対橋本真也の一連の抗争のような緊張感有るプロレスが展開されれば、それも応援して来た。
しかし、何故か「プロレスはプロレス」の世間の風潮に迎合されるどころか、その風潮を飛び越え、格闘技は緊張、プロレスは笑いだと勘違いしたようである。
自身がプロレスというジャンルに笑った理由は、いい加減な馬鹿馬鹿しさであった事に気付かず、創り上げた笑いを持ってパラエティーとしてのプロレスを展開しているのだ。
あまりにも大きな勘違いである。
ついでにいうと「ファイティングオペラ」というキャッチフレーズには、運営団体らしからぬセンスの無さを感じて仕方ない。
WWEでさえソープ・オペラつまり三文オペラと揶揄されているのだ。
「ファイティングバラエティー」もしくは「ソープ・プロレス」辺りが相応しいであろう。
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子供の頃、不思議だったのはブッチャーやシークの凶器シューズであった。
尖端の部分が何故か自分の足の甲に向いている不思議な凶器シューズに私が感じたのは、
どこか平和で牧歌的なプロレス界の風景であった。
国際プロレスがサンテレビで中継された時、驚いたのがマイティ井上がヘッドロックに捉えた相手の顔面にパンチを連発している風景であった。
正確には相手の顔面にではなく、自分の胸に連続パンチを放っていた事であった。
チャボ・ゲレロが来日すれば藤波と毎週、お約束の攻防を繰り広げる。
それよりも多く見たのがジャンボ鶴田がエプロンのマスカラスやドスカラスのボディに頭突きを繰り返し、回転エビ固めで切り返されるシーンであった。
ジャンボ鶴田といえば、相手に倒され、痙攣する手足が忘れられない。
まだ小学生の私であったが、プロレスがショーかどうかなど、どうでも良い潜在意識を持ってプロレスを見つめていた。
アントニオ猪木の前では毎週、正座してブラウン管を見つめる私であったが、外国人レスラーの不思議な異人ぶりを素直に楽しめた。
わざとタイツを退きすり下ろされるお約束も現れた。
笑いを取る為のマイクも使い出された。
しかし、どこにいってもプロレスはパラエティーでは無く、他に比類無きプロレスと言うジャンルでしか無かったのだ。
プロレスの中の馬鹿馬鹿しさと言う一要素が、笑いを取っても、良かったと私は思っている。
私が新日本プロレスの馬鹿馬鹿しさを最後に見たのは、何年前か札幌のリングでアントニオ猪木が当時の精鋭にマイクを向け、喋らせた、滑稽なシーンであった。
滑稽では有るが、馬鹿馬鹿しさ極まりない、プロレスの一部分でもある。
しかし、何時頃からか、プロレスラー達が馬鹿馬鹿しさよりも、おふざけの考えを持ち出すようになった。
実は、これは長州が去った後の新日本プロレスに多く見られる構図である。
CTUなるものは、その最たるものであろう。
客を笑わす前に自分たちが楽しんでいるのである。
ハッスルというリングは、ねんみつに練り上げられたプロとしてのクリエイティヴな意識を持ってスタッフが取り組んでいるのは分かる。
しかし、そこに馬鹿馬鹿しさ等無いのだ。
プロレスと言うジャンルの馬鹿馬鹿しさに、練り上げられたものなど無いからだ。
練り上げられていない馬鹿馬鹿しい風景にこそ、私たちは笑みをこぼしていたのだ。
私がハッスルを好まないのは、これまでも記して来たが、色々な理由が有る。
素人を容易にリングに上げる事で、プロレス技術の特価性が薄れ、容易なジャンルであると思われる事。
プロレスが実はリアルで無い事は誰でも知っている事なのに、ファン、プロレスラー、マスコミ共に、一応は競技として鑑賞する、不思議な共犯関係を持って、成り立つジャンルであるのに、ハッスルには共犯関係等はなから存在しない事。
そして何よりも、主催者側に、プロレスに対してのどこかプロレスへの近親憎悪の意識が見え隠れするからである。
ハッスルの世界観は「紙のプロレス」から来ている事は周知の事実で有る。
私が夢中になっていた時の初期の「紙のプロレス」は、まさしく私が好んだプロレスの馬鹿馬鹿しさを懐かしみ笑いながらも、どこかプロレスへのリスペクトを感じさせる誌面創りであった。
また、格闘技に進出するプロレスラーを応援し、プロレスの枠内で、小川直也対橋本真也の一連の抗争のような緊張感有るプロレスが展開されれば、それも応援して来た。
しかし、何故か「プロレスはプロレス」の世間の風潮に迎合されるどころか、その風潮を飛び越え、格闘技は緊張、プロレスは笑いだと勘違いしたようである。
自身がプロレスというジャンルに笑った理由は、いい加減な馬鹿馬鹿しさであった事に気付かず、創り上げた笑いを持ってパラエティーとしてのプロレスを展開しているのだ。
あまりにも大きな勘違いである。
ついでにいうと「ファイティングオペラ」というキャッチフレーズには、運営団体らしからぬセンスの無さを感じて仕方ない。
WWEでさえソープ・オペラつまり三文オペラと揶揄されているのだ。
「ファイティングバラエティー」もしくは「ソープ・プロレス」辺りが相応しいであろう。
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2007年11月06日
リアルプロレスリングとハッスルの世界
久し振りに動画です。
NCAA出身のレスリングの強豪たちが参加し旗揚げしたアメリカの団体「REAL PRO WRESTLING」のプロモビデオです。
一時は週刊プロレスでも記事にされるなど話題を集めた団体でしたが、最近は殆ど話は聞きません。
消滅したのかも知りません。
PRO WRESTLINGと名乗っても、もちろんプロレス団体ではありません。
アマチュアルールを変則にしたルールで闘うレスリングのプロ団体です。
前の記事にも書きましたが、プロレスの上手さ及びプロレス技に対する受けの凄みなどは、プロレスラーの特化した能力、技術ではないことが証明されました。
ハッスルで素人(例え、学生プロレス出身であっても)も出来る事が立証されたからです。
天龍チョップによって紫に変色した胸板など、よく考えてみれば、私たちが小学生の時代プールの授業前に友達と行ったプロレスごっこのチョップ程度で胸板が変色したのと何ら代わりありません。
まさかと思いましたが、最近では素人が「ジュース」らしき出血もしたようです。
私はもはやプロレスに何の特化した世界の魅力も感じ得なくなっています。
それでも好みではないですが、ノアのプロレスなどは素人では絶対に出来ない職人芸の世界でしょう。
しかしノアのように激しく高度なプロレスでなくとも、かつてのプロレスもまた今の素人が真似できない何かがあるのだと思います。
しかし、そういう素人では真似できない何かがあるはずなのに、ハッスルを通じて、素人がアトラクションでなくリングでいっぱしの動きを見せています。
大晦日にハッスルが、笑いと素人によって、プロレスを名乗れば、世間にプロレスというジャンルの容易性をアピールすることにつながります。
プロレス界にとって大きな危機でしょう。
私的には格闘技イベントにプロレスラーを名乗って船木誠勝が登場する姿を世間の人には観てほしいものです。
少なくともプロレスラーは笑われる対象より、格好良い憧れを持って観られる対象であってほしいと願っています。
そういう世界の脇役としてのブッチャーやジプシー・ジョーのような選手に笑みがもれるのと、最初から笑いを前提にしたリングは違います。
話が動画とはあまり関係が無くなっていきましたが、ブッチャーやマスカラスを観てきた私のような子供の頃からのプロレスファンであっても、ハッスルがプロレスであるならば、こちらのほうが余程プロレスと思いたいとの意味でこの動画を掲載しました。
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NCAA出身のレスリングの強豪たちが参加し旗揚げしたアメリカの団体「REAL PRO WRESTLING」のプロモビデオです。
一時は週刊プロレスでも記事にされるなど話題を集めた団体でしたが、最近は殆ど話は聞きません。
消滅したのかも知りません。
PRO WRESTLINGと名乗っても、もちろんプロレス団体ではありません。
アマチュアルールを変則にしたルールで闘うレスリングのプロ団体です。
前の記事にも書きましたが、プロレスの上手さ及びプロレス技に対する受けの凄みなどは、プロレスラーの特化した能力、技術ではないことが証明されました。
ハッスルで素人(例え、学生プロレス出身であっても)も出来る事が立証されたからです。
天龍チョップによって紫に変色した胸板など、よく考えてみれば、私たちが小学生の時代プールの授業前に友達と行ったプロレスごっこのチョップ程度で胸板が変色したのと何ら代わりありません。
まさかと思いましたが、最近では素人が「ジュース」らしき出血もしたようです。
私はもはやプロレスに何の特化した世界の魅力も感じ得なくなっています。
それでも好みではないですが、ノアのプロレスなどは素人では絶対に出来ない職人芸の世界でしょう。
しかしノアのように激しく高度なプロレスでなくとも、かつてのプロレスもまた今の素人が真似できない何かがあるのだと思います。
しかし、そういう素人では真似できない何かがあるはずなのに、ハッスルを通じて、素人がアトラクションでなくリングでいっぱしの動きを見せています。
大晦日にハッスルが、笑いと素人によって、プロレスを名乗れば、世間にプロレスというジャンルの容易性をアピールすることにつながります。
プロレス界にとって大きな危機でしょう。
私的には格闘技イベントにプロレスラーを名乗って船木誠勝が登場する姿を世間の人には観てほしいものです。
少なくともプロレスラーは笑われる対象より、格好良い憧れを持って観られる対象であってほしいと願っています。
そういう世界の脇役としてのブッチャーやジプシー・ジョーのような選手に笑みがもれるのと、最初から笑いを前提にしたリングは違います。
話が動画とはあまり関係が無くなっていきましたが、ブッチャーやマスカラスを観てきた私のような子供の頃からのプロレスファンであっても、ハッスルがプロレスであるならば、こちらのほうが余程プロレスと思いたいとの意味でこの動画を掲載しました。
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大晦日ハッスルと前田日明と長州力
大晦日にハッスルのイベントが決まった。
長らくの風物詩であった大晦日格闘技イベントの気配が無くなった途端、プロレスのイベントが地上波テレビ放映とともに蘇ったのであるが、もはやハッスルはプロレスではないので、私的にはプロレスのイベントという印象は無い。
プロレスラーがバラエティー番組の特番に出ているようなものである。
私は常々記してきたが、プロレスラーたちが真剣に行うお約束の行為に、ファンが暖かい笑みを送る行為と、最初から笑うことを前提に行う演劇とは大きく違う。
スタッフの熱意、出場する有名人の熱意など、別に取り立てて騒ぐことでもない。
何がしかのイベントの成功に携わるものが熱を発することなど、どこの世界でも当たり前の事でもある。
なのにプロレスラーたちは、出場する自分への免罪符の如く、スタッフの熱意はすごいうんぬんと語ることが多い。
プロレス的な動き、マットワークなど実は素人でも出来る事をハッスルは証明したが、実は、それだけでなく、プロレスの肉体なくして不可能だとのプロレスの受けの微かな神話まで拭い去ってしまった。
天龍の代名詞のチョップが実は、ある程度そこそこのウェートトレを行っていれば素人でも受けれることをも証明したのである。
私が気になるのは、もし、ハッスルという舞台に魅力的な報酬が存在しなければ、選手たちはあのリングに立つことがあるだろうか?との事である。
しかし、50歳を越えて、借金を背負い、それでも最後まで、あのハッスルのポーズの風景を拒んだ長州力もいる。
世の中にはポリシーを曲げても生きていかなければいけない時であろう。
しかし、自分たちの価値を築いてきたプロレスの価値観を崩しさるリングに割り切って上がっても、中庸とはならないのだ。
ふと思い出したのが前田日明のことである。
ポリシーにずれの無い男であるが、幸いなことに破滅的に見えて、リングスの解散と慎重な復興計画に見えるとおり、堅実な生活を維持する男でもある。
感情の強く垣間見える男であるが、高級感あるジャケットに身を包む前田には生活感は無い。
現在、悠々と多くの趣味と愉しみにに囲まれて生活する前田は人生の成功者でもある。
そういえば若いときの前田はいつも同じジャンバーを羽織り、決して華やかな生活を生きてきたわけではない、なにがしかの生活感があった。
苦しかった若き日々、前田はハッスルに上がったであろうか?
上がらない人生を貫いてきたことで、現在の前田があるのであろう。
長州もそうである。
ハッスルの舞台で割り切る闘いよりも、古巣に出戻り、自分より十歳、二十歳と若い連中の冷たい視線に迎えられて闘うほうが、まだ自分らしいと考えたのであろう。
人生の全てを自分らしさでこだわる必要など無い。
時として中庸として割る切る場所、こだわりの無い場所も必要である。
しかしハッスルの舞台に上がれば、自分らしさを築きあげてきた核が崩れ去ることは、プロレスラーたちは知っておいたほうが良い。
自分らしさの核が無くなれば、こだわる場所も割り切る場所も無く、プロレスラーの個性は消え去ってしまうのだ。
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長らくの風物詩であった大晦日格闘技イベントの気配が無くなった途端、プロレスのイベントが地上波テレビ放映とともに蘇ったのであるが、もはやハッスルはプロレスではないので、私的にはプロレスのイベントという印象は無い。
プロレスラーがバラエティー番組の特番に出ているようなものである。
私は常々記してきたが、プロレスラーたちが真剣に行うお約束の行為に、ファンが暖かい笑みを送る行為と、最初から笑うことを前提に行う演劇とは大きく違う。
スタッフの熱意、出場する有名人の熱意など、別に取り立てて騒ぐことでもない。
何がしかのイベントの成功に携わるものが熱を発することなど、どこの世界でも当たり前の事でもある。
なのにプロレスラーたちは、出場する自分への免罪符の如く、スタッフの熱意はすごいうんぬんと語ることが多い。
プロレス的な動き、マットワークなど実は素人でも出来る事をハッスルは証明したが、実は、それだけでなく、プロレスの肉体なくして不可能だとのプロレスの受けの微かな神話まで拭い去ってしまった。
天龍の代名詞のチョップが実は、ある程度そこそこのウェートトレを行っていれば素人でも受けれることをも証明したのである。
私が気になるのは、もし、ハッスルという舞台に魅力的な報酬が存在しなければ、選手たちはあのリングに立つことがあるだろうか?との事である。
しかし、50歳を越えて、借金を背負い、それでも最後まで、あのハッスルのポーズの風景を拒んだ長州力もいる。
世の中にはポリシーを曲げても生きていかなければいけない時であろう。
しかし、自分たちの価値を築いてきたプロレスの価値観を崩しさるリングに割り切って上がっても、中庸とはならないのだ。
ふと思い出したのが前田日明のことである。
ポリシーにずれの無い男であるが、幸いなことに破滅的に見えて、リングスの解散と慎重な復興計画に見えるとおり、堅実な生活を維持する男でもある。
感情の強く垣間見える男であるが、高級感あるジャケットに身を包む前田には生活感は無い。
現在、悠々と多くの趣味と愉しみにに囲まれて生活する前田は人生の成功者でもある。
そういえば若いときの前田はいつも同じジャンバーを羽織り、決して華やかな生活を生きてきたわけではない、なにがしかの生活感があった。
苦しかった若き日々、前田はハッスルに上がったであろうか?
上がらない人生を貫いてきたことで、現在の前田があるのであろう。
長州もそうである。
ハッスルの舞台で割り切る闘いよりも、古巣に出戻り、自分より十歳、二十歳と若い連中の冷たい視線に迎えられて闘うほうが、まだ自分らしいと考えたのであろう。
人生の全てを自分らしさでこだわる必要など無い。
時として中庸として割る切る場所、こだわりの無い場所も必要である。
しかしハッスルの舞台に上がれば、自分らしさを築きあげてきた核が崩れ去ることは、プロレスラーたちは知っておいたほうが良い。
自分らしさの核が無くなれば、こだわる場所も割り切る場所も無く、プロレスラーの個性は消え去ってしまうのだ。
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2007年11月05日
藤波辰爾の行方
私は藤波辰爾のファンというわけではない。
小学生5年生の一学期、その年の「ビッグ・ファイト・シリーズ」に凱旋帰国し、スター街道を驀進してきた藤波の躍動感溢れるファイト振りを随分とテレビの前では楽しんだが、子供心にも決定的に毒の足りなさを感じる藤波の闘いぶりに惹かれたことは一度も無かった。
それでも私が忘れられないのはジュニア時代の藤波の反射神経である。
日体大で反射神経を中心とした体力テストに挑んだ藤波は、驚異的なデータを残した。その時の藤波の数値を上回る当時の各スポーツの五輪選手はレスリングの高田裕司だけであったとの事である。
公称98キロのジュニアヘビーながら実は80キロを少々越えた程度の藤波の見事にシェイプされた肉体は、鋼のような鋭さを持っていたものである。
ヘビー級転向後は、実際には、試合振りにも何の特徴も感じさせない凡庸な普通のプロレスラーでしかなかった気がする。
肉体と技で観客を唸らすことが出来なくなった藤波は外国人選手相手に実に退屈なだけの上手いプロレスを展開するだけの選手であった。
私は、藤波が長州力を光らせたのではなく、長州力が藤波を光らせたのだと思っている。
私は藤波に感心することは、その知名度である。
プロレスブームによって名を馳せた他の選手よりも、更に前からゴールデンタイムでスターの役目を背負ってきた藤波は、ファンが思う以上にプロレスラー藤波辰爾の名前が世間に届いているスターには違いないのだ。
プロレスラーとしての魅力など私的には全く感じない藤波であっても、それでも、一流プロレスラーの中では藤波ほど仲むつまじい夫婦、さらにアットホームな家族のイメージが浸透しているレスラーもいない。
破滅的な孤独感を感じさせるレスラーにこそ魅力を感じもするが、藤波辰爾くらいには幸せな家族像を維持して欲しいものだ。
親分肌を発揮して、私財を投げうってでも、無我を大きくする、守るというようなことはしないでもらいたいものである。
もう、かつてのスターたちが、50を迎え、人生の失敗を繰り返す姿を観るのは辛いものである。
藤波には堅実な経営姿勢を貫いて欲しい。
余談であるが、西村修の帰国時の会見の記事を読んだ。
藤波の事を金正日に例えたらしいが、そういえば以前も、長州に同様の例えをしたことがある。
何かあれば、社会主義国の独裁政権のリーダーに例えるのは西村の得意な事である。
常に自分が虐げられている人間でありたいのだろう。
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小学生5年生の一学期、その年の「ビッグ・ファイト・シリーズ」に凱旋帰国し、スター街道を驀進してきた藤波の躍動感溢れるファイト振りを随分とテレビの前では楽しんだが、子供心にも決定的に毒の足りなさを感じる藤波の闘いぶりに惹かれたことは一度も無かった。
それでも私が忘れられないのはジュニア時代の藤波の反射神経である。
日体大で反射神経を中心とした体力テストに挑んだ藤波は、驚異的なデータを残した。その時の藤波の数値を上回る当時の各スポーツの五輪選手はレスリングの高田裕司だけであったとの事である。
公称98キロのジュニアヘビーながら実は80キロを少々越えた程度の藤波の見事にシェイプされた肉体は、鋼のような鋭さを持っていたものである。
ヘビー級転向後は、実際には、試合振りにも何の特徴も感じさせない凡庸な普通のプロレスラーでしかなかった気がする。
肉体と技で観客を唸らすことが出来なくなった藤波は外国人選手相手に実に退屈なだけの上手いプロレスを展開するだけの選手であった。
私は、藤波が長州力を光らせたのではなく、長州力が藤波を光らせたのだと思っている。
私は藤波に感心することは、その知名度である。
プロレスブームによって名を馳せた他の選手よりも、更に前からゴールデンタイムでスターの役目を背負ってきた藤波は、ファンが思う以上にプロレスラー藤波辰爾の名前が世間に届いているスターには違いないのだ。
プロレスラーとしての魅力など私的には全く感じない藤波であっても、それでも、一流プロレスラーの中では藤波ほど仲むつまじい夫婦、さらにアットホームな家族のイメージが浸透しているレスラーもいない。
破滅的な孤独感を感じさせるレスラーにこそ魅力を感じもするが、藤波辰爾くらいには幸せな家族像を維持して欲しいものだ。
親分肌を発揮して、私財を投げうってでも、無我を大きくする、守るというようなことはしないでもらいたいものである。
もう、かつてのスターたちが、50を迎え、人生の失敗を繰り返す姿を観るのは辛いものである。
藤波には堅実な経営姿勢を貫いて欲しい。
余談であるが、西村修の帰国時の会見の記事を読んだ。
藤波の事を金正日に例えたらしいが、そういえば以前も、長州に同様の例えをしたことがある。
何かあれば、社会主義国の独裁政権のリーダーに例えるのは西村の得意な事である。
常に自分が虐げられている人間でありたいのだろう。
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