詳しくは読んでいないが、前田日明が、大仁田と並んで蝶野を批判したとの事。
蝶野は大仁田とは違う。
マイペースながら組織のリーダーの器を持った男である。
しかし、前田が何故、蝶野を否定するのかは分かる気がする。
蝶野こそ、強さの主導権争いとは関係のない闘いの構図を新日本のメーンにした張本人であるからだ。
しかしリング場さながらの力関係の構図を必要とする新日本の現場に置いて、蝶野のリーダーシップや政治力はある種の男としての強さの力量の形でもあるのだ。
蝶野の発言で、私が驚いたのは、純プロレスを否定するアントニオ猪木に対して、猪木こそタイガージェットシン戦をはじめ思い切りアメリカンスタイルの遂行者ではなかったかという発言である。
あの蝶野でさえ、猪木的純プロレスをアメリカンスタイルとしか思えないのだ。
言語を持ってプロレスを語らない猪木の真意はなかなか伝わらないものだと私は思った。
蝶野は格闘技が出来る訳でもない。首も壊している。
リアルな強さの主導権争いの試合を展開出来る訳でもない。
激しい純プロレスを展開出来る訳でもない。
そんな蝶野が一つの個性的なショーマンスタイルに辿り着いたということは立派な事である。
純プロレスであるが、必要以上の、頭部や首に衝撃をかける激しいスタイルを行なっていない事は、ある意味、猪木の純プロレス部門を引き継いでいる男でもあるのだ。
前述したように、猪木と蝶野では純プロレスの定義に大きな隔たりはあるが、大技を使わず試合を構築するという点では同じだ。
そういう意味で、私は、セミリタイア前ボロボロの身体で、リアルな主導権争いも出来ず、激しい大技にも頼れず、猪木独特の純プロレスを展開するしかなかった猪木の後期の試合を、蝶野が付き人として、リングサイドで見つめていた期間はある意味、大きな財産であると思っている。
また蝶野は、あの自我の強い集団の中で、トップを張れる、ある意味、新日的な強さを持った男だ。
激しい純プロレスにしろ、猪木的純プロレスにしろ、新日本の世界が「純プロレス」だけの世界に成ってしまった事、かつてのリアルな主導権争いでプロレスを成立させてきた新日本の「闘うプロレス」が全く見当たらないという事実は悲しい事だ。
しかし、前田が批判すべきは、いたずらに、「激しい純プロレス」だけを持って、「ストロングスタイル」の踏襲を目論む面々である。
蝶野は蝶野で、猪木の純プロレス部門を引き継ぐ立派な男であると私は思っている。
猪木ゲノムは難しい/橋本対小川のセメントマッチの誤解
格闘技プロレスと皆が一言で片付けるので、格闘技プロレスを分類してみました
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2008年04月07日
2008年04月06日
ストレスに苦しむ人たちへ
もし自分の世界にストレスを感じている人がいるなら、承認欲求と、群れ欲求と、受け手としての分配欲求を捨て去る事である。
承認欲求を低いレベルの場所で満たそうとしても、貴方は醜いアヒルの子としか成らないのだ。
もし貴方に夢や目標があるなら、今の場所を承認欲求の場ではなく、中庸の場として、夢や目標に向かうための生活の糧を稼ぐ場としてだけ考えてほしい。
その場で発揮するのは、手を抜く事でも無く、腐る事でもなく、何も考えず時間内のベストを尽くす事だけだ。
群れ欲求を満たされない人がいるなら、時には、その場所から逃避する事も必要だ。
たとえライオンのような強い人でも、力を使っては行けないという条件の中で、鶏と同じ折の中に入れられれば、ストレスで死んでしまうだろう。
時に、逃げる事は、全くチキンな事でもないのだ。
事情があって、逃げたく無いなら、自分の世界を大切に、群れの中の孤独を楽しめば良い。
独り、白けるのではなく、ただ黙って同僚たちの話を笑って聞いていれば良い。
受け手としての分配欲求を求める人は、永遠なる子供だ。
赤ん坊の頃、「言葉」でなく、鳴き声だけで、周囲の大人たちが何を求めているのだろうと必死に考えてくれた、あの頃の、受け手としての、最高に楽で、幸せだった時の、憧憬を忘れられないのだ。
咳払い一つで、部下からのお茶を要求する、そういう永遠に子供な中年上司の世界が嫌なら、勇気を出して、言葉を使う事だ。
もし異性と付き合う人がいるなら、間違っても、何も言わない世界の中で、相手との愛が成立する等思わない事だ。
付き合っては行けない人を想い、心の中で、忍ぶ恋の世界の美しさと、もう付き合った人に対して心を開かない世界は別物である。
自分でプライドが高い人と思う人たちの実体は、実は、幼児期の幸せな世界への憧憬である。
あの頃、言葉にせずとも、心の中を読み取ってくれた人たちを求める心が、邪魔し、素直な心を阻害する。
それはプライドもなんでもなく、幼児の我がままでしか無い。
それを引きずり、意地を張る悲しい人たちを私は多く見てきた。
プライドとは、意地等無縁の中庸の世界である。
その為に、揺らぐ事の無い自分の世界を作り上げる事だ。
自分が行なった行為や努力に対して、決して、見返りや、結果を求めない。
それが貴方の中の絶対に揺らがない愛の世界だ。
もし貴方がスポーツに夢中になるなら、結果という神のみぞ知る世界にまで干渉しない事だ。
絶対に勝つと考える暇があれば、ただ黙ってベストを尽くせば良い。
結果という見返りを求めずベストを尽くせば良い結果しか出ないものだ。
そういう世界がデーンとしてあれば、貴方を苦しめるストレスは、ただの中庸の世界の事でしかなくなるのだ。
それは自分の子供に対してでも良い。趣味のNゲージでも切手集めでも、映画でも、音楽でも、何でも良い。
自分が無償の人間に成れる心の拠り所を求めてほしいと、私は思う。
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承認欲求を低いレベルの場所で満たそうとしても、貴方は醜いアヒルの子としか成らないのだ。
もし貴方に夢や目標があるなら、今の場所を承認欲求の場ではなく、中庸の場として、夢や目標に向かうための生活の糧を稼ぐ場としてだけ考えてほしい。
その場で発揮するのは、手を抜く事でも無く、腐る事でもなく、何も考えず時間内のベストを尽くす事だけだ。
群れ欲求を満たされない人がいるなら、時には、その場所から逃避する事も必要だ。
たとえライオンのような強い人でも、力を使っては行けないという条件の中で、鶏と同じ折の中に入れられれば、ストレスで死んでしまうだろう。
時に、逃げる事は、全くチキンな事でもないのだ。
事情があって、逃げたく無いなら、自分の世界を大切に、群れの中の孤独を楽しめば良い。
独り、白けるのではなく、ただ黙って同僚たちの話を笑って聞いていれば良い。
受け手としての分配欲求を求める人は、永遠なる子供だ。
赤ん坊の頃、「言葉」でなく、鳴き声だけで、周囲の大人たちが何を求めているのだろうと必死に考えてくれた、あの頃の、受け手としての、最高に楽で、幸せだった時の、憧憬を忘れられないのだ。
咳払い一つで、部下からのお茶を要求する、そういう永遠に子供な中年上司の世界が嫌なら、勇気を出して、言葉を使う事だ。
もし異性と付き合う人がいるなら、間違っても、何も言わない世界の中で、相手との愛が成立する等思わない事だ。
付き合っては行けない人を想い、心の中で、忍ぶ恋の世界の美しさと、もう付き合った人に対して心を開かない世界は別物である。
自分でプライドが高い人と思う人たちの実体は、実は、幼児期の幸せな世界への憧憬である。
あの頃、言葉にせずとも、心の中を読み取ってくれた人たちを求める心が、邪魔し、素直な心を阻害する。
それはプライドもなんでもなく、幼児の我がままでしか無い。
それを引きずり、意地を張る悲しい人たちを私は多く見てきた。
プライドとは、意地等無縁の中庸の世界である。
その為に、揺らぐ事の無い自分の世界を作り上げる事だ。
自分が行なった行為や努力に対して、決して、見返りや、結果を求めない。
それが貴方の中の絶対に揺らがない愛の世界だ。
もし貴方がスポーツに夢中になるなら、結果という神のみぞ知る世界にまで干渉しない事だ。
絶対に勝つと考える暇があれば、ただ黙ってベストを尽くせば良い。
結果という見返りを求めずベストを尽くせば良い結果しか出ないものだ。
そういう世界がデーンとしてあれば、貴方を苦しめるストレスは、ただの中庸の世界の事でしかなくなるのだ。
それは自分の子供に対してでも良い。趣味のNゲージでも切手集めでも、映画でも、音楽でも、何でも良い。
自分が無償の人間に成れる心の拠り所を求めてほしいと、私は思う。
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昭和プロレス者8/マサ斎藤のGo for broke!生きた成功哲学/日野皓正対談他
マサ斎藤は、私のような昭和プロレスファンにとってはたまらなく格好よいレスラーでもある。
五輪まで出た後でプロ入りしたレスラーは多いが、プロレスを愛し馴染んだレスラーは意外と少ない。
そういう意味で、長州、中西と並んで、マサ斎藤はアマチュアレスラーであった事を観る側が忘れるくらいプロに馴染んだレスラーでもある。
それは斎藤のプロ入り後に消費した熱量が、オリンピックを目指して汗を流した日々と、同等もしくは、それ以上である事を物語っているのだと私は思う。
私は70年代アメリカンプロレスの大ファンでもあったので、当時の斎藤が、アメリカの各テリトリーで何気にトップを張っていた姿はよく覚えてもいる。
圧倒的な人気を博したり、あるいはプロモーターの大プッシュにて売り出した訳でもなかった。
ただ斎藤の全ての力量と努力が、衝撃でなく、薫習として、斎藤にアメリカマットでの大切な役回りを常に与えてきたのであろう。
西村修がアメリカでいかに生活しようと、経済活動としてのプロレス、生産活動としてのプロレスを行ない、対価を稼ぎ、飯を食い続けてきたマサ斎藤の力量に及ぶ事は無いはずである。
私が印象深いのは、動画の日野皓正との対談の中の言葉の数々だ。
「心遣い」という言葉を使った。
どれだけ綺麗な言葉を使いこなしても、無機的であれば、単なる言葉遣いでしか成らない。
しかし斎藤のいう「言葉遣い」ならぬ「心遣い」の意味を果たして何人の人が理解出来るであろう。
「気配り」の事だろうと思えば、そこで終わりだ。
斎藤は大学を出たが、とりたてて漢字や熟語を知る男でもない。
だからこそ、自分の心の中を、表す言葉を必死に探り出し言葉にできる男でもある。
生きた身体感覚の言葉なのだ。
あるいは「Go for broke」という言葉がある。
私的な事だが、私は、結果の事を少しでも考えて挑んだ事に対して、何か良い結果を得た事はレスリンクの試合や実人生を含めて一度も無い。
結果の事は考えずに、時間内のベストを尽くす。
時間内の最善を尽くす。
結果的にそれが良い結果をもたらす事が多かった。
何かの本で知った事柄でもない。
私の実体験の失敗から得た言葉だ。
最近流行の成功哲学の類いに夢中な人々に一言申し挙げたいが、あらかじめ答えの出たカンニングペーパー的な成功哲学の本に夢中になり最短距離を目指すよりも、少しでも自分の実体験からの言葉を作る事が何よりも肝心である。
マサ斎藤の「Go for broke」という言葉は、成功哲学本のカンニングペーパーではなく、実生活の試練の末に掴んだリアルに生きた言葉だ。
私が好きなマサ斎藤がもう一ついる。
ジェシー・ベンチュラに名刺を渡そうと、指につばをつけて名刺を取り出すマサの振る舞いだ。
無機的なビジネスマナーに汚染された連中たちは、この斎藤の有機的・アナログ的な美しい振る舞いを見れば良い。
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五輪まで出た後でプロ入りしたレスラーは多いが、プロレスを愛し馴染んだレスラーは意外と少ない。
そういう意味で、長州、中西と並んで、マサ斎藤はアマチュアレスラーであった事を観る側が忘れるくらいプロに馴染んだレスラーでもある。
それは斎藤のプロ入り後に消費した熱量が、オリンピックを目指して汗を流した日々と、同等もしくは、それ以上である事を物語っているのだと私は思う。
私は70年代アメリカンプロレスの大ファンでもあったので、当時の斎藤が、アメリカの各テリトリーで何気にトップを張っていた姿はよく覚えてもいる。
圧倒的な人気を博したり、あるいはプロモーターの大プッシュにて売り出した訳でもなかった。
ただ斎藤の全ての力量と努力が、衝撃でなく、薫習として、斎藤にアメリカマットでの大切な役回りを常に与えてきたのであろう。
西村修がアメリカでいかに生活しようと、経済活動としてのプロレス、生産活動としてのプロレスを行ない、対価を稼ぎ、飯を食い続けてきたマサ斎藤の力量に及ぶ事は無いはずである。
私が印象深いのは、動画の日野皓正との対談の中の言葉の数々だ。
「心遣い」という言葉を使った。
どれだけ綺麗な言葉を使いこなしても、無機的であれば、単なる言葉遣いでしか成らない。
しかし斎藤のいう「言葉遣い」ならぬ「心遣い」の意味を果たして何人の人が理解出来るであろう。
「気配り」の事だろうと思えば、そこで終わりだ。
斎藤は大学を出たが、とりたてて漢字や熟語を知る男でもない。
だからこそ、自分の心の中を、表す言葉を必死に探り出し言葉にできる男でもある。
生きた身体感覚の言葉なのだ。
あるいは「Go for broke」という言葉がある。
私的な事だが、私は、結果の事を少しでも考えて挑んだ事に対して、何か良い結果を得た事はレスリンクの試合や実人生を含めて一度も無い。
結果の事は考えずに、時間内のベストを尽くす。
時間内の最善を尽くす。
結果的にそれが良い結果をもたらす事が多かった。
何かの本で知った事柄でもない。
私の実体験の失敗から得た言葉だ。
最近流行の成功哲学の類いに夢中な人々に一言申し挙げたいが、あらかじめ答えの出たカンニングペーパー的な成功哲学の本に夢中になり最短距離を目指すよりも、少しでも自分の実体験からの言葉を作る事が何よりも肝心である。
マサ斎藤の「Go for broke」という言葉は、成功哲学本のカンニングペーパーではなく、実生活の試練の末に掴んだリアルに生きた言葉だ。
私が好きなマサ斎藤がもう一ついる。
ジェシー・ベンチュラに名刺を渡そうと、指につばをつけて名刺を取り出すマサの振る舞いだ。
無機的なビジネスマナーに汚染された連中たちは、この斎藤の有機的・アナログ的な美しい振る舞いを見れば良い。
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中邑真輔は誰の為に/プロレス村のスターで終わるな!
安田忠男が大晦日のリングでバンナを破った後、年明けの新日本プロレスの東京ドームで挨拶する安田に新日本のファンは大歓声を送った。
総合で勝った安田を、自分たちの誉れとし、安田を讃えるファン心理が爆発したのである。
安田と一緒に大晦日のリングに上がった永田は、格闘技イベントの会場において入場時、最大の人気を博した。
総合に挑む永田を応援しようと大声援を送ったのは、間違いなく、プロレスファンでもあった。
まだプロレスファンというよりも、新日本のファンが「強さ」を選手への憧憬の大きな指針としていた時代の事だ。
プロレスラーが強い事を確認出来た上で、安心して、純度の高いプロレスも楽しむ事が出来る。
そういう「強さ」のイメージが、いかにプロレスに大切かを皆、知っているのである。
しかし「強さ」を示す為には、まず、「闘う事」抜きにしては始まらない。
そういう意味で永田は、私の心の中では、闘った事の無い全プロレスラーよりも遥かに「強い」レスラーそのものである。
なのに、闘いの場に出て、強さのイメージを無くした、幻想を無くしたと嘆くのが、新日本のファンでもあった。
永田は闘いの場に出た事で、実は、プロレスの強さの幻影を守ったのである。
都合の悪い幻影だけを見て、等身大のレスラーの姿に呆れ、多くのファンは、リアルファイトへ挑むレスラーたちを反対し始めた。
しかし、闘う事を遂行したレスラーを、もう少し、リスペクトするファンの気風があれば、能動的に永田への幻想を築き上げられるファンがいれば、私はここまで新日本の強さのイメージが崩壊する事は無かったのだと思っている。
かつて新日本のリングには、強さのイメージ遵守役のレスラーたちが何人もいた。
前座や若手に、それらのプロレスラーたちが一杯いたからこそ、団体としての「強さのイメージ」を維持出来たのである。
もし、新日本が今のような「激しい純プロレス」を展開し続けても、新日本が潤う事は絶対に有り得ない。
「純プロレス」を遂行する為には、実は、例えばジャンボ鶴田、ノア、WWEのように、「強さのイメージ」を守る事が前提である事を、新日本自身が忘れてしまっているのだ。
純プロレスこそ、強さのイメージがあってこそ、観客も楽しめるのである。
「強さのイメージ」を持たない純プロレスは、実はインディーや学生プロレスと何ら変わらないのだ。
以上の話は、新日本がこのまま、純プロレスを展開するならという前提での話である。
何もリアルファイトに挑む事が、強さを証明する唯一の場でも無い。
リアルファイトを行なわなくとも、実はプロレスの場でこそ、強さと闘いのイメージを作り上げられた闘いの場であったのである。
そうやって猪木も前田も長州も永田も、強さのイメージを能動的に創り上げていったのだ。
今の新日本は、かつての能動的でリアルな主導権争いをプロレスの枠内で行なってきたような「闘い」にも、興味が無いようである。
中邑真輔はあれだけ観客を沸かせたのだから、純プロレス的な上手さが上達しているようである。
しかし仲邑が、もし、このまま純プロレス的な上手い世界の中に閉じこもってしまうなら、いずれ仲邑の「強さのイメージ」の貯金も無くなってしまうだろう。
プロレスが上手くなった仲邑は、プロレス村の10人の住人には必要な存在である。
しかしプロレスが上手く、そして本当に闘える仲邑は世間の100人が振り向く逸材でもある。
何度も記すが、「闘い」とは総合のリング、リアルファイトの場でしかないというわけでは無い。
プロレスの枠内で良い、総合でも良い。
仲邑には「闘うプロレスラー」であって欲しいと私は思っている。
格闘技プロレスと皆が一言で片付けるので、格闘技プロレスを分類してみました
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総合で勝った安田を、自分たちの誉れとし、安田を讃えるファン心理が爆発したのである。
安田と一緒に大晦日のリングに上がった永田は、格闘技イベントの会場において入場時、最大の人気を博した。
総合に挑む永田を応援しようと大声援を送ったのは、間違いなく、プロレスファンでもあった。
まだプロレスファンというよりも、新日本のファンが「強さ」を選手への憧憬の大きな指針としていた時代の事だ。
プロレスラーが強い事を確認出来た上で、安心して、純度の高いプロレスも楽しむ事が出来る。
そういう「強さ」のイメージが、いかにプロレスに大切かを皆、知っているのである。
しかし「強さ」を示す為には、まず、「闘う事」抜きにしては始まらない。
そういう意味で永田は、私の心の中では、闘った事の無い全プロレスラーよりも遥かに「強い」レスラーそのものである。
なのに、闘いの場に出て、強さのイメージを無くした、幻想を無くしたと嘆くのが、新日本のファンでもあった。
永田は闘いの場に出た事で、実は、プロレスの強さの幻影を守ったのである。
都合の悪い幻影だけを見て、等身大のレスラーの姿に呆れ、多くのファンは、リアルファイトへ挑むレスラーたちを反対し始めた。
しかし、闘う事を遂行したレスラーを、もう少し、リスペクトするファンの気風があれば、能動的に永田への幻想を築き上げられるファンがいれば、私はここまで新日本の強さのイメージが崩壊する事は無かったのだと思っている。
かつて新日本のリングには、強さのイメージ遵守役のレスラーたちが何人もいた。
前座や若手に、それらのプロレスラーたちが一杯いたからこそ、団体としての「強さのイメージ」を維持出来たのである。
もし、新日本が今のような「激しい純プロレス」を展開し続けても、新日本が潤う事は絶対に有り得ない。
「純プロレス」を遂行する為には、実は、例えばジャンボ鶴田、ノア、WWEのように、「強さのイメージ」を守る事が前提である事を、新日本自身が忘れてしまっているのだ。
純プロレスこそ、強さのイメージがあってこそ、観客も楽しめるのである。
「強さのイメージ」を持たない純プロレスは、実はインディーや学生プロレスと何ら変わらないのだ。
以上の話は、新日本がこのまま、純プロレスを展開するならという前提での話である。
何もリアルファイトに挑む事が、強さを証明する唯一の場でも無い。
リアルファイトを行なわなくとも、実はプロレスの場でこそ、強さと闘いのイメージを作り上げられた闘いの場であったのである。
そうやって猪木も前田も長州も永田も、強さのイメージを能動的に創り上げていったのだ。
今の新日本は、かつての能動的でリアルな主導権争いをプロレスの枠内で行なってきたような「闘い」にも、興味が無いようである。
中邑真輔はあれだけ観客を沸かせたのだから、純プロレス的な上手さが上達しているようである。
しかし仲邑が、もし、このまま純プロレス的な上手い世界の中に閉じこもってしまうなら、いずれ仲邑の「強さのイメージ」の貯金も無くなってしまうだろう。
プロレスが上手くなった仲邑は、プロレス村の10人の住人には必要な存在である。
しかしプロレスが上手く、そして本当に闘える仲邑は世間の100人が振り向く逸材でもある。
何度も記すが、「闘い」とは総合のリング、リアルファイトの場でしかないというわけでは無い。
プロレスの枠内で良い、総合でも良い。
仲邑には「闘うプロレスラー」であって欲しいと私は思っている。
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2008年04月05日
プロレス昭和異人伝勝手に推薦・おすすめ格闘技ブログ紹介
私が格闘技の情報を求めるときに、真っ先にアクセスするのが、K-1心中様とOMASUKIFIGHT様です。
K-1心中様は情報系というよりも、話題のテーマ、あるいは、あまり人がテーマにしない事に対して、どちらに対しても、独自の考察が溢れる記事が満載しています。
管理人様の新様はジャンルへの忌憚なき鋭い舌鋒にて、批判を恐れず、常に問題提起を行なっています。
その上に、根底に流れるジャンルへのニュートラルな愛が溢れているからこそ、多くの人に長く支持されている老舗ブログでもあります。
私も記事を書く上で、常に、刺激と力を頂いている、私の敬愛するブログ様です。
OMASUKIFIGHT様は、海外含め貴重な情報を能動的にセレクトし、管理人様の見解も含め、紹介してくれる有難いブログです。
絶対に無くては成らないハイセンスなセレクトショップ的貴重ブログだと思います。
情報洪水の現在の時代に置いても、OMASUKIFIGHT様のブログを読んでいると、私はかつて子供の頃、読んでいた月刊ゴングを思い出させてもらうくらい「情報」と「文字」の有り難みを感じてしまいます。
二つのブログ様の趣は異なりますが、一言で記すなら、共に、上質感溢れるブログであるという事でしょうか。
もちろん、当然どちらも無料のブログですが、例え、仮に、アクセスするだけで対価が発生しても納得いくような記事が満載のブログです。
共にお馴染みのブログ様ですが、もし、まだご覧に成った事が無い方がおられましたら、是非、ご覧下さい。
プロレス編は後日、また記したいと思っています。
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K-1心中様は情報系というよりも、話題のテーマ、あるいは、あまり人がテーマにしない事に対して、どちらに対しても、独自の考察が溢れる記事が満載しています。
管理人様の新様はジャンルへの忌憚なき鋭い舌鋒にて、批判を恐れず、常に問題提起を行なっています。
その上に、根底に流れるジャンルへのニュートラルな愛が溢れているからこそ、多くの人に長く支持されている老舗ブログでもあります。
私も記事を書く上で、常に、刺激と力を頂いている、私の敬愛するブログ様です。
OMASUKIFIGHT様は、海外含め貴重な情報を能動的にセレクトし、管理人様の見解も含め、紹介してくれる有難いブログです。
絶対に無くては成らないハイセンスなセレクトショップ的貴重ブログだと思います。
情報洪水の現在の時代に置いても、OMASUKIFIGHT様のブログを読んでいると、私はかつて子供の頃、読んでいた月刊ゴングを思い出させてもらうくらい「情報」と「文字」の有り難みを感じてしまいます。
二つのブログ様の趣は異なりますが、一言で記すなら、共に、上質感溢れるブログであるという事でしょうか。
もちろん、当然どちらも無料のブログですが、例え、仮に、アクセスするだけで対価が発生しても納得いくような記事が満載のブログです。
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プロレス編は後日、また記したいと思っています。
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最強神話を信じる期間は無駄なのか?/ヒョードルは最強か?
猪木がウィリーと闘う時、私は猪木は殺されると思っていました。
猪木直撃世代の私でさえ、当時の極真空手幻想というものは、物凄いものがあったからです。
子供の頃より、プロレスファンの私でしたが、劇画「空手バカ一代」は全巻購入し、夢中になった劇画でした。
私が洗脳されたのは、プロレスや猪木ではなく、この劇画でした。
この劇画を、小さな子供が読むと、極真の選手と闘えば、プロレスラーやプロボクサーは数分で倒されるイメージを刻印されてしまいます。
極真の初期の大会に、ムエタイ選手やら、中国拳法の選手が実際に参戦しました。
フルコンタクト空手ルールという名称も無かった時代、極真の独自ルールの中で、ムエタイ選手が牙を抜かれていることも分からず、私は劇画通りの極真の強さに感心したものです。
しかし、K-1や、総合格闘技の出現によって、等身大の極真空手の姿が露呈され、劇画的な幻想的強さは消え去りました。
反面、確立された長い歴史を持つ競技ジャンルとしての体力・精神力などのレベルの高さ等、等身大の評価を得ていることも事実でしょう。
プロレスも幻想の下に成り立っていたジャンルです。
私は、猪木の格闘技戦を見て幻想を抱いたこと等ありません。
猪木の幻想は、格闘技戦という「純プロレス」で作られた物ではないと私は思っています。
格闘技戦はアリ戦、ペールワン戦を除き、あくまで猪木に似つかわしく無い「純プロレス」の世界でしかないと私は思っているからです。
格闘技プロレスと皆が一言で片付けるので、格闘技プロレスを分類してみました
しかし、自分たちの土俵に他ジャンルの選手を挙げ、プロレス的勝敗を付けさせるやり方によって、プロレスの幻想を作り上げようとしたことは事実です。
猪木にパックドロップで投げられるルスカを、当時の柔道家たちはどのような想いで眺めていたのでしょうか?
マスコミによる道場神話を利用し、猪木の格闘技戦的手法を受け継ぎ、最強神話を形成していったのがUWFです。
私は当時アマチュアレスリングに没頭していましたので、レスリングのエリートたちが、そんな馬鹿なと呆れるほど、弱々しくUWFの選手にやられる姿は私はあまりにもショックでした。
他ジャンルの選手たちを自分たちの土俵に挙げる手法は、K-1も実は意外とよく使っていたと思います。
自分たちのルールの枠の中において、他ジャンルの選手を血祭りに上げる光景は、一時のK-1の独断場でした。
しかし、例え、自分たちのルールに、他ジャンルの選手を参戦させるというやり方がであっても、猪木の格闘技戦、UWFとは大きく異なる部分があります。
言うまでもなく、リアルファイトであるということです。
相手の土俵に上がるうえに、かつ、結果まで決められながら、格闘技戦やUWFのリングに上がった他ジャンルの選手たちと比べて、はるかに公平な立場での参戦です。
例えルールに不慣れであっても、リングの上で、勝利を掴める可能性が発生する場と、UWFが五輪選手等を参戦させ、やってきたプロレス的最強演出の場は、根本的に異なるものです。
K-1創設前のイベントで、キックとフルコンタクト空手のミックス・ルールでモーリス・スミスと佐竹が闘った事がありました。
フルコンタクト空手ルールのラウンドの中に、自分たちの土俵を探り出し、格上のスミスを撃退しようとした正道会館の意図に、私は少し白けた気分を持ってしまいました。
しかし、結果、スミスは経験した事の無いフルコンタクト空手のルールのラウンドでも、終始、佐竹を圧倒しました。
自分の土俵に挙げるといっても、そこはリスクを伴うリアルな闘いの場です。
何のリスクも無く、涼しい顔でカズラスキーを約束的に撃退した高田と、自分の土俵でスミスに圧倒された佐竹は、どちらも「同じ土俵」といいながらも、全く別の手法による最強の演出法を試みたと私は思っています。
一時のPRIDEの最強神話に対して、幻想だったという声も度々聞きます。
ヒョードルが最強か否かという論争があります。
実は私はヒョードルを必ず倒せると思っている格闘家を5人は挙げられます。
なので、私自身、ヒョードルを最強と思っているわけではありません。
しかし、実際、その選手たちとヒョードルは闘っていません。
その選手たちがヒョードルに勝つと思っているのは、私の確信であり、予想でしかありません。
現実の実績ではないのです。
そういう意味で、総合格闘技というどのようなジャンルの選手であれ、公平に技術を発揮出来る、競技において、ヒョードルが残してきた実績は「最強」というにふさわしいものだと思います。
最強というものは、そういう実績とイメージを持つ選手に対しての、称号のようなものであり、科学的に裏付けた普遍的なものでもありません。
それに対して、ヒョードルは最強といわれる事に意義あり、最強というファンは妄信的だという声も多いようです。
しかし、それだけの実績とイメージを持つ選手に、あるいは仮にイメージだけ、つまり幻想だけの選手に対してであっても、ファンがどのような想いを持とうが、本当は勝手な事なのです。
何かを信じる人たちに、声高に何かを叫んでも、絶対に聞く耳を持たれません。
というか、私は、何かを信じる期間というものは、人の人生に必ず必要な事だと思っています。
私は昨年、プロレスは最近まで真剣勝負だと思っていたという奇特な30代の人と出会いました。
しかし、そのファンはプロレスを真剣勝負だと信じてきた期間の事を恥ずかしいとも何とも思っていません。
また真剣勝負ではなかった事で、裏切られたとも思っていません。
その知り合いの場合は、いささか信じる期間が長過ぎた感も否めませんが、それでも私は、本来、信じるジャンルとの付き合い方はそういうもので良いのではないかとも思っています。
時代、時代で、必ず最強を掲げるジャンルは現れるものです。
そして、それらを信じるファンが熱を生み出すジャンルは、それぞれの時代において、間違いなく圧倒的なジャンルなのです。
幻想は絶対に必要です。しかし、幻想の悪用率が高いほど、最強のジャンルの主役も自然の流れで時期が来れば交代するものでしょう。
だからこそ、皆、安心して、幻想に振り回されても良いのだと私は思っています。
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猪木直撃世代の私でさえ、当時の極真空手幻想というものは、物凄いものがあったからです。
子供の頃より、プロレスファンの私でしたが、劇画「空手バカ一代」は全巻購入し、夢中になった劇画でした。
私が洗脳されたのは、プロレスや猪木ではなく、この劇画でした。
この劇画を、小さな子供が読むと、極真の選手と闘えば、プロレスラーやプロボクサーは数分で倒されるイメージを刻印されてしまいます。
極真の初期の大会に、ムエタイ選手やら、中国拳法の選手が実際に参戦しました。
フルコンタクト空手ルールという名称も無かった時代、極真の独自ルールの中で、ムエタイ選手が牙を抜かれていることも分からず、私は劇画通りの極真の強さに感心したものです。
しかし、K-1や、総合格闘技の出現によって、等身大の極真空手の姿が露呈され、劇画的な幻想的強さは消え去りました。
反面、確立された長い歴史を持つ競技ジャンルとしての体力・精神力などのレベルの高さ等、等身大の評価を得ていることも事実でしょう。
プロレスも幻想の下に成り立っていたジャンルです。
私は、猪木の格闘技戦を見て幻想を抱いたこと等ありません。
猪木の幻想は、格闘技戦という「純プロレス」で作られた物ではないと私は思っています。
格闘技戦はアリ戦、ペールワン戦を除き、あくまで猪木に似つかわしく無い「純プロレス」の世界でしかないと私は思っているからです。
格闘技プロレスと皆が一言で片付けるので、格闘技プロレスを分類してみました
しかし、自分たちの土俵に他ジャンルの選手を挙げ、プロレス的勝敗を付けさせるやり方によって、プロレスの幻想を作り上げようとしたことは事実です。
猪木にパックドロップで投げられるルスカを、当時の柔道家たちはどのような想いで眺めていたのでしょうか?
マスコミによる道場神話を利用し、猪木の格闘技戦的手法を受け継ぎ、最強神話を形成していったのがUWFです。
私は当時アマチュアレスリングに没頭していましたので、レスリングのエリートたちが、そんな馬鹿なと呆れるほど、弱々しくUWFの選手にやられる姿は私はあまりにもショックでした。
他ジャンルの選手たちを自分たちの土俵に挙げる手法は、K-1も実は意外とよく使っていたと思います。
自分たちのルールの枠の中において、他ジャンルの選手を血祭りに上げる光景は、一時のK-1の独断場でした。
しかし、例え、自分たちのルールに、他ジャンルの選手を参戦させるというやり方がであっても、猪木の格闘技戦、UWFとは大きく異なる部分があります。
言うまでもなく、リアルファイトであるということです。
相手の土俵に上がるうえに、かつ、結果まで決められながら、格闘技戦やUWFのリングに上がった他ジャンルの選手たちと比べて、はるかに公平な立場での参戦です。
例えルールに不慣れであっても、リングの上で、勝利を掴める可能性が発生する場と、UWFが五輪選手等を参戦させ、やってきたプロレス的最強演出の場は、根本的に異なるものです。
K-1創設前のイベントで、キックとフルコンタクト空手のミックス・ルールでモーリス・スミスと佐竹が闘った事がありました。
フルコンタクト空手ルールのラウンドの中に、自分たちの土俵を探り出し、格上のスミスを撃退しようとした正道会館の意図に、私は少し白けた気分を持ってしまいました。
しかし、結果、スミスは経験した事の無いフルコンタクト空手のルールのラウンドでも、終始、佐竹を圧倒しました。
自分の土俵に挙げるといっても、そこはリスクを伴うリアルな闘いの場です。
何のリスクも無く、涼しい顔でカズラスキーを約束的に撃退した高田と、自分の土俵でスミスに圧倒された佐竹は、どちらも「同じ土俵」といいながらも、全く別の手法による最強の演出法を試みたと私は思っています。
一時のPRIDEの最強神話に対して、幻想だったという声も度々聞きます。
ヒョードルが最強か否かという論争があります。
実は私はヒョードルを必ず倒せると思っている格闘家を5人は挙げられます。
なので、私自身、ヒョードルを最強と思っているわけではありません。
しかし、実際、その選手たちとヒョードルは闘っていません。
その選手たちがヒョードルに勝つと思っているのは、私の確信であり、予想でしかありません。
現実の実績ではないのです。
そういう意味で、総合格闘技というどのようなジャンルの選手であれ、公平に技術を発揮出来る、競技において、ヒョードルが残してきた実績は「最強」というにふさわしいものだと思います。
最強というものは、そういう実績とイメージを持つ選手に対しての、称号のようなものであり、科学的に裏付けた普遍的なものでもありません。
それに対して、ヒョードルは最強といわれる事に意義あり、最強というファンは妄信的だという声も多いようです。
しかし、それだけの実績とイメージを持つ選手に、あるいは仮にイメージだけ、つまり幻想だけの選手に対してであっても、ファンがどのような想いを持とうが、本当は勝手な事なのです。
何かを信じる人たちに、声高に何かを叫んでも、絶対に聞く耳を持たれません。
というか、私は、何かを信じる期間というものは、人の人生に必ず必要な事だと思っています。
私は昨年、プロレスは最近まで真剣勝負だと思っていたという奇特な30代の人と出会いました。
しかし、そのファンはプロレスを真剣勝負だと信じてきた期間の事を恥ずかしいとも何とも思っていません。
また真剣勝負ではなかった事で、裏切られたとも思っていません。
その知り合いの場合は、いささか信じる期間が長過ぎた感も否めませんが、それでも私は、本来、信じるジャンルとの付き合い方はそういうもので良いのではないかとも思っています。
時代、時代で、必ず最強を掲げるジャンルは現れるものです。
そして、それらを信じるファンが熱を生み出すジャンルは、それぞれの時代において、間違いなく圧倒的なジャンルなのです。
幻想は絶対に必要です。しかし、幻想の悪用率が高いほど、最強のジャンルの主役も自然の流れで時期が来れば交代するものでしょう。
だからこそ、皆、安心して、幻想に振り回されても良いのだと私は思っています。
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2008年04月03日
大衆とマニアの融合体・70年代全日本プロレスの完成形/ファンクス対ブッチャー・シーク動画
前々から記している通り、70年代の全日本フロレスは、マニア向けと、一般大衆向けの二本立ての世界であった。
子供なら眠気を起こしそうなオーソドックスなNWAの伝統プロレスを遂行する地味な、それでいて権威溢れる名レスラーたちの、マニア路線。
そしてブッチャーや、マスカラスを中心とした大衆路線。
その路線がシリーズ毎に、仕切りされていた、世界でもあった。
マニアの核の熱気もあり、かつ、大衆の飛びつく世界もある。
しかし、それらが一度に見られることは無かった。
そういう意味で、このオープンタッグ決勝は、エポックメイキング的な試合でもあった。
NWA的地味な名レスラーと、大衆プロレスラーとが、闘い、マニアも大衆も同じ時間に共存する新しい世界を構築したのだ。
多くの昭和ファンにとって印象深いのは、テリーの奮闘ぶりだ。
腕にフォークを「突き刺させ」本物のカットによる流血で、おどろおどろしいリアリティを醸し出した。
リング下に逃げたテリーが、セコンドに包帯を巻かれ、リングに復帰する。
フェイクであれ、本物の血と、本物の熱量を消費した男が、リングにカムバックする姿は感動的だ。
しかし、どこか笑みもこぼれる。
分かっていても、くそ真面目に競技スポーツとしての体裁を借りたジャンルを全うする、レスラー、放送席、観客。
三者の素晴らしき共犯関係。
カミングアウト組やハッスルには到底生み出せない、プロレス特有の泣き笑いの世界がここにある。
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子供なら眠気を起こしそうなオーソドックスなNWAの伝統プロレスを遂行する地味な、それでいて権威溢れる名レスラーたちの、マニア路線。
そしてブッチャーや、マスカラスを中心とした大衆路線。
その路線がシリーズ毎に、仕切りされていた、世界でもあった。
マニアの核の熱気もあり、かつ、大衆の飛びつく世界もある。
しかし、それらが一度に見られることは無かった。
そういう意味で、このオープンタッグ決勝は、エポックメイキング的な試合でもあった。
NWA的地味な名レスラーと、大衆プロレスラーとが、闘い、マニアも大衆も同じ時間に共存する新しい世界を構築したのだ。
多くの昭和ファンにとって印象深いのは、テリーの奮闘ぶりだ。
腕にフォークを「突き刺させ」本物のカットによる流血で、おどろおどろしいリアリティを醸し出した。
リング下に逃げたテリーが、セコンドに包帯を巻かれ、リングに復帰する。
フェイクであれ、本物の血と、本物の熱量を消費した男が、リングにカムバックする姿は感動的だ。
しかし、どこか笑みもこぼれる。
分かっていても、くそ真面目に競技スポーツとしての体裁を借りたジャンルを全うする、レスラー、放送席、観客。
三者の素晴らしき共犯関係。
カミングアウト組やハッスルには到底生み出せない、プロレス特有の泣き笑いの世界がここにある。
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昭和のリアル・アウトサイダー・プロレスラー喧嘩屋列伝
私は、いささか、前田日明の新イベントに対して食傷気味です。
実際にイベントを見た訳では無く、数点の写真と動画を観ただけなのですが、それだけでお腹一杯になってしまいました。
喧嘩等一度もしたことも無い大人しい人たちにとっては、あのイベントは、かなり斬新な世界に思えたことでしょう。
しかし私は、暴力的な匂いを格闘技にまで求めたくはありません。
無論、キャラクターとしての喧嘩屋対格闘家の試合は好きですが。
しかし前田のイベント、アウトサイダーに対して、一つ、思い出した事があります。
柔道とレスリングにかなりの精を出した後の私でさえ、私の父親には喧嘩で勝てませんでした。
かといって例えばリングの中等に入れば、私は父親を簡単に倒せたのかも知れません。
しかし、レフリーもいない、ルールも無い、そういう実生活の寺内勘太郎一家のような闘いにおいては、勝てなかったという事です。
父親の場合、格闘技を習う必要等ありませんでした。
人並みはずれた腕っ節の強さを持っていましたが、その腕っ節に頼らずとも、誰も恐れること無く、強気で、実生活を渡り歩ける度胸を持っていたからです。
しかし私は父親ほど、根っから、気性も強くありませんし、度胸もありません。
だからこそ、強くなる為には、レスリングやプロレスが必要でした。
そういう意味で、私は昔から、何となく、このレスラーは格闘技経験云々ではなく、根っから強い人間なんだなと思うレスラーに憧れることが多かったものです。
そこで、今回、格闘技経験の有る無しに関わらず、このレスラーは、実生活で格闘技等必要として無いくらい強いと思うレスラーたちを記していきたいと思います。
まず、昭和のファンにはおなじみ、ディック・マードックです。
道場で、日々、水たまりの汗の中で精進し続ける新日本のレスラーたちが、日々、精進どころか自分たちが流した汗の量以上のビールを飲み干すだけの男を、恐れ、いいように試合をリードされました。
あの前田でさえ、黙ってマードックの痛い鼻っ柱パンチを我慢し続けたのです。
そのマードックの系譜を受け継ぐのは、当然、橋本真也でしょう。
好きな物を食べて好きな事をして享楽に励みつつも、これまた強くなる為に日々、汗を流し節制する同僚たちの中においても、圧倒的なボスの座を維持し続けました。
おそらく橋本は格闘技等習わなくともクラスのボスであり続けるような根っからの強い人間でしょう。
次に、当然、ケンドー・ナガサキです。
リアルファイトにおいて現実の闘いの強さを露呈してしまったナガサキですが、ナガサキの強さとはあくまでリング外でのことです。
かつて同僚レスラーが出場したブラジルの総合大会にナガサキが同行した時のことです。
格闘家の平直之もその大会に出場していました。
リングの上のリアルファイトで格闘家の強さを発揮した平でしたが、トイレに行く時、荒い観客に怯え、ナガサキについてきてくれるよう頼んだのは有名なエピソードです。
やはり、星野勘太郎も挙げざるを得ません。
神戸・長田の星野兄弟として、堅気でありながら、本職さえ一目置く、その気性の激しさは、ある意味、新日本のイケイケイメージを維持する為の宝そのものでもありました。
次にポール・オーンドルフです。
WCWにおいて、我がまま言い放題の巨漢荒くれ屋ベイダーに対して、いきなりストレートパンチをぶちこんだ男前レスラーです。
結局オーンドルフがやられた。
あるいはベイダーが倒れた所で周囲に分けられた。
その喧嘩の結果については、色々な説がありますが、肝心なのは、あのベイダーを殴れる昭和のプロレスラーの気性の激しさでしょう。
最後は、意外でしょうが、長州力です。
体育会系的なプロレス団体の中で、長州はその本当に激しい気性を、先輩にも、後輩にも見せることはありません。
長州が弱気を見せる時は、必ず、体育会系の秩序の遵守精神が垣間見えます。
不謹慎ですが、プロレスラーが全員、ヤクザ組織に属したとします。
そうなると誰も長州力以上にその世界で出世することは不可能でしょう。
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実際にイベントを見た訳では無く、数点の写真と動画を観ただけなのですが、それだけでお腹一杯になってしまいました。
喧嘩等一度もしたことも無い大人しい人たちにとっては、あのイベントは、かなり斬新な世界に思えたことでしょう。
しかし私は、暴力的な匂いを格闘技にまで求めたくはありません。
無論、キャラクターとしての喧嘩屋対格闘家の試合は好きですが。
しかし前田のイベント、アウトサイダーに対して、一つ、思い出した事があります。
柔道とレスリングにかなりの精を出した後の私でさえ、私の父親には喧嘩で勝てませんでした。
かといって例えばリングの中等に入れば、私は父親を簡単に倒せたのかも知れません。
しかし、レフリーもいない、ルールも無い、そういう実生活の寺内勘太郎一家のような闘いにおいては、勝てなかったという事です。
父親の場合、格闘技を習う必要等ありませんでした。
人並みはずれた腕っ節の強さを持っていましたが、その腕っ節に頼らずとも、誰も恐れること無く、強気で、実生活を渡り歩ける度胸を持っていたからです。
しかし私は父親ほど、根っから、気性も強くありませんし、度胸もありません。
だからこそ、強くなる為には、レスリングやプロレスが必要でした。
そういう意味で、私は昔から、何となく、このレスラーは格闘技経験云々ではなく、根っから強い人間なんだなと思うレスラーに憧れることが多かったものです。
そこで、今回、格闘技経験の有る無しに関わらず、このレスラーは、実生活で格闘技等必要として無いくらい強いと思うレスラーたちを記していきたいと思います。
まず、昭和のファンにはおなじみ、ディック・マードックです。
道場で、日々、水たまりの汗の中で精進し続ける新日本のレスラーたちが、日々、精進どころか自分たちが流した汗の量以上のビールを飲み干すだけの男を、恐れ、いいように試合をリードされました。
あの前田でさえ、黙ってマードックの痛い鼻っ柱パンチを我慢し続けたのです。
そのマードックの系譜を受け継ぐのは、当然、橋本真也でしょう。
好きな物を食べて好きな事をして享楽に励みつつも、これまた強くなる為に日々、汗を流し節制する同僚たちの中においても、圧倒的なボスの座を維持し続けました。
おそらく橋本は格闘技等習わなくともクラスのボスであり続けるような根っからの強い人間でしょう。
次に、当然、ケンドー・ナガサキです。
リアルファイトにおいて現実の闘いの強さを露呈してしまったナガサキですが、ナガサキの強さとはあくまでリング外でのことです。
かつて同僚レスラーが出場したブラジルの総合大会にナガサキが同行した時のことです。
格闘家の平直之もその大会に出場していました。
リングの上のリアルファイトで格闘家の強さを発揮した平でしたが、トイレに行く時、荒い観客に怯え、ナガサキについてきてくれるよう頼んだのは有名なエピソードです。
やはり、星野勘太郎も挙げざるを得ません。
神戸・長田の星野兄弟として、堅気でありながら、本職さえ一目置く、その気性の激しさは、ある意味、新日本のイケイケイメージを維持する為の宝そのものでもありました。
次にポール・オーンドルフです。
WCWにおいて、我がまま言い放題の巨漢荒くれ屋ベイダーに対して、いきなりストレートパンチをぶちこんだ男前レスラーです。
結局オーンドルフがやられた。
あるいはベイダーが倒れた所で周囲に分けられた。
その喧嘩の結果については、色々な説がありますが、肝心なのは、あのベイダーを殴れる昭和のプロレスラーの気性の激しさでしょう。
最後は、意外でしょうが、長州力です。
体育会系的なプロレス団体の中で、長州はその本当に激しい気性を、先輩にも、後輩にも見せることはありません。
長州が弱気を見せる時は、必ず、体育会系の秩序の遵守精神が垣間見えます。
不謹慎ですが、プロレスラーが全員、ヤクザ組織に属したとします。
そうなると誰も長州力以上にその世界で出世することは不可能でしょう。
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ケン・シャムロックと人食い・義生
UFCが始まった頃、グレイシーを最も苦しめたのはケン・シャムロックであった。
ホイスとの二戦目、実質、勝負には勝っていたと私は思っている。
ステロイド疑惑などがささやかれるシャムロックであるが、その真骨頂は、強烈なレスリングの強さである。
自身は多くを語らないが、アマチュアのエリートから、プロレスファンにおなじみネルソン・ロイヤルの元に弟子入りしたシャムロックは、アマにおいても、プロにおいても、実にベーシックな道を突き進んだ男でもある。
シャムロックのベストバウトは、UFCでのスバーンとの闘いである。
今の時代にこそ、スバーンとシャムロックのスタンドレスリングの激しい応酬を見てもらいたい。
転倒させられたら殺される、それくらいの緊張を持って、金網やロープ際では無く、リング中央で相手と組み合う両者の攻防は、激しく、そしてレスリングエキスパート同士ゆえの美しい踊りのような風情を感じさせてくれた。
結果、スバーンさえ、シャムロックを転倒させる事は至難の業である事が証明された。
そのシャムロックを、リアルに転倒させた最初の日本人が高橋義生であった。
パンクラスの旗揚げから間もない頃、高橋は、シャムロックに対してスリー・ポイント・タックルを決めた。
体力と技術を振り絞った、日本人レスラーの意地であった。
高橋は、UFCにおいて、シンプルな方程式通りに、イズマイウを完封した。
私のような末端のアマチュアレスラーにさえ、高橋の闘いは、レスラーとしての誇りを感じさせてくれるものであった。
高橋は好不調の波が激しい選手である。
しかし、私は菊田迎撃の願いを高橋に託した。
私は高橋が、等身大以上の菊田の幻影を見てしまったのだと思っている。
あせり、落ち着きを無くした高橋は、悟られまいと、余裕を見せるかのような笑顔でリングに立ち、そして自ら飛び出した膝蹴りを捕獲され、両足タックルで転倒させられてしまった。
何とも悔しい一戦であったが、その後も、高橋はまた復調し、また低迷する。
あまりにも長いリアルファイトの歴史の中に身を置いてきたゆえに、高橋のバイオリズムの幸運の波は複雑なものだ。
あの高橋がプロレスに参戦した事は驚いた。
しかし高橋は根っからのプロレスファンでもある男だ。
また、プロ入り後の数年感、形は違えど、プロレスをしていた男なのである。
そんな高橋の誇りとは、プロレスラーとは「タックル」のプロであるとの誇りだ。
格闘技とプロレスとは別だと気持ちを分ける事無く、自身が誇りを持つレスリング技術を発揮して、レスリングのプロとして、プロレスを成立させてほしい。
IGFは、藤原組以上に、高橋のプロレスラーとしての本領が発揮されるリングでもあると私は思っている。
格闘技プロレスと皆が一言で片付けるので、格闘技プロレスを分類してみました
PRIDEファンよ、胸を張れ!/誰にも否定される事の無い想い出/だからこそバブル幻想から離れよ!
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ホイスとの二戦目、実質、勝負には勝っていたと私は思っている。
ステロイド疑惑などがささやかれるシャムロックであるが、その真骨頂は、強烈なレスリングの強さである。
自身は多くを語らないが、アマチュアのエリートから、プロレスファンにおなじみネルソン・ロイヤルの元に弟子入りしたシャムロックは、アマにおいても、プロにおいても、実にベーシックな道を突き進んだ男でもある。
シャムロックのベストバウトは、UFCでのスバーンとの闘いである。
今の時代にこそ、スバーンとシャムロックのスタンドレスリングの激しい応酬を見てもらいたい。
転倒させられたら殺される、それくらいの緊張を持って、金網やロープ際では無く、リング中央で相手と組み合う両者の攻防は、激しく、そしてレスリングエキスパート同士ゆえの美しい踊りのような風情を感じさせてくれた。
結果、スバーンさえ、シャムロックを転倒させる事は至難の業である事が証明された。
そのシャムロックを、リアルに転倒させた最初の日本人が高橋義生であった。
パンクラスの旗揚げから間もない頃、高橋は、シャムロックに対してスリー・ポイント・タックルを決めた。
体力と技術を振り絞った、日本人レスラーの意地であった。
高橋は、UFCにおいて、シンプルな方程式通りに、イズマイウを完封した。
私のような末端のアマチュアレスラーにさえ、高橋の闘いは、レスラーとしての誇りを感じさせてくれるものであった。
高橋は好不調の波が激しい選手である。
しかし、私は菊田迎撃の願いを高橋に託した。
私は高橋が、等身大以上の菊田の幻影を見てしまったのだと思っている。
あせり、落ち着きを無くした高橋は、悟られまいと、余裕を見せるかのような笑顔でリングに立ち、そして自ら飛び出した膝蹴りを捕獲され、両足タックルで転倒させられてしまった。
何とも悔しい一戦であったが、その後も、高橋はまた復調し、また低迷する。
あまりにも長いリアルファイトの歴史の中に身を置いてきたゆえに、高橋のバイオリズムの幸運の波は複雑なものだ。
あの高橋がプロレスに参戦した事は驚いた。
しかし高橋は根っからのプロレスファンでもある男だ。
また、プロ入り後の数年感、形は違えど、プロレスをしていた男なのである。
そんな高橋の誇りとは、プロレスラーとは「タックル」のプロであるとの誇りだ。
格闘技とプロレスとは別だと気持ちを分ける事無く、自身が誇りを持つレスリング技術を発揮して、レスリングのプロとして、プロレスを成立させてほしい。
IGFは、藤原組以上に、高橋のプロレスラーとしての本領が発揮されるリングでもあると私は思っている。
格闘技プロレスと皆が一言で片付けるので、格闘技プロレスを分類してみました
PRIDEファンよ、胸を張れ!/誰にも否定される事の無い想い出/だからこそバブル幻想から離れよ!
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2008年04月02日
PRIDEファンよ、胸を張れ!/誰にも否定される事の無い想い出/だからこそバブル幻想から離れよ!
小説が好きだという人がいる。
しかし気になるのは小説の中身よりも、本の体裁のデザインばかりだという人などいるであろうか?
もちろん本の体裁やカバーデザインなどは職人やアーチストの作る立派な装飾だ。
しかし、書評のコーナーで、小説の中身には触れず、体裁やカバーデザインなどの話に終始する事など、有り得ないことだ。
あるいは小説が好きだといいながら、挿絵なしでは読めない人もいる。
かといって、その挿絵を一行間隔で求める人なども当然いないであろう。
そうなれば漫画を読んだほうが正しい選択である。
また、ポルノ小説を書く作家に対して、もっと子供たちも楽しめるような作風に変えて欲しいと求めるようなファンもいないであろう。
限りなく特化したジャンルの小説を書く作家に対して、限りなくマニアな作品だが、出来るだけ一般の多くの人に読んでもらい作家には金持ちになってもらいたいと思っているファン達がいるとする。
そのファン達が、本の体裁は出来るだけ過剰な演出にして、朗読やBGMのCDもつけよう。
あるいは挿絵も増やして、挿絵は飛び出す絵本方式にしよう。
小説の煽りVとしてDVDもつけよう。
分かりやすさを伝える為に、絵文字も入れよう。
当然、そんな話などするわけはないであろう。
以上は、小説を例として記したが、怖ろしい事に、そういうファンが多く占めるジャンルが存在しているのである。
無論、小説ファンの事ではない。
総合格闘技ファンたちの事である。
正確には、格闘技ファンではなく、バブルが終わったのに、バブル時代と同じ基準を求めてしまう、演出過剰型・格闘技イベントのファンの事である。
恐ろしい事に、彼らは、バブルが去った後も、ひたすらあのバブル時の基準を格闘技イベントに求め続けているのである。
私は中量級の格闘技イベントが大好きである。
それはあまりにも多種多様な娯楽の選択肢を得た、この国の様々な娯楽の中でも、何ら恥じる事の無い、技術と闘争心のスペシャリストたちの奏でる特化した一つのジャンルであると私は思っている。
しかし同時に特化しているからこそ、決して、最大公約数のファンの対象には成り得ないジャンルなのである。
しかし、格闘技バブル全盛時、この中量級格闘技イベントは身の丈を越えた盛況を博してしまった。
私は丁度90年代のプロレスバブル時、女子プロレスやジュニアヘビーなどの特化したジャンルでさえ、大会場を満員にし、盛況を博した現象と同じであると思っている。
例えば、バブルを終え、ゴールデンタイムで破格のデビューを果たした中量級格闘技イベントであったが、等身大の視聴率におさまった。
バブルが終わった事を表す数字である。
等身大の姿を知れば、等身大の場所で適正な市場を、末永く維持する努力をすれば良い。
しかし、悲しいのは、バブルに懲りたイベント側以上に、ファンが、未だ商業主義の幻影を追い求め続けているのである。
視聴率テコ上げのための方法等、テレビ局に任せとけば良いのである。
中量級の格闘技イベントが、低視聴率によって、最大公約数の一般世帯を巻き込む力がない事は示された。
それを持って、一般視聴者に受け入れられる為に、秘策を練ったところで、それが等身大の姿なのであろうか?
ジャンルの等身大の姿を忘れ、ひたすら、身の丈を越えた市場を目指し続ける意味が何処にあるのか私は理解に苦しむ。
最大公約数に支持されなくとも、もう総合格闘技は実際の身の丈にあったジャンルとして、末永く、青い炎として燃え続けるはずである。
その適正な場所が、深夜枠であれば、それで充分では無いかと私は思う。
しかし、ひたすらバブル時の幻影を求め続けるファンは、等身大の姿とは関係のない演出面、TV構成面について頭が一杯のようである。
元々、スポーツのTV中継とは、アナウンサーや解説者が語る説明だけで十分成り立つものである。
上質の小説のための本の体裁やカバーデザインは、素晴らしい包装紙代わりにも成る。
しかし、あまりにも、包装紙の範疇を越えた、常軌を逸した説明過多の演出を持って、一見さん達に対して、ファッションとしてのイベントを提示したのが、バブル時の格闘技イベントの正体である。
そのバブルによって、説明や演出が無ければ格闘技を楽しめないファンを大量生産されてしまったのだ。
昔の例を出して申し訳ないが、昔のプロレスファンは、黙って大人の見る静かなプロレスに付き合わされたものだ。
情報等アナウンサーからしか得られない。
結果、昔のファンほど、ジャンルに対しての自分の感受性のセンサーが研ぎすまされざるを得ない原因となったと私は思っている。
煽りVも、説明Vも、高揚させる為のリズムと音響、そんな過剰な包装紙に包まれた格闘技イベントにしか興奮出来なければ、元々、格闘技等見る事も無いと私は思う。
最初に記した小説の例に戻るが、もし、小説が前述したあまりにも説明過多な装飾品だらけの出版物と成ればどうなるか?
出版のメカニズム等知らない私のような素人でも、大赤字が出る事は察しがつく。
格闘技イベントもそうであった。
大会場が満員に成ってもペイ出来なかった、あまりにも、ファンに尽くして、尽くしまくった大判振る舞いの演出、ラインナップ。
経済的な実体のないイベントの熱によって、多くの人たちが踊らされた。
しかし、それが悪い事だったとは私は思っていない。
ブルースリーや空手バカ一代がきっかけで空手を習う。
タイガーマスクによってプロレスに興味を持つ。
一見さんを取り込んだ格闘技バフルの狂想曲は、ジャンルの入り口として、多くの人たちに格闘技の存在を知らしめたのだ。
しかし、タイガーマスクからプロレスに興味を持ったファンでさえ、後には、ジャンルの核に近づいていく。
あるいは、ブルースリーを見て格闘技を始めたファンも、ブルースリーではないリアルなファイターに憧れる時が来る。
それでも、皆、どれだけジャンルの本質に近づいた所で、自分をジャンルの入り口に導いてくれたタイガーマスクや、ブルース・リーを恨む輩等存在しないはずである。
総合格闘技ファンも、それと同じだ。
格闘技バブルに踊られされた事を恨む必要も無い。
格闘技イベントの中での一夜の熱気は、赤く短い炎として、それぞれのファンの心に刻印されている素晴らしい想い出だ。
またイベント側がファンの為に大判振る舞いのキャスティングをしてくれた一流の格闘家たちの闘いが、ファンに与えてくれた勇気や感動は紛れもなく本物なのだ。
プライド狂想曲が例え、束の間の、バブルの幻影であっても、あれほど多くの人を熱狂させたジャンルを見た一員として胸を張るべきなのだ。
各々の想い出を否定し、悪戯に、PRIDEを否定する声等に耳を傾ける必要などない。
しかし、同時に大切なのは、タイガーマスクに憧れプロレスに入りつつ、リアル・タイガーマスクと成った桜庭のように、バブル時の格闘技イベントの幻想から離れ、現在の等身大の格闘技マーケットの姿を理解し、応援していく事だと、私は思っている。
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しかし気になるのは小説の中身よりも、本の体裁のデザインばかりだという人などいるであろうか?
もちろん本の体裁やカバーデザインなどは職人やアーチストの作る立派な装飾だ。
しかし、書評のコーナーで、小説の中身には触れず、体裁やカバーデザインなどの話に終始する事など、有り得ないことだ。
あるいは小説が好きだといいながら、挿絵なしでは読めない人もいる。
かといって、その挿絵を一行間隔で求める人なども当然いないであろう。
そうなれば漫画を読んだほうが正しい選択である。
また、ポルノ小説を書く作家に対して、もっと子供たちも楽しめるような作風に変えて欲しいと求めるようなファンもいないであろう。
限りなく特化したジャンルの小説を書く作家に対して、限りなくマニアな作品だが、出来るだけ一般の多くの人に読んでもらい作家には金持ちになってもらいたいと思っているファン達がいるとする。
そのファン達が、本の体裁は出来るだけ過剰な演出にして、朗読やBGMのCDもつけよう。
あるいは挿絵も増やして、挿絵は飛び出す絵本方式にしよう。
小説の煽りVとしてDVDもつけよう。
分かりやすさを伝える為に、絵文字も入れよう。
当然、そんな話などするわけはないであろう。
以上は、小説を例として記したが、怖ろしい事に、そういうファンが多く占めるジャンルが存在しているのである。
無論、小説ファンの事ではない。
総合格闘技ファンたちの事である。
正確には、格闘技ファンではなく、バブルが終わったのに、バブル時代と同じ基準を求めてしまう、演出過剰型・格闘技イベントのファンの事である。
恐ろしい事に、彼らは、バブルが去った後も、ひたすらあのバブル時の基準を格闘技イベントに求め続けているのである。
私は中量級の格闘技イベントが大好きである。
それはあまりにも多種多様な娯楽の選択肢を得た、この国の様々な娯楽の中でも、何ら恥じる事の無い、技術と闘争心のスペシャリストたちの奏でる特化した一つのジャンルであると私は思っている。
しかし同時に特化しているからこそ、決して、最大公約数のファンの対象には成り得ないジャンルなのである。
しかし、格闘技バブル全盛時、この中量級格闘技イベントは身の丈を越えた盛況を博してしまった。
私は丁度90年代のプロレスバブル時、女子プロレスやジュニアヘビーなどの特化したジャンルでさえ、大会場を満員にし、盛況を博した現象と同じであると思っている。
例えば、バブルを終え、ゴールデンタイムで破格のデビューを果たした中量級格闘技イベントであったが、等身大の視聴率におさまった。
バブルが終わった事を表す数字である。
等身大の姿を知れば、等身大の場所で適正な市場を、末永く維持する努力をすれば良い。
しかし、悲しいのは、バブルに懲りたイベント側以上に、ファンが、未だ商業主義の幻影を追い求め続けているのである。
視聴率テコ上げのための方法等、テレビ局に任せとけば良いのである。
中量級の格闘技イベントが、低視聴率によって、最大公約数の一般世帯を巻き込む力がない事は示された。
それを持って、一般視聴者に受け入れられる為に、秘策を練ったところで、それが等身大の姿なのであろうか?
ジャンルの等身大の姿を忘れ、ひたすら、身の丈を越えた市場を目指し続ける意味が何処にあるのか私は理解に苦しむ。
最大公約数に支持されなくとも、もう総合格闘技は実際の身の丈にあったジャンルとして、末永く、青い炎として燃え続けるはずである。
その適正な場所が、深夜枠であれば、それで充分では無いかと私は思う。
しかし、ひたすらバブル時の幻影を求め続けるファンは、等身大の姿とは関係のない演出面、TV構成面について頭が一杯のようである。
元々、スポーツのTV中継とは、アナウンサーや解説者が語る説明だけで十分成り立つものである。
上質の小説のための本の体裁やカバーデザインは、素晴らしい包装紙代わりにも成る。
しかし、あまりにも、包装紙の範疇を越えた、常軌を逸した説明過多の演出を持って、一見さん達に対して、ファッションとしてのイベントを提示したのが、バブル時の格闘技イベントの正体である。
そのバブルによって、説明や演出が無ければ格闘技を楽しめないファンを大量生産されてしまったのだ。
昔の例を出して申し訳ないが、昔のプロレスファンは、黙って大人の見る静かなプロレスに付き合わされたものだ。
情報等アナウンサーからしか得られない。
結果、昔のファンほど、ジャンルに対しての自分の感受性のセンサーが研ぎすまされざるを得ない原因となったと私は思っている。
煽りVも、説明Vも、高揚させる為のリズムと音響、そんな過剰な包装紙に包まれた格闘技イベントにしか興奮出来なければ、元々、格闘技等見る事も無いと私は思う。
最初に記した小説の例に戻るが、もし、小説が前述したあまりにも説明過多な装飾品だらけの出版物と成ればどうなるか?
出版のメカニズム等知らない私のような素人でも、大赤字が出る事は察しがつく。
格闘技イベントもそうであった。
大会場が満員に成ってもペイ出来なかった、あまりにも、ファンに尽くして、尽くしまくった大判振る舞いの演出、ラインナップ。
経済的な実体のないイベントの熱によって、多くの人たちが踊らされた。
しかし、それが悪い事だったとは私は思っていない。
ブルースリーや空手バカ一代がきっかけで空手を習う。
タイガーマスクによってプロレスに興味を持つ。
一見さんを取り込んだ格闘技バフルの狂想曲は、ジャンルの入り口として、多くの人たちに格闘技の存在を知らしめたのだ。
しかし、タイガーマスクからプロレスに興味を持ったファンでさえ、後には、ジャンルの核に近づいていく。
あるいは、ブルースリーを見て格闘技を始めたファンも、ブルースリーではないリアルなファイターに憧れる時が来る。
それでも、皆、どれだけジャンルの本質に近づいた所で、自分をジャンルの入り口に導いてくれたタイガーマスクや、ブルース・リーを恨む輩等存在しないはずである。
総合格闘技ファンも、それと同じだ。
格闘技バブルに踊られされた事を恨む必要も無い。
格闘技イベントの中での一夜の熱気は、赤く短い炎として、それぞれのファンの心に刻印されている素晴らしい想い出だ。
またイベント側がファンの為に大判振る舞いのキャスティングをしてくれた一流の格闘家たちの闘いが、ファンに与えてくれた勇気や感動は紛れもなく本物なのだ。
プライド狂想曲が例え、束の間の、バブルの幻影であっても、あれほど多くの人を熱狂させたジャンルを見た一員として胸を張るべきなのだ。
各々の想い出を否定し、悪戯に、PRIDEを否定する声等に耳を傾ける必要などない。
しかし、同時に大切なのは、タイガーマスクに憧れプロレスに入りつつ、リアル・タイガーマスクと成った桜庭のように、バブル時の格闘技イベントの幻想から離れ、現在の等身大の格闘技マーケットの姿を理解し、応援していく事だと、私は思っている。
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2008年04月01日
辰吉丈一郎と薬師寺の一戦/アース・ウインド・&ファイアーとラロ・シフリンの想い出
私が中学生のとき、ローラーディスコが流行りました。
ジンギスカン、そして時にアース・ウインド・ファイアーの曲が流れていました。
あの頃の私からすれば、ローラースケートを履いて、綺麗なステップを刻む大人のお兄さん、お姉さんが、もう50代になる事は感慨深い事です。
同じ頃、映画「死亡遊戯THE GAME OF DEATH」に痺れました。
ラロ・シフリンの名曲のサウンドトラックを何度も聴きました。
ご存知の方も多いと思いますが、「燃えよドラゴンENTER THE DRAGON」をはじめとする映画音楽の巨匠です。
10年以上経ち、辰吉がラロ・シフリンの「死亡遊戯」のサントラに乗って、そして薬師寺がアースに乗って、リング登場した時、中学生の頃の自分を思い出し熱くなってしまいました。
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ジンギスカン、そして時にアース・ウインド・ファイアーの曲が流れていました。
あの頃の私からすれば、ローラースケートを履いて、綺麗なステップを刻む大人のお兄さん、お姉さんが、もう50代になる事は感慨深い事です。
同じ頃、映画「死亡遊戯THE GAME OF DEATH」に痺れました。
ラロ・シフリンの名曲のサウンドトラックを何度も聴きました。
ご存知の方も多いと思いますが、「燃えよドラゴンENTER THE DRAGON」をはじめとする映画音楽の巨匠です。
10年以上経ち、辰吉がラロ・シフリンの「死亡遊戯」のサントラに乗って、そして薬師寺がアースに乗って、リング登場した時、中学生の頃の自分を思い出し熱くなってしまいました。
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昭和プロレス者7/プロレス界の幻想を砕いた最初の男・鈴木みのる
私が鈴木みのるを好きになった理由は色々ある。
まず同年代であるという事。
そして、レスリング出身であるという事。
そして立ち飲み屋の息子という事である。
新日本の歴史において、おそらくであるが、高校だけの、かつ、高校での全国区の実績のあるレスリングキャリアを持ってプロレス入りしたのは、鈴木みのるが初めてではなかったかと私は思う。
この事は実は重要な要素でもあると私は思っている。
大学卒の物わかりの良い大人のレスリングエリートではなく、高校程度の、かつ高校での実績を持つ幼く尖った子供が、新日本に入ればどうなるのか?
結果、鈴木みのるは怖い者知らずで、新日本の前座を席巻した。
当時の新日本の最強神話とは、実は、高校レスリングの強者程度に、舐められるほどの神話でしかなかったのである。
鈴木みのるにでかい顔をさせた時点で、新日本は、プロの幻想を無くしてしまったのである。
余談であるが、そんな鈴木をスパーリングで圧倒したのは、武藤敬司であった事を知るファンは意外に少ない。
前田でも、高田でもなく、鈴木が「強い」と感服した唯一の先輩レスラーでもあった。
(鈴木が、おそらく、多少リップサービスを含んでコメントした船木は除く)
そんな鈴木みのるは高校程度の自信満々のレスリングテクニックを武器に、モーリス・スミスに挑んだ。
UWFにとって第二戦目のリアルファイトであった。
誰がどう見た所で、心が折れて「自ら寝た」鈴木を、週刊プロレスは青春のヒーローの如く扱った。
私はこの時から、週刊プロレスを購入した事は一度も無い。
この鈴木の気持ちの折れ癖は、リアルファイト引退前まで、消える事は無かった。
パンクラスの試合において、自身の潜在能力を発揮する事も無く、黙って試合をあきらめた鈴木の姿を何度見た事であろう。
しかし、鈴木は、高校「程度」のレスリングキャリアであっても、日本一の根性の祭典・高校レスリングの全国区の男である。
本当は、実に気持ちの強い男でもあるのである。
そんな鈴木が、リアルファイターとして伸びなかった事は、鈴木に舐められたプロレス界に、鈴木自身が染まってしまった事を物語っていると、私は思う。
私は幼い頃より立ち飲み屋に出向いていたので、鈴木が同じく幼い頃より、酔客の相手をしていたと知った時は、妙な親近感を持ってしまった。
私が幼い頃出向いた立ち飲み屋で、同年代の鈴木みのるに出会えたなら、どれほど嬉しかったであろう。
それでも私は本音の部分では、鈴木は好きになれない。
心底好きだからこそ、好きになれないのだ。
鈴木みのるの姿を見ると、自分の嫌な部分に気づかされる。
だからこそ、私が、誰よりも感情移入出来るプロレスラーでもある。
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まず同年代であるという事。
そして、レスリング出身であるという事。
そして立ち飲み屋の息子という事である。
新日本の歴史において、おそらくであるが、高校だけの、かつ、高校での全国区の実績のあるレスリングキャリアを持ってプロレス入りしたのは、鈴木みのるが初めてではなかったかと私は思う。
この事は実は重要な要素でもあると私は思っている。
大学卒の物わかりの良い大人のレスリングエリートではなく、高校程度の、かつ高校での実績を持つ幼く尖った子供が、新日本に入ればどうなるのか?
結果、鈴木みのるは怖い者知らずで、新日本の前座を席巻した。
当時の新日本の最強神話とは、実は、高校レスリングの強者程度に、舐められるほどの神話でしかなかったのである。
鈴木みのるにでかい顔をさせた時点で、新日本は、プロの幻想を無くしてしまったのである。
余談であるが、そんな鈴木をスパーリングで圧倒したのは、武藤敬司であった事を知るファンは意外に少ない。
前田でも、高田でもなく、鈴木が「強い」と感服した唯一の先輩レスラーでもあった。
(鈴木が、おそらく、多少リップサービスを含んでコメントした船木は除く)
そんな鈴木みのるは高校程度の自信満々のレスリングテクニックを武器に、モーリス・スミスに挑んだ。
UWFにとって第二戦目のリアルファイトであった。
誰がどう見た所で、心が折れて「自ら寝た」鈴木を、週刊プロレスは青春のヒーローの如く扱った。
私はこの時から、週刊プロレスを購入した事は一度も無い。
この鈴木の気持ちの折れ癖は、リアルファイト引退前まで、消える事は無かった。
パンクラスの試合において、自身の潜在能力を発揮する事も無く、黙って試合をあきらめた鈴木の姿を何度見た事であろう。
しかし、鈴木は、高校「程度」のレスリングキャリアであっても、日本一の根性の祭典・高校レスリングの全国区の男である。
本当は、実に気持ちの強い男でもあるのである。
そんな鈴木が、リアルファイターとして伸びなかった事は、鈴木に舐められたプロレス界に、鈴木自身が染まってしまった事を物語っていると、私は思う。
私は幼い頃より立ち飲み屋に出向いていたので、鈴木が同じく幼い頃より、酔客の相手をしていたと知った時は、妙な親近感を持ってしまった。
私が幼い頃出向いた立ち飲み屋で、同年代の鈴木みのるに出会えたなら、どれほど嬉しかったであろう。
それでも私は本音の部分では、鈴木は好きになれない。
心底好きだからこそ、好きになれないのだ。
鈴木みのるの姿を見ると、自分の嫌な部分に気づかされる。
だからこそ、私が、誰よりも感情移入出来るプロレスラーでもある。
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船木誠勝よ、自分らしさを取り戻せ!総集編前編
船木誠勝の事を記すことが多くなってきたのですが、私的な思い入れの強い選手なので、度々の記事を御理解いただきたいと思います。
私は船木のトレーナーでもなんでもない、一介のファンでしかないのですが、長年、船木を見続けてきたファンとして、船木の表情に強い変化を感じるようなってきたことは度々記してきました。
私は過去の若き日の船木の表情や動きと、現在の40代手前の船木の表情や動きを比較し、単純に、過去の船木を渇望しているわけでもありません。
どのような人間、格闘家であれ、年相応に、肉体も精神も変化していくものなのです。
私も長く格闘技をしてきた経験からいっても、今更、十代、二十代の頃のよう突貫精神を持って試合に挑むことは出来ません。
年齢と共に体力面の低下は仕方無いものです。
同時に、若い頃と比べて、アドレナリンの量が低下していくことも否めません。
肉体的衰えと同様、闘争心の衰えも大きな問題なのです。
そこでベテランになれば、たいていのスポーツ選手はアドレナリン全開のイケイケから、どこか物静かな落ち着き払ったタイプへと変身する事が多いものなのです。
そういった経緯で、船木が、年相応の変化を見せているのなら、私は過去の船木の覇気のある時代の幻影を今さら懐かしむこともありません。
しかし、船木の変化は、若手からベテランへ移行する際の、イケイケから落ち着きへの自然な流れとは異なるものです。
年齢と共に、落ち着いているので無く、何かに怯え、闘いに対しての自信を無くしてしまっているのです。
落ち着いて見えて、実は、若手の頃よりも落ち着きをなくし、弱気と緊張の中で自分の意識を見失っているのかのように見えてしまいます。
私は余計なお世話かもしれませんが、船木のファンとして、船木が自分自身の揺らぐことの無い精神の土台を取り戻し、リングに再び立つ日を夢見ています。
その姿が船木自身を取り戻したものならば、どのような姿であっても、船木ファンとして受け入れざるを得ないでしょう。
年齢的・体力的にボロボロのベテランが、かつての闘い方が出来ないながらも、必死に何とか今の自分を出そうと奮闘しているのなら、私はそういう船木を心から応援するでしょう。
船木らしさに定義などありません。
どのように船木が変わろうと、その時その時の船木らしさなのです。
しかし一ファンとしての立場ながら断言しますが、今の船木の心の中は蛻の殻です。
闘争心も無く、かつ落ちつきとも程遠い意識レベルの低下した試合が続けば、また桜庭戦同様、淡々と相手の技にかかり、淡々とタップせざるを得ません。
そのような試合が続けば、何の為に復帰したのかということに成らざるを得ません。
そこで私は改めて、ファンの立場から、船木自身が自信を取り戻し、どのような船木であれ、船木らしさを、つまり自分を取り戻す事を改めて提案したいと思います。
まず船木の出稽古についてです。
自分の道場を持たず練習相手にも限られている現状では、出稽古も止むを得ません。
また今の総合に対応しようとして新しい技術を習得しようとする気持ちは本質的に間違っていないと思います。
何かを始めるのに遅いことなど無いのです。
しかし、それは長期的な視野に基づいた計画においてこそ実らせることが出来るものです。
復帰し、ある程度の間隔で試合が行われる状況の中では、付け焼刃の技術とでしか成り立たないのです。
何より私が危惧する事があります。
グラバカ勢とスパーリングをして決められることです。
若い選手に決められ続けることは、間違いなく船木の脳裏に、決められる自分を刻印していきます。
それが若手ならまだしも、グラバカ勢が普段行っている環境の中での練習量に完全に身を投じているわけではない船木は、年齢的にも、今のままの間隔でスパーリングを続けたところで、彼らに技術的に追いつくことは無いのです。
ということは、グラバカ勢で確かな技術を習得したところで、技術習得の自信よりも、決められまくった自分への劣等感のほうが脳裏に記憶されます。
全くの新人でもない船木が、あえてこのような練習を続ける必要は私は全く無いと思っています。
かつてヒクソン戦前、高橋らとレスリングのスパーに没頭した船木は自信を無くしました。
結果的にレスリングの技術を多少、習得した自信よりも、レスリングにおいて高橋や、高橋の後輩のアマチュア選手にコントロールされ続けた劣等感が、ヒクソン戦での船木のどこか頼りない表情の正体であったと思います。
実はいちいちレスリングを習わなくとも、その前より、船木はお山の大将として、鈴木や高橋らと繰り返してきた通常時のスパーリングで、そこそこのレスリング的な動きを見につけた選手なのです。
それは船木の体格的特性を生かして理にかなったものであったと私は思っています。
しかしヒクソン戦前、必死にレスリングを一から習得しようとした船木は、それまでの技術を捨て、単にレスリング部一年生の技術だけを持ってヒクソンに挑んでしまいました。
今の船木もまた、あの時と同じ過ちを再び繰り返し続けているようにしか私は思えません。
船木は新人時代を除いて、我流で自分の技術を伸ばしてきた選手です。
しかもプロ入りの早かった船木は、同年代の選手の長に立つお山の大将でも有りました。
そんな船木が、後輩の高橋に身を任せたのです。
私はヒクソンと攻防しながら、高橋を探す船木の弱気な視線ほど悲しかったものはありません。
船木は自分のOSを無くしていたのです。
余談ですが、ヒクソンの話が出たついでに、ここで関係の無いスポーツ心理学のトリックを一つ記しておきたいと思います。
ヒクソンを高田(二回目)も船木も意外と苦しめたような気がします。
しかし、ヒクソン自身が、その苦しみを招いていたと記せば意外でしょうか?
ヒクソンは試合において、どれほど困難な状況に陥っても逆転し勝利する自分を徹底してイメージトレーニングしている事でしょう。
よってヒクソンは自分のイメージどおりに、高田や船木に困難な状況に追いやられました。
ヒクソンにとっては高田や船木程度にです。
簡単に勝利するイメージではなく、困難や危機からも脱し勝利する自分をイメージする事で、丁寧に勝利だけでなく、危機や困難まで呼び込んでしまったのです。
それくらい、格闘技の試合において、イメージに刻印された潜在的な意識は、試合に出やすいものです。
船木は悪戯に自分の脳裏に敗北感や劣等感を刻印させる練習は慎むべきだと私は思っています。
では、新しい技術を習得せず、船木は勝てるのでしょうか?
私はここに、カールゴッチさんと、UWF系レスラーの、ミッシングリンクが関連してくると思っています。
これまで何度も記してきたことですが、多くのUWF系レスラーは、ゴッチさんというよりもキャッチ・レスリングの投・極のうち、極の部分だけを持って、技術を磨いてきました。
キャッチの技術とは、本来、テイクダウンと関節技の連携によるものであるはずなのに、テイクダウンの技術を知らない以上、関節技を発揮できることなど無かったのです。
しかし船木は、相手をテイクダウンさせる技術を我流ながらも、持っているのです。
長いコンパスを生かし、やや遠目の距離から相手に飛びつく船木のタックルは船木独自のものです。
それ以外にも、レスリング出身の鈴木みのるや高橋を乱戦の最中、テイクダウンさせることも度々でした。
また船木のリーチの長さは片足タックルに最適の利点です。
また船木は、この片足タックルも我流ながらよく使用していたと思っています。
相手の足を狙って転倒させる技術を我流ながらも持つ船木は、おのずと、転倒させた相手の足を狙える事ができます。
そこで発揮されるのは、日本の格闘技界に自身が持ち込んだアンクルホールドです。
悪戯に今の総合格闘技のベーシックな技術体系にシフトする前に、船木は事故の原点であるオリジナルの我流技術をもう一度信じてみてはどうなのでしょうか?
船木はプロレス道場という鎖国の中で自分の技術を発見し続けてきた男です。
また、お山の大将だったからこそ、自信を持って、鈴木や高橋や他人の技術も盗めたのです。
そんな船木が、わざわざ自分の自信と技術を捨て去る為に、出稽古に行く必要など私は全く無いと思っています。
船木誠勝は等身大の自分を知らないほうが、いきいきと強気で、自分を発揮できる人間だと私は思います。
次回、後編は、田村戦の直前に、船木の能力を最大に発揮させるためのメンタル調整について私なりの考えを記してみたいと思います。
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私は船木のトレーナーでもなんでもない、一介のファンでしかないのですが、長年、船木を見続けてきたファンとして、船木の表情に強い変化を感じるようなってきたことは度々記してきました。
私は過去の若き日の船木の表情や動きと、現在の40代手前の船木の表情や動きを比較し、単純に、過去の船木を渇望しているわけでもありません。
どのような人間、格闘家であれ、年相応に、肉体も精神も変化していくものなのです。
私も長く格闘技をしてきた経験からいっても、今更、十代、二十代の頃のよう突貫精神を持って試合に挑むことは出来ません。
年齢と共に体力面の低下は仕方無いものです。
同時に、若い頃と比べて、アドレナリンの量が低下していくことも否めません。
肉体的衰えと同様、闘争心の衰えも大きな問題なのです。
そこでベテランになれば、たいていのスポーツ選手はアドレナリン全開のイケイケから、どこか物静かな落ち着き払ったタイプへと変身する事が多いものなのです。
そういった経緯で、船木が、年相応の変化を見せているのなら、私は過去の船木の覇気のある時代の幻影を今さら懐かしむこともありません。
しかし、船木の変化は、若手からベテランへ移行する際の、イケイケから落ち着きへの自然な流れとは異なるものです。
年齢と共に、落ち着いているので無く、何かに怯え、闘いに対しての自信を無くしてしまっているのです。
落ち着いて見えて、実は、若手の頃よりも落ち着きをなくし、弱気と緊張の中で自分の意識を見失っているのかのように見えてしまいます。
私は余計なお世話かもしれませんが、船木のファンとして、船木が自分自身の揺らぐことの無い精神の土台を取り戻し、リングに再び立つ日を夢見ています。
その姿が船木自身を取り戻したものならば、どのような姿であっても、船木ファンとして受け入れざるを得ないでしょう。
年齢的・体力的にボロボロのベテランが、かつての闘い方が出来ないながらも、必死に何とか今の自分を出そうと奮闘しているのなら、私はそういう船木を心から応援するでしょう。
船木らしさに定義などありません。
どのように船木が変わろうと、その時その時の船木らしさなのです。
しかし一ファンとしての立場ながら断言しますが、今の船木の心の中は蛻の殻です。
闘争心も無く、かつ落ちつきとも程遠い意識レベルの低下した試合が続けば、また桜庭戦同様、淡々と相手の技にかかり、淡々とタップせざるを得ません。
そのような試合が続けば、何の為に復帰したのかということに成らざるを得ません。
そこで私は改めて、ファンの立場から、船木自身が自信を取り戻し、どのような船木であれ、船木らしさを、つまり自分を取り戻す事を改めて提案したいと思います。
まず船木の出稽古についてです。
自分の道場を持たず練習相手にも限られている現状では、出稽古も止むを得ません。
また今の総合に対応しようとして新しい技術を習得しようとする気持ちは本質的に間違っていないと思います。
何かを始めるのに遅いことなど無いのです。
しかし、それは長期的な視野に基づいた計画においてこそ実らせることが出来るものです。
復帰し、ある程度の間隔で試合が行われる状況の中では、付け焼刃の技術とでしか成り立たないのです。
何より私が危惧する事があります。
グラバカ勢とスパーリングをして決められることです。
若い選手に決められ続けることは、間違いなく船木の脳裏に、決められる自分を刻印していきます。
それが若手ならまだしも、グラバカ勢が普段行っている環境の中での練習量に完全に身を投じているわけではない船木は、年齢的にも、今のままの間隔でスパーリングを続けたところで、彼らに技術的に追いつくことは無いのです。
ということは、グラバカ勢で確かな技術を習得したところで、技術習得の自信よりも、決められまくった自分への劣等感のほうが脳裏に記憶されます。
全くの新人でもない船木が、あえてこのような練習を続ける必要は私は全く無いと思っています。
かつてヒクソン戦前、高橋らとレスリングのスパーに没頭した船木は自信を無くしました。
結果的にレスリングの技術を多少、習得した自信よりも、レスリングにおいて高橋や、高橋の後輩のアマチュア選手にコントロールされ続けた劣等感が、ヒクソン戦での船木のどこか頼りない表情の正体であったと思います。
実はいちいちレスリングを習わなくとも、その前より、船木はお山の大将として、鈴木や高橋らと繰り返してきた通常時のスパーリングで、そこそこのレスリング的な動きを見につけた選手なのです。
それは船木の体格的特性を生かして理にかなったものであったと私は思っています。
しかしヒクソン戦前、必死にレスリングを一から習得しようとした船木は、それまでの技術を捨て、単にレスリング部一年生の技術だけを持ってヒクソンに挑んでしまいました。
今の船木もまた、あの時と同じ過ちを再び繰り返し続けているようにしか私は思えません。
船木は新人時代を除いて、我流で自分の技術を伸ばしてきた選手です。
しかもプロ入りの早かった船木は、同年代の選手の長に立つお山の大将でも有りました。
そんな船木が、後輩の高橋に身を任せたのです。
私はヒクソンと攻防しながら、高橋を探す船木の弱気な視線ほど悲しかったものはありません。
船木は自分のOSを無くしていたのです。
余談ですが、ヒクソンの話が出たついでに、ここで関係の無いスポーツ心理学のトリックを一つ記しておきたいと思います。
ヒクソンを高田(二回目)も船木も意外と苦しめたような気がします。
しかし、ヒクソン自身が、その苦しみを招いていたと記せば意外でしょうか?
ヒクソンは試合において、どれほど困難な状況に陥っても逆転し勝利する自分を徹底してイメージトレーニングしている事でしょう。
よってヒクソンは自分のイメージどおりに、高田や船木に困難な状況に追いやられました。
ヒクソンにとっては高田や船木程度にです。
簡単に勝利するイメージではなく、困難や危機からも脱し勝利する自分をイメージする事で、丁寧に勝利だけでなく、危機や困難まで呼び込んでしまったのです。
それくらい、格闘技の試合において、イメージに刻印された潜在的な意識は、試合に出やすいものです。
船木は悪戯に自分の脳裏に敗北感や劣等感を刻印させる練習は慎むべきだと私は思っています。
では、新しい技術を習得せず、船木は勝てるのでしょうか?
私はここに、カールゴッチさんと、UWF系レスラーの、ミッシングリンクが関連してくると思っています。
これまで何度も記してきたことですが、多くのUWF系レスラーは、ゴッチさんというよりもキャッチ・レスリングの投・極のうち、極の部分だけを持って、技術を磨いてきました。
キャッチの技術とは、本来、テイクダウンと関節技の連携によるものであるはずなのに、テイクダウンの技術を知らない以上、関節技を発揮できることなど無かったのです。
しかし船木は、相手をテイクダウンさせる技術を我流ながらも、持っているのです。
長いコンパスを生かし、やや遠目の距離から相手に飛びつく船木のタックルは船木独自のものです。
それ以外にも、レスリング出身の鈴木みのるや高橋を乱戦の最中、テイクダウンさせることも度々でした。
また船木のリーチの長さは片足タックルに最適の利点です。
また船木は、この片足タックルも我流ながらよく使用していたと思っています。
相手の足を狙って転倒させる技術を我流ながらも持つ船木は、おのずと、転倒させた相手の足を狙える事ができます。
そこで発揮されるのは、日本の格闘技界に自身が持ち込んだアンクルホールドです。
悪戯に今の総合格闘技のベーシックな技術体系にシフトする前に、船木は事故の原点であるオリジナルの我流技術をもう一度信じてみてはどうなのでしょうか?
船木はプロレス道場という鎖国の中で自分の技術を発見し続けてきた男です。
また、お山の大将だったからこそ、自信を持って、鈴木や高橋や他人の技術も盗めたのです。
そんな船木が、わざわざ自分の自信と技術を捨て去る為に、出稽古に行く必要など私は全く無いと思っています。
船木誠勝は等身大の自分を知らないほうが、いきいきと強気で、自分を発揮できる人間だと私は思います。
次回、後編は、田村戦の直前に、船木の能力を最大に発揮させるためのメンタル調整について私なりの考えを記してみたいと思います。
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IGF大阪大会に向けて静かな熱が発生しつつある
IGFのチケットが完売との事。
本当かな?と思うものの、長い胎動期間を経て、今回、初の大阪開催という事もあり、熱が発生しつつあるような感も無きにしもあらずです。
私はIGFに関しては、プロレスカテゴリーから離れても良いのではないかと思ってもいます。
今のプロレス界では、マスコミからもファンからも正当な評価をされる事は、無いからです。
むしろ、今のファンが、今のプロレスの価値観を持って、評価する事によって、IGFはマイナスの評価しか得られなくなります。
会場が沸くか沸かないか、イベントとして締まるかどうか、良い試合があるかどうか、それらの平成の価値観、平成の定規でしか評価される事はありませんでした。
もちろんした参加する選手たちの間違った猪木イズムの解釈の問題もあります。
しかし、モンターニャや小原等、猪木の意図するものとは何なのかに少し気づいてるような選手が増えつつある事も確かです。
格闘技プロレスと皆が一言で片付けるので、格闘技プロレスを分類してみました
昨日、記事にしたのですが、アントニオ猪木は映画の主演にも決定し、そしてアントニオ猪木ファンが泣いて喜ぶような西加奈子さんによる昭和プロレス小説も誕生しました。
平成ファンへの提言と昭和プロレス文学ついに誕生
少なくとも、IGFがどうのこうのというよりも、アントニオ猪木は、プロレス村ではなく、世間でのほうが、より正当かつ斬新な評価を得ている人間です。
しかも、それらは過去のスキャンダル的なものとは異なる、普遍的で芸術的な評価です。
私はIGFがプロレス村の声に耳を傾けず、一見さんや、懐古主義のファンも含め、新しいプロレスマーケットを開拓していくと感じています。
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本当かな?と思うものの、長い胎動期間を経て、今回、初の大阪開催という事もあり、熱が発生しつつあるような感も無きにしもあらずです。
私はIGFに関しては、プロレスカテゴリーから離れても良いのではないかと思ってもいます。
今のプロレス界では、マスコミからもファンからも正当な評価をされる事は、無いからです。
むしろ、今のファンが、今のプロレスの価値観を持って、評価する事によって、IGFはマイナスの評価しか得られなくなります。
会場が沸くか沸かないか、イベントとして締まるかどうか、良い試合があるかどうか、それらの平成の価値観、平成の定規でしか評価される事はありませんでした。
もちろんした参加する選手たちの間違った猪木イズムの解釈の問題もあります。
しかし、モンターニャや小原等、猪木の意図するものとは何なのかに少し気づいてるような選手が増えつつある事も確かです。
格闘技プロレスと皆が一言で片付けるので、格闘技プロレスを分類してみました
昨日、記事にしたのですが、アントニオ猪木は映画の主演にも決定し、そしてアントニオ猪木ファンが泣いて喜ぶような西加奈子さんによる昭和プロレス小説も誕生しました。
平成ファンへの提言と昭和プロレス文学ついに誕生
少なくとも、IGFがどうのこうのというよりも、アントニオ猪木は、プロレス村ではなく、世間でのほうが、より正当かつ斬新な評価を得ている人間です。
しかも、それらは過去のスキャンダル的なものとは異なる、普遍的で芸術的な評価です。
私はIGFがプロレス村の声に耳を傾けず、一見さんや、懐古主義のファンも含め、新しいプロレスマーケットを開拓していくと感じています。
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