私は以前、プロレスは偽の闘いであると書いた。
偽すなわち人の為に、闘うから、偽の闘いなので有る。
リアルファイトを闘える人間たちが、自分たちの承認欲、名誉欲のためでなく、ファンの為に闘うスポーツがプロレスである。
もう少しファンも業界も誇りを持ち胸を張れるものが、プロレスの本質には有るのだ。
にも関わらず、誰に、何を遠慮しているのか分からないが、プロレスはプロレスの名の下、強さの世界との区切りを明確にしだした。
結果広まったのが強さとは無関係のバラエティー色豊かな現在のプロレスの姿で有る。
私が子供の頃、「こんなに鍛えてる人間たちが真剣にやりあったら死んでしまう。だから
八百長だ」としたり顔で話す大人たちは多かった。
プロレスは八百長であると確信しながらも、しかし、体を鍛えているレスラーたちへの畏怖の念を潜在的に持つ言葉であった。
その肉体への畏怖の念は当然強さにも繋がってくる。
プロレスの本質の意外な深さが、今程無かった時代でさえ、プロレスラーの強さは八百長であろうがなかろうが、世間には認知されていたのである。
しかし、今のプロレスは世間にどう思われているだろうか?
細身の軽業師のような連中が繰り広げるアクロバットショーか、変わった格好の連中が、リングの上で面白い事をするバラエティであろうか?
何故強さにこだわらないのか?強さにこだわる事が恥ずかしくなったのであろうか?
格闘技側への配慮等する必要も無いし、卑屈になる必要も無い。
アントニオ猪木のIGFには昔のプロレスとファンがこだわった闘いへの追求が有るのは
周知の事実である。
アントニオ猪木がこだわる根底の強さをはっきりと持つ選手たちである。
しかし、格闘技から転出してきた選手の中には、自らの闘争心を下げる事がプロレスでの仕事だと思っている連中もいるだろう。
空っぽの闘争心で闘いを演じようとするのだ。
当然、格闘技並みの闘争心を発散すればプロレスではなくなる。
しかし、常に、その闘争心を発散するギリギリまで気持ちの中で維持し続けて欲しい。
その心の中の「溜め」は必ず試合に緊張感を生み出す。
格闘技には闘う気持ちを溜める余裕や時間など無い。
しかし、プロレスは闘う気持ちを放出せずとも、溜めたまますなわち内に秘めたまま闘うことが出来るのだ。
その溜めが色気と殺気になる。
そこを上手く理解できればアントニオ猪木や前田日明のような雰囲気を漂わせることが出来るはずである。
自分の為か、人の為かの違いこそあれ、格闘技同様、プロレスも闘いであると信じている。
2007/08/24掲載
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