2007年10月04日

猪木ゲノムという闘うプロレス。

猪木ゲノムの第二弾が近づいている。
何とか小粒ながらも個性的な面々を揃えつつある。

猪木がこだわる強い選手、闘える選手たちであるが、彼らが本当に猪木が求める闘いの意識を理解すれば、かつてのプロレスとして(シュートの試合でなく)の小川対橋本のあの緊張感にも負けない闘いを醸し出せると信じている。

何度も記すようであるが、格闘技出身の選手の難点は、プロレスだからと感情を抑制する点である。
プロレスだからこそ、格闘技以上に感情を表現する必要があるのに関わらず、プロレス=フェイクの意識があるのか、感情のこもらない中身の空っぽの上っ面だけの闘いのポーズがプロレスだとカン違いしているのである。

小川対橋本の戦いは、内に秘めた感情がものすごい緊張感を編み出していたことである。
シュートの小川対橋本は感情が暴走した失敗作である。
かといってそれ以降の小川対橋本が反省を踏まえ、プロレスとして割り切った手の合う予定調和の試合をこなしたわけでもなかった。
シュート試合後の一連の試合において、小川対橋本は感情を暴発させず
感情を維持することで試合に緊張感を抱かせた。
抱いた感情はシュートではなく、プロレス技や表情のパフォーマンスに昇華し爆発した。
私はあのとき、アントニオ猪木の理念の集大成の試合を見た気がする。

今の新日本は言わずがな、棚橋対真壁といった学生プロレス出身者たちがものすごく完成された上手いプロレスを展開する場所である。
感情を表現するとすれば、緊張感無き胸板へのチョップ合戦である。
これが今風のプロレスならば、それでいいが、残念なのは、そういうプロレスを見て育ったファンが、そういう尺度で猪木ゲノムの試合を見ても、もう意味など分からないだろうということである。

見る基準が、上手いか下手か、沸くか沸かないか、スイングしたかしなかったか、そういうものを求めるなら、猪木ゲノムには何一つ求めるものは無いと
早くから知っておいたほうが良い。

また逆に猪木ゲノムに格闘技性、リアル性を求め、もしくはシュートへの発展を期待するなら、それらも同様に期待しても無駄である。
猪木ゲノムとはただ闘いをテーマにしたプロレスにすぎないからである。
しかしながら猪木の理念の集大成ともいえる小川対橋本の試合レベルまでは程遠い。
寄せ集めのファイターたちが、猪木の真意など理解するには時間がかかるものだ。
しばらくはドタバタした無機的な試合か、格闘技風プロレスといった試合を見せられるはめになるだろう。

しかし、その先には、シュートになることもなく、プロレス的好試合になることも無い。当然格闘技プロレスなどでもない。
アントニオ猪木の、あるいは小川対橋本の試合がやがて出現するだろう。

もう一つ記しておきたいが、イベントしての満足度、完成度を猪木ゲノムに求めないほうがよいだろうという事である。
平成の新日本やプライドの完成されたイベントを猪木ゲノムに求めても無理である。
好勝負も会場の一体感も洗練された演出による気分の高揚も無いだろう。
何から何まで観客に満足を提供する姿勢などアントニオ猪木にあるわけは無い。

そもそも私が子供の頃よりアントニオ猪木がからむ試合やイベントに満足して会場を出れることなど昔から皆無に等しかったからだ。
猪木ゲノムに受身的な気分、満足度は保障されない。


しかし余韻は必ず存在している。
その余韻をどんな意味にも受け取れるのは私たちファンである。
その時私たちの意識は受身でなく能動的になれる。


猪木ゲノムが単なる格闘技風のドタバタプロレスに見えるか、その先に何か見えるのか、結局はファンしだいなのである。

人気blogランキングへ
posted by shingol at 19:46| 私的・猪木ゲノムの正体を探れ! | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする