明日のIGFにはTAJIRIが出場する。
TAJIRIの事である。
プロレス下手な連中の揃う興行の中で、自らのサイコロジーとやらを発揮し、これぞプロレスの差別化と好評価を狙っているであろう。
具体的には、間を駆使して、理詰めの、純プロレス作品としての醍醐味を見せつける気であろう。
しかし所詮、演出された「間」に有機的な匂いは無い。
プロレスが少なくとも人間の肉体のぶつかりあいとしての有機的な娯楽である以上、TAJIRIの提示する「間」というものが、当日いかに昭和のプロレスファンにとっては無機的な味気ない演出物であるかを感じ取れるはずだ。
アントニオ猪木の「間」とは有機的な世界であった。
今回、来日するスタン・ハンセンとの闘いが例えにしやすい。
ハンセンのラリアットは、ハンセンにとって最大の武器でもあるが、実はアントニオ猪木のアナログ的演出にとっての格好の材料でもあった。
ハンセンのラリアートを綺麗なフォームで躱してカウンター技を放つ選手は多い。
しかしアントニオ猪木はハンセンのラリアートを機械仕掛けの人形のごとく綺麗に躱した事等一度も無かった。
以前も記したが、体表面積に対して足の長いアントニオ猪木は身体の折り畳みに普通の選手より時間がかかる。
結果、ハンセンのラリアートを躱す猪木の動作に、一拍、「間」が空く。
その「間」が攻防の攻守交代の為に、観客に僅かながらも凝視する時間を与え、攻守交代のシーンのサインとダイナミズムの予感を生み出すのだ。
おそらく、いかに失敗の無い機械仕掛けのアクロバットショーのようなプロレスに励み、熱中する、現在のプロレスラーやプロレスファンにはその醍醐味は分からないであろう。
TAJIRIがいかに無機的な「間」を演出しようとしても、アントニオ猪木の自然の「間」の持つアナログ的有機的演出感とは異なる世界である。
そういう「間」において現在のプロレスで長けている選手は、実は西村修でもある。
アントニオ猪木と同じような体型の西村は、プロレスの攻守交代のシーンにおいて、猪木同様の一拍の「間」を生み出すレスラーである。
西村修の逆さ押さえ込みの一拍ほどアナログ感の詰まった技は無い。
西村修は実はアントニオ猪木の「純プロレス」的演出の後継者でもある。
しかし「純プロレス」の部分だけの後継者でしかない半端なレスラーでもある。
「闘い」が無いからだ。
そういう意味ではプロレスのヘタウマ小川直也のプロレスの攻防のつなぎに少し注目してもらいたい。
下手だからこそ、プロレスの約束的な攻防に、一拍遅れを生じる。
攻防する両者の肉体がひずむ。
プロレス等所詮、人間同士の、極めてアナログな手作りの作業でしかない。
その、ひずむ攻防にこそ、潜在的なファンの求めるプロレスという娯楽の「間」がひそんでいるのである。
小川直也は、アントニオ猪木の純プロレスの部分の魅力と、「闘うプロレス」の部分の魅力、その両方を継承出来る可能性はまだ持っているのである。
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2008年02月15日
2008年02月14日
格闘技・プロレスブログへの警告・情報洪水ブログは辞めよう
私はブログで経済的な行為を行っている訳ではありません。
また電子出版等での誘いもありますが、活字好きな私としては紙媒体以外への出版以外全く興味ありませんので、今の所、私のブログで好きな事を書いている方が性に合っています。
私のような昭和プロレスというニッチなファン層に向けてのブログの特性を大切にしたいと思っています。
そんなアマチュアブログですが僭越ながら他の方々のブログを見ていて苦言を呈したいと思います。
私が最近驚くのが、プロレスブログ、格闘技ブログというカテゴリでの想像力、及び、創造力の欠如です。
はっきりと申し上げて、プロレスや格闘技という世間に取ってみれば狭いカテゴリの世界のニュース等、スポーツナビや大スポ(東スポ)を見れば済む事です。
後は、その情報に対して、各々の考えを記していけば良い事です。
しかし最近は、単純に国内のプロのメディアからの情報をリンクするだけで成立するブログが本当に多くなりました。
スポーツナビのブログやトラックバック欄等を見ていると、ただ情報を載せて少しコメントしておしまいというブログが多すぎるのではないかと思ってしまうのです。
これには、小学校一年から専門誌に掲載される事を励みに、原稿用紙の前に向かっていた私からすれば、呆れるばかりです。
現代は誰もが情報の発信者となれる時代です。
それでも情報のパクリだけで、自分の感想は数行程度なら、そんなブログは情報洪水の元でしかないでしょう。
もっとも、カクトウログさんや、ブラックアイさんなどの、老舗の情報系プログは、どのような情報であっても独自の労力ある編集及び見解を記されています。
この二つのブログには情報をしっかりと編集し加工し我々に提供してくれる熱意を感じざるを得ません。
またOMASUKIFIGHTさんのように簡単に手に入れられない海外のメディアの情報を入手し翻訳して見解も示してくれる有難いブログもあります。
あるいはお馴染みK-1心中さんのように一つの情報に対して、しっかりと自分の意見を記してくれるブログもあります。
しかし上記のようなブログは珍しいくらい、最近は、格闘技界の再編や新団体の設立に涌くのは結構ですが、実質は、発表済みの情報をただ載せるだけ、数行コメントを記すだけのブログが殆どです。
ブログほど自由な媒体は無いと思っています。
しかし、別にスポーツナビがあれば、格闘技村、プロレス村の情報がいち早く手に入る時代に、何の意味で、ただ同じ情報を垂れ流すのか全く意味が分かりません。
アフィリエイト目的でもない以外、時間の無駄でしょう。
業界関係者が、ファンの反応として参考にするであろうブログが実質、ただの情報のリンクだけであれば、業界側のファンに対してのモチベーションも変わってくるでしょう。
誤解してほしくないのは、別に総合とプロレスの違いが分からないビギナーのファンであっても誰でも情報の発信者の資格は持つべきです。
例え、幼稚園のファンでも、誰であっても、自分の意見があるなら、どんどんブログを発信すべきです。
あの神試合動画を毎回紹介する不思議なブログとて立派なブログの発信者です。
しかし、情報だけを利用してブログを立ち上げるような輩こそブログを立ち上げる資格は無いでしょう。
ブログの意味は自分の考えの発信こそ前提にあるのではないでしょうか?
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後は、その情報に対して、各々の考えを記していけば良い事です。
しかし最近は、単純に国内のプロのメディアからの情報をリンクするだけで成立するブログが本当に多くなりました。
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これには、小学校一年から専門誌に掲載される事を励みに、原稿用紙の前に向かっていた私からすれば、呆れるばかりです。
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もっとも、カクトウログさんや、ブラックアイさんなどの、老舗の情報系プログは、どのような情報であっても独自の労力ある編集及び見解を記されています。
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しかし上記のようなブログは珍しいくらい、最近は、格闘技界の再編や新団体の設立に涌くのは結構ですが、実質は、発表済みの情報をただ載せるだけ、数行コメントを記すだけのブログが殆どです。
ブログほど自由な媒体は無いと思っています。
しかし、別にスポーツナビがあれば、格闘技村、プロレス村の情報がいち早く手に入る時代に、何の意味で、ただ同じ情報を垂れ流すのか全く意味が分かりません。
アフィリエイト目的でもない以外、時間の無駄でしょう。
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例え、幼稚園のファンでも、誰であっても、自分の意見があるなら、どんどんブログを発信すべきです。
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2008年02月12日
WWEという強さのイメージ/アメリカのプロレスに棲み分けなど無い
私が意外に思うのは、多くの日本のプロレスファンが、アメリカではWWEに対して強さ等求めていないと思っている事である。
WWEはあくまでエンターティメントなのでファンも、リアルな強さとは関係ないファンタジーとして見ているという意見だ。
私的には全く異なる意見である。
アメリカ人が見ているWWEは強さのディフォルメである。
筋肉信仰のディフォルメされた幻想の中に、アメリカのファンは巨大なレスラーたちに対して、強さの幻影を求め続けているのである。
ボディビルダーのごとき身体は、リアルな闘いに不向きな事を実は知っていて、かつ、その筋肉に強さの幻影を投じているのだ。
日本でハッスルを割り切って楽しんでいるのとは異質な世界である。
ファンはWWEのレスラーが潜在意識的に巨大で強い存在である事を信じて、安心した上で、幻想の世界を楽しんでいるのである。
その巨大で強い筋肉マンの象徴であるブロック・レスナーが、リアルファイトで破れた事はWWEの二年先、三年先に暗い影を落とす事であろう。
プロレスとはイメージ産業である。
リング上で、いくらファンタジーを演じようが、ファンの根底にあるのは、大きくて強い男たちへの強さの幻影である。
私は前にも記したが、レスナーは負けたとは思っていない。
しかしレスナーの応援に僅かでも、プロレスラーたちが応援に駆けつけた事は間違いであると思っている。
アメリカのファンの棲み分け等無い。
ファンタジーに対してであれ、リアルファイトにであれ、強さの幻影を追い求めているファンの深層心理は同じである。
その深層心理が更にレスナーの応援に駆けつけたプロレスラーたちによって強固につながってしまったのだ。
かつて帝国を誇った新日本で繰り広げられるファイトが、リアル等と思ったファンはいてないであろう。
それでも、90年代前半、リングス、パンクラス、UインターといったUの進化系のプロレス団体が君臨した中でさえ、新日本は純プロレスを遂行しながら、強さのイメージを持って帝国の地位を揺るがず維持した。
層の厚さ、U系よりも多い大型選手、アマチュア出身の経歴、それらのイメージを持って、リアルなU系の強さのイメージに負けない強さのイメージを維持出来ていたからこそ、安心して、純プロレスを遂行出来ていたのである。
WWEに対するファンの強さのイメージとは実は90年代の新日本プロレスと全く同じである。
※今ではノアが近い。
私はおそらくWWEは新日本プロレスと同じ道を歩むのではないかと思っている。
強さのイメージがあったから安心して楽しめたファンタジーの世界が、潜在意識的に楽しむ事が難しくなってくるのだ。
しかしWWEが当時の新日本と異なる部分がある。
資本力である。
WWEにはリアルな戦闘要員を作れる財的余裕もある。
新日本が停滞し、日本のプロレスは停滞した。
WWEのプロレスが停滞すれば、もうプロレスはおしまいであろう。
カミングアウトしようが、馬鹿馬鹿しいエンターティメントに徹しようが、それらを安心して遂行出来た理由は、何度も記すが、潜在的な巨大な筋肉なマンに対しての強さの幻影である。
ハッスルと違う支持がWWEにはあるのだ。
WWEこそプロレスの強さのイメージを理解していると私は信じている。
ならば、少しだけリアルに闘って、強さのイメージを守り抜く事だ。
別に総合に不向きなビルダー系のトップたちが出る事も無い。
二軍でいいのだ。
その二軍が勝つ事でWWEは層の厚さと団体としての強固なイメージを取り戻すであろう。
その上で安心して、ファンタジーの世界を貫けば良い。
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WWEはあくまでエンターティメントなのでファンも、リアルな強さとは関係ないファンタジーとして見ているという意見だ。
私的には全く異なる意見である。
アメリカ人が見ているWWEは強さのディフォルメである。
筋肉信仰のディフォルメされた幻想の中に、アメリカのファンは巨大なレスラーたちに対して、強さの幻影を求め続けているのである。
ボディビルダーのごとき身体は、リアルな闘いに不向きな事を実は知っていて、かつ、その筋肉に強さの幻影を投じているのだ。
日本でハッスルを割り切って楽しんでいるのとは異質な世界である。
ファンはWWEのレスラーが潜在意識的に巨大で強い存在である事を信じて、安心した上で、幻想の世界を楽しんでいるのである。
その巨大で強い筋肉マンの象徴であるブロック・レスナーが、リアルファイトで破れた事はWWEの二年先、三年先に暗い影を落とす事であろう。
プロレスとはイメージ産業である。
リング上で、いくらファンタジーを演じようが、ファンの根底にあるのは、大きくて強い男たちへの強さの幻影である。
私は前にも記したが、レスナーは負けたとは思っていない。
しかしレスナーの応援に僅かでも、プロレスラーたちが応援に駆けつけた事は間違いであると思っている。
アメリカのファンの棲み分け等無い。
ファンタジーに対してであれ、リアルファイトにであれ、強さの幻影を追い求めているファンの深層心理は同じである。
その深層心理が更にレスナーの応援に駆けつけたプロレスラーたちによって強固につながってしまったのだ。
かつて帝国を誇った新日本で繰り広げられるファイトが、リアル等と思ったファンはいてないであろう。
それでも、90年代前半、リングス、パンクラス、UインターといったUの進化系のプロレス団体が君臨した中でさえ、新日本は純プロレスを遂行しながら、強さのイメージを持って帝国の地位を揺るがず維持した。
層の厚さ、U系よりも多い大型選手、アマチュア出身の経歴、それらのイメージを持って、リアルなU系の強さのイメージに負けない強さのイメージを維持出来ていたからこそ、安心して、純プロレスを遂行出来ていたのである。
WWEに対するファンの強さのイメージとは実は90年代の新日本プロレスと全く同じである。
※今ではノアが近い。
私はおそらくWWEは新日本プロレスと同じ道を歩むのではないかと思っている。
強さのイメージがあったから安心して楽しめたファンタジーの世界が、潜在意識的に楽しむ事が難しくなってくるのだ。
しかしWWEが当時の新日本と異なる部分がある。
資本力である。
WWEにはリアルな戦闘要員を作れる財的余裕もある。
新日本が停滞し、日本のプロレスは停滞した。
WWEのプロレスが停滞すれば、もうプロレスはおしまいであろう。
カミングアウトしようが、馬鹿馬鹿しいエンターティメントに徹しようが、それらを安心して遂行出来た理由は、何度も記すが、潜在的な巨大な筋肉なマンに対しての強さの幻影である。
ハッスルと違う支持がWWEにはあるのだ。
WWEこそプロレスの強さのイメージを理解していると私は信じている。
ならば、少しだけリアルに闘って、強さのイメージを守り抜く事だ。
別に総合に不向きなビルダー系のトップたちが出る事も無い。
二軍でいいのだ。
その二軍が勝つ事でWWEは層の厚さと団体としての強固なイメージを取り戻すであろう。
その上で安心して、ファンタジーの世界を貫けば良い。
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70年代アメリカンプロレスに見るリアルとフェイクの融合/猪木ゲノム再興のヒント/6 受けないことで生きる技・永田のジャーマン
私は前の記事で、アントニオ猪木の純プロレスの魅力について記した。
もし興味のある方は、一度昭和55年以前の、つまりプロレスブーム前の新日本プロレスでのアントニオ猪木のプロレスを見てほしいと思う。
流れることの無い攻防、弾まない肉体、相手とのタイミングのずれ、それらが意図的かどうかはともかく、今の悪戯に上手いプロレスの攻防シーンでは感じ得ることの無いアナログ的な感性を刺激させてくれるだろう。
アントニオ猪木はヘタウマな純プロレスだけを持ってしても不思議な魅力を醸し出していたレスラーである。
しかしアントニオ猪木の真骨頂が「闘うプロレス」である事に変わりは無い。
その「闘うプロレス」の本質について、記して行きたい。
私はブリスコ兄弟のフロリダマットでの闘いを見て驚いたことを記した。
日本では石沢・永田対金原・桜庭の試合が、結末以外は殆ど全てリアルな技術による主導権争いによる攻防であった。
また、猪木対ロビンソンは前半と後半がきっちりとリアルとフェイクの仕分けされた試合であった。
日本で見られた「闘うプロレス」の傑作二試合とは異なり、ブリスコ兄弟の試合は純プロレスの約束的動き・様式美の世界と、リアルな技術の攻防が、交互に入り混じっていた不思議な試合であったからである。
格闘技の技をプロレス的・約束的な動きの中で交互に繰り出すUWF、あるいはロシア軍団対スティーヴ・ウィリアムス、レイガンスなどの試合。
それらは格闘技のリアルな技を利用して純プロレスを展開するだけの格闘技風・プロレスであった。
そこにリアルな攻防は無い。
あるのはリアルな技をプロレス的に繰り出しあうフェイクの世界でしかないからだ。
しかしブリスコ兄弟の試合は違った。
本気で、多くの選手たちと、本気のテイクダウンの攻防、本気のバックの取り合いをこなしているのだ。
オクラホマ州立大学出身の猛者ブリスコだけに、殆ど全ての相手を、リアルな攻防においてもコントロールし続けている。
そこで相手とのリアルな実力差を観客に植え付けた上で、更に純プロレス的結末での決められた勝利も得る。
私はそこにどのような意味があるのかは分からないが、とにかくリング上でプロレス的なやり取りの合間に、リアルな攻防シーンが実在していたことだけは確かだ。
そして驚いたのが、リアルな攻防シーンでさえ、観客は沸いていたということである。
私は少し似たシーンの記憶がある。
若手のときの武藤が、前田とタッグマッチで闘った試合である。
前田の繰り出す技が実際にリアルな技であろうとも、純プロレス的な約束を持って、武藤は黙って前田の技を受け続けた。
しかし余りにも一方的な痛い攻撃にムッとしたのか、武藤が突然、前田に柔道の内股を仕掛けたのである。
プロレス的な約束的な技を簡単には受けない前田に対して、リアルに能動的に主導権を奪うべく仕掛けた技でもあった。
私が忘れられないのは、そのシーンでの観客のどよめきである。
柔道の知識など持つ観客などそれほどもいないであろう会場が、一瞬、異様などよめきを放ったのだ。
しかも前田は武藤の内股にリアルに抵抗した。
抵抗したことによって、武藤の放つ内股がリアルな技術でありながら、プロレスの約束的な技による様式美を越える美しさと説得力を生み出したのだ。
つまり抵抗する相手に仕掛ける技は、プロレス的約束的な技をも凌駕する美しさを生み出すということである。
投げっぱなしジャーマンをプロレス技として使いこなす選手たちはたくさんいるだろう。
しかし私がプロレスの試合の中で見た最も美しい投げっぱなしジャーマンは永田が金原に仕掛けたそれである。
金原のリアルな攻撃を必死にかいくぐり、必死に仕掛けたリアルな技術が、プロレス的様式美とは異なる能動的でリアルな美しさと鮮烈さを観客に見せ付けた。
事実、Uインター対新日本の最初のドームで最も観客が爆発したシーンでもあった。
ブリスコのバックを制する技術は相手が簡単にバックを取らせない選手だからこそ、リアルな攻防が回転体となっての美しさを醸し出す。
しかしブリスコのバックを制す技術がリアルであろうと、プロレス的約束事・様式美の中で相手が簡単に受ければ、単なるUWF的な格闘技技術を用いた純プロレスとなってしまう。
もしかしたらブリスコの相手たちは、ブリスコの美しい技術の表現の為に、あえてブリスコの技からリアルに抵抗したという考えも出来る。
よく誤解されがちなことだが、元々受けることを前提として作られたディフォルメされたプロレス技には身体を預けなければ怪我の元となるであろう。また受けることで美しい様式美を作り出す。
しかし逆にリアルな技術は、元々、身体を預ける相手を前提として作られた技術ではない。
よけるべきなのだ。
それがマススパーー程度の力の入れ加減でもいい。
本当の、リアルな攻防を繰り広げることによって、ディフォルメされすぎたプロレスに闘いの部分が蘇るのだ。
「闘うプロレス」とは決してリアルファイトではない。
あくまでプロレスとしてあらかじめ決められた結末に向かってプロレスラー同士が遂行していくショーである。
しかし、結末に向けて遂行していく中身は、殆ど全てがプロレス的約束事の動きに頼って成立させているのが現状である。
今のプロレス界が、全て全日本プロレス的世界観が細分化された世界になっているのだ。
つまりプロレス的約束的な動きだけを持ってプロレスを成立させているということだ。
ならば、田尻というレスラーが、プロレスが上手いとして、例えば当時の金原・桜庭組とどのようなプロレスを見せられたであろうか?
永田と石沢は、リアルファイトではなく、当時の金原相手にプロレスを成立させたのである。
しかもリアルな攻防の中で相手に怪我をさせず、リアルな投げ技を放った。
リアルな技術の攻防で会場を沸かし、プロレスとしての結末を迎えることに成功したのだ。
しかも、そのプロレスにおいて、永田や石沢が発揮した技術は、総合格闘技においても滅多に見られない本物のグレコとフリースタイルの技術であった。
ブリスコにおいても同様である。
今の時代においても驚愕のテクニックをリアルな攻防の中で数多く見せているのだ。
ディフォルメされたプロレス技はプロレス的に受けることによってもっとも見栄えがする。
同じように、リアルな技はリアルに攻防する事によって見栄えがするのだ。
しかし多くのプロレスラーも、ファンも、格闘技風プロレスとは、リアルな技をプロレス的に受ける事だと勘違いしている。
私が不思議なのは、一つの試合の中で、どのようなサインを持って、ブリスコ兄弟はリアルな攻防と、プロレス的攻防を仕分けできていたのかという事である。
今回、是非紹介したいフロリダ地区でのブリスコ兄弟の試合。
特にブリスコ兄弟対ダイナマイト・デン組
ジェリー・ブリスコ対レス・ソントンの試合は、リアルな攻防の比率が全試合中7割8割以上という驚くべき試合であった。
しかもプロレスとしてのセメントのような突発性は無く、当たり前のように、リアルな技術を、リアルに攻防しあっているのだ。
しかも突如、何かのはずみでプロレス的展開になる。
かと思えば、またリアルな攻防になる。
しかし結末はプロレスとして成立している。
70年代のフロリダマットは、リアルとフェイクが融合されたプロレスが成立していたのである。
セメントのような事件性は無いので殺気はない。それでもリアルな攻防は純純プロレス的な攻防では味わえない色気を醸し出す。
約束的プロレスの世界はどんどん完成されつつある。
そこに平成のプロレス界の基準が出来てしまったのなら、それはそれで良いことだ。
しかしIGFくらいは、「アナログ的純プロレス」と「闘うプロレス」の融合した試合、すなわちアントニオ猪木的世界観を見せてほしいと私は思う。
是非、皆様にご覧いただきたいが、残念ながら「you tube」ではそれらのフロリダ地区でのブリスコ兄弟の試合動画は削除されているようなので、次の試合だけ再びリンクしておく。
リアルな攻防は二つの試合ともごくわずかである。
パイパーがブリスコをリフトしテイクダウンする。
「本気」でバックを制そうとするパイパーとリアルな攻防を数秒だけ展開する。日本マットで見られる形だけのディフォルメされたグランドでのバックの取り合いとは全く性質の異なるリアルな攻防である。
ビル・ワットの試合では一分過ぎ、ブリスコのヘッドロックを、ワットが相手の膝裏を両手で刈るアメリカ式のテイクダウンで返す。
グランドで更なる攻撃を繰り出すワットからブリスコは本当のエスケープをする。
しかし削除された試合は、リアルな技術の攻防が、もっと深く、もっと長く行われていたことを理解して欲しい。
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猪木ゲノム再興のヒント/外伝/私の愛する長州力
70年代アメリカンプロレスに見るリアルとフェイクの融合/猪木ゲノム再興のヒント/3 本当のバックの取り合い
70年代アメリカンプロレスに見るリアルとフェイクの融合/猪木ゲノム再興のヒント/4 アントニオ猪木の純プロレス
70年代アメリカンプロレスに見るリアルとフェイクの融合/猪木ゲノム再興のヒント/5 アントニオ猪木の純プロレスのアナログ的魅力
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もし興味のある方は、一度昭和55年以前の、つまりプロレスブーム前の新日本プロレスでのアントニオ猪木のプロレスを見てほしいと思う。
流れることの無い攻防、弾まない肉体、相手とのタイミングのずれ、それらが意図的かどうかはともかく、今の悪戯に上手いプロレスの攻防シーンでは感じ得ることの無いアナログ的な感性を刺激させてくれるだろう。
アントニオ猪木はヘタウマな純プロレスだけを持ってしても不思議な魅力を醸し出していたレスラーである。
しかしアントニオ猪木の真骨頂が「闘うプロレス」である事に変わりは無い。
その「闘うプロレス」の本質について、記して行きたい。
私はブリスコ兄弟のフロリダマットでの闘いを見て驚いたことを記した。
日本では石沢・永田対金原・桜庭の試合が、結末以外は殆ど全てリアルな技術による主導権争いによる攻防であった。
また、猪木対ロビンソンは前半と後半がきっちりとリアルとフェイクの仕分けされた試合であった。
日本で見られた「闘うプロレス」の傑作二試合とは異なり、ブリスコ兄弟の試合は純プロレスの約束的動き・様式美の世界と、リアルな技術の攻防が、交互に入り混じっていた不思議な試合であったからである。
格闘技の技をプロレス的・約束的な動きの中で交互に繰り出すUWF、あるいはロシア軍団対スティーヴ・ウィリアムス、レイガンスなどの試合。
それらは格闘技のリアルな技を利用して純プロレスを展開するだけの格闘技風・プロレスであった。
そこにリアルな攻防は無い。
あるのはリアルな技をプロレス的に繰り出しあうフェイクの世界でしかないからだ。
しかしブリスコ兄弟の試合は違った。
本気で、多くの選手たちと、本気のテイクダウンの攻防、本気のバックの取り合いをこなしているのだ。
オクラホマ州立大学出身の猛者ブリスコだけに、殆ど全ての相手を、リアルな攻防においてもコントロールし続けている。
そこで相手とのリアルな実力差を観客に植え付けた上で、更に純プロレス的結末での決められた勝利も得る。
私はそこにどのような意味があるのかは分からないが、とにかくリング上でプロレス的なやり取りの合間に、リアルな攻防シーンが実在していたことだけは確かだ。
そして驚いたのが、リアルな攻防シーンでさえ、観客は沸いていたということである。
私は少し似たシーンの記憶がある。
若手のときの武藤が、前田とタッグマッチで闘った試合である。
前田の繰り出す技が実際にリアルな技であろうとも、純プロレス的な約束を持って、武藤は黙って前田の技を受け続けた。
しかし余りにも一方的な痛い攻撃にムッとしたのか、武藤が突然、前田に柔道の内股を仕掛けたのである。
プロレス的な約束的な技を簡単には受けない前田に対して、リアルに能動的に主導権を奪うべく仕掛けた技でもあった。
私が忘れられないのは、そのシーンでの観客のどよめきである。
柔道の知識など持つ観客などそれほどもいないであろう会場が、一瞬、異様などよめきを放ったのだ。
しかも前田は武藤の内股にリアルに抵抗した。
抵抗したことによって、武藤の放つ内股がリアルな技術でありながら、プロレスの約束的な技による様式美を越える美しさと説得力を生み出したのだ。
つまり抵抗する相手に仕掛ける技は、プロレス的約束的な技をも凌駕する美しさを生み出すということである。
投げっぱなしジャーマンをプロレス技として使いこなす選手たちはたくさんいるだろう。
しかし私がプロレスの試合の中で見た最も美しい投げっぱなしジャーマンは永田が金原に仕掛けたそれである。
金原のリアルな攻撃を必死にかいくぐり、必死に仕掛けたリアルな技術が、プロレス的様式美とは異なる能動的でリアルな美しさと鮮烈さを観客に見せ付けた。
事実、Uインター対新日本の最初のドームで最も観客が爆発したシーンでもあった。
ブリスコのバックを制する技術は相手が簡単にバックを取らせない選手だからこそ、リアルな攻防が回転体となっての美しさを醸し出す。
しかしブリスコのバックを制す技術がリアルであろうと、プロレス的約束事・様式美の中で相手が簡単に受ければ、単なるUWF的な格闘技技術を用いた純プロレスとなってしまう。
もしかしたらブリスコの相手たちは、ブリスコの美しい技術の表現の為に、あえてブリスコの技からリアルに抵抗したという考えも出来る。
よく誤解されがちなことだが、元々受けることを前提として作られたディフォルメされたプロレス技には身体を預けなければ怪我の元となるであろう。また受けることで美しい様式美を作り出す。
しかし逆にリアルな技術は、元々、身体を預ける相手を前提として作られた技術ではない。
よけるべきなのだ。
それがマススパーー程度の力の入れ加減でもいい。
本当の、リアルな攻防を繰り広げることによって、ディフォルメされすぎたプロレスに闘いの部分が蘇るのだ。
「闘うプロレス」とは決してリアルファイトではない。
あくまでプロレスとしてあらかじめ決められた結末に向かってプロレスラー同士が遂行していくショーである。
しかし、結末に向けて遂行していく中身は、殆ど全てがプロレス的約束事の動きに頼って成立させているのが現状である。
今のプロレス界が、全て全日本プロレス的世界観が細分化された世界になっているのだ。
つまりプロレス的約束的な動きだけを持ってプロレスを成立させているということだ。
ならば、田尻というレスラーが、プロレスが上手いとして、例えば当時の金原・桜庭組とどのようなプロレスを見せられたであろうか?
永田と石沢は、リアルファイトではなく、当時の金原相手にプロレスを成立させたのである。
しかもリアルな攻防の中で相手に怪我をさせず、リアルな投げ技を放った。
リアルな技術の攻防で会場を沸かし、プロレスとしての結末を迎えることに成功したのだ。
しかも、そのプロレスにおいて、永田や石沢が発揮した技術は、総合格闘技においても滅多に見られない本物のグレコとフリースタイルの技術であった。
ブリスコにおいても同様である。
今の時代においても驚愕のテクニックをリアルな攻防の中で数多く見せているのだ。
ディフォルメされたプロレス技はプロレス的に受けることによってもっとも見栄えがする。
同じように、リアルな技はリアルに攻防する事によって見栄えがするのだ。
しかし多くのプロレスラーも、ファンも、格闘技風プロレスとは、リアルな技をプロレス的に受ける事だと勘違いしている。
私が不思議なのは、一つの試合の中で、どのようなサインを持って、ブリスコ兄弟はリアルな攻防と、プロレス的攻防を仕分けできていたのかという事である。
今回、是非紹介したいフロリダ地区でのブリスコ兄弟の試合。
特にブリスコ兄弟対ダイナマイト・デン組
ジェリー・ブリスコ対レス・ソントンの試合は、リアルな攻防の比率が全試合中7割8割以上という驚くべき試合であった。
しかもプロレスとしてのセメントのような突発性は無く、当たり前のように、リアルな技術を、リアルに攻防しあっているのだ。
しかも突如、何かのはずみでプロレス的展開になる。
かと思えば、またリアルな攻防になる。
しかし結末はプロレスとして成立している。
70年代のフロリダマットは、リアルとフェイクが融合されたプロレスが成立していたのである。
セメントのような事件性は無いので殺気はない。それでもリアルな攻防は純純プロレス的な攻防では味わえない色気を醸し出す。
約束的プロレスの世界はどんどん完成されつつある。
そこに平成のプロレス界の基準が出来てしまったのなら、それはそれで良いことだ。
しかしIGFくらいは、「アナログ的純プロレス」と「闘うプロレス」の融合した試合、すなわちアントニオ猪木的世界観を見せてほしいと私は思う。
是非、皆様にご覧いただきたいが、残念ながら「you tube」ではそれらのフロリダ地区でのブリスコ兄弟の試合動画は削除されているようなので、次の試合だけ再びリンクしておく。
リアルな攻防は二つの試合ともごくわずかである。
パイパーがブリスコをリフトしテイクダウンする。
「本気」でバックを制そうとするパイパーとリアルな攻防を数秒だけ展開する。日本マットで見られる形だけのディフォルメされたグランドでのバックの取り合いとは全く性質の異なるリアルな攻防である。
ビル・ワットの試合では一分過ぎ、ブリスコのヘッドロックを、ワットが相手の膝裏を両手で刈るアメリカ式のテイクダウンで返す。
グランドで更なる攻撃を繰り出すワットからブリスコは本当のエスケープをする。
しかし削除された試合は、リアルな技術の攻防が、もっと深く、もっと長く行われていたことを理解して欲しい。
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猪木ゲノム再興のヒント/外伝/私の愛する長州力
70年代アメリカンプロレスに見るリアルとフェイクの融合/猪木ゲノム再興のヒント/3 本当のバックの取り合い
70年代アメリカンプロレスに見るリアルとフェイクの融合/猪木ゲノム再興のヒント/4 アントニオ猪木の純プロレス
70年代アメリカンプロレスに見るリアルとフェイクの融合/猪木ゲノム再興のヒント/5 アントニオ猪木の純プロレスのアナログ的魅力
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2008年02月11日
古内東子
私の考えでは、古内東子の歌の世界が好きな男というのは、おかしすぎる。
しかし古内東子が好きな男というのは、けっこう多いものである。
決して美人ではない。
かなりのブス顔であるが、化粧によって、華やかになる女性もいる。
少し間違えればお化けになる厚化粧であっても、実は、男というのは素の美人より、こういう化粧で華やかさを身につける女性に弱い生き物でもある。
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しかし古内東子が好きな男というのは、けっこう多いものである。
決して美人ではない。
かなりのブス顔であるが、化粧によって、華やかになる女性もいる。
少し間違えればお化けになる厚化粧であっても、実は、男というのは素の美人より、こういう化粧で華やかさを身につける女性に弱い生き物でもある。
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70年代アメリカンプロレスに見るリアルとフェイクの融合/猪木ゲノム再興のヒント/5 アントニオ猪木の純プロレスのアナログ的魅力
前回、記したように、アントニオ猪木は純プロレスにおいても、プロレス技量の下手さを逆手に取って、独特のアナログ感を持ってして、多くのファンを魅了し続けてきた。
しかし私が疑問なのは、日本プロレス時代、ドリーファンクジュニアとあれほど様式美溢れる純プロレスを展開したアントニオ猪木が、何故、プロレス技量が低下してしまったのかという事である。
本人の志向が変化したのも大きいだろうが、私は猪木の体型の変化にヒントがあると思っている。
日本プロレス時代と比較して、新日本プロレス時代になると急速に肉体はシェイプされた。
結果、日本プロレス時のやや丸みを浴び手足の短く見える体型から、本来の骨格が抽出された肩幅が広く、手足の長い肉体へと変化を遂げた。
これはもちろん体表面積に対しての手足の長さの割合が変化したという意味である。
手足が長いという事は何を意味するのか?
人間の体型は丸みを浴びれば浴びるほど、歩幅を短めにしてマットを蹴れる。
スリムになった猪木は、以前の体型のようにはマットを小刻みに蹴れない。
長い足がもつれるように大股での純プロレス的約束的動きが増えてしまった。
例えば、ドリー戦での攻防、相手の攻撃をかいくぐる際も、猪木は手足の短さを利点に、流れるようにスムーズなプロレス的すかし方、身のかわし方が出来た。
しかし、新日本プロレスに入ってからの体型の変化で手足が長くなった猪木は、相手の攻撃から身をかわす際にでも、長い足を瞬時に折り畳めなくなった。
結果、流れるような身のかわし方が出来なくなったのである。
また同様に手足の短さは瞬発力を生む。
丸みを浴びた手足の短い体型を無くした猪木はリングの上で弾む事が出来なくなった。
ドロップキック一つとっても理解しやすいだろう。
日本プロレス時代の正面飛び式のドロップキックは、日本プロレス時代の丸みを浴びた猪木の体型があってこそ可能であった。
体表面積に対して長くなった足によって、純プロレス的攻防を行う上での二つの欠点が生じた。
長くなった足の為に、大股となり、足の折りたたみに時間がかかるようになった事で純プロレス的攻防がスムーズに行かなくなり、猪木独特の間が空くようになった。
また、同時に、丸みを浴びた体型を無くした事で、瞬発力の低下から、純プロレス的攻防で弾めなくなった。
それらは、見事に弾みながらスピーディに純プロレスを展開していた日本プロレス時代の猪木が、新日本プロレスではドタバタした純プロレスしか展開出来なかった一つの要因だと私は思っている。
しかし結果的に流れるような純プロレス的様式美の世界を演じられなくなったアントニオ猪木は、流れるような機械的攻防とは程遠い、一泊空く独特の純プロレス的攻防を手に入れた。
純プロレス的攻防の中でも、一泊「間が空く」事で、猪木独特のアナログ的な純プロレスのリズムと、観客の凝視の瞬間を手に入れたのだ。
逆にかつての全日本プロレスはミスの少ない流れるような様式美の世界であった。
それでも、その流れの早さは、ゆるやかであったからこそ、エレガントで優雅な世界を醸し出していた。
現在のプロレスは、全日本的世界観が歪に進化しすぎた世界でもある。
機械的で、流れるような様式美の世界も、流れが速すぎると、もはや、優雅さは感じられない。
アントニオ猪木の場合は、逆に流れを速くしようと純プロレスを展開しても、前述の理由から、流れるようにとは行かなかった事で、独特の間そしてアナログ感を醸し出した。
かつての全日本、そして、猪木、共に性質が異なるとはいえ、それぞれの「間」があった事は確かである。
アントニオ猪木的世界観とは純プロレスとリアルな攻防の二つで成立している。
前々から記してきたが、小川直也のプロレスの下手さ加減は、小川直也が純プロレスだけを展開したとしても、財産になるだろう。
人は皆、機械仕掛けの息つく暇の無いプロレスを展開した所で誰も魅了されない。
かつての全日本的優雅さも、猪木的アナログ感も感じ得られないであろう。
小川直也が手探りで、相手とのプロレス的攻防を繰り広げる、あまりにもギクシャクしている。
それを持って小川が単にプロレスが下手だとで片付けるが今のプロレス村である。
プロレス村で塩試合といわれつづける小川直也のIGFでの試合で私はある事に気づいた。
観客は試合中、小川の動きから目を離さない事だ。
小川という存在感と小川のプロレス技術の不足さが、観客を凝視させているという事である。
涌く事も無い。流れも無い。呆気なく試合は終わる。
それでも観客は試合中の小川から目を離す事は無い。
私はプロレスブーム前のアントニオ猪木の試合と少し似ているなと思っている。
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しかし私が疑問なのは、日本プロレス時代、ドリーファンクジュニアとあれほど様式美溢れる純プロレスを展開したアントニオ猪木が、何故、プロレス技量が低下してしまったのかという事である。
本人の志向が変化したのも大きいだろうが、私は猪木の体型の変化にヒントがあると思っている。
日本プロレス時代と比較して、新日本プロレス時代になると急速に肉体はシェイプされた。
結果、日本プロレス時のやや丸みを浴び手足の短く見える体型から、本来の骨格が抽出された肩幅が広く、手足の長い肉体へと変化を遂げた。
これはもちろん体表面積に対しての手足の長さの割合が変化したという意味である。
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長い足がもつれるように大股での純プロレス的約束的動きが増えてしまった。
例えば、ドリー戦での攻防、相手の攻撃をかいくぐる際も、猪木は手足の短さを利点に、流れるようにスムーズなプロレス的すかし方、身のかわし方が出来た。
しかし、新日本プロレスに入ってからの体型の変化で手足が長くなった猪木は、相手の攻撃から身をかわす際にでも、長い足を瞬時に折り畳めなくなった。
結果、流れるような身のかわし方が出来なくなったのである。
また同様に手足の短さは瞬発力を生む。
丸みを浴びた手足の短い体型を無くした猪木はリングの上で弾む事が出来なくなった。
ドロップキック一つとっても理解しやすいだろう。
日本プロレス時代の正面飛び式のドロップキックは、日本プロレス時代の丸みを浴びた猪木の体型があってこそ可能であった。
体表面積に対して長くなった足によって、純プロレス的攻防を行う上での二つの欠点が生じた。
長くなった足の為に、大股となり、足の折りたたみに時間がかかるようになった事で純プロレス的攻防がスムーズに行かなくなり、猪木独特の間が空くようになった。
また、同時に、丸みを浴びた体型を無くした事で、瞬発力の低下から、純プロレス的攻防で弾めなくなった。
それらは、見事に弾みながらスピーディに純プロレスを展開していた日本プロレス時代の猪木が、新日本プロレスではドタバタした純プロレスしか展開出来なかった一つの要因だと私は思っている。
しかし結果的に流れるような純プロレス的様式美の世界を演じられなくなったアントニオ猪木は、流れるような機械的攻防とは程遠い、一泊空く独特の純プロレス的攻防を手に入れた。
純プロレス的攻防の中でも、一泊「間が空く」事で、猪木独特のアナログ的な純プロレスのリズムと、観客の凝視の瞬間を手に入れたのだ。
逆にかつての全日本プロレスはミスの少ない流れるような様式美の世界であった。
それでも、その流れの早さは、ゆるやかであったからこそ、エレガントで優雅な世界を醸し出していた。
現在のプロレスは、全日本的世界観が歪に進化しすぎた世界でもある。
機械的で、流れるような様式美の世界も、流れが速すぎると、もはや、優雅さは感じられない。
アントニオ猪木の場合は、逆に流れを速くしようと純プロレスを展開しても、前述の理由から、流れるようにとは行かなかった事で、独特の間そしてアナログ感を醸し出した。
かつての全日本、そして、猪木、共に性質が異なるとはいえ、それぞれの「間」があった事は確かである。
アントニオ猪木的世界観とは純プロレスとリアルな攻防の二つで成立している。
前々から記してきたが、小川直也のプロレスの下手さ加減は、小川直也が純プロレスだけを展開したとしても、財産になるだろう。
人は皆、機械仕掛けの息つく暇の無いプロレスを展開した所で誰も魅了されない。
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小川直也が手探りで、相手とのプロレス的攻防を繰り広げる、あまりにもギクシャクしている。
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観客は試合中、小川の動きから目を離さない事だ。
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涌く事も無い。流れも無い。呆気なく試合は終わる。
それでも観客は試合中の小川から目を離す事は無い。
私はプロレスブーム前のアントニオ猪木の試合と少し似ているなと思っている。
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2008年02月10日
K-1心中という素晴らしいブログ
私的には格闘技ブログの王者に位置する
K-1心中様が、不測のトラブルで、ブログランキングでの本来の位置から遠のいています。
ランキングでブログの価値が決まる訳ではありませんが、「K-1心中」という素晴らしいブログをより多くの方に見ていただく為にも、ランキング上位での本来の認知が、不測のトラブルが原因でされていない状況はファンとしても非常に残念な気持ちです。
何より、K-1心中のような中身のあるブログが上位にあるかどうかで、私的ながら、ランキングへのモチベーションも変わってしまいます。
もっともランキングへの復帰に関係なく、「K-1」心中という素晴らしいブログを私はより多くの方々に知ってもらいたいと思います。
最近の他のK-1ブログを見て気づいた事ですが、割と多いある傾向に気づきました。
K-1を見て格闘技に入ったファンに多い傾向ですが、絶対的FEG至上主義者ともいうべき存在です。
やたらとFEG以外の格闘技団体を目の敵にするブログが多い事です。
私もプライド後期のファン層は苦手ですが、それでも滅亡したブライドのファンに対してまでも、ひたすら挑発を繰り返す姿勢は執着的に思えたりします。
その最たるブログは無くなったようですが…。
しかしK-1心中様の毒舌かつユーモアのある問題提起は、常に、全方位に向けてのものです。
また、少なくとも日本で最も大衆とマニアックなファンの双方に支持されるK-1というジャンルに対して、尊敬と愛と、良い意味での批判的精神を持って、記事を書き続ける格闘技ブログの王者K-1心中を是非、ご覧下さい。
K-1心中様が、不測のトラブルで、ブログランキングでの本来の位置から遠のいています。
ランキングでブログの価値が決まる訳ではありませんが、「K-1心中」という素晴らしいブログをより多くの方に見ていただく為にも、ランキング上位での本来の認知が、不測のトラブルが原因でされていない状況はファンとしても非常に残念な気持ちです。
何より、K-1心中のような中身のあるブログが上位にあるかどうかで、私的ながら、ランキングへのモチベーションも変わってしまいます。
もっともランキングへの復帰に関係なく、「K-1」心中という素晴らしいブログを私はより多くの方々に知ってもらいたいと思います。
最近の他のK-1ブログを見て気づいた事ですが、割と多いある傾向に気づきました。
K-1を見て格闘技に入ったファンに多い傾向ですが、絶対的FEG至上主義者ともいうべき存在です。
やたらとFEG以外の格闘技団体を目の敵にするブログが多い事です。
私もプライド後期のファン層は苦手ですが、それでも滅亡したブライドのファンに対してまでも、ひたすら挑発を繰り返す姿勢は執着的に思えたりします。
その最たるブログは無くなったようですが…。
しかしK-1心中様の毒舌かつユーモアのある問題提起は、常に、全方位に向けてのものです。
また、少なくとも日本で最も大衆とマニアックなファンの双方に支持されるK-1というジャンルに対して、尊敬と愛と、良い意味での批判的精神を持って、記事を書き続ける格闘技ブログの王者K-1心中を是非、ご覧下さい。
70年代アメリカンプロレスに見るリアルとフェイクの融合/猪木ゲノム再興のヒント/4 アントニオ猪木の純プロレス
前記事より続く
フロリダでのブリスコ兄弟の試合ほどは長時間のリアル攻防の見られないものの、前記事で紹介したブリスコと、ロディ・パイパーやワットの純プロレスの試合においてでも、僅かながらも、リアルな攻防シーンが確実に存在していた。
誤解の無いように記したいが、プロレスのディフォルメされた約束的動きとしてのバックの取り合いなら、どのような試合でも見られる純プロレスの様式美である。
しかしリアルなバックの取り合いを私はブリスコ兄弟の過去の試合を見るまでは、純プロレスのリングで見た事が無かった。
あったのかも知れないが、当時の私はレスリングの経験も無く、気づかな無かっただけかも知れない。
かつてUWFがプロレスの余計な部分を取り除いた原点回帰の方向性と提示された事があった。
しかし、最初に記したように、UWFの攻防は純プロレスの約束的様式美の攻防である。
ただ単に様式美の技が、フライングメイヤーからスープレックスに、ストンピングからキックに変わっただけで、本来の技術がディフォルメされたプロレス技の攻防を、相手の協力を持って成立させているという意味で、純プロレスと全く変わりのない世界であった。
たとえ本当の技術を持つ選手たちであっても演じているのは純プロレス的約束事の世界である。
技術のディフォルメされた見せ合いは合っても、そこに束の間でも、リアルな技術の攻防は無かった。
100パーセント約束事で成り立つ世界であったからだ。
前田日明のUWF在籍時代は、純プロレスが似合わない前田日明が実は新日本プロレス時代以上に純プロレス的世界の中で自らの色気や殺気を無くしていた時代でもあった。
UWFの格闘技の技を用いた純プロレス、あるいは格闘家たちが演じる下手なプロレス、それらとの区別も分からず、今のファンが単純に格闘技風プロレスと一言で片付ける悲しい風潮がある。
少し話がされてしまうが、ここで、新日本的純プロレスの世界について記しておきたい。
昭和のプロレスブームによって新日本にも約束的様式美の世界が現れた。
長州対藤波のスイングする攻防によって、新日本にも「手が合う」「観客が沸く」といったことがより良い事であるという価値観が出現してしまった。
しかしブーム前の新日本で行われていた試合は、ブーム以後とは別物の試合であった。
手が会わない相手との、というよりも、プロレスが下手で、かつ、それでもプロレス的な動きの練習にさほど時間を費やしていないと思われたアントニオ猪木が、演じていたプロレスはミスだらけのプロレスでもあった。
ロープワークの失敗で、アントニオ猪木の身体に相手選手の身体が覆いかぶさり両者揃って転倒した事が合った。
全日本のエレガントでスマートな純プロレスとは、あまりにも異なるドタバタ劇がアントニオ猪木の純プロレスの本質である。
新日本旗揚げ前には、ドリーファンクジュニアとあまりにも様式美溢れる純プロレス的名勝負を成立させた猪木が、何故、もっと完成された純プロレスへの努力を怠っていたのかは私は知らない。
しかし、良くも悪くも、外国人レスラーに自らの手でファイトマネーを渡し、一緒にゴルフにも出かける馬場の考えとは明らかに異なる猪木の求めるプロレスへの考えがあってのものだろう。
しかしプロレスブーム時、すでに多くの故障を抱え、急速に体力の衰えたアントニオ猪木は、長州力、マサ斎藤といった「手が合う」相手との純プロレスに専念しなければならなかった。
それでも、自身の下手なプロレス技術を補っていたのは、純プロレスの約束的な動きではなく、独特の感情表現などのショーマンとしての技量であったが。
丁度体力全盛の頃、闘ったロビンソン戦は、私の考えでは、前半はリアルな技術の攻防、そして後半は純プロレス的約束的攻防の二部構成であったと思っている。
ブリスコ兄弟のような試合全体を通じてリアルとフェィクの攻防が入り交じりながら成立するプロレスではなく、きっちりと前半と後半の色合いが仕分けされた試合でもあった。
ここで後半の純プロレスの攻防に焦点を当て、私也のアントニオ猪木の純プロレス約束的攻防の試合に付いて、考えを記していきたいと思う。
Mr.高橋が、「流れるような攻防よって真剣勝負ではない証明」と記したロビンソン戦であったが、リアルでない純プロレスとしての完成度から見ても、あれだけ流れるようなとは程遠い試合は無かったと私は思っている。
全日本的様式美の流れる美しさとは異なる、「一泊遅れる」約束事の攻防であったからだ。
後半、猪木がロビンソンと演じ合った純プロレス的攻防は、全てのタイミングがギクシャクしているのだ。
アントニオ猪木の純プロレス的技術の無さ、運動神経の欠如、不器用さが、初顔合わせのロビンソンとのプロレス的展開に歪な間を生み出す。
その歪な流れの中で、一泊遅れた間で、アントニオ猪木の卍固めが仕掛けられる。
人間は機械仕掛けのような寸分狂わぬ動きに魅了されるわけでは無い。
アントニオ猪木のプロレス技量の無さが、逆にアナログ的な間を作り、結果的に、その間に観客は感情移入出来るのである。
古いファンには理解してもらえるかもしれないが、例えば、アントニオ猪木は相手のショルダータックルを食らっても、流れるような受け身で転倒するわけでは無い。
一瞬、弱々しく、半身で受けた後、僅かな間をあけて、転倒する。
それは猪木の意識云々というよりも、単にプロレス技術が下手なだけであろう。
それでも結果的に、倒れるまでの「間」が、肉体のぶつかり合いのリアリティ、アナログ感を醸し出し、リング上の猪木を皆が凝視するアントニオ猪木独特の魅力の一要因でもあったのだ。
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猪木ゲノム再興のヒント/外伝/私の愛する長州力
70年代アメリカンプロレスに見るリアルとフェイクの融合/猪木ゲノム再興のヒント/3 本当のバックの取り合い
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フロリダでのブリスコ兄弟の試合ほどは長時間のリアル攻防の見られないものの、前記事で紹介したブリスコと、ロディ・パイパーやワットの純プロレスの試合においてでも、僅かながらも、リアルな攻防シーンが確実に存在していた。
誤解の無いように記したいが、プロレスのディフォルメされた約束的動きとしてのバックの取り合いなら、どのような試合でも見られる純プロレスの様式美である。
しかしリアルなバックの取り合いを私はブリスコ兄弟の過去の試合を見るまでは、純プロレスのリングで見た事が無かった。
あったのかも知れないが、当時の私はレスリングの経験も無く、気づかな無かっただけかも知れない。
かつてUWFがプロレスの余計な部分を取り除いた原点回帰の方向性と提示された事があった。
しかし、最初に記したように、UWFの攻防は純プロレスの約束的様式美の攻防である。
ただ単に様式美の技が、フライングメイヤーからスープレックスに、ストンピングからキックに変わっただけで、本来の技術がディフォルメされたプロレス技の攻防を、相手の協力を持って成立させているという意味で、純プロレスと全く変わりのない世界であった。
たとえ本当の技術を持つ選手たちであっても演じているのは純プロレス的約束事の世界である。
技術のディフォルメされた見せ合いは合っても、そこに束の間でも、リアルな技術の攻防は無かった。
100パーセント約束事で成り立つ世界であったからだ。
前田日明のUWF在籍時代は、純プロレスが似合わない前田日明が実は新日本プロレス時代以上に純プロレス的世界の中で自らの色気や殺気を無くしていた時代でもあった。
UWFの格闘技の技を用いた純プロレス、あるいは格闘家たちが演じる下手なプロレス、それらとの区別も分からず、今のファンが単純に格闘技風プロレスと一言で片付ける悲しい風潮がある。
少し話がされてしまうが、ここで、新日本的純プロレスの世界について記しておきたい。
昭和のプロレスブームによって新日本にも約束的様式美の世界が現れた。
長州対藤波のスイングする攻防によって、新日本にも「手が合う」「観客が沸く」といったことがより良い事であるという価値観が出現してしまった。
しかしブーム前の新日本で行われていた試合は、ブーム以後とは別物の試合であった。
手が会わない相手との、というよりも、プロレスが下手で、かつ、それでもプロレス的な動きの練習にさほど時間を費やしていないと思われたアントニオ猪木が、演じていたプロレスはミスだらけのプロレスでもあった。
ロープワークの失敗で、アントニオ猪木の身体に相手選手の身体が覆いかぶさり両者揃って転倒した事が合った。
全日本のエレガントでスマートな純プロレスとは、あまりにも異なるドタバタ劇がアントニオ猪木の純プロレスの本質である。
新日本旗揚げ前には、ドリーファンクジュニアとあまりにも様式美溢れる純プロレス的名勝負を成立させた猪木が、何故、もっと完成された純プロレスへの努力を怠っていたのかは私は知らない。
しかし、良くも悪くも、外国人レスラーに自らの手でファイトマネーを渡し、一緒にゴルフにも出かける馬場の考えとは明らかに異なる猪木の求めるプロレスへの考えがあってのものだろう。
しかしプロレスブーム時、すでに多くの故障を抱え、急速に体力の衰えたアントニオ猪木は、長州力、マサ斎藤といった「手が合う」相手との純プロレスに専念しなければならなかった。
それでも、自身の下手なプロレス技術を補っていたのは、純プロレスの約束的な動きではなく、独特の感情表現などのショーマンとしての技量であったが。
丁度体力全盛の頃、闘ったロビンソン戦は、私の考えでは、前半はリアルな技術の攻防、そして後半は純プロレス的約束的攻防の二部構成であったと思っている。
ブリスコ兄弟のような試合全体を通じてリアルとフェィクの攻防が入り交じりながら成立するプロレスではなく、きっちりと前半と後半の色合いが仕分けされた試合でもあった。
ここで後半の純プロレスの攻防に焦点を当て、私也のアントニオ猪木の純プロレス約束的攻防の試合に付いて、考えを記していきたいと思う。
Mr.高橋が、「流れるような攻防よって真剣勝負ではない証明」と記したロビンソン戦であったが、リアルでない純プロレスとしての完成度から見ても、あれだけ流れるようなとは程遠い試合は無かったと私は思っている。
全日本的様式美の流れる美しさとは異なる、「一泊遅れる」約束事の攻防であったからだ。
後半、猪木がロビンソンと演じ合った純プロレス的攻防は、全てのタイミングがギクシャクしているのだ。
アントニオ猪木の純プロレス的技術の無さ、運動神経の欠如、不器用さが、初顔合わせのロビンソンとのプロレス的展開に歪な間を生み出す。
その歪な流れの中で、一泊遅れた間で、アントニオ猪木の卍固めが仕掛けられる。
人間は機械仕掛けのような寸分狂わぬ動きに魅了されるわけでは無い。
アントニオ猪木のプロレス技量の無さが、逆にアナログ的な間を作り、結果的に、その間に観客は感情移入出来るのである。
古いファンには理解してもらえるかもしれないが、例えば、アントニオ猪木は相手のショルダータックルを食らっても、流れるような受け身で転倒するわけでは無い。
一瞬、弱々しく、半身で受けた後、僅かな間をあけて、転倒する。
それは猪木の意識云々というよりも、単にプロレス技術が下手なだけであろう。
それでも結果的に、倒れるまでの「間」が、肉体のぶつかり合いのリアリティ、アナログ感を醸し出し、リング上の猪木を皆が凝視するアントニオ猪木独特の魅力の一要因でもあったのだ。
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かつてロシアの一流のレスリング選手たちが大挙して新日本に来日した事が合った。
当時、私自身、最もレスリングに没頭していた時期でもあったので、ロシアの選手たちがプロレスのリングでどのようなレスリングの技術を見せてくれるか大いに期待した。
私が最も期待したのはアメリカのレスリング出身選手たちとの試合であった。
スティーヴ・ウィリアムス、ブラッド・レイガンス、バズ・ソイヤー他アマチュア出身選手たちの揃ったアメリカ人メンバーたちとの試合において僅かでもいいから、能動的な技術の攻防による主導権争いが展開される事を期待したからだ。
しかし私の期待は大きく外れた。
アメリカとロシアの選手たちの試合は、レスリングをディフォルメしたプロレス技の発表会でしかなかった。
お互いが相手に身体を預け、交互にレスリング技を発表する「純プロレス」的展開に留まってしまったのだ。
顔を突き合わせての睨み合いから、突然差し合いの攻防が始まる。
まずロシア勢が投げる。
その後はアメリカ勢が投げ返す。
全く能動的な主導権争いの無い約束的様式美つまり全日本的純プロレスの世界でしか無かった。
前の記事で紹介した試合に話を戻す。
(残念ながら動画は削除されているようだが)
当時のアメリカマットに夢中であった私でもブリスコ兄弟の対戦相手の二人の事は良く知らない。
ブリスコ兄弟が抗争するほどの相手でもなかっただろう。
しかし、その動きから、相手の二人が最低限のカレッジレスリングの技術を持つ事は一目瞭然である。
私はこの試合でアマチュアレスリング特にキャッチレスリングの進化系カレッジレスリングの攻防が能動的に行われている事に驚いた。
カレッジレスリング特有のロールといわれる巻きの技術、エスケープ技術の攻防、バックの取り合いが「純プロレス的」約束的様式美ではなく、リアルな主導権争いとして行われていたのだ。
しかも特筆すべきは、そのリアルな攻防が、純プロレス的な約束的様式美の動きと交互に行われていたのだ。
結果ブリスコ兄弟はリアルな攻防で相手をコントロールし、足四の字固めというプロレス的予定調和の勝敗結果にも関わらず、強さの説得力を醸し出したのだ。
70年代のアメリカンプロレスの牧歌的な雰囲気を求めて動画を眺めた私は、意外にも、そのアメリカンプロレスの試合でリアルな主導権争いとプロレス的な約束的動きが融合され試合が成立している事に、驚いた私は、他のブリスコ兄弟の試合も次々と探し求めた。
全ての試合がそのような試合であったわけでは無い。
単純に終始「純プロレス」を展開している試合の方が多い。
しかしアマチュアレスリング出身選手の多いフロリダマットの闘いでは、普通の純プロレス的展開の試合においてでも、やはり突然アマチュアレスリング的なリアルな攻防が出現する。
特にジェリー・ブリスコがレスソントンと闘った試合では実に試合の8割以上がリアルな技術の攻防であった。
プロレスは相手に身を預ける。
しかし預けない相手にでも仕掛けられる技術を持って、ブリスコ兄弟は長くトップレスラーとして活躍していたのだ。
ここで私が強く記したい事がある。
完成されたリアルな技術は相手を傷つけない事。そして美しい事である。
技を受けない相手を力ずくで放り投げれば怪我もさせるだろう。
しかし技術で投げ、技術でコントロールしているのでリアルであっても相手は怪我をしない。
そして相手が技を防ごうとした時にこそ、レスリングのリアルな技術は美しさを醸し出す。
相手がどうぞと胸を張って技を受けようとしている相手にではなく、リアルな攻防の中でこそ、本来の美しさ、無駄をそぎ落としたリアルな美しさが出るのだ。
逆にリアルな攻防を経てのプロレス的展開では、無駄な要素を取り入れたディフォルメされた動きつまり純プロレスの様式美が生きる。
そういう二つのプロレスの要素が交互に繰り返されているのだ。
ロシア軍団がプロレス参戦しても見られなかったプロレスでのリアルな技術の攻防が、まさか70年代のフロリダマットで数多く見られるとは私は思っていなかった。
フロリダ地区の動画は無くなっているため、この試合を見てもらいたい。
ブリスコがロディ・パイパー、ビルワットと闘う試合である。
フロリダでの試合ほどのリアルな攻防シーンは無い。
しかし純プロレスの展開の中で二分過ぎ、パイパーがブリスコをリフトしテイクダウンする。「本気」でバックを制そうとするパイパーとリアルな攻防を数秒だけ展開する。
日本マットで見られる形だけのディフォルメされたグランドでのバックの取り合いとは全く性質の異なるリアルな攻防である。
あるいはビル・ワットの試合では一分過ぎ、ブリスコのヘッドロックを、ワットが相手の膝裏を両手で刈るアメリカ式のテイクダウンで返す。
グランドで更なる攻撃を繰り出すワットからブリスコは本当のエスケープをする。
フロリダでの試合ほどリアルな攻防の時間の無い二つの試合であるが、それでもフェイクな完全なアメリカンプロレスの世界でさえ、リアルな攻防の瞬間は存在していたのである。
(続く)
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70年代アメリカンプロレスに見るリアルとフェイクの融合/猪木ゲノム再興のヒント/2ブリスコ兄弟とフロリダ・マットの謎
猪木ゲノム再興のヒント/外伝/私の愛する長州力
かつてロシアの一流のレスリング選手たちが大挙して新日本に来日した事が合った。
当時、私自身、最もレスリングに没頭していた時期でもあったので、ロシアの選手たちがプロレスのリングでどのようなレスリングの技術を見せてくれるか大いに期待した。
私が最も期待したのはアメリカのレスリング出身選手たちとの試合であった。
スティーヴ・ウィリアムス、ブラッド・レイガンス、バズ・ソイヤー他アマチュア出身選手たちの揃ったアメリカ人メンバーたちとの試合において僅かでもいいから、能動的な技術の攻防による主導権争いが展開される事を期待したからだ。
しかし私の期待は大きく外れた。
アメリカとロシアの選手たちの試合は、レスリングをディフォルメしたプロレス技の発表会でしかなかった。
お互いが相手に身体を預け、交互にレスリング技を発表する「純プロレス」的展開に留まってしまったのだ。
顔を突き合わせての睨み合いから、突然差し合いの攻防が始まる。
まずロシア勢が投げる。
その後はアメリカ勢が投げ返す。
全く能動的な主導権争いの無い約束的様式美つまり全日本的純プロレスの世界でしか無かった。
前の記事で紹介した試合に話を戻す。
(残念ながら動画は削除されているようだが)
当時のアメリカマットに夢中であった私でもブリスコ兄弟の対戦相手の二人の事は良く知らない。
ブリスコ兄弟が抗争するほどの相手でもなかっただろう。
しかし、その動きから、相手の二人が最低限のカレッジレスリングの技術を持つ事は一目瞭然である。
私はこの試合でアマチュアレスリング特にキャッチレスリングの進化系カレッジレスリングの攻防が能動的に行われている事に驚いた。
カレッジレスリング特有のロールといわれる巻きの技術、エスケープ技術の攻防、バックの取り合いが「純プロレス的」約束的様式美ではなく、リアルな主導権争いとして行われていたのだ。
しかも特筆すべきは、そのリアルな攻防が、純プロレス的な約束的様式美の動きと交互に行われていたのだ。
結果ブリスコ兄弟はリアルな攻防で相手をコントロールし、足四の字固めというプロレス的予定調和の勝敗結果にも関わらず、強さの説得力を醸し出したのだ。
70年代のアメリカンプロレスの牧歌的な雰囲気を求めて動画を眺めた私は、意外にも、そのアメリカンプロレスの試合でリアルな主導権争いとプロレス的な約束的動きが融合され試合が成立している事に、驚いた私は、他のブリスコ兄弟の試合も次々と探し求めた。
全ての試合がそのような試合であったわけでは無い。
単純に終始「純プロレス」を展開している試合の方が多い。
しかしアマチュアレスリング出身選手の多いフロリダマットの闘いでは、普通の純プロレス的展開の試合においてでも、やはり突然アマチュアレスリング的なリアルな攻防が出現する。
特にジェリー・ブリスコがレスソントンと闘った試合では実に試合の8割以上がリアルな技術の攻防であった。
プロレスは相手に身を預ける。
しかし預けない相手にでも仕掛けられる技術を持って、ブリスコ兄弟は長くトップレスラーとして活躍していたのだ。
ここで私が強く記したい事がある。
完成されたリアルな技術は相手を傷つけない事。そして美しい事である。
技を受けない相手を力ずくで放り投げれば怪我もさせるだろう。
しかし技術で投げ、技術でコントロールしているのでリアルであっても相手は怪我をしない。
そして相手が技を防ごうとした時にこそ、レスリングのリアルな技術は美しさを醸し出す。
相手がどうぞと胸を張って技を受けようとしている相手にではなく、リアルな攻防の中でこそ、本来の美しさ、無駄をそぎ落としたリアルな美しさが出るのだ。
逆にリアルな攻防を経てのプロレス的展開では、無駄な要素を取り入れたディフォルメされた動きつまり純プロレスの様式美が生きる。
そういう二つのプロレスの要素が交互に繰り返されているのだ。
ロシア軍団がプロレス参戦しても見られなかったプロレスでのリアルな技術の攻防が、まさか70年代のフロリダマットで数多く見られるとは私は思っていなかった。
フロリダ地区の動画は無くなっているため、この試合を見てもらいたい。
ブリスコがロディ・パイパー、ビルワットと闘う試合である。
フロリダでの試合ほどのリアルな攻防シーンは無い。
しかし純プロレスの展開の中で二分過ぎ、パイパーがブリスコをリフトしテイクダウンする。「本気」でバックを制そうとするパイパーとリアルな攻防を数秒だけ展開する。
日本マットで見られる形だけのディフォルメされたグランドでのバックの取り合いとは全く性質の異なるリアルな攻防である。
あるいはビル・ワットの試合では一分過ぎ、ブリスコのヘッドロックを、ワットが相手の膝裏を両手で刈るアメリカ式のテイクダウンで返す。
グランドで更なる攻撃を繰り出すワットからブリスコは本当のエスケープをする。
フロリダでの試合ほどリアルな攻防の時間の無い二つの試合であるが、それでもフェイクな完全なアメリカンプロレスの世界でさえ、リアルな攻防の瞬間は存在していたのである。
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2008年02月08日
ネルを応援してください/3
もし東京にお住まいの方がおられたら、ネルのライブに一度出かけてください。
http://www.nelmusic.net/blog/?p=284
こういう美しい日本語の響きを歌声に込めるアメリカ人アーチストです。
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猪木ゲノム再興のヒント/外伝/私の愛する長州力
私がもっとも愛するレスラーは長州力である。
在日韓国人として生まれ、プロレスを見て育ち、レスリング競技にも没頭してきた私のような人間にとって、長州力が神となるのは当たり前の事でもあった。
それでも私は長州力のスタイルは嫌いである。
プロレスブーム以前のアントニオ猪木のプロレスの洗礼を受けた私にとって、長州力のプロレスは、アントニオ猪木の「闘うプロレス」とは異質の気合いと根性のプロレスでしか無かったからだ。
それでも私は嫌いなファイトスタイルをこなす長州の一挙手一投足に魅了された。
嫌いなファイトスタイルを持ってしても魅了される色気とオーラを長州力が放っていたからだ。
アントニオ猪木の「闘うプロレス」の最たる後継者であるべき長州が、何故、猪木のプロレスを遂行しないのかと私は苛立ちもした。
しかし私は一度だけ、長州が、猪木の世界観を引き継ぐ最高の「闘うプロレス」を展開した試合を見た事がある。
UWFとの初めての遭遇で、長州は封印してきたレスリングテクニックで、UWFの選手の肉体をコントロールし続けた。
アントニオ猪木が放送席で「長州は分かってくれている」と絶賛した猪木的世界観のプロレスを長州がただ一度だけ実践した試合であった。
私がレスリング競技に没頭していた時、長州より一学年下の私の恩師に、長州力のアマチュア・スタイルを尋ねた事がある。
恩師は、心良く知る限るの長州のレスリングを教えてくれた。
私は見本の無いまま長州のレスリングテクニックを頭の中でイメージし何万回と打ち込みを続けた。
がぶり、ツーオンワン、腰高のタックル、腕取り…。
頭の中だけで想像するしか無かった長州のレスリングテクニックが、アントニオ猪木の世界観のプロレスの中で、実際に見れた衝撃と喜びを私は未だに忘れられない。
70年代アメリカンプロレスに見るリアルとフェイクの融合/猪木ゲノム再興のヒント/1">70年代アメリカンプロレスに見るリアルとフェイクの融合/猪木ゲノム再興のヒント/1
70年代アメリカンプロレスに見るリアルとフェイクの融合/猪木ゲノム再興のヒント/2ブリスコ兄弟とフロリダ・マットの謎
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在日韓国人として生まれ、プロレスを見て育ち、レスリング競技にも没頭してきた私のような人間にとって、長州力が神となるのは当たり前の事でもあった。
それでも私は長州力のスタイルは嫌いである。
プロレスブーム以前のアントニオ猪木のプロレスの洗礼を受けた私にとって、長州力のプロレスは、アントニオ猪木の「闘うプロレス」とは異質の気合いと根性のプロレスでしか無かったからだ。
それでも私は嫌いなファイトスタイルをこなす長州の一挙手一投足に魅了された。
嫌いなファイトスタイルを持ってしても魅了される色気とオーラを長州力が放っていたからだ。
アントニオ猪木の「闘うプロレス」の最たる後継者であるべき長州が、何故、猪木のプロレスを遂行しないのかと私は苛立ちもした。
しかし私は一度だけ、長州が、猪木の世界観を引き継ぐ最高の「闘うプロレス」を展開した試合を見た事がある。
UWFとの初めての遭遇で、長州は封印してきたレスリングテクニックで、UWFの選手の肉体をコントロールし続けた。
アントニオ猪木が放送席で「長州は分かってくれている」と絶賛した猪木的世界観のプロレスを長州がただ一度だけ実践した試合であった。
私がレスリング競技に没頭していた時、長州より一学年下の私の恩師に、長州力のアマチュア・スタイルを尋ねた事がある。
恩師は、心良く知る限るの長州のレスリングを教えてくれた。
私は見本の無いまま長州のレスリングテクニックを頭の中でイメージし何万回と打ち込みを続けた。
がぶり、ツーオンワン、腰高のタックル、腕取り…。
頭の中だけで想像するしか無かった長州のレスリングテクニックが、アントニオ猪木の世界観のプロレスの中で、実際に見れた衝撃と喜びを私は未だに忘れられない。
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70年代アメリカンプロレスに見るリアルとフェイクの融合/猪木ゲノム再興のヒント/2ブリスコ兄弟とフロリダ・マットの謎
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70年代アメリカンプロレスに見るリアルとフェイクの融合/猪木ゲノム再興のヒント/2 ブリスコ兄弟とフロリダマットの謎
70年代アメリカンプロレスに見るリアルとフェイクの融合/猪木ゲノム再興のヒント/1">前記事・70年代アメリカンプロレスに見るリアルとフェイクの融合/猪木ゲノム再興のヒント/1
私が小学生の頃に見たアントニオ猪木の「闘うプロレス」とは、全日本プロレス的な約束的動きの少ないリアルな主導権争いのプロレスでもあった。
かといってアントニオ猪木や新日本プロレスにに約束的な動きが極端に少なかったのかといえば決してそうではない。
ただし約束的動きを様式美にまで高めた全日本プロレスと異なり、新日本の約束的動きは、それこそ学生プロレスにも劣るドタバタ劇であった。
(私はそういった猪木及び新日本のドタバタした約束的動きにもまたアナログ的な魅力を感じているが)
約束的動きの練習に殆ど全ての時間を費やす全日本に対し、新日本は全く別の練習に時間を費やしてきたのだから約束的つまりプロレス的上手さで全日本に敵わないのは仕方のない事だ。
「プロレスなのだから」約束的動きを練習しておけば良いという全日本プロレス的世界観に対して、新日本プロレスは「スパーリング」を大切にしてきた。
そこに当たり前の事ながらも新日本的世界観は存在していたのだ。
プロレス的約束的動きに精を出し練習していた全日本と、強さを求めるスパーリングに時間を費やした新日本。
今の時代となっては全プロレス団体がプロレス村の中で約束的な動きの上手さを認められようと精を出すようになった。
全てが全日本プロレス化してしまったという私の意見を御理解いただけるであろうか?
かつてアントニオ猪木がドリーファンクジュニアと闘った試合、様式美溢れるディフォルメされた約束的動きの綺麗な応酬の試合であった。
猪木が演じ闘った全日本的世界観、つまり純プロレスの名勝負であった。
その試合と、後の猪木対ロビンソンの試合は全く異なる性質を持つ。
フルタイムの試合の前半、猪木はリアルにロビンソンに挑む。しかし、猪木はリアルにロビンソンに翻弄されたまま、プロレスの見せ場を作るべき時間を迎えてしまった。
それでも、前半たっぷりとリアルな主導権争い、後半はドタバタした下手くそな約束的な動きのアナログ感溢れる世界、猪木対ロビンソンは猪木の二つの魅力で構成された猪木的世界観のベストバウトであった。
度々記している「石沢・永田対金原・桜庭」も私にとっては奇跡のプロレスであった。
試合の9割9分をリアルな主導権争いで構成し、約束的な動きでない技の攻防の美しさが、約束的つまり純プロレス的な様式美を越えた試合であると私は思っている。
しかも、きっちりとプロレスとして成立した試合なのである。
猪木対ロビンソン、そして永田組の試合を、私は「闘うプロレス」の典型的な二つの試合だと思っている。
「リアルな技術」及び「リアルな攻防」で「リアルでない」「プロレス」を成立させた「闘うプロレス」の最たる試合だからである。
(当然、その技術の攻防に華やかな色をつけたのは「抑制された感情」である。この部分については私の以前の「猪木ゲノムの正体を探れ」という記事カテゴリーを参照して欲しい)
多くのレスラーたち、ファンたちが、プロレスはプロレスだと純プロレスの様式美の世界だけを求めるようになった。
結果、プロレスの様式美を求める狭いマニアのプロレス村が成立してしまった。
悲しいのはファンも、当のレスラーたちも、「闘い」では本当の格闘技に敵わないと「闘い」を放棄したことである。
またアントニオ猪木が「闘いのプロレス」にこだわっても、平成のファンたちから認知されることは無い。
平成のファンたちは、「闘いのプロレス」をイメージしても、前述したように、格闘家たちのプロレスごっこか、あるいはUWF的格闘技風純プロレスか、あるいはセメントか、そういった誤解した「闘いのプロレス」のイメージとしか結び付けることが出来ないのだ。
もっと残念なのは、猪木ゲノムを表現するはずの当の格闘家、レスラーたちも、猪木の「闘うプロレス」を理解していないので、前述した誤解した「闘いのプロレス」を演じ、茶番の評価を受け続ける。
情けないのは総合格闘技全盛の今に、当時のアントニオ猪木の「闘うプロレス」が認知されることは無いという声である。
「闘うプロレス」とはリアルファイトで醸し出せない「闘いの」魅力を醸し出す試合である。
リアルな強さを持った人間が、約束的な動きや様式美に頼らず、リアルな攻防、主導権争いを持って、更にアントニオ猪木的抑制された感情表現を持って、ショー的色気と殺気を醸し出すプロレスである。
リアルファイトの闘いとは全く別物なのだから、総合格闘技の下に位置するものでもないのだ。
もはや、そういうプロレスを当のIGFのイベントでも見られないのだから、とうとうプロレスからは「闘うプロレス」のカテゴリーは消えてしまうのかとの思いも強くなっている。
ところが、私は偶然にも大変興味深いプロレスの試合を見つけてしまった。
私は元々、アントニオ猪木のプロレスとは別に70年代から80年代前半のアメリカンプロレスのファンでもあった。
私が、かつて雑誌のグラビアを眺めるしか出来なかった当時のアメリカ・マット界の動画を探していた。
当然「闘い」を求めての事ではないし、私としては逆に、「闘い」とは関係の無い、牧歌的な古き良きアメリカマットの雰囲気を求めての事だった。
フロリダマット言えば私的にはカールゴッチさんやヒロ・マツダといったイメージよりも、エディ・グラハム、息子のマイク・グラハム、そしてスティーヴ・カーンが真っ先に頭に浮かぶ南部の名テリトリーであった。
そういえばジャック・ブリスコのリングネームも南部の麒麟児であった。
私はそのジャックブリスコが弟のジェリーと組んでの何気ないタッグマッチの動画を見る機会に恵まれた。
前述したように、いかにアメリカの名アマチュアレスラーであったブリスコの動画に対しても「闘い」や「技術の片鱗」を求めたわけではない。
逆に様式美溢れる古き良きアメリカンプロレスのエレガントな約束的動きを見たかった。
ところがこの動画を見たとき私は小さな衝撃を受けてしまう。
古き良きアメリカンプロレス、様式美、約束的純プロレス。
それらのイメージとは正反対の、「リアル」な技術と攻防で成立されるプロレスだったのである。
(続く)
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私が小学生の頃に見たアントニオ猪木の「闘うプロレス」とは、全日本プロレス的な約束的動きの少ないリアルな主導権争いのプロレスでもあった。
かといってアントニオ猪木や新日本プロレスにに約束的な動きが極端に少なかったのかといえば決してそうではない。
ただし約束的動きを様式美にまで高めた全日本プロレスと異なり、新日本の約束的動きは、それこそ学生プロレスにも劣るドタバタ劇であった。
(私はそういった猪木及び新日本のドタバタした約束的動きにもまたアナログ的な魅力を感じているが)
約束的動きの練習に殆ど全ての時間を費やす全日本に対し、新日本は全く別の練習に時間を費やしてきたのだから約束的つまりプロレス的上手さで全日本に敵わないのは仕方のない事だ。
「プロレスなのだから」約束的動きを練習しておけば良いという全日本プロレス的世界観に対して、新日本プロレスは「スパーリング」を大切にしてきた。
そこに当たり前の事ながらも新日本的世界観は存在していたのだ。
プロレス的約束的動きに精を出し練習していた全日本と、強さを求めるスパーリングに時間を費やした新日本。
今の時代となっては全プロレス団体がプロレス村の中で約束的な動きの上手さを認められようと精を出すようになった。
全てが全日本プロレス化してしまったという私の意見を御理解いただけるであろうか?
かつてアントニオ猪木がドリーファンクジュニアと闘った試合、様式美溢れるディフォルメされた約束的動きの綺麗な応酬の試合であった。
猪木が演じ闘った全日本的世界観、つまり純プロレスの名勝負であった。
その試合と、後の猪木対ロビンソンの試合は全く異なる性質を持つ。
フルタイムの試合の前半、猪木はリアルにロビンソンに挑む。しかし、猪木はリアルにロビンソンに翻弄されたまま、プロレスの見せ場を作るべき時間を迎えてしまった。
それでも、前半たっぷりとリアルな主導権争い、後半はドタバタした下手くそな約束的な動きのアナログ感溢れる世界、猪木対ロビンソンは猪木の二つの魅力で構成された猪木的世界観のベストバウトであった。
度々記している「石沢・永田対金原・桜庭」も私にとっては奇跡のプロレスであった。
試合の9割9分をリアルな主導権争いで構成し、約束的な動きでない技の攻防の美しさが、約束的つまり純プロレス的な様式美を越えた試合であると私は思っている。
しかも、きっちりとプロレスとして成立した試合なのである。
猪木対ロビンソン、そして永田組の試合を、私は「闘うプロレス」の典型的な二つの試合だと思っている。
「リアルな技術」及び「リアルな攻防」で「リアルでない」「プロレス」を成立させた「闘うプロレス」の最たる試合だからである。
(当然、その技術の攻防に華やかな色をつけたのは「抑制された感情」である。この部分については私の以前の「猪木ゲノムの正体を探れ」という記事カテゴリーを参照して欲しい)
多くのレスラーたち、ファンたちが、プロレスはプロレスだと純プロレスの様式美の世界だけを求めるようになった。
結果、プロレスの様式美を求める狭いマニアのプロレス村が成立してしまった。
悲しいのはファンも、当のレスラーたちも、「闘い」では本当の格闘技に敵わないと「闘い」を放棄したことである。
またアントニオ猪木が「闘いのプロレス」にこだわっても、平成のファンたちから認知されることは無い。
平成のファンたちは、「闘いのプロレス」をイメージしても、前述したように、格闘家たちのプロレスごっこか、あるいはUWF的格闘技風純プロレスか、あるいはセメントか、そういった誤解した「闘いのプロレス」のイメージとしか結び付けることが出来ないのだ。
もっと残念なのは、猪木ゲノムを表現するはずの当の格闘家、レスラーたちも、猪木の「闘うプロレス」を理解していないので、前述した誤解した「闘いのプロレス」を演じ、茶番の評価を受け続ける。
情けないのは総合格闘技全盛の今に、当時のアントニオ猪木の「闘うプロレス」が認知されることは無いという声である。
「闘うプロレス」とはリアルファイトで醸し出せない「闘いの」魅力を醸し出す試合である。
リアルな強さを持った人間が、約束的な動きや様式美に頼らず、リアルな攻防、主導権争いを持って、更にアントニオ猪木的抑制された感情表現を持って、ショー的色気と殺気を醸し出すプロレスである。
リアルファイトの闘いとは全く別物なのだから、総合格闘技の下に位置するものでもないのだ。
もはや、そういうプロレスを当のIGFのイベントでも見られないのだから、とうとうプロレスからは「闘うプロレス」のカテゴリーは消えてしまうのかとの思いも強くなっている。
ところが、私は偶然にも大変興味深いプロレスの試合を見つけてしまった。
私は元々、アントニオ猪木のプロレスとは別に70年代から80年代前半のアメリカンプロレスのファンでもあった。
私が、かつて雑誌のグラビアを眺めるしか出来なかった当時のアメリカ・マット界の動画を探していた。
当然「闘い」を求めての事ではないし、私としては逆に、「闘い」とは関係の無い、牧歌的な古き良きアメリカマットの雰囲気を求めての事だった。
フロリダマット言えば私的にはカールゴッチさんやヒロ・マツダといったイメージよりも、エディ・グラハム、息子のマイク・グラハム、そしてスティーヴ・カーンが真っ先に頭に浮かぶ南部の名テリトリーであった。
そういえばジャック・ブリスコのリングネームも南部の麒麟児であった。
私はそのジャックブリスコが弟のジェリーと組んでの何気ないタッグマッチの動画を見る機会に恵まれた。
前述したように、いかにアメリカの名アマチュアレスラーであったブリスコの動画に対しても「闘い」や「技術の片鱗」を求めたわけではない。
逆に様式美溢れる古き良きアメリカンプロレスのエレガントな約束的動きを見たかった。
ところがこの動画を見たとき私は小さな衝撃を受けてしまう。
古き良きアメリカンプロレス、様式美、約束的純プロレス。
それらのイメージとは正反対の、「リアル」な技術と攻防で成立されるプロレスだったのである。
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武藤敬司と秋吉満ちる
私が学生のとき、武藤敬司が映画「光る女」に主演した。
私が印象深かったのは、野生児を演じていた武藤がラストシーンでは髭をそり落としてた事である。
当時の相米 慎二監督が語った「かなりの男前」の武藤の甘く端正な表情がスクリーンに映えた。
その時の武藤の相手役が秋吉満ちるであった。
私はその後、夢中になったアシッド・ジャズを聴きまくる内Monday Michiruと出会った。
しばらくしてMonday Michiruが秋吉満ちるであったことを知った。
70年代アメリカンプロレスに見るリアルとフェイクの融合/猪木ゲノム再興のヒント/1
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私が印象深かったのは、野生児を演じていた武藤がラストシーンでは髭をそり落としてた事である。
当時の相米 慎二監督が語った「かなりの男前」の武藤の甘く端正な表情がスクリーンに映えた。
その時の武藤の相手役が秋吉満ちるであった。
私はその後、夢中になったアシッド・ジャズを聴きまくる内Monday Michiruと出会った。
しばらくしてMonday Michiruが秋吉満ちるであったことを知った。
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2008年02月07日
70年代アメリカンプロレスに見るリアルとフェイクの融合/猪木ゲノム再興のヒント/1
度々、同じ事を記すが、私は、純プロレスの試合も好きである。
アントニオ猪木のプロレスを見て育った私にとっても、小学校時代の全日本プロレスの様式美溢れるエレガントな世界は大変、魅力的なものであった。
今の純プロレスに、当時、私が魅力を感じたエレガントな世界があるとは思わないものの、それでも全日本プロレス的世界観の現在を私は否定した事は一度も無い。
極論すれば、私には関係の無い世界だからだ。
私が、私のブログにおいて、嘆き否定していた事の真意は、かつて新日本と全日本二つの
世界観が並び立っていた日本のプロレスが、全て、全日本プロレス的世界観だけが細分化されたジャンルと成ってしまった事に対してである。
かつての日本のプロレスの二つの柱の内の一つでしかなかった全日本的世界観が、今は日本のプロレスの全てを支配し細分化してしまった。
逆にもう一つの柱であったアントニオ猪木の「闘うプロレス」というカテゴリーが、プロレスというジャンルから消え去ろうとしている。
私は、その事に危惧を感じているのだ。
総合格闘技イベントがアントニオ猪木的世界観の進化形と思われた事もあった。
しかし私は大きく否定したい。
純プロレスかリアルファイトかの二者択一を迫られ、やむなく、総合格闘技イベントに、猪木の側近たちも、昭和のファンも、揃って出向かざるを得なかっただけだ。
猪木が理想とするものは、「闘いのプロレス」であっても、「リアル・ファイト」ではない事は昭和のファンなら皆、分かっていた事であろう。
それでも、プロレスというジャンルに闘いが無くなったとき、かつての闘いの憧憬を求めて、止むなく、総合格闘技イベントに流れていったファンたちは多いであろう。
引退後の猪木人気の上昇時、初めての大晦日「イノキ・ボンバイエ」はプロレスのイベントであった。
アントニオ猪木が狙った「実際に闘える男たちのプロレス」は、見事に当の格闘家たちの理解不足、勘違いで、ただの茶番と化してしまった。
プロレスは闘いではないと思う格闘家たちが、見事に闘いをそぎ落とした、中途半端なプロレスを展開させたのである。
結果、「実際に闘える選手たち」によるプロレスほど面白くないものは無いと、短絡的なイメージを、ファンに植え付ける事になってしまいもした。
UWFの存在もある。
私は前にも記したが、私的な考えでは、UWFスタイルほど、純プロレスは無いと考えている。
逆に言えばアントニオ猪木の「闘うプロレス」とは正反対の物であったからだ。
UWFはリアルファイトではなく、プロレスであったのは周知の事実である。
しかし、意外と気づかれていないのが、プロレスとしてのUWFが「闘うプロレス」ではなく、「純プロレス」であった事である。
プロレスとしてのUWFの試合中に実際のリアルな主導権争いの攻防が入り込んだのは、船木と鈴木以降であり、それ以前は、あくまで、仲間内の協力を前提とした約束的な動きによる試合であった。
痛い攻撃を繰り出しても決して怒らない信頼出来る仲間内での、約束的な技の攻防を見せる、純プロレスすなわち全日本プロレス的世界観そのものであったと私は考えている。
新日本特有のギクシャクとした攻防とは程遠い流れるような技の応酬。
全日本の約束的な動きであるフライングメイヤー、ロープワークが、単にキックと関節技に変わっただけの世界と考えれば理解出来るであろうか?
そのUWFのプロレスの本質もまた、格闘技風プロレスはつまらないとのイメージを植え付ける一つの要因でもあった。
あるいはセメントの存在もある。
これについては説明を省くが、セメントの常習者猪木であっても、セメントが理想なわけは無いであろう。
あくまで約束的な攻防が全てでなく、能動的なリアルな主導権争いがあっても結果はプロレスを成立させることが前提である。
仕事として成立しないセメントは問題外という事だ。
格闘家達によるプロレスごっこ、あるいはUWF的格闘技風プロレス、あるいはセメント、それらがアントニオ猪木の求める「闘うプロレス」だと誤解を受け続けてきた。
結果、それらの勝手な誤解を持って、アントニオ猪木の「闘うプロレス」は、格闘技でもプロレスでもない中途半端なプロレスだとの烙印を押され、プロレス村を追われた。
追われた猪木とファンたちが、総合格闘技イベントにこそかつてのアントニオ猪木の世界観があると言い聞かせ熱中しようとしても、元から「リアルファイト」にアントニオ猪木の世界観は存在しないのだ。
以前、「猪木ゲノムの正体を探れ」と題した連載記事を投稿させてもらったが、今回、新たに思わぬ発見を通じての私的な猪木ゲノムの解釈を次回からしばらく記していきたいと思う。
(続く)
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アントニオ猪木のプロレスを見て育った私にとっても、小学校時代の全日本プロレスの様式美溢れるエレガントな世界は大変、魅力的なものであった。
今の純プロレスに、当時、私が魅力を感じたエレガントな世界があるとは思わないものの、それでも全日本プロレス的世界観の現在を私は否定した事は一度も無い。
極論すれば、私には関係の無い世界だからだ。
私が、私のブログにおいて、嘆き否定していた事の真意は、かつて新日本と全日本二つの
世界観が並び立っていた日本のプロレスが、全て、全日本プロレス的世界観だけが細分化されたジャンルと成ってしまった事に対してである。
かつての日本のプロレスの二つの柱の内の一つでしかなかった全日本的世界観が、今は日本のプロレスの全てを支配し細分化してしまった。
逆にもう一つの柱であったアントニオ猪木の「闘うプロレス」というカテゴリーが、プロレスというジャンルから消え去ろうとしている。
私は、その事に危惧を感じているのだ。
総合格闘技イベントがアントニオ猪木的世界観の進化形と思われた事もあった。
しかし私は大きく否定したい。
純プロレスかリアルファイトかの二者択一を迫られ、やむなく、総合格闘技イベントに、猪木の側近たちも、昭和のファンも、揃って出向かざるを得なかっただけだ。
猪木が理想とするものは、「闘いのプロレス」であっても、「リアル・ファイト」ではない事は昭和のファンなら皆、分かっていた事であろう。
それでも、プロレスというジャンルに闘いが無くなったとき、かつての闘いの憧憬を求めて、止むなく、総合格闘技イベントに流れていったファンたちは多いであろう。
引退後の猪木人気の上昇時、初めての大晦日「イノキ・ボンバイエ」はプロレスのイベントであった。
アントニオ猪木が狙った「実際に闘える男たちのプロレス」は、見事に当の格闘家たちの理解不足、勘違いで、ただの茶番と化してしまった。
プロレスは闘いではないと思う格闘家たちが、見事に闘いをそぎ落とした、中途半端なプロレスを展開させたのである。
結果、「実際に闘える選手たち」によるプロレスほど面白くないものは無いと、短絡的なイメージを、ファンに植え付ける事になってしまいもした。
UWFの存在もある。
私は前にも記したが、私的な考えでは、UWFスタイルほど、純プロレスは無いと考えている。
逆に言えばアントニオ猪木の「闘うプロレス」とは正反対の物であったからだ。
UWFはリアルファイトではなく、プロレスであったのは周知の事実である。
しかし、意外と気づかれていないのが、プロレスとしてのUWFが「闘うプロレス」ではなく、「純プロレス」であった事である。
プロレスとしてのUWFの試合中に実際のリアルな主導権争いの攻防が入り込んだのは、船木と鈴木以降であり、それ以前は、あくまで、仲間内の協力を前提とした約束的な動きによる試合であった。
痛い攻撃を繰り出しても決して怒らない信頼出来る仲間内での、約束的な技の攻防を見せる、純プロレスすなわち全日本プロレス的世界観そのものであったと私は考えている。
新日本特有のギクシャクとした攻防とは程遠い流れるような技の応酬。
全日本の約束的な動きであるフライングメイヤー、ロープワークが、単にキックと関節技に変わっただけの世界と考えれば理解出来るであろうか?
そのUWFのプロレスの本質もまた、格闘技風プロレスはつまらないとのイメージを植え付ける一つの要因でもあった。
あるいはセメントの存在もある。
これについては説明を省くが、セメントの常習者猪木であっても、セメントが理想なわけは無いであろう。
あくまで約束的な攻防が全てでなく、能動的なリアルな主導権争いがあっても結果はプロレスを成立させることが前提である。
仕事として成立しないセメントは問題外という事だ。
格闘家達によるプロレスごっこ、あるいはUWF的格闘技風プロレス、あるいはセメント、それらがアントニオ猪木の求める「闘うプロレス」だと誤解を受け続けてきた。
結果、それらの勝手な誤解を持って、アントニオ猪木の「闘うプロレス」は、格闘技でもプロレスでもない中途半端なプロレスだとの烙印を押され、プロレス村を追われた。
追われた猪木とファンたちが、総合格闘技イベントにこそかつてのアントニオ猪木の世界観があると言い聞かせ熱中しようとしても、元から「リアルファイト」にアントニオ猪木の世界観は存在しないのだ。
以前、「猪木ゲノムの正体を探れ」と題した連載記事を投稿させてもらったが、今回、新たに思わぬ発見を通じての私的な猪木ゲノムの解釈を次回からしばらく記していきたいと思う。
(続く)
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2008年02月06日
リアルとフェイクの融合プロレスラー/ジェリー・ブリスコ
プロレスが、アマチュアレスリングそのものの攻防、つまりリアルに自分の技を仕掛けなければ成立しない攻防と、そして、ディフォルメされた約束的攻防、その二つでこそ成り立つというのは私の考えである。
日本でそういう試合といえば、猪木対ビル・ロビンソン戦がある。
リアルな攻防を経て、後半は完全なフェイクなプロレス的な約束的攻防でもって、ある意味完成された猪木プロレスを見せつけてくれた。
石沢・永田対金原・桜庭は、リアルな攻防が9割9分を占めた。
間違いなくフィニッシュギリギリまで、リアルな主導権争いが展開されていた試合である。
そういう意味では、この試合は、プロレスはプロレスと割り切るファンに是非見てもらいたい試合である。
初代タイガーを怒らせた
「陰気男」レス・ソントンとジェリー・ブリスコの試合である。
おそらく多少なりともキャッチレスリングの心得を持つレス・ソントンと、そのキャッチレスリングの米国での進化系カレッジ・レスリングの経験者ジェリー・ブリスコの試合である。
前述の、前半と後半で、きっちりとリアルとフェイクの区分けがされた猪木対ロビンソン戦。
あるいはギリギリまでリアルであった石沢・永田組対Uインターの試合。
それらと別の意味でリアルとフェイクの入り交じったプロレスである事を理解してもらえるであろう。
ソントンが本気のタックルを仕掛ける。
ブリスコが本気にタックルを切る。
ソントンが本気でバックを取る。
ブリスコがカレッジ特有のエスケープ技術で本気で脱出する。
そういう攻防が、フェイクな約束的攻防と、入り交じって行われている試合である。
プロレスとは何なのかという問いのヒントは、ブリスコ兄弟が活躍した70年代フロリダ地区の試合で多く見受けられる。
お詫び…スポーツナビのトラックバック欄へ誤って同じ記事が複数エントリーになっています。
大変申し訳有りません。
レスナーに技術が無いという人々/時代は巡る格闘技ファンの本質
ルチャドール・イン・グラインドハウス/サント・ブルーディモン・マスカラス三本立て
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日本でそういう試合といえば、猪木対ビル・ロビンソン戦がある。
リアルな攻防を経て、後半は完全なフェイクなプロレス的な約束的攻防でもって、ある意味完成された猪木プロレスを見せつけてくれた。
石沢・永田対金原・桜庭は、リアルな攻防が9割9分を占めた。
間違いなくフィニッシュギリギリまで、リアルな主導権争いが展開されていた試合である。
そういう意味では、この試合は、プロレスはプロレスと割り切るファンに是非見てもらいたい試合である。
初代タイガーを怒らせた
「陰気男」レス・ソントンとジェリー・ブリスコの試合である。
おそらく多少なりともキャッチレスリングの心得を持つレス・ソントンと、そのキャッチレスリングの米国での進化系カレッジ・レスリングの経験者ジェリー・ブリスコの試合である。
前述の、前半と後半で、きっちりとリアルとフェイクの区分けがされた猪木対ロビンソン戦。
あるいはギリギリまでリアルであった石沢・永田組対Uインターの試合。
それらと別の意味でリアルとフェイクの入り交じったプロレスである事を理解してもらえるであろう。
ソントンが本気のタックルを仕掛ける。
ブリスコが本気にタックルを切る。
ソントンが本気でバックを取る。
ブリスコがカレッジ特有のエスケープ技術で本気で脱出する。
そういう攻防が、フェイクな約束的攻防と、入り交じって行われている試合である。
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