多くの暴露本が登場したプロレスというジャンルであるが、幸いなのは未だプロレスを運営する団体側のカミングアウトは無いという事だ。
プロレスがどこまでリアルで、どこまでフェイクなのか、どこまで打ち合わせしていて、どこまでアドリブなのか、全てが謎のままのジャンルであることに変わりはないのである。
元・当事者たちの告白は有れど、現役の当事者たちの告白は無い。
ならば私たちは実在するかどうかも確かでないプロレス隠語に振り回される必要も無いであろう。
暴露本に乗っかって多くのファンがプロレスという想像性の高いジャンルを楽しむ事を放棄してしまっているのである。
かつてプロレスがリアルでないにしても、痛みは本物だという事が、プロレスという競技の体裁を借りたショースポーツを提供するものの免罪符であった。
しかし前の記事で書いたように、最近は免罪符すら放棄してしまっている。
それほど罪が怖いのだろうか?
かつてのプロレスラーたちは、決してリアルとは思えない事を必死にリアルに見せかけ、生業としていた職人たちである。
自分たちの仕事への罪の意識も有っただろう。
それでも貫き通さなければいけないフェイクも有っただろう。
プロレスの見方がジャンルとしての大人になる時代までは、多かれ少なかれ、当事者であるプロレスラーたちに嘘をつく事の罪の意識も有ったかもしれない。
それでもプロレスラーたちは、自分たちのついた嘘を、墓場まで持っていってくれるものであった。
プロレスというマスコミ、ファン、プロレスラーたちが一致団結した共犯関係の世界の中で一人だけ罪の意識に負けてカミングアウトして許しを請うような男が、プロレスラー側であった事は私はショックであった。
ハッスルと高田についてである。
極論すればプロレスに嘘が無くなればプロレスではない。
バレバレの嘘を意地を持って突き通してきたのがプロレスというジャンルである。
嘘をつくという罪深さを背負ってこそプロレスのジャンルの重みは増えるのだ。
ファンのため、つまり、人の為についた嘘は、墓場まで持っていくのが男である。
それが人の為=偽の闘いを貫くプロレスラーたちの使命でもある。
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2008年01月16日
脱・プロレス村
私がハッスルに感心するのは、その熱である。
またプロレスラーとは「おまえが頼りだ」と言われれば意気に感じる人種である。
プロレスはこのままではいけない。
プロレスはカミングアウトしなくては行けない。
その先の素晴らしさが有る。
おそらくハッスルのフロント陣は、ジンと来るような熱い台詞を並べ立て、レスラーたちを道化に誘い込んだのだろう。
どのような業種の仕事であっても、社員の士気を高めるのは熱である。
法に触れずとも明らかに天罰が下るような商品を売っているような会社でさえ、その会社独特の営業道が有り、熱が有る。
消費者を騙す前に、まずは社員を洗脳させるゆえで大切な事は、何より熱である。
ハッスルに参戦するプロレスラーたちは、どういう風に洗脳されたのか気になるところだ。
あるいはハッスルに参戦するプロレスラーたちの意識は「割り切り」がまずありきだったのかも知れない。
生活のため、割り切る中で、ハッスルの制作側の熱は、割り切りを超越した都合の良いエネルギーを与えてくれたのであろう。
しかしボクシングならば世界王者の一歩手前までアルバイトしなければ生活出来ないのに、プロレスラーだけが本来したくない仕事までして中途半端に高級な生活しなければいけない理由は無い。
好きな事を貫いて貧乏なら、それでいいではないか。
私は闘うプロレスであれ、全日本プロレス的な調和的な世界であれ、プロレスとはファンとマスコミ、団体側との共犯関係であるというのが持論である。
競技スポーツの体裁を借りているからこそ、競技スポーツを観戦する思考で、闘いも笑いも楽しめる。
アントニオ猪木の空振りの延髄切りで倒れた選手を何人見ても、あくまで競技スポーツとしての体裁を持って、ファンは観戦する。
プロレスラー、マスコミ、ファン、全ての者がリング上がフェィクであることを知りながらも、競技スポーツとしての体裁を借りた空間を楽しんでいる。
不思議なジャンルである。
しかしハッスルにはそうしたファンとマスコミ、団体側との共犯関係はない。
小橋健太がハッスルに参戦する。
あのチョップを芸能人に打ち込む。
ミミズ腫れしても、芸能人は何度も立ち上がる。
そうなれば小橋の神話は崩壊するだろう。
ハッスルではないが高山や鈴木が素人とは変わらない身体のレスラーを物凄くいじめたとの事。
しかし、そのレスラーは死ななかった。
彼らの技はそういうものだ。高山や鈴木の技などたいしたことはないのだ。
何故、彼らは自分たちを安売りするのだ。
何度も記すが、プロレスは競技スポーツとしての体裁を借り、競技スポーツでないのに、レスラー、ファン、マスコミ皆が共犯となって競技スポーツとしての空間を作り出す不思議なジャンルである。
私はプロレス経験は無いので、実績の無いレスリングの経験と子供の頃よりのファン歴でしかプロレスを語れない。
語るというより想像しているのだ。
想像するしか無いジャンルなのである。
しかし最近の風潮は恐ろしい。
ファンの口から当たり前のように、セール(セル)、ワークなどの業界用語が飛び出す。
芸能人でもないのに芸能用語を使っているようなものだ。
そこまでしてプロレスを語りたいのか?と私は思う。
私たちはプロレスを想像するしか無い。
想像するしかないからこそ、好き勝手な事も言えるのだ。
しかし少なくともプロレスラーたちが公に発言していない言葉まで持ち出してまで、プロレスを語る意味など有るのか。
私はそう思っている。
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またプロレスラーとは「おまえが頼りだ」と言われれば意気に感じる人種である。
プロレスはこのままではいけない。
プロレスはカミングアウトしなくては行けない。
その先の素晴らしさが有る。
おそらくハッスルのフロント陣は、ジンと来るような熱い台詞を並べ立て、レスラーたちを道化に誘い込んだのだろう。
どのような業種の仕事であっても、社員の士気を高めるのは熱である。
法に触れずとも明らかに天罰が下るような商品を売っているような会社でさえ、その会社独特の営業道が有り、熱が有る。
消費者を騙す前に、まずは社員を洗脳させるゆえで大切な事は、何より熱である。
ハッスルに参戦するプロレスラーたちは、どういう風に洗脳されたのか気になるところだ。
あるいはハッスルに参戦するプロレスラーたちの意識は「割り切り」がまずありきだったのかも知れない。
生活のため、割り切る中で、ハッスルの制作側の熱は、割り切りを超越した都合の良いエネルギーを与えてくれたのであろう。
しかしボクシングならば世界王者の一歩手前までアルバイトしなければ生活出来ないのに、プロレスラーだけが本来したくない仕事までして中途半端に高級な生活しなければいけない理由は無い。
好きな事を貫いて貧乏なら、それでいいではないか。
私は闘うプロレスであれ、全日本プロレス的な調和的な世界であれ、プロレスとはファンとマスコミ、団体側との共犯関係であるというのが持論である。
競技スポーツの体裁を借りているからこそ、競技スポーツを観戦する思考で、闘いも笑いも楽しめる。
アントニオ猪木の空振りの延髄切りで倒れた選手を何人見ても、あくまで競技スポーツとしての体裁を持って、ファンは観戦する。
プロレスラー、マスコミ、ファン、全ての者がリング上がフェィクであることを知りながらも、競技スポーツとしての体裁を借りた空間を楽しんでいる。
不思議なジャンルである。
しかしハッスルにはそうしたファンとマスコミ、団体側との共犯関係はない。
小橋健太がハッスルに参戦する。
あのチョップを芸能人に打ち込む。
ミミズ腫れしても、芸能人は何度も立ち上がる。
そうなれば小橋の神話は崩壊するだろう。
ハッスルではないが高山や鈴木が素人とは変わらない身体のレスラーを物凄くいじめたとの事。
しかし、そのレスラーは死ななかった。
彼らの技はそういうものだ。高山や鈴木の技などたいしたことはないのだ。
何故、彼らは自分たちを安売りするのだ。
何度も記すが、プロレスは競技スポーツとしての体裁を借り、競技スポーツでないのに、レスラー、ファン、マスコミ皆が共犯となって競技スポーツとしての空間を作り出す不思議なジャンルである。
私はプロレス経験は無いので、実績の無いレスリングの経験と子供の頃よりのファン歴でしかプロレスを語れない。
語るというより想像しているのだ。
想像するしか無いジャンルなのである。
しかし最近の風潮は恐ろしい。
ファンの口から当たり前のように、セール(セル)、ワークなどの業界用語が飛び出す。
芸能人でもないのに芸能用語を使っているようなものだ。
そこまでしてプロレスを語りたいのか?と私は思う。
私たちはプロレスを想像するしか無い。
想像するしかないからこそ、好き勝手な事も言えるのだ。
しかし少なくともプロレスラーたちが公に発言していない言葉まで持ち出してまで、プロレスを語る意味など有るのか。
私はそう思っている。
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ブライアン・ケックはプロレスラーだった
あまりプロレスファンの方は感心は無いかもしれませんが、私的には大変驚いたことが有ります。
つい最近までアメリカのアマチュア・レスリングシーンの重いクラスで上位の選手だったブライアン・ケックという選手がいます。
かなり前には総合格闘技にも挑んだ強者です。
そのケックがプロレスもしていたということを知り驚きました。
しかも見た限り、付け焼刃の素人の動きではなく、しっかりとしたプロレス的な動きをこなしていたので更に驚いています。
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つい最近までアメリカのアマチュア・レスリングシーンの重いクラスで上位の選手だったブライアン・ケックという選手がいます。
かなり前には総合格闘技にも挑んだ強者です。
そのケックがプロレスもしていたということを知り驚きました。
しかも見た限り、付け焼刃の素人の動きではなく、しっかりとしたプロレス的な動きをこなしていたので更に驚いています。
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2008年01月14日
リアルでない「闘いのプロレス」新日本と全日本との相違点
何度も記事にしているのに、それでも誤解を受ける事が多いようだが、私は全日本的なプロレスも好きである。
私にとっての全日本的プロレスとは、舞台、選手双方、つまりハード、ソフトの両面において、絢爛豪華きわまりない名優たちの世界であった。
例えば全日本の名優たちの不思議なところは、それぞれが一シリーズの主役を張れる実力、風格、知名度を併せ持つのに、その個性を発揮してくれるのが各々が主役を張るシリーズではなく、名優たちの集合体である大きなシリーズにおいてであった。
例えばエキサイトシリーズで主役を張るビル・ロビンソンに華は無いし、シリーズにも華は無い。
しかし年末の最強タッグという最高の舞台つまり最高のハードを得ると、ロビンソンというソフトは名優としての華と輝きを得てしまう。
全日本に集う絢爛豪華な名優たちは全日本の用意する最高の舞台においてこそ名優となれるのである。
さらに不思議なのは、普段、各シリーズのトップを張る外国人レスラーたちが、年末のシリーズにおいては実に適材適所に自分の番付に応じた役回りを演じている事であった。
リング上の様式美のプロレスと同じく、エゴなき、すなわち闘い無き、名優たちのコスモスの世界でもあった。
私は子供の頃より新日本のプロレスの世界を自分の最大の趣向としていたので、その世界がデーンと存在していれば、安心して、逆に、闘いとはかけ離れた様式美あふれる全日本の世界観も楽しめたのである。
しかし前も記したが、今のプロレスというジャンルは全て当時の全日本プロレスが細分化されたジャンルとなってしまった。
私が「闘うプロレス」を、総合格闘技ではなく、プロレス界に取り戻したく何度もブログに記している理由はそれである。
しかし私が見ていた「闘うプロレス」とは言うまでもなく、セメントでも、シュートでもなかった。
プロレスというジャンルの一番右寄りにシュートな世界である総合格闘技が来てしまい、皆が左に逃げ込んでしまった。
「闘い」でリアルにかなわないと思った事が、プロレス界の恥ずべき勘違いなのである。
よってリアルでない「闘いのプロレス」はプロレスというジャンルにおいて空席となってしまっている。
リアルでない「闘いのプロレス」は、プロレスブーム以後のファンにとっては単純に中途半端なプロレスでしかない。
それらのファンにとってはプロレスとは「沸くか、涌かないか」「観客が満足して帰るかどうか」あるいは「リアルか」それらしか価値基準を持たないからである。
極論をいえばプロレスブーム以前の新日本プロレスとは、観客が満足して帰れないプロレスだったのである。
暴論を吐けば、今の新日本が顧客満足の為のプロレスを追求していても、かつての人気は得られないだろう。
何でも言う事を聞いてくれる異性よりも、自分の思い通りにならない異性に魅力を感じてしまう。
そういう異性としての魅力が、かつての新日本にはあったのである。
今のファンは安心して結婚出来る対象としてしかプロレスを見れない。
プロレスに振り回される喜びを知らないのである。
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私にとっての全日本的プロレスとは、舞台、選手双方、つまりハード、ソフトの両面において、絢爛豪華きわまりない名優たちの世界であった。
例えば全日本の名優たちの不思議なところは、それぞれが一シリーズの主役を張れる実力、風格、知名度を併せ持つのに、その個性を発揮してくれるのが各々が主役を張るシリーズではなく、名優たちの集合体である大きなシリーズにおいてであった。
例えばエキサイトシリーズで主役を張るビル・ロビンソンに華は無いし、シリーズにも華は無い。
しかし年末の最強タッグという最高の舞台つまり最高のハードを得ると、ロビンソンというソフトは名優としての華と輝きを得てしまう。
全日本に集う絢爛豪華な名優たちは全日本の用意する最高の舞台においてこそ名優となれるのである。
さらに不思議なのは、普段、各シリーズのトップを張る外国人レスラーたちが、年末のシリーズにおいては実に適材適所に自分の番付に応じた役回りを演じている事であった。
リング上の様式美のプロレスと同じく、エゴなき、すなわち闘い無き、名優たちのコスモスの世界でもあった。
私は子供の頃より新日本のプロレスの世界を自分の最大の趣向としていたので、その世界がデーンと存在していれば、安心して、逆に、闘いとはかけ離れた様式美あふれる全日本の世界観も楽しめたのである。
しかし前も記したが、今のプロレスというジャンルは全て当時の全日本プロレスが細分化されたジャンルとなってしまった。
私が「闘うプロレス」を、総合格闘技ではなく、プロレス界に取り戻したく何度もブログに記している理由はそれである。
しかし私が見ていた「闘うプロレス」とは言うまでもなく、セメントでも、シュートでもなかった。
プロレスというジャンルの一番右寄りにシュートな世界である総合格闘技が来てしまい、皆が左に逃げ込んでしまった。
「闘い」でリアルにかなわないと思った事が、プロレス界の恥ずべき勘違いなのである。
よってリアルでない「闘いのプロレス」はプロレスというジャンルにおいて空席となってしまっている。
リアルでない「闘いのプロレス」は、プロレスブーム以後のファンにとっては単純に中途半端なプロレスでしかない。
それらのファンにとってはプロレスとは「沸くか、涌かないか」「観客が満足して帰るかどうか」あるいは「リアルか」それらしか価値基準を持たないからである。
極論をいえばプロレスブーム以前の新日本プロレスとは、観客が満足して帰れないプロレスだったのである。
暴論を吐けば、今の新日本が顧客満足の為のプロレスを追求していても、かつての人気は得られないだろう。
何でも言う事を聞いてくれる異性よりも、自分の思い通りにならない異性に魅力を感じてしまう。
そういう異性としての魅力が、かつての新日本にはあったのである。
今のファンは安心して結婚出来る対象としてしかプロレスを見れない。
プロレスに振り回される喜びを知らないのである。
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2008年01月13日
ヤマケンは何を目指すのか?
ヤマケンがクラブファイトを再開するとの事です。
プロレス団体の新弟子から、お笑いユニット、キングタム、リングスを経て、フリーになったヤマケンはセルフハンディキャップ無き闘いを自らに課し黙々と闘ってきました。
私がいつも気になっていたのは、ヤマケンのコメントからは常に、何かをしたいが前に進まない、もがきや焦り、気負いのようなものが感じられたのに、試合の時のヤマケンからは何故か、それらを感じさせない静かな佇まいを感じた事です。
前にも書きましたが藤井にボコボコにされながらも最後はプロレスラーの武器でもあった足関節で逆転勝ちしました。
ほとんど勝負はついていた上での執念の逆転勝ちでした。
勝負に負けていた事を自覚していたのか、あるいは身体的なダメージなのか、試合に勝ったヤマケンは感情を爆発させる事はありませんでした。
しかし何かを達観したような静かな笑顔で、セコンドたちと熱い抱擁を交わしていたシーンが忘れられません。
子供の頃より辛い体験をしてきたとの事ですが、フリーになって以後、世間を知らぬまま夢を追いかけ多少の気負いも有ったと思います。
その中で納得出来ない不条理も多く経験してきたでしょう。
そういった経験の一つ一つが、ヤマケンの熱い言葉とは裏腹の、どこか達観したかのような静かな佇まいや色気を醸し出しているのだと思います。
道場だけで強くなってきた他の格闘家に対して、ヤマケンは実社会で多くの精神的・経済的な負荷を味わってきました。
それらの負荷は、練習での負荷のように最短距離で強くなるための負荷ではないのかもしれませんが、間違いなくプロ格闘家として欠かせない魅力になっていると言えるでしょう。
勝利がヤマケンの幸せならば私もヤマケンの勝利を強く望みますが、ヤマケンはひょっとして試合の結果など実は自分でも超越してしまっているのではないかと思ったりします。
並んで記者会見した高瀬のような気負いはヤマケンには感じられません。
それらはセルフハンディキャップ無き闘いにリング内外で挑んできたヤマケンの人間的強さを表しているような気がします。
出来れば、そんなヤマケンの魅力をもう一度大きなイベントで見たいものです。
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プロレス団体の新弟子から、お笑いユニット、キングタム、リングスを経て、フリーになったヤマケンはセルフハンディキャップ無き闘いを自らに課し黙々と闘ってきました。
私がいつも気になっていたのは、ヤマケンのコメントからは常に、何かをしたいが前に進まない、もがきや焦り、気負いのようなものが感じられたのに、試合の時のヤマケンからは何故か、それらを感じさせない静かな佇まいを感じた事です。
前にも書きましたが藤井にボコボコにされながらも最後はプロレスラーの武器でもあった足関節で逆転勝ちしました。
ほとんど勝負はついていた上での執念の逆転勝ちでした。
勝負に負けていた事を自覚していたのか、あるいは身体的なダメージなのか、試合に勝ったヤマケンは感情を爆発させる事はありませんでした。
しかし何かを達観したような静かな笑顔で、セコンドたちと熱い抱擁を交わしていたシーンが忘れられません。
子供の頃より辛い体験をしてきたとの事ですが、フリーになって以後、世間を知らぬまま夢を追いかけ多少の気負いも有ったと思います。
その中で納得出来ない不条理も多く経験してきたでしょう。
そういった経験の一つ一つが、ヤマケンの熱い言葉とは裏腹の、どこか達観したかのような静かな佇まいや色気を醸し出しているのだと思います。
道場だけで強くなってきた他の格闘家に対して、ヤマケンは実社会で多くの精神的・経済的な負荷を味わってきました。
それらの負荷は、練習での負荷のように最短距離で強くなるための負荷ではないのかもしれませんが、間違いなくプロ格闘家として欠かせない魅力になっていると言えるでしょう。
勝利がヤマケンの幸せならば私もヤマケンの勝利を強く望みますが、ヤマケンはひょっとして試合の結果など実は自分でも超越してしまっているのではないかと思ったりします。
並んで記者会見した高瀬のような気負いはヤマケンには感じられません。
それらはセルフハンディキャップ無き闘いにリング内外で挑んできたヤマケンの人間的強さを表しているような気がします。
出来れば、そんなヤマケンの魅力をもう一度大きなイベントで見たいものです。
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2008年01月12日
ブロディ対ビッグ・バン・ベイダー
かつてAWAにて、ブロディとデビュー間もないベイダーが闘った事は知っていました。
あのベイダーの事です。
デビュー間もないとはいえ持ち前の気性の激しさで、ブロディ相手にも新人らしからぬ互角のファイトを繰り広げていたと想像していたのですが、動画を見ると、ブロディがベイダーを圧倒していました。
あのベイダーさえ気後れしている感じが見受けられます。
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あのベイダーの事です。
デビュー間もないとはいえ持ち前の気性の激しさで、ブロディ相手にも新人らしからぬ互角のファイトを繰り広げていたと想像していたのですが、動画を見ると、ブロディがベイダーを圧倒していました。
あのベイダーさえ気後れしている感じが見受けられます。
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私的プロレス論3/レスリングからプロレスへ/ディフォルメされた動き
プロレスを商業ベースで行う為に、様々な取り決めが出来ていった。
アマチュアレスリングの強者たちは、それぞれの技術をプロレス的つまり商業的にディフォルメしていった。
片足タックルからのリフトは、いつのまにかボディスラムに変化した。
背後からの腕取りはコブラツイストに、タックルからの押さえ込みはエビ固めに変化した。
効率よく商業試合を展開させる為の取り決めである。
商業試合の為にディフォルメされたプロレスのボディスラムとはいえ、その技を仕掛けられる選手は、本当のボディスラムの原型を相手の協力を得ずしても仕掛けられる選手たちばかりであったのである。
その点が現在と異なる点である。
現在のプロレス界で相手の協力が無くともボディスラムを仕掛けられる選手はどれほどいてるだろうか?
相手の協力無くして成立しないディフォルメ済みの技術だけを展開したところで、様式美の世界でしかない。
プロレスとは様式美の世界ではなかったはずである。
相手の協力無くしても技を仕掛けられる強者たちのディフォルメされた攻防であったはずである。
ここに、かつて、プロレスがアマチュアレスリングの動きから商業プロレスへと変化していった時代を想像させてくれるような動画が有る。
WCWに出場した時のザンギエフの動きを観てもらいたい。
ツーオンワンといわれるスタンドでの基本からフェィントで背後から片足タックルを仕掛ける。
アマチュア流のアンクルホールドに相手の足を固める。
その直後、ザンギエフはアマチュアには無いボーアンドアローの体勢に持ち込むのである。
そしてヘッドシザースで捉えられると、アマチュアのブリッジワークの練習そのままの動きで脱出する。
まさしくアマチュアレスリングの動きを商業プロレス流に見事にディフォルメしているのである。
おそらく商業プロレスのルーツがアメリカではなく、ロシアであったなら、こういう動きがプロレスの基本ムーブとなっていただろうと私は思っている。
アメリカにはアメリカのフリースタイルレスリングの技術をディフォルメされたプロレスの基本が有る。
ヨーロッパにはグレコも含めたディフォルメされたプロレスの基本が有る。
私は、極端な話をいうとプロレスの約束の動きの基本が、どのような格闘技から変化したものでもいいのである。
柔術であれ、あるいは街の喧嘩でも、フットボールで鍛えた瞬発力でもいい。
たとえば強さとは関係のない大見得の技でも何がしかの説得力が有ればいい。
たとえば猪木のナックルパートは砲丸投げ、鶴田のジャンピングニーはバスケットボールのシュートのディフォルメである。
どれだけディフォルメされたプロレスとしての動きをこなしていても、ディフォルメなくしても本当に相手に仕掛けられる技術や能力である事が大切なのである。あるいは大見得の技なら何がしかの動作の説得力が必要である。
おそらく動画のザンギエフの相手は、協力を拒否したところで、ザンギエフにあの動きを展開され続けたであろう。
ザンギエフは相手の協力の有る無しに関わらず、自分のレスリング技術を、ディフォルメされたプロレスに昇華させているのだ。
当然、相手の受けは大切である。
しかし、本来の技術すなわち相手の協力無くしても相手に技を仕掛けられる技術や能力を持っている選手たちこそディフォルメした技が生きるはずである。
例えば西村修がいくらクラシックスタイルを提唱しようとも、西村本人は先人たちがディフォルメ加工させた技術だけしか使えない。
何の説得力が有るのか?
プロレスとは受け合いの様式美の世界ではない。
能動的に技を仕掛けられる選手たちの最低限の取り決めを持って行う世界である。
かといつてプロレスがシュートやセメントで良いという事では無い。
かつて石沢と永田が、金原相手に、様式美の世界無くしてプロレスを成立させた事が有った。
おそらくアントニオ猪木が理想とするプロレスの一つであると私は思っている。
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アマチュアレスリングの強者たちは、それぞれの技術をプロレス的つまり商業的にディフォルメしていった。
片足タックルからのリフトは、いつのまにかボディスラムに変化した。
背後からの腕取りはコブラツイストに、タックルからの押さえ込みはエビ固めに変化した。
効率よく商業試合を展開させる為の取り決めである。
商業試合の為にディフォルメされたプロレスのボディスラムとはいえ、その技を仕掛けられる選手は、本当のボディスラムの原型を相手の協力を得ずしても仕掛けられる選手たちばかりであったのである。
その点が現在と異なる点である。
現在のプロレス界で相手の協力が無くともボディスラムを仕掛けられる選手はどれほどいてるだろうか?
相手の協力無くして成立しないディフォルメ済みの技術だけを展開したところで、様式美の世界でしかない。
プロレスとは様式美の世界ではなかったはずである。
相手の協力無くしても技を仕掛けられる強者たちのディフォルメされた攻防であったはずである。
ここに、かつて、プロレスがアマチュアレスリングの動きから商業プロレスへと変化していった時代を想像させてくれるような動画が有る。
WCWに出場した時のザンギエフの動きを観てもらいたい。
ツーオンワンといわれるスタンドでの基本からフェィントで背後から片足タックルを仕掛ける。
アマチュア流のアンクルホールドに相手の足を固める。
その直後、ザンギエフはアマチュアには無いボーアンドアローの体勢に持ち込むのである。
そしてヘッドシザースで捉えられると、アマチュアのブリッジワークの練習そのままの動きで脱出する。
まさしくアマチュアレスリングの動きを商業プロレス流に見事にディフォルメしているのである。
おそらく商業プロレスのルーツがアメリカではなく、ロシアであったなら、こういう動きがプロレスの基本ムーブとなっていただろうと私は思っている。
アメリカにはアメリカのフリースタイルレスリングの技術をディフォルメされたプロレスの基本が有る。
ヨーロッパにはグレコも含めたディフォルメされたプロレスの基本が有る。
私は、極端な話をいうとプロレスの約束の動きの基本が、どのような格闘技から変化したものでもいいのである。
柔術であれ、あるいは街の喧嘩でも、フットボールで鍛えた瞬発力でもいい。
たとえば強さとは関係のない大見得の技でも何がしかの説得力が有ればいい。
たとえば猪木のナックルパートは砲丸投げ、鶴田のジャンピングニーはバスケットボールのシュートのディフォルメである。
どれだけディフォルメされたプロレスとしての動きをこなしていても、ディフォルメなくしても本当に相手に仕掛けられる技術や能力である事が大切なのである。あるいは大見得の技なら何がしかの動作の説得力が必要である。
おそらく動画のザンギエフの相手は、協力を拒否したところで、ザンギエフにあの動きを展開され続けたであろう。
ザンギエフは相手の協力の有る無しに関わらず、自分のレスリング技術を、ディフォルメされたプロレスに昇華させているのだ。
当然、相手の受けは大切である。
しかし、本来の技術すなわち相手の協力無くしても相手に技を仕掛けられる技術や能力を持っている選手たちこそディフォルメした技が生きるはずである。
例えば西村修がいくらクラシックスタイルを提唱しようとも、西村本人は先人たちがディフォルメ加工させた技術だけしか使えない。
何の説得力が有るのか?
プロレスとは受け合いの様式美の世界ではない。
能動的に技を仕掛けられる選手たちの最低限の取り決めを持って行う世界である。
かといつてプロレスがシュートやセメントで良いという事では無い。
かつて石沢と永田が、金原相手に、様式美の世界無くしてプロレスを成立させた事が有った。
おそらくアントニオ猪木が理想とするプロレスの一つであると私は思っている。
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2008年01月10日
独り言2/青空道場募集
かつてプロレス界は、アマチュアでの基本を身につけた強者の新人であっても、基礎練習でクタクタにさせた後にスパーさせる事で、なんとかプロの威厳を保とうとしていたようです。
そこまで安っぽいプライドではなくとも、似たような事が少しアマチュアの世界でもあるような気がします。
新人相手のスパーにおいては、自ずと、攻める役割を担うのが新人であり、逆に先輩たちは自分からは攻めずに新人の攻撃をさらりとかわす事が一般的です。
私はそれが嫌でした。
実はある程度の競技スポーツのキャリアを踏まえてくると、その競技スポーツ独自の間や呼吸の中でこそ成り立つ技術を多く持つものです。
そんな中で、素人の動きは予測がつきにくく、なかには、素人ながらナチュラルパワーを持っている新人もいて、意外といつもの動きで技をかけられないこともあります。
そのため、まず先輩たちは相手に攻めさせ、バテさせた後で、攻撃に入ります。
何も知らない素人を無理矢理、専門的な競技の呼吸や間の中に引きずり込んだ後で、いたぶるのです。
私がそういった新人相手のやり方を嫌いなのは、私の先輩が全く私に対してそういった横綱相撲という名のディフェンシブさを持たなかったからです。
何も知らない私に攻めさせるのではなく、何も知らない私を攻めまくる。
そういう人でした。
しかし、私はその時より、レスリングはこんなに強いんだと妙に感心しました。
何も知らない私を攻めさせて、ばてた後の私を、いたずらに翻弄する先輩でしたら、私はここまでレスリングにのめり込まなかったでしょう。
何も知らない私相手に攻め込む先輩の技術は、専門競技として完成されたスポーツであっても、素人相手に技を連発出来る事を証明してくれたのです。
なかなかスポーツや格闘技を経験した事の無い人には上手く説明出来ません。
こういう例えはどうでしょうか?
私はイチローにヒットなど打たれません。なぜならイチローのもとまでボールが飛ばないからです。
それくらい素人相手に専門の競技スポーツの技術を見せる事は意外と大変な事なのです。
しかし私は幸か不幸か、素人をいたずらにバテさせて、専門競技の呼吸に引きずり込んだ後で攻め込むような、こそくな先輩と巡り会わなかったおかげで、相手がどうであれ、相手が誰であれ、まずは攻めるオフェンシヴな気持ちを持つ事が出来ました。
後輩や新人相手にスパーして、攻めさせ、力だけでは技はかからないよという事を教えて上げる事も大切ですが、意外と先輩が攻めまくり、後輩に何もさせない事も大切だと思います。
話は変わりますが、私が人並みの腰の強さを持つ理由は、私を投げた後、袈裟固めを解いてくれない先輩に出会ったからです。
袈裟固めを解いてくれないどころか、空いている手で私の口を押さえ窒息しようとするのです。
私は、それらの地獄を繰り返すうちに、いくら投げられようとしても、持ちこたえる腰をなんとか作り上げる事が出来ました。
先輩に投げられた後の恐怖が、どんなにバテていても転倒されない私を作ってくれたのです。
最近は楽して強くなろうという風潮が蔓延しているような気がします。
しかし前記事でも書きましたが、基礎体力という精神無き技術は砂上の楼閣です。
格闘技術というナイフにも値する武器を持つのなら当然、所持するための資格が必要です。
基礎体力という土台作りにしか、その資格の為の要件は無いのではないかと私は思っています。
誰でも格闘技に接する事の出来る現在です。
しかも、教える側の多くは営利無くして成り立たない方式のジムや道場での指導だけに、自ずと、土台作りとも言うべき、単純で、面白みの無い、下積みのトレーニングは強制出来ません。
楽しく練習は肝心だと思っていますが、私的には下積みを楽しく捉える気持ちが大切だと思っています。
細かい部分は異なるかも知れませんが、私も危惧する格闘技界のこういう風潮に警笛を鳴らしたのは「K-1心中」様だけのような気がします。
もし、誰か簡単に技を覚えようとせず、最低でも1500メートルを6分×5本走りきる気持ちが有るなら、意味のない事を意味が有ると信じてタックルの打ち込みを一万回するなら、それでも良かったら、私のような三流の競技者の青空道場でも開こうと思っていますので、大阪にお住まいの方はメールしてください。
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そこまで安っぽいプライドではなくとも、似たような事が少しアマチュアの世界でもあるような気がします。
新人相手のスパーにおいては、自ずと、攻める役割を担うのが新人であり、逆に先輩たちは自分からは攻めずに新人の攻撃をさらりとかわす事が一般的です。
私はそれが嫌でした。
実はある程度の競技スポーツのキャリアを踏まえてくると、その競技スポーツ独自の間や呼吸の中でこそ成り立つ技術を多く持つものです。
そんな中で、素人の動きは予測がつきにくく、なかには、素人ながらナチュラルパワーを持っている新人もいて、意外といつもの動きで技をかけられないこともあります。
そのため、まず先輩たちは相手に攻めさせ、バテさせた後で、攻撃に入ります。
何も知らない素人を無理矢理、専門的な競技の呼吸や間の中に引きずり込んだ後で、いたぶるのです。
私がそういった新人相手のやり方を嫌いなのは、私の先輩が全く私に対してそういった横綱相撲という名のディフェンシブさを持たなかったからです。
何も知らない私に攻めさせるのではなく、何も知らない私を攻めまくる。
そういう人でした。
しかし、私はその時より、レスリングはこんなに強いんだと妙に感心しました。
何も知らない私を攻めさせて、ばてた後の私を、いたずらに翻弄する先輩でしたら、私はここまでレスリングにのめり込まなかったでしょう。
何も知らない私相手に攻め込む先輩の技術は、専門競技として完成されたスポーツであっても、素人相手に技を連発出来る事を証明してくれたのです。
なかなかスポーツや格闘技を経験した事の無い人には上手く説明出来ません。
こういう例えはどうでしょうか?
私はイチローにヒットなど打たれません。なぜならイチローのもとまでボールが飛ばないからです。
それくらい素人相手に専門の競技スポーツの技術を見せる事は意外と大変な事なのです。
しかし私は幸か不幸か、素人をいたずらにバテさせて、専門競技の呼吸に引きずり込んだ後で攻め込むような、こそくな先輩と巡り会わなかったおかげで、相手がどうであれ、相手が誰であれ、まずは攻めるオフェンシヴな気持ちを持つ事が出来ました。
後輩や新人相手にスパーして、攻めさせ、力だけでは技はかからないよという事を教えて上げる事も大切ですが、意外と先輩が攻めまくり、後輩に何もさせない事も大切だと思います。
話は変わりますが、私が人並みの腰の強さを持つ理由は、私を投げた後、袈裟固めを解いてくれない先輩に出会ったからです。
袈裟固めを解いてくれないどころか、空いている手で私の口を押さえ窒息しようとするのです。
私は、それらの地獄を繰り返すうちに、いくら投げられようとしても、持ちこたえる腰をなんとか作り上げる事が出来ました。
先輩に投げられた後の恐怖が、どんなにバテていても転倒されない私を作ってくれたのです。
最近は楽して強くなろうという風潮が蔓延しているような気がします。
しかし前記事でも書きましたが、基礎体力という精神無き技術は砂上の楼閣です。
格闘技術というナイフにも値する武器を持つのなら当然、所持するための資格が必要です。
基礎体力という土台作りにしか、その資格の為の要件は無いのではないかと私は思っています。
誰でも格闘技に接する事の出来る現在です。
しかも、教える側の多くは営利無くして成り立たない方式のジムや道場での指導だけに、自ずと、土台作りとも言うべき、単純で、面白みの無い、下積みのトレーニングは強制出来ません。
楽しく練習は肝心だと思っていますが、私的には下積みを楽しく捉える気持ちが大切だと思っています。
細かい部分は異なるかも知れませんが、私も危惧する格闘技界のこういう風潮に警笛を鳴らしたのは「K-1心中」様だけのような気がします。
もし、誰か簡単に技を覚えようとせず、最低でも1500メートルを6分×5本走りきる気持ちが有るなら、意味のない事を意味が有ると信じてタックルの打ち込みを一万回するなら、それでも良かったら、私のような三流の競技者の青空道場でも開こうと思っていますので、大阪にお住まいの方はメールしてください。
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独り言/基礎体力について
私の持論では基礎体力無き技術は砂上の楼閣でしか有りません。
もちろん、時として、体力を凌駕するのも技術であると思っています。
また、必要以上な筋力は技術を制限してしまいます。
正確には、私が記したいことは、基礎体力そのものが大切だと思うのではなく、基礎体力養成を通じて得た精神的な部分なくしての技術など砂上の楼閣だということです。
私が驚くことは、打ち込み何万回という過程を得なければ到底一つの技など身に着けられることの無い事を理解していない人たちが多すぎることです。
天才であれば要領さえ得れば、身に着けることは出来るでしょうが、試合中、意識朦朧とした中でも、無意識に出せる技というのは、やはり何万回もの打ち込み練習などを経て自分の潜在意識にまで刻印した技が多いものです。
これから格闘技を始める人の目的は様々でしょうが、もし本気で自分の実力を高めたいというのならば、道場に来ない日でも、仕事の合間、学業の合間に例え、数十分でもいいので、反復練習、あるいは基礎体力づくりをしてみてはどうでしょうか?
逆に、道場だけで強くなれることなんてあるのかというのが私の考えです。
道場に来ている時間、頑張ることも大切です。
しかし例え自宅においても、仕事や学業で疲れた身体を奮い立たせ練習着に着替える作業が、大切だと思っています。
与えられた練習環境の中に身を投じるだけでは能動性や創造性は身につきません。
練習環境は自分でも創造しなければいけないのです。
例え一日30分でも、そのような作業を繰り返すべきです。
それが積み重なって、道場でも、さらに高レベルな心拍数の練習を遂行する事ができます。
もちろん、時として、体力を凌駕するのも技術であると思っています。
また、必要以上な筋力は技術を制限してしまいます。
正確には、私が記したいことは、基礎体力そのものが大切だと思うのではなく、基礎体力養成を通じて得た精神的な部分なくしての技術など砂上の楼閣だということです。
私が驚くことは、打ち込み何万回という過程を得なければ到底一つの技など身に着けられることの無い事を理解していない人たちが多すぎることです。
天才であれば要領さえ得れば、身に着けることは出来るでしょうが、試合中、意識朦朧とした中でも、無意識に出せる技というのは、やはり何万回もの打ち込み練習などを経て自分の潜在意識にまで刻印した技が多いものです。
これから格闘技を始める人の目的は様々でしょうが、もし本気で自分の実力を高めたいというのならば、道場に来ない日でも、仕事の合間、学業の合間に例え、数十分でもいいので、反復練習、あるいは基礎体力づくりをしてみてはどうでしょうか?
逆に、道場だけで強くなれることなんてあるのかというのが私の考えです。
道場に来ている時間、頑張ることも大切です。
しかし例え自宅においても、仕事や学業で疲れた身体を奮い立たせ練習着に着替える作業が、大切だと思っています。
与えられた練習環境の中に身を投じるだけでは能動性や創造性は身につきません。
練習環境は自分でも創造しなければいけないのです。
例え一日30分でも、そのような作業を繰り返すべきです。
それが積み重なって、道場でも、さらに高レベルな心拍数の練習を遂行する事ができます。
2008年01月09日
私的プロレス論2/売れ線プロレス
私か驚くのが、現在のプロレスファンは驚くほど限られた物差しでしかプロレスを見れないという事である。
相手とスイングして技のラリーが続く試合、会場が沸く試合、その二つでしかプロレスを測る物差しを持っていないのではないかと私は思ってしまう。
そんなプロレスは極端な話、売れ線的なプロレスでしかないと思うのだが、今のファンは売れ線としてのプロレスしか評価出来ないのだ。
売れ線的プロレスを測定するプロレスの基準しか持ち合わせていないという事である。
例えば会場が一体化して床を踏み鳴らす試合が好試合だと錯覚されているが、それは、あくまで売れ線的プロレスの価値観でしかない。
ハイレベルで激しい技の攻防が繰り広げれる試合が良い試合だというのも、売れ線的プロレスの価値観でしかない。
売れ線的なプロレスブームに夢中になった世代が、プロレスラーとなり、更に進化させた売れ線的なプロレスを展開していく。
それに夢中になったファンたちで作り上げられたプロレス村は、売れ線的な価値観でしかプロレスというジャンルを測れなくなっているのだ。
かつてはプロレスというジャンルは想像力を必要としたジャンルであった。
自分の期待通りに終わらない試合内容、呆気ない結末、それらを通して、かつてのファンは自分の思い通りにならないプロレスと言うジャンルへの耐性と想像力を身につけたものであった。
売れ線的プロレスしか測れない物差しで例えばIGFの試合を見たとする。
プロレスの下手な選手が全然盛り上がらない試合を展開しているというなという見方しか出来ない。
しかし売れ線的プロレス価値感ではしょっぱい試合であっても、私はIGFほど余韻を感じるプロレスは無いと思っている。
逆に言えば、しょっぱい試合というのは、売れ線的プロレスしか知らないファンたちが勝手に作り上げた見方でしかない。
今のプロレス界は売れ線的プロレスを測るしか出来ないファンの集まりであるので、プロレスラーたちは更にファンに好かれるよう売れ線的プロレスを展開しようとする。
しかし世間の人たちはプロレスファンが思うほど、進化しすぎた売れ線的プロレスのベストバウトを観ても、凄いと思うわけではない。
ファンの求めているものも、レスラーが提供しようとしているものも、プロレス村の中で完結してしまっている。
プロレスを低迷させたのは、売れ線的プロレスの物差しでしかプロレスを観れないファンと、そして、そういうファンを育ててしまったプロレスラーの責任ではないかと私は思っている。
そういう意味では、安易に売れ線的プロレスによってブームを起こした昭和のプロレスブームの頃から、プロレスの衰退は決まっていたのだ。
プロレスが人気を取り戻す為には、良いプロレスの定義や物差しなど何も持たないまっさらなファンを捕まえる事である。
世間の人が一目置く格好よさ、異形ぶりとは何かを考えたら、世間のイケメンの二番煎じのルックスだらけのプロレスラーなどに世間は飛びつかない事は分かるであろう。
猪木であれ、前田、長州であれ、世間にいない色気を持つ男こそ世間を振り向かせられたのだ。
私が否定する昭和のプロレスブームであるが、まだ売れ線的なプロレスとはいえ、長州にも藤波の試合にも美しさが有った。
人々を刹那的に高揚させる事は消費でしかない。
それが売れ線プロレスである。
その元祖とも言える長州対藤波であったが、今の売れ線プロレスと異なる部分は多い。
今はプロレスファンを喜ばせる試合に精を出しても、プロレスファンだけが喜ぶ売れ線プロレスである。
しかし過去の長州と藤波は世間に対しての売れ線プロレスであった。
進化しすぎていなかったからだ。
進化しすぎた売れ線はプロレス村のマニア相手の売れ線でしかない。
大技の攻防をスイングして繰り広げ観客は興奮しきっちりと決着がつく。
それがプロレスの良い試合だという考えは、世間にも何処にも無い。
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相手とスイングして技のラリーが続く試合、会場が沸く試合、その二つでしかプロレスを測る物差しを持っていないのではないかと私は思ってしまう。
そんなプロレスは極端な話、売れ線的なプロレスでしかないと思うのだが、今のファンは売れ線としてのプロレスしか評価出来ないのだ。
売れ線的プロレスを測定するプロレスの基準しか持ち合わせていないという事である。
例えば会場が一体化して床を踏み鳴らす試合が好試合だと錯覚されているが、それは、あくまで売れ線的プロレスの価値観でしかない。
ハイレベルで激しい技の攻防が繰り広げれる試合が良い試合だというのも、売れ線的プロレスの価値観でしかない。
売れ線的なプロレスブームに夢中になった世代が、プロレスラーとなり、更に進化させた売れ線的なプロレスを展開していく。
それに夢中になったファンたちで作り上げられたプロレス村は、売れ線的な価値観でしかプロレスというジャンルを測れなくなっているのだ。
かつてはプロレスというジャンルは想像力を必要としたジャンルであった。
自分の期待通りに終わらない試合内容、呆気ない結末、それらを通して、かつてのファンは自分の思い通りにならないプロレスと言うジャンルへの耐性と想像力を身につけたものであった。
売れ線的プロレスしか測れない物差しで例えばIGFの試合を見たとする。
プロレスの下手な選手が全然盛り上がらない試合を展開しているというなという見方しか出来ない。
しかし売れ線的プロレス価値感ではしょっぱい試合であっても、私はIGFほど余韻を感じるプロレスは無いと思っている。
逆に言えば、しょっぱい試合というのは、売れ線的プロレスしか知らないファンたちが勝手に作り上げた見方でしかない。
今のプロレス界は売れ線的プロレスを測るしか出来ないファンの集まりであるので、プロレスラーたちは更にファンに好かれるよう売れ線的プロレスを展開しようとする。
しかし世間の人たちはプロレスファンが思うほど、進化しすぎた売れ線的プロレスのベストバウトを観ても、凄いと思うわけではない。
ファンの求めているものも、レスラーが提供しようとしているものも、プロレス村の中で完結してしまっている。
プロレスを低迷させたのは、売れ線的プロレスの物差しでしかプロレスを観れないファンと、そして、そういうファンを育ててしまったプロレスラーの責任ではないかと私は思っている。
そういう意味では、安易に売れ線的プロレスによってブームを起こした昭和のプロレスブームの頃から、プロレスの衰退は決まっていたのだ。
プロレスが人気を取り戻す為には、良いプロレスの定義や物差しなど何も持たないまっさらなファンを捕まえる事である。
世間の人が一目置く格好よさ、異形ぶりとは何かを考えたら、世間のイケメンの二番煎じのルックスだらけのプロレスラーなどに世間は飛びつかない事は分かるであろう。
猪木であれ、前田、長州であれ、世間にいない色気を持つ男こそ世間を振り向かせられたのだ。
私が否定する昭和のプロレスブームであるが、まだ売れ線的なプロレスとはいえ、長州にも藤波の試合にも美しさが有った。
人々を刹那的に高揚させる事は消費でしかない。
それが売れ線プロレスである。
その元祖とも言える長州対藤波であったが、今の売れ線プロレスと異なる部分は多い。
今はプロレスファンを喜ばせる試合に精を出しても、プロレスファンだけが喜ぶ売れ線プロレスである。
しかし過去の長州と藤波は世間に対しての売れ線プロレスであった。
進化しすぎていなかったからだ。
進化しすぎた売れ線はプロレス村のマニア相手の売れ線でしかない。
大技の攻防をスイングして繰り広げ観客は興奮しきっちりと決着がつく。
それがプロレスの良い試合だという考えは、世間にも何処にも無い。
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2008年01月08日
私的プロレス論1/闘うプロレス
私の考えでは、基本的に、リアルであれ、フェイクであれ、その闘う姿が見ている者の闘争本能を刺激し、何がしかの力を与えてくれるものであれば、それは闘いであると思っている。
私の子供の時のプロレスは、まさしく闘いであった。
アントニオ猪木は少なくとも、本当に闘う感情を持って、私に闘う事は何かを教えてくれた。
アントニオ猪木がフィクションであれ、ノンフィクションであれ、少なくともアントニオ猪木が演じる闘う姿は、闘い以外の何物でもなかったのである。
私はアントニオ猪木のプロレスがあまりにも闘いそのものであったので、逆に、片方の全日本のプロレスも思う存分楽しめた。
アントニオ猪木が闘いを見せてくれたからこそ、闘いとは関係のない幻想的な夢の世界である全日本をも存分に楽しめたのだ。
子供の頃の私にとってはプロレスとは、アントニオ猪木が見せてくれる闘い、そして、闘いとは若干かけ離れた全日本プロレスの夢空間と、二つの対局を成す大変幅の広いジャンルであった。
ジャンルが細分化した今のプロレス界であるが、私の子供の頃のようなジャンルの幅は無い。
細かく趣向が別れたプロレス界であるが、ジャンルの幅の右にも左にも、そこに闘いは無くなってしまっている。
私的には全日本プロレスの世界が細分化された世界が、今のプロレスと言うジャンルなのだと思っている。
闘いを見せてくれたアントニオ猪木のプロレスは、いつしか総合格闘技へと飛び越え、アントニオ猪木、かつての新日本プロレスという世界観が、かつてのファンを引き連れ、総合へ進化したというのが一般的な見方である。
アントニオ猪木のプロレスが、いくら闘いをテーマにしたところで、本物の闘いには勝てないという意見を持って、プロレス界から、闘いというテーマが消えてしまったのである。
しかし、私たちが子供の頃、夢中になって見つめていたアントニオ猪木の闘うプロレスとは何だったのであろうか?
本物の闘いを見るための素養を身につけるための準備期間でしか無かったのであろうか?
本物の格闘技を見るための入り口としての存在でしかなかったのであろうか?
私の答えは否である。
リアルでないジャンルが、リアルなジャンルにのめり込む為の入り口でしか無いのだとしたら、この世にあらゆるジャンルのドラマも映画も小説も存在していないであろう。
実際に恋愛をしていても恋愛小説を読むものである。
しかし、その恋愛小説が、リアルでないからと最初から実際の恋愛とはかけ離れた世界観にこだわれば、誰も恋愛小説など読みはしないであろう。
今のプロレスがそうである。
リアルでないからと、実際の闘いとはかけ離れた世界にジャンル全体が逃避してしまっているのだ。
リアルでないからこそ逆に醸し出せるリアリティも有る。
そのリアリティを持って、本物の格闘技以上に、闘いとは何かを表現出来たのが、アントニオ猪木のプロレスであったのだ。
決して、格闘技への入り口、格闘技ファンのビギナー版としての似非・格闘技としてアントニオ猪木のプロレスは有ったわけではないのだ。
(この稿 続く)
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私の子供の時のプロレスは、まさしく闘いであった。
アントニオ猪木は少なくとも、本当に闘う感情を持って、私に闘う事は何かを教えてくれた。
アントニオ猪木がフィクションであれ、ノンフィクションであれ、少なくともアントニオ猪木が演じる闘う姿は、闘い以外の何物でもなかったのである。
私はアントニオ猪木のプロレスがあまりにも闘いそのものであったので、逆に、片方の全日本のプロレスも思う存分楽しめた。
アントニオ猪木が闘いを見せてくれたからこそ、闘いとは関係のない幻想的な夢の世界である全日本をも存分に楽しめたのだ。
子供の頃の私にとってはプロレスとは、アントニオ猪木が見せてくれる闘い、そして、闘いとは若干かけ離れた全日本プロレスの夢空間と、二つの対局を成す大変幅の広いジャンルであった。
ジャンルが細分化した今のプロレス界であるが、私の子供の頃のようなジャンルの幅は無い。
細かく趣向が別れたプロレス界であるが、ジャンルの幅の右にも左にも、そこに闘いは無くなってしまっている。
私的には全日本プロレスの世界が細分化された世界が、今のプロレスと言うジャンルなのだと思っている。
闘いを見せてくれたアントニオ猪木のプロレスは、いつしか総合格闘技へと飛び越え、アントニオ猪木、かつての新日本プロレスという世界観が、かつてのファンを引き連れ、総合へ進化したというのが一般的な見方である。
アントニオ猪木のプロレスが、いくら闘いをテーマにしたところで、本物の闘いには勝てないという意見を持って、プロレス界から、闘いというテーマが消えてしまったのである。
しかし、私たちが子供の頃、夢中になって見つめていたアントニオ猪木の闘うプロレスとは何だったのであろうか?
本物の闘いを見るための素養を身につけるための準備期間でしか無かったのであろうか?
本物の格闘技を見るための入り口としての存在でしかなかったのであろうか?
私の答えは否である。
リアルでないジャンルが、リアルなジャンルにのめり込む為の入り口でしか無いのだとしたら、この世にあらゆるジャンルのドラマも映画も小説も存在していないであろう。
実際に恋愛をしていても恋愛小説を読むものである。
しかし、その恋愛小説が、リアルでないからと最初から実際の恋愛とはかけ離れた世界観にこだわれば、誰も恋愛小説など読みはしないであろう。
今のプロレスがそうである。
リアルでないからと、実際の闘いとはかけ離れた世界にジャンル全体が逃避してしまっているのだ。
リアルでないからこそ逆に醸し出せるリアリティも有る。
そのリアリティを持って、本物の格闘技以上に、闘いとは何かを表現出来たのが、アントニオ猪木のプロレスであったのだ。
決して、格闘技への入り口、格闘技ファンのビギナー版としての似非・格闘技としてアントニオ猪木のプロレスは有ったわけではないのだ。
(この稿 続く)
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底が見えたヒョードル
後だしジャンケンを記すつもりは無いが、ヒョードルが再びアローナと再戦したとする。
リングス時代よりも遥かに進化した現在のヒョードルであっても、アローナの弾丸タックルを防ぐ事は出来るだろうか?
アローナに転倒されるしか無かったヒョードルが不思議な判定勝ちを手にして以後、ヒョードルはプライドのリングにて実力を発揮し続けた。
しかし、おそらく誰もが知っていてあえて記さない事だろうが、ランデルマンに反り投げをされたヒョードルは明らかに一瞬、意識を失った。
投げたランデルマンが逆に動揺して、攻めを躊躇した事実は、誰もが触れないヒョードル神話形成のためのタブーでもあった。
藤田和之には片足からリフトされてしまった。
以前にも記したが、リフトされたという事は思い切り自分で転倒されまいともがき踏ん張っている事を証明している。
それでもリフトされてしまったのだ。
ヒョードルの、その体型を生かした被テイクダウン能力でもあるが、実は体型の特性以上の腰のバランスや被テイクダウン能力はない事は徐々に証明されつつ有る。
私が驚いたのはホンマン戦である。
少なくとも裸体の格闘技の経験が有れば、自分より遥かに身長が高い相手に、あそこまで四つに組む事はしないであろう。
結果、ホンマンにあそこまで見事に潰されてしまった。
自分より体重の有る相手に、さば折にしろ、自分の投げミスにしろ、潰され、覆いかぶされ転倒するという事は、悶絶ものである。
しかし悶絶しパニックになっている表情はヒョードルのポーカーフェイスに隠れてしまっている。
結果、涼しい顔でに若干の傷跡をつけたヒョードルは格闘技界の王者の面目躍如を果たしたが、私はたとえ今日、再戦したとしてもヒョードルがホンマンに再び勝てる事は無いと思っている。
それはヒョードル自身が知っている事である。
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リングス時代よりも遥かに進化した現在のヒョードルであっても、アローナの弾丸タックルを防ぐ事は出来るだろうか?
アローナに転倒されるしか無かったヒョードルが不思議な判定勝ちを手にして以後、ヒョードルはプライドのリングにて実力を発揮し続けた。
しかし、おそらく誰もが知っていてあえて記さない事だろうが、ランデルマンに反り投げをされたヒョードルは明らかに一瞬、意識を失った。
投げたランデルマンが逆に動揺して、攻めを躊躇した事実は、誰もが触れないヒョードル神話形成のためのタブーでもあった。
藤田和之には片足からリフトされてしまった。
以前にも記したが、リフトされたという事は思い切り自分で転倒されまいともがき踏ん張っている事を証明している。
それでもリフトされてしまったのだ。
ヒョードルの、その体型を生かした被テイクダウン能力でもあるが、実は体型の特性以上の腰のバランスや被テイクダウン能力はない事は徐々に証明されつつ有る。
私が驚いたのはホンマン戦である。
少なくとも裸体の格闘技の経験が有れば、自分より遥かに身長が高い相手に、あそこまで四つに組む事はしないであろう。
結果、ホンマンにあそこまで見事に潰されてしまった。
自分より体重の有る相手に、さば折にしろ、自分の投げミスにしろ、潰され、覆いかぶされ転倒するという事は、悶絶ものである。
しかし悶絶しパニックになっている表情はヒョードルのポーカーフェイスに隠れてしまっている。
結果、涼しい顔でに若干の傷跡をつけたヒョードルは格闘技界の王者の面目躍如を果たしたが、私はたとえ今日、再戦したとしてもヒョードルがホンマンに再び勝てる事は無いと思っている。
それはヒョードル自身が知っている事である。
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2008年01月07日
フロレスとは?
私が尊敬するダニーホッジは、これまでも度々このブログで記してきましたが、プロレスファンが想像する以上に、アメリカのアマチュアレスリング界で伝説とされているレスラーです。
何しろ、フリースタイルルールはオリンピックの本番で経験しながら、いわば、ぶっつけ本番で銀メダルを獲得した強者です。
そのダニーホッジの言葉で興味深いのがプロレスに「シュート」も「ワーク」も「アマチュア」も「プロ」も関係なかったという言葉です。
おそらくホッジの本音では無いでしょうか。
それと近い事はアントニオ猪木も何度も語っています。
前も記しましたが、前田日明が格闘技ファンからすれば、錯覚を起こしているのかと勘違いするくらい、自己の経歴に自信満々なのは、実は、アントニオ猪木と同じくプロレスは闘いであり、その闘いを貫いてきた自分の経歴に心底自信を持っているからではないかと私は思っています。
今は、観る側のファンにとっては区別しなければ仕方ない時代でもありますが、プロレスとは闘うもの、闘う意識を持ってレッスルするスポーツです。
闘いの意識を忘れたプロレスは、ワークというよりも、初っぱなからのエンターティメントでしかありません。
しかし闘いの意識を持ってさえすれば、プロレスも格闘技も区別するべきほどのカテゴリーの違いは無いような気がします。
格闘技風のプロレスを多くのファンが毛嫌いするのは、中途半端感によるものからでしょうが、そういうプロレスはどこか格闘技に媚びた匂いを感じてしまいます。
しかし私の子供の頃のアントニオ猪木のプロレスは、格闘技に媚びる事無く、プロレスで闘いの感情を表現してきました。
闘いの感情が本物ならば、もはやワークやシュートやらの区別など意味など成さないでしょう。
IGFが苦戦しています。
格闘技でもなく、純プロレスでもない、中途半端とも思えるプロレスを展開していますが、まだ、芳しい結果は出ていません。
出ていませんが、私的には、あの、いつもの呆気ない結末、空気、それらはプロレスブームが起こる前のアントニオ猪木のプロレスそのものでしたので満足しています。
しかし、プロレスが下手な選手たちが、いたずらに上手いプロレスを演じようとしたり、自分の本職の格闘技のテクを必要以上にディフォルメしたりしている事が、この時代に合わない白々しさにもつながっています。
プロレスだからと思わず、闘う感情をしっかりと脳裏に植え付け、そして、かつ、その闘う感情をいたずらに露出せず、闘えば、忍ぶ者特有の緊張感を生み出せるはずです。
忍ぶ者の色気は総合格闘技では出せないプロレスならではの闘いの色気です。
しかし、今のプロレスは闘いを放棄し、笑いや、闘いとは関係のない感動だけを求めているような気がします。
プロレスだからこそ、格闘技以上に闘いを表現出来るのにです。
IGFで言えば、小原や、モンターニャなどは、以外とその事に気づいているような気がします。
最近は、格闘技関係の記事が多かったのですが、今後、再び、私なりのプロレス論をまた記していきたいと思っています。
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何しろ、フリースタイルルールはオリンピックの本番で経験しながら、いわば、ぶっつけ本番で銀メダルを獲得した強者です。
そのダニーホッジの言葉で興味深いのがプロレスに「シュート」も「ワーク」も「アマチュア」も「プロ」も関係なかったという言葉です。
おそらくホッジの本音では無いでしょうか。
それと近い事はアントニオ猪木も何度も語っています。
前も記しましたが、前田日明が格闘技ファンからすれば、錯覚を起こしているのかと勘違いするくらい、自己の経歴に自信満々なのは、実は、アントニオ猪木と同じくプロレスは闘いであり、その闘いを貫いてきた自分の経歴に心底自信を持っているからではないかと私は思っています。
今は、観る側のファンにとっては区別しなければ仕方ない時代でもありますが、プロレスとは闘うもの、闘う意識を持ってレッスルするスポーツです。
闘いの意識を忘れたプロレスは、ワークというよりも、初っぱなからのエンターティメントでしかありません。
しかし闘いの意識を持ってさえすれば、プロレスも格闘技も区別するべきほどのカテゴリーの違いは無いような気がします。
格闘技風のプロレスを多くのファンが毛嫌いするのは、中途半端感によるものからでしょうが、そういうプロレスはどこか格闘技に媚びた匂いを感じてしまいます。
しかし私の子供の頃のアントニオ猪木のプロレスは、格闘技に媚びる事無く、プロレスで闘いの感情を表現してきました。
闘いの感情が本物ならば、もはやワークやシュートやらの区別など意味など成さないでしょう。
IGFが苦戦しています。
格闘技でもなく、純プロレスでもない、中途半端とも思えるプロレスを展開していますが、まだ、芳しい結果は出ていません。
出ていませんが、私的には、あの、いつもの呆気ない結末、空気、それらはプロレスブームが起こる前のアントニオ猪木のプロレスそのものでしたので満足しています。
しかし、プロレスが下手な選手たちが、いたずらに上手いプロレスを演じようとしたり、自分の本職の格闘技のテクを必要以上にディフォルメしたりしている事が、この時代に合わない白々しさにもつながっています。
プロレスだからと思わず、闘う感情をしっかりと脳裏に植え付け、そして、かつ、その闘う感情をいたずらに露出せず、闘えば、忍ぶ者特有の緊張感を生み出せるはずです。
忍ぶ者の色気は総合格闘技では出せないプロレスならではの闘いの色気です。
しかし、今のプロレスは闘いを放棄し、笑いや、闘いとは関係のない感動だけを求めているような気がします。
プロレスだからこそ、格闘技以上に闘いを表現出来るのにです。
IGFで言えば、小原や、モンターニャなどは、以外とその事に気づいているような気がします。
最近は、格闘技関係の記事が多かったのですが、今後、再び、私なりのプロレス論をまた記していきたいと思っています。
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2008年01月06日
佳作の男 永田 裕志
永田 裕志とは、新日本の強さの幻想を無くした男の一人でもあるが、同時に幻想をギリギリ抱いている男でもある。
もはやテレビゲームのキャラクター化した選手たちの中で、ヒョードルやミルコとリアルに交差した永田の過去は異質である。
リアルでショッキングな過去でもあったが、あまりにも一瞬で終わった試合であったがためにリアルな映像さえ逆にリアルで無く幻想化してしまっているのだ。
ヒョードルとミルコに挑んだ二つの試合が、例えば、桜庭に負けた船木のように中途半端な短時間で実力を見せつけられたものであったならば、私は永田に抱く幻想を無くしてしまっているが、まるで出会い頭の衝突事故とも取れる一瞬のリアルでかつショッキングな光景が、永田の幻想を救っているのだ。
以後、プロレス道に邁進していった永田であったが、地道な防衛戦の数々が私は好きであった。
ファンを裏切る事こそ、新日本だと私は思っているが、今の新日本にファンに対してそのような余裕ある優位性は無い。
ひたすらファンに対して誠実という媚びを売る現在の新日本であるが、永田 裕志がIWGP王者でいる事こそが、新日本がファンに対して行った唯一の挑発であり意地であった。
永田 裕志は二千年代型の大技のラリープロレスが出来る男ではない。
そんなプロレスなど、現在の新日本であれば、いくらでも永田より上手い選手はいてるだろう。
永田はミルコ戦、ヒョードル戦に至まで、常に闘ってきた新日本のプロレスラーなのである。
その永田が、ファンを満足させる上手いプロレス、ジェットコースター型のプロレスを提供出来る訳は無い。
しかし、ファン主導の新日本において、永田は上手くないプロレスを誠実に提供しようとしてきた。
本来はUWFや他団体相手のケンカマッチこそ絵になる男がである。
元々プロレスが上手くない男(あくまで今風のという意味である)が提供出来るプロレスらしいプロレスとは、大技のラリーが少なくとも、丁寧で、じっくりと攻め合う前座時代のようなプロレスである。
学生プロレス出身の選手たちと対極に位置する激しいラリーの応酬のないプロレスである。
そのプロレスを基盤として永田は、王者時代、丁寧で誠実な作品を作り上げてきた。
ベストバウトとなるような今風のプロレスではなくとも、永田が丁寧に作り上げていった佳作の数々は私的には好きなプロレスで有る。
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もはやテレビゲームのキャラクター化した選手たちの中で、ヒョードルやミルコとリアルに交差した永田の過去は異質である。
リアルでショッキングな過去でもあったが、あまりにも一瞬で終わった試合であったがためにリアルな映像さえ逆にリアルで無く幻想化してしまっているのだ。
ヒョードルとミルコに挑んだ二つの試合が、例えば、桜庭に負けた船木のように中途半端な短時間で実力を見せつけられたものであったならば、私は永田に抱く幻想を無くしてしまっているが、まるで出会い頭の衝突事故とも取れる一瞬のリアルでかつショッキングな光景が、永田の幻想を救っているのだ。
以後、プロレス道に邁進していった永田であったが、地道な防衛戦の数々が私は好きであった。
ファンを裏切る事こそ、新日本だと私は思っているが、今の新日本にファンに対してそのような余裕ある優位性は無い。
ひたすらファンに対して誠実という媚びを売る現在の新日本であるが、永田 裕志がIWGP王者でいる事こそが、新日本がファンに対して行った唯一の挑発であり意地であった。
永田 裕志は二千年代型の大技のラリープロレスが出来る男ではない。
そんなプロレスなど、現在の新日本であれば、いくらでも永田より上手い選手はいてるだろう。
永田はミルコ戦、ヒョードル戦に至まで、常に闘ってきた新日本のプロレスラーなのである。
その永田が、ファンを満足させる上手いプロレス、ジェットコースター型のプロレスを提供出来る訳は無い。
しかし、ファン主導の新日本において、永田は上手くないプロレスを誠実に提供しようとしてきた。
本来はUWFや他団体相手のケンカマッチこそ絵になる男がである。
元々プロレスが上手くない男(あくまで今風のという意味である)が提供出来るプロレスらしいプロレスとは、大技のラリーが少なくとも、丁寧で、じっくりと攻め合う前座時代のようなプロレスである。
学生プロレス出身の選手たちと対極に位置する激しいラリーの応酬のないプロレスである。
そのプロレスを基盤として永田は、王者時代、丁寧で誠実な作品を作り上げてきた。
ベストバウトとなるような今風のプロレスではなくとも、永田が丁寧に作り上げていった佳作の数々は私的には好きなプロレスで有る。
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2008年01月05日
極私的ブログ/南方師匠
極私的にブログを使う事を許していただきたいと思っています。
私の敬愛するチャンバラトリオの南方師匠の動画です。
子供の頃よりテレビで馴染みの師匠ですが、私はどういうわけか師匠と肩を並べて飲む機会がありました。
飲んだといっても、飲食店ではありません。
飲むべきでない場所で、飲んだとき、隣に師匠がいた事が二度ありました。
そして飲んでふらふらの師匠を観た事は数えきれません。
もっとも私は師匠と言葉を交わした事は一度も有りません。
ただ偶然とはいえ、師匠と飲んだ際に感じた哀愁や艶は、もっと世間に知ってもらいたいと思っています。
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私の敬愛するチャンバラトリオの南方師匠の動画です。
子供の頃よりテレビで馴染みの師匠ですが、私はどういうわけか師匠と肩を並べて飲む機会がありました。
飲んだといっても、飲食店ではありません。
飲むべきでない場所で、飲んだとき、隣に師匠がいた事が二度ありました。
そして飲んでふらふらの師匠を観た事は数えきれません。
もっとも私は師匠と言葉を交わした事は一度も有りません。
ただ偶然とはいえ、師匠と飲んだ際に感じた哀愁や艶は、もっと世間に知ってもらいたいと思っています。
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清原の発言
三崎のマイクの件で清原が激怒しているとの事です。
しかし、身体と気性だけは格闘家なみのものを持つ清原であっても、格闘家では有りません。
清原の物言いが事実なら、三崎のみならず格闘家に対しての冒涜と私は思っています。
三崎に対して抗議の意思を示すのと、「あいつの顔面オレが蹴ってやろうかな」と暴言を吐くのは違います。
(私と同年の)40歳にもなろうとする男が、格闘技観戦で何を勘違いしたのか、ステゴロで勝てない相手に吐く台詞では無いでしょう。
以前もパッシング渦中の朝青龍に対して、面と向かっては絶対に言わないだろう暴言を吐いた事が有りましたが、清原の発言の趣旨が納得するものとはいえ、その物言いは、今回と同じく、自分の腕っ節の身の丈を越えた格闘家への挑発めいたものでした。
私的経験を記しても仕方ないのですが、怖い者なしで粋がっていた私が初めて人生で恐怖を感じたのはレスリングのマットの上でした。
冗談ではなく先輩に袈裟固めを解いてもらえず、失禁した恥ずかしい思い出が有ります。
かつて長嶋ジュニアを遊びのテレビの場で絞め落とした小川直也のように、誰か清原に、格闘技の怖さを知らしめて欲しいと私は思っています。
しかし、身体と気性だけは格闘家なみのものを持つ清原であっても、格闘家では有りません。
清原の物言いが事実なら、三崎のみならず格闘家に対しての冒涜と私は思っています。
三崎に対して抗議の意思を示すのと、「あいつの顔面オレが蹴ってやろうかな」と暴言を吐くのは違います。
(私と同年の)40歳にもなろうとする男が、格闘技観戦で何を勘違いしたのか、ステゴロで勝てない相手に吐く台詞では無いでしょう。
以前もパッシング渦中の朝青龍に対して、面と向かっては絶対に言わないだろう暴言を吐いた事が有りましたが、清原の発言の趣旨が納得するものとはいえ、その物言いは、今回と同じく、自分の腕っ節の身の丈を越えた格闘家への挑発めいたものでした。
私的経験を記しても仕方ないのですが、怖い者なしで粋がっていた私が初めて人生で恐怖を感じたのはレスリングのマットの上でした。
冗談ではなく先輩に袈裟固めを解いてもらえず、失禁した恥ずかしい思い出が有ります。
かつて長嶋ジュニアを遊びのテレビの場で絞め落とした小川直也のように、誰か清原に、格闘技の怖さを知らしめて欲しいと私は思っています。
HERO'Sという不思議なイベント
私的に今、一番興味のある団体、イベントは「HERO'S」である。
かつてのアントニオ猪木の迷走は自己の世間への承認欲求を環状線理論に求めた事が始まりであった。
アントニオ猪木という極めて異端で反主流の男を支えたのは、あくまで、アントニオ猪木に熱狂した核のファンの熱気であった。
その核の熱の広がりが世間にまで届いたのがプロレスブームであった。
プロレスブーム時主流を成した日本人対決など見方を変えれば極めてマニアックで有り、プロレスの非日常的要素など皆無の世界でもあった。
ジャンルの核の熱気が世間に伝播したのである。
であるのに、当のアントニオ猪木本人は環状線理論というものを持ち出して、ひたすら環状1号、2号より外側の世界を求め続けた。
結果、プロレス界を混乱させたアントニオ猪木の後期の迷走は始まったのである。
世間に届く熱とは、あくまで、核の熱気が膨張し爆発した姿である。
なのに核の熱なき空洞化した姿を持ってしても、世間を追いかけ、媚び続けたのである。
現在、アントニオ猪木の核の熱無き空洞化路線、環状線理論を引き継いでいるのが、谷川プロデューサーである。
谷川プロデューサーの感性が著しく劣化していない限り、「やれんのか!」とのカードの割り振りをした時点で、両イベントの熱気の違いなど充分把握出来たであろう。
どういう意図であれ、谷川プロデューサーは核の熱を発生させるカードを「やれんのか!」に譲ったのである。
谷川プロデューサーの視線にはジャンルの核となるファンなど存在していないのだ。
あくまでテレビの先の何も知らない視聴者と何も文句を言わない環状線の外側のファンでしか無いのだ。
大晦日恒例の「Dynamite!!」の会場に行けば分かるが、もはやイベントとして不可欠な熱気など存在していない。
辟易するほど、多くの試合を見せられ、イベントを楽しむ体力さえ消耗させられる。
それでも誰も文句は言わない。
文句を言う熱すらないのである。
煽りVTRで、片方のイベントのクオリティと比較する人たちがいるが、根本的に、両者の質は異なっている。
「PRIDE」「やれんのか!」の佐藤Dの映像は、核のファン一人一人の感情と知識の確認作業である。
VTRで会場中の感情が一体化するための大きな要素でもある。
しかし「Dynamite!!」「HERO'S」のVTRはあくまで、会場のビギナー、そしてテレビの前の一見さんに向けての選手紹介・見所紹介、つまり情報の提供でしかないのだ。
一昨年の大晦日の秋山の件で、「HERO'S」側のあまりにも前時代的な情報操作、隠蔽があまりにも、ファンの反感を買ってしまった。
しかし、もし「HERO'S」が「PRIDE」のような核のファンに支えられたイベントであったら、そのような事は許されなかったであろう。
あまりにも前時代的、隠蔽体質気味に思えた「HERO'S」側の対応は、実は核のファンというジャンルの住人のいないイベントとしては普通の事だったと私は思っている。
つまり情報を持ったファンを相手にしない事こそが「HERO'S」の本質なのである。
情報を持った熱いファンが一方のイベントで「三崎対秋山」に熱中しても、自らのイベントの全試合合わせても、その試合一試合の熱さえ無くとも、谷川プロデューサーにとっては充分想定範囲内の事である。
肝心は三崎対秋山の熱よりも、紅白なのである。
大晦日恒例の大阪ドームは、あれだけ熱の無い不満足な興行が恒例となっても、そこそこ集客出来継続できている不思議なイベントである。
そこには迷走時の新日本をからかいにやってきたような野次も無ければ歓声も無い。
ひたすら大人しいビギナーの群れである。
私は、この情報を持たないファンをターゲットにした「HERO'S」というイベントが、どのような形を持って成長していくか楽しみである。
核も熱も無い空洞化した不思議な大規模イベントであるが、逆に、マニアの熱気が無く、一見さんが入りやすいイベントでもある。
そのイベントで最後まで環状のはるか外側の観客や視聴者を対象とする姿勢は最後まで見せてほしいと私は思う。
それによってマニア層、ファン層のいないリングで、本当にファイトマネーに値する選手たちのプロとしての商品価値がはっきりするからである。
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かつてのアントニオ猪木の迷走は自己の世間への承認欲求を環状線理論に求めた事が始まりであった。
アントニオ猪木という極めて異端で反主流の男を支えたのは、あくまで、アントニオ猪木に熱狂した核のファンの熱気であった。
その核の熱の広がりが世間にまで届いたのがプロレスブームであった。
プロレスブーム時主流を成した日本人対決など見方を変えれば極めてマニアックで有り、プロレスの非日常的要素など皆無の世界でもあった。
ジャンルの核の熱気が世間に伝播したのである。
であるのに、当のアントニオ猪木本人は環状線理論というものを持ち出して、ひたすら環状1号、2号より外側の世界を求め続けた。
結果、プロレス界を混乱させたアントニオ猪木の後期の迷走は始まったのである。
世間に届く熱とは、あくまで、核の熱気が膨張し爆発した姿である。
なのに核の熱なき空洞化した姿を持ってしても、世間を追いかけ、媚び続けたのである。
現在、アントニオ猪木の核の熱無き空洞化路線、環状線理論を引き継いでいるのが、谷川プロデューサーである。
谷川プロデューサーの感性が著しく劣化していない限り、「やれんのか!」とのカードの割り振りをした時点で、両イベントの熱気の違いなど充分把握出来たであろう。
どういう意図であれ、谷川プロデューサーは核の熱を発生させるカードを「やれんのか!」に譲ったのである。
谷川プロデューサーの視線にはジャンルの核となるファンなど存在していないのだ。
あくまでテレビの先の何も知らない視聴者と何も文句を言わない環状線の外側のファンでしか無いのだ。
大晦日恒例の「Dynamite!!」の会場に行けば分かるが、もはやイベントとして不可欠な熱気など存在していない。
辟易するほど、多くの試合を見せられ、イベントを楽しむ体力さえ消耗させられる。
それでも誰も文句は言わない。
文句を言う熱すらないのである。
煽りVTRで、片方のイベントのクオリティと比較する人たちがいるが、根本的に、両者の質は異なっている。
「PRIDE」「やれんのか!」の佐藤Dの映像は、核のファン一人一人の感情と知識の確認作業である。
VTRで会場中の感情が一体化するための大きな要素でもある。
しかし「Dynamite!!」「HERO'S」のVTRはあくまで、会場のビギナー、そしてテレビの前の一見さんに向けての選手紹介・見所紹介、つまり情報の提供でしかないのだ。
一昨年の大晦日の秋山の件で、「HERO'S」側のあまりにも前時代的な情報操作、隠蔽があまりにも、ファンの反感を買ってしまった。
しかし、もし「HERO'S」が「PRIDE」のような核のファンに支えられたイベントであったら、そのような事は許されなかったであろう。
あまりにも前時代的、隠蔽体質気味に思えた「HERO'S」側の対応は、実は核のファンというジャンルの住人のいないイベントとしては普通の事だったと私は思っている。
つまり情報を持ったファンを相手にしない事こそが「HERO'S」の本質なのである。
情報を持った熱いファンが一方のイベントで「三崎対秋山」に熱中しても、自らのイベントの全試合合わせても、その試合一試合の熱さえ無くとも、谷川プロデューサーにとっては充分想定範囲内の事である。
肝心は三崎対秋山の熱よりも、紅白なのである。
大晦日恒例の大阪ドームは、あれだけ熱の無い不満足な興行が恒例となっても、そこそこ集客出来継続できている不思議なイベントである。
そこには迷走時の新日本をからかいにやってきたような野次も無ければ歓声も無い。
ひたすら大人しいビギナーの群れである。
私は、この情報を持たないファンをターゲットにした「HERO'S」というイベントが、どのような形を持って成長していくか楽しみである。
核も熱も無い空洞化した不思議な大規模イベントであるが、逆に、マニアの熱気が無く、一見さんが入りやすいイベントでもある。
そのイベントで最後まで環状のはるか外側の観客や視聴者を対象とする姿勢は最後まで見せてほしいと私は思う。
それによってマニア層、ファン層のいないリングで、本当にファイトマネーに値する選手たちのプロとしての商品価値がはっきりするからである。
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キッズ・プロレス
私が小学生の頃は、男子ならば皆それなりのプロレスの素養は持っていた気がします。
プロレスがリアルかフェイクかの論議など皆無の世界ながらも、いざプロレスごっことなれば、皆、自然に、アドリブ、かつ、お約束の攻防を繰り広げていたものです。
中には空気が読めない同級生もいて、本気になったり、本当に痛いチョップを出してたりしましたが、そういう同級生は、日常のクラス生活でも敬遠されるものでした。
プロレスごっこを通じ、手探りで相手と技の掛け合いをし、他者の身体と触れ合う事は、どこまでやれば自分も相手も怪我をするかを理解し合える最適な機会だと思います。
しかし驚いたのが、このプロレスごっこの動画です。
マットの上とはいえ、しっかりとパイルドライバーまでこなしています。
しかも、きっちりと相手の頭を自らの両足で保護しています。
しかし、側に親がいれば、いくらごっことはいえパイルドライバーなど子供にさせる神経が私には分かりませんが。
微笑ましいプロレスごっこの動画だけに、その点が少し気になりました。
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プロレスがリアルかフェイクかの論議など皆無の世界ながらも、いざプロレスごっことなれば、皆、自然に、アドリブ、かつ、お約束の攻防を繰り広げていたものです。
中には空気が読めない同級生もいて、本気になったり、本当に痛いチョップを出してたりしましたが、そういう同級生は、日常のクラス生活でも敬遠されるものでした。
プロレスごっこを通じ、手探りで相手と技の掛け合いをし、他者の身体と触れ合う事は、どこまでやれば自分も相手も怪我をするかを理解し合える最適な機会だと思います。
しかし驚いたのが、このプロレスごっこの動画です。
マットの上とはいえ、しっかりとパイルドライバーまでこなしています。
しかも、きっちりと相手の頭を自らの両足で保護しています。
しかし、側に親がいれば、いくらごっことはいえパイルドライバーなど子供にさせる神経が私には分かりませんが。
微笑ましいプロレスごっこの動画だけに、その点が少し気になりました。
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2008年01月03日
「やれんのか!」は三崎を守れ!
三崎の劇的な勝利が、水を差されてしまった。
私的には三崎には二度と秋山と関わってほしくない考えである。
もう三崎は仕事をこなしたのだ。
今後、再戦したところで、あの大晦日の闘いに挑んだ時のようなモチベーションと気持ちの入り方を持って三崎が闘う事は無いであろう。
世間から何と言われようと勝ち逃げする事がベストである。
勝ち逃げというよりも、当たり前の勝者の権利として秋山との関わりを断絶してしまう事である。
それくらいのプロの商品価値としての優位性も高めた男である。
主催者側から何をオファーされようが、断固拒絶すべきできである。
秋山に関しては、同階級に何人も観たいと思わせる相手がいるのだ。
そちらと闘えば良いのだ。
私は旧PRIDEのクリーンとはいえない資本に任せての世界観とやらは好きではなかった。
残ったメンバーで、誠実な世界観を作り上げようとしているときに、皮肉にも、UFCに続いて再び、巨大な資本に飲み込まれつつあるような気がする。
もしイベントを継続するのなら、ファイトマネーの高い選手を招聘する事無く、独自のミニマムな世界観を作り上げてしまえば良いのだ。
過去のダイナミズムの幻を追い求めていく限り、FEG側に足下を見られ、飲み込まれてしまうだろう。
飲み込まれなければ継続できないイベントに、何の意味があるのか。
リング上でPRIDEへの別れの挨拶を理想の形で行った三崎まで、力関係のまま、FEG側に差し出してしまえば終わりである。
差し出し、いたずらに大衆イベントでの遺恨戦に三崎を放り込めば、あの大晦日の三崎の心中を全て裏切る事になるであろう。
「やれんのか!」はFEGから三崎を断固として守るべきである。
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私的には三崎には二度と秋山と関わってほしくない考えである。
もう三崎は仕事をこなしたのだ。
今後、再戦したところで、あの大晦日の闘いに挑んだ時のようなモチベーションと気持ちの入り方を持って三崎が闘う事は無いであろう。
世間から何と言われようと勝ち逃げする事がベストである。
勝ち逃げというよりも、当たり前の勝者の権利として秋山との関わりを断絶してしまう事である。
それくらいのプロの商品価値としての優位性も高めた男である。
主催者側から何をオファーされようが、断固拒絶すべきできである。
秋山に関しては、同階級に何人も観たいと思わせる相手がいるのだ。
そちらと闘えば良いのだ。
私は旧PRIDEのクリーンとはいえない資本に任せての世界観とやらは好きではなかった。
残ったメンバーで、誠実な世界観を作り上げようとしているときに、皮肉にも、UFCに続いて再び、巨大な資本に飲み込まれつつあるような気がする。
もしイベントを継続するのなら、ファイトマネーの高い選手を招聘する事無く、独自のミニマムな世界観を作り上げてしまえば良いのだ。
過去のダイナミズムの幻を追い求めていく限り、FEG側に足下を見られ、飲み込まれてしまうだろう。
飲み込まれなければ継続できないイベントに、何の意味があるのか。
リング上でPRIDEへの別れの挨拶を理想の形で行った三崎まで、力関係のまま、FEG側に差し出してしまえば終わりである。
差し出し、いたずらに大衆イベントでの遺恨戦に三崎を放り込めば、あの大晦日の三崎の心中を全て裏切る事になるであろう。
「やれんのか!」はFEGから三崎を断固として守るべきである。
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