総合格闘技黎明期の日本格闘技界を支えた選手達の多くもまた、プロレスラー達の「闘い模様」に憧れて、多くの人生の選択肢の中から「闘い」のコンテンツを自らの目標として設定して来た人たちが多かったように思います。
映画やプロレスの違いこそあれ、かつて、リアルな競技の先端を切り開いて来た人たちは、皆、完全リアルな競技からでは無く、ブルース・リーやプロレスなどのリアルとフェイクの入り交じった幻想の中に強さへの憧れを生じてきました。
ブルースリー、アントニオ猪木、UWFにしろ、多くのファンに対して格闘技幻想を抱かせるという事は、最低限の格闘技の素養を保っていなければ不可能な事です。
しかし、その幻想の提示の場はあくまでリアルな競技な場ではありませんでした。
そのリアルでない幻想の場での多くのスター達の「闘い模様」に、後に一時代を開く格闘家達は「闘い」に対しての憧れを生じ始めて来たのです。
リアルな総合格闘技全盛の昨今にリアルな総合格闘技に憧れる人たちとは異なる、パイオニアとしての想像力が存在していたのでしょう。
菊田早苗はかつて新日本に入団したと聞きます。
郷野でさえ、高田延彦のポスターを部屋に張っていたと聞きます。
総合格闘技界の理論家・高阪が入団した団体は少なくともプロレス団体でした。
多くの子供は仮面ライダーを見て「闘い」や「強さ」に憧れました。
しかし大人に成って、「あれは子供騙しの世界だ。裏切られた」と唱える成人等いないでしょう。
総合格闘技誕生以前のプロレスは、皆、「闘い」や「強さ」への憧憬の象徴として、その存在の義務感を全うして来たのです。
総合格闘技の出現以後、ブルース・リーが生きていれば何を語っていたでしょうか?
「アクション映画はアクション映画しか出来ない事をやっていれば良い」と語るとは私は思いません。
少なくとも、ブルース・リーは総合格闘技出現以後の世界においても、リアルな総合格闘技に負けない強さのディフォルメの表現方法を、スクリーンという幻想の中で追求していただろうと私は思います。
佐竹雅昭がプロになるかどうかの時でした。
プロレスについての印象を聞かれ「馬場対ハーリー・レイス・・・あれこそがプロレスだ」と語った事がありました。
恐らく、佐竹の中では自分達の世界であるリアルな格闘技と格闘技プロレスを一緒にしないでくれという皮肉と本音のディフォルメの言葉として「馬場対ハーリー・レイス」を賞賛したのでしょう。
「強さ」や「闘い」を誇示するプロレスに対して、物言いを付けたパイオニアが佐竹なら、その後、どれだけ多くの格闘家たちが佐竹同様、「強さ」や「闘い」を誇示するプロレスに対して文句をいい続けて来た事でしょうか?
その波はファンにまで広がります。
プロレスはフェイクだから、闘いや強さとは関係のない世界でショーとしてやっていろ。
そういう脅迫に屈してしまったのが、今のプロレス界でしょう。
脅迫によって「闘い」を放棄し、オカマと成ってしまったのです。
それらの脅迫の中で、サド・マゾ・ショーのような肉体の耐久力合戦、アクロバットショーのような空中戦、それらを持って、ギリギリ、脅迫者達の怒りを避けて通る道をここ数年プロレス界は選択して来たように思います。
前述したプロレスの受けの凄さ、空中戦はプロレスのエッセンスに必要だと私は思っています。
しかし、それだけがプロレスのスポーツ的な激しさを象徴するものになっている感がして成りません。
プロレスとは「闘い」をディフォルメして提示するジャンルです。
総合格闘技に負けないくらい「闘い」や「強さ」の表現を、例え、オーバーなディフォルメによって表現する義務があるジャンルなのです。
しかし、もっとも、当のプロレスラー達が、プロレスはプロレスだと割り切っているファン達に甘え、「闘い」や「強さ」とは関係のないジャンルの中でのびのびと活躍しているのが現在のプロレス界だと私は思います。
プロレスはリアルファイトで無いのに、リアルな「強さ」や「闘い」を表現出来る類い稀なるジャンルなのです。
私もアマチュア・レスラーとしての現役時代、試合に向けて勇気づけられたプロレスとは、決してセメントマッチでも、シュートマッチでもありませんでした。
そして同時に、私とって大切な事は、胸を突き出してのチョップの応酬でも、大技の攻防でもなかったという事です。
「闘い」「強さ」「格闘技」そういうギミックを馬鹿正直に完遂してくれていた多くの「闘うプロレス」によって私はプロレスから勇気を頂いて来ました。
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