入場シーン、あまりにも聡明で女性的な近藤の表情を観ました。
それは格闘家とはかけ離れた姿です。
近藤は闘いの先に、遂に、あらゆる緊張を持ち込まず、自然体のまま迎える事の出来る自分を創り上げたのです。
昔、儒教や武士道の戒律に、つまり「〜しなければいけない」の世界に身を削って来た武士は、自分の心の拠り所を禅宗に求めました。
武士の為の仏教といわれた禅宗は限りなく、右脳に支配された平和的な感性です。
昔の武士は、儒教的精神と禅の教えの、硬軟の二つの教えによって精神のバランスを保って来たのだと私は考えています。
近藤が何故、格闘家でありながら、自身の意識の持ちようを闘いから遠くかけ離れていた世界に求めていたのかは分かりません。
しかし闘いとは、アドレナリンでもテストステロンでもなく、緊張でもなく、それらの対局の弛緩された世界であると、少なくとも近藤は信じて努力して来たのでしょう。
少なくとも、近藤は、どんな格闘家も行き着けなかった闘いの桃源郷の世界を感じ体現した事に違いはありません。
近藤に揺らぐ事の無いベースは完成されたのです。
弛緩を極めた近藤に必要なのは、後はただ、たった少しの緊張とテストステロンだけなのです。
近藤が今の完成された自分自身を維持しながらも、緊張系のホルモンをほんの少しだけ加味したとき、近藤有己はいよいよ、最強の全盛期を迎えると私は信じています。
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