2007年10月05日

プロレスの売れ線化/長州対藤波の原罪

私は長州対藤波戦をきっかけにプロレスが変わってしまったと思っている。
大衆を巻き込んでブームを築き上げた新日本プロレスの黄金時代は長州対藤波のハイスパートレスリングなくして有り得なかった。

プロレスに対して優位性を持つ一般のファンに対して、プロレス界伝統の序盤の静かな攻防が許されるはずも無い。
タイガーマスクの空中戦、国際プロレス軍団の悪役振りとともに一般ファンに分かりやすい三本の柱が揃ったとき、視聴率20パーセントが続く空前のプロレスブームが沸き起こった。

長州対藤波の試合は禁断の果実であった。
全編ハイライトシーンだらけ、全曲サビだらけの商業性まるだしのハイスパートレスリングを見せつけた時点で、もうプロレスに先は無かったのである。
そこに飽きたファンは去り、そこで残ったファンも、もはや60分フルタイムを味わったり凡戦を納得する耐性など持ってはいないのである。

しかし、ハイスパートだけが長州対藤波の原罪だと唱える人たちが多いが、それだけであろうか?
私はハイスパートではなく、全日本プロレスの如く、手の合う選手同士の試合を新日本が行った事こそ原罪であると思っている。

新日本の魅力とは、プロレスの方程式も、打ち合わせも、簡素化したギクシャク、ドタバタした世界であったはずである。

新日本プロレスとは、アントニオ猪木の全試合の9割を占める凡戦試合、呆気ない試合に耐性を持つ堅い固定ファンの見守る場所であった。
そのファンの核が長州対藤波以後の手の合う選手同士の名勝負志向によってゆらぎ、そして、ハイスパートレスリングや空中戦によって耐性の無いファンたちを創り上げてしまったのである。

アントニオ猪木のプロレスに上手い下手も名勝負も凡戦も無い。
それは新日本時代の前田日明に対してもいえる事であったが、ファンは試合でなく、猪木の、そして前田の表情を、動作を、振る舞いを見ていたのである。

プロレスの上手い下手、あるいはセメントの強さ弱さだけに目が行き、スター性を持った人間の醸し出す色気、立ち振る舞いを求めるファンがいなくなった現在、ますますプロレス界はオタク臭溢れるプロレス的名勝負だけを求める世界になってしまったのだ。

2007/08/20掲載

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posted by shingol at 11:16| スポーツナビ版アーカイブズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする