これまで、アントニオ猪木のプロレス業界特有の約束的動きに頼らない、ショーマン性について記してきた。
かつて蝶野正洋が「アントニオ猪木こそアメリカンプロレスじゃないか」と発言したことがあったが、猪木の側近として関わってきた蝶野さえも抱くショーマン猪木への誤解は、同時に多くのファンが持つアントニオ猪木への誤解でもある。
プロレス的な動き、約束事、プロレス的な受身を行うための肉体。
アントニオ猪木はそういう業界の取り決めとは関係の無い部分で、自己の演出性を創り上げてきた。
プロレス的名勝負を創り上げるための効率性として、業界が決めたプロレス的な取り決めを、極力省くことによって、アントニオ猪木のプロレスは効率性の変わりにアナログ感を得た。
そういうアントニオ猪木のプロレスの継承者ともいうべきレスラーは殆ど存在していない。
体型、ドタバタ感から来るアナログ性に猪木に近いものを感じさせる小川直也に、かすかな期待をかけてしまうが、まだまだ小川がアントニオ猪木の求める世界を理解しているとは思えない。
もう少し細かい部分で、アントニオ猪木の観客を掌に乗せるショーマン性は必要であろうが、かといって、アントニオ猪木もプロレス的な上手さに頼る小川など見たくも無いであろう。
プロレス的な約束事、上手さ、顧客満足への意識、それらは最上級のショーマンでもあったアントニオ猪木が毛嫌いした「客に媚びるプロレス」につながるからである。
小川に求めるものは「闘う気持ち」である。
アントニオ猪木の求めるプロレスはリアルファイトではない。
それでも最低限の条件として、闘える人間、闘えるプロレスラーたちが行うべきプロレスである。
しかし闘えるプロレスラーや格闘家たちが、これは「仕事だから」「これはプロレスだから」とテンションと闘う気持ちを置き去りにして、空虚なアクションショーを演じようとしたところで、大根役者のなんちゃって格闘技にしかなりえない。
所詮、格闘技ファン、現在のプロレスファンの嘲笑の対象としかならない。
かといって闘えるプロレスラーたちがプロレス的な約束ムーブ、プロレスの上手さで、いかにもプロレス的な熱戦を展開する事など昭和のファンはもっと望んではいないだろう。
カートアングルやレスナーの試合がそうであった。
アントニオ猪木の求めるものとしては、高いレベルのネームバリューと強さを持つはずの二人が、典型的なファンに媚びる純プロレスを行ったのだ。
自分が毛嫌いするような試合で、皮肉にも興行が締まらざるを得なかった事に、アントニオ猪木は内心、忸怩たる思いではなかったかと私は思う。
アントニオ猪木の求めるショーマン性と強さへのこだわり。
強さを持った選手たちが、闘う気持ちを維持したまま、プロレスの約束事に頼らずショーとしてのプロレスと闘いを魅せる。
そのためには小川も他のプロレスラー、格闘家たちもIGFに出る以上、もっと闘いを前面に押し出すことである。
では「闘い」とはそもそも何なのか?
次回から記して生きたいと思う。
2007/09/25掲載

