私が限りなく子供のころ観たアントニオ猪木対ドリー・ファンク・ジュニアの試合は、限りなくアメリカンスタイルの試合であった。
猪木の表情に感情は入っておらず、形だけのガッツポーズを作り、演武としての古きよきクラシックスタイルに大技を散りばめた典型的な70年代アメリカ型の正統派プロレスであった。
そういえば体型すらも、受け身の為の脂肪をまとい手足も短く見えるほどのアメリカンプロレス体型であった。
新日本旗揚げ後、猪木の体型は急激に変化した。
受身に必要な脂肪をカットし、手足が長く見え、細くなった上半身が余計に肩幅の広さを強調した。
なにを持って極端にアントニオ猪木の体型が変化したかは、分からないが、私にとっては日本プロレス時代のドリー戦の様な、予定調和の有酸素プロレス的アメリカンプロレスとの決別を、その体型の変化を持って示しているように思えた。
実際、新日本で繰り広げられたロビンソン戦は、180度ドリー・ファンク・ジュニア戦とは醸し出す雰囲気の異なる試合であった。
ミスター高橋本の中でリアルでない試合だからこそ、あれだけ流れるような攻防が出来たと、プロレス的名勝負の典型であると記された一戦であったが、ミスター高橋は例えるべき試合を間違ったはずである。
私の観た印象は全く別である。
流れるような一戦どころか、ギクシャク感の漂うすさまじくリアルな攻防だったのである。
プロレスでもなく、格闘技でもない。
リアルでも、フェイクでもない。
そんなのはどうでもいいことである。
60分間の大部分をプロレスの約束事とは程遠い攻防の中で闘っていたということである。
今の気の抜けた格闘技風プロレスを持って、プロレスは純プロレスでなければと短絡的に嘆くファンも多い。
プロレスはリアルでもフェイクでもない。
そういうプロレスが昔はあったのだと知りたいなら、猪木対ロビンソン戦を観ることをお勧めする。
そういう闘いの中で、スター猪木は、大観衆の前で、ロビンソンという強者相手に格闘技者としての自信を失くすほどボロボロにされてしまう。
60分の殆どをである。
何故、社長であり、スターである、アントニオ猪木が、そういう試合をこなさなければいけないのか?
どうせ結果は決まっているのだ。
ならばドリー・ファンク戦と同じく、闘いとは程遠い、演武としてのプロレスをこなしていけば良かったではないかと、私は思う。
しかし猪木はプロレスの展開や約束事の攻防に逃げようとせず、ロビンソンに必死の攻防を挑んだ。
挑んではやられ、挑んではやられである。
数年後、ボブ・バックランドとの試合でも似た攻防が続いた。
アメリカンプロレスのお約束のマットワークとは程遠い、バックランドのリアルな「ファイヤーマンズ・キャリー」でバックランドに翻弄されまくった。
おそらく猪木の心の骨を折る魂胆まるみえのいやらしい投げっぷりであった。
どちらの試合も、アントニオ猪木があまりにもリアルな弱々しさをさらけだした試合であったが、リアルな弱々しさというのは、逆に、闘わなければ醸し出せないものである。
アメリカンスタイルの試合を何時間やったところで上手いか下手かしか分かるまい。
小学生を卒業するまでに、見れたその二つの試合は、アリ戦、ペールワン戦を覗くどんな格闘技戦よりも、私のプロレス観にあくまで「プロレスは闘いである」という基本原則を植えつけてくれた試合であった。
2007/09/10掲載
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