2007年10月14日

西村修の果てしない自己探求

西村修は俗世間を知らない男が、哲学や宗教に気触れてしまった典型的な例である。
がんと言う人生の困難を哲学や宗教に求めてしまった事で、独特の個性を発揮し出したが、哲学や宗教の本質を語らず上っ面だけの言葉だけを租借し、自身の言動にも矛盾だらけの男でもある。
がんという病の原因を誰かのせいにする事で、もはや、哲学や宗教とも程遠いマイナス思考の男である事を示してしまった。
小橋や小林邦明が、がん患者の支えになるために、どれほどのプロとしての体調管理を貫き、マットに上がろうとしたかと比べると、西村の言動等がん患者の支えにもならない。
私が納得いかないのは、プロレスが商業化しだした初期の時代のプロレスを持って、「OLD IS GOODY'S」の考えを提唱している事である。
プロレスラーたちが日々、試合を消化出来る為の効率の良さを求める為に、プロレス界は
共通の約束事の動きを手に入れた。
その動きと、有酸素運動としてのゆったりとしたリズムを持って、西村が好きな時代のプロレスラーたちは日々の連戦を耐え抜いて来た。
日々の仕事を終えた後のご褒美は美味しいビールであったに違いない。
それも古き良き時代のプロレス界の風景である事に変わりはない。
しかし、ある意味、それはプロレスラーが他のスポーツとは程遠い世界に入りつつ有った期間でもあった。
準備運動や練習等無くして本番の試合だけで適度な汗をかいて、後はアルコールを飲みまくる。
それは哲学や宗教とは無縁の古き良き時代の男らしさ溢れる光景でもあったに違いない。

しかし、そういう男らしさ等西村のような賢人にはふさわしくはないのだ。

東洋哲学と言いながら、慎みとは無縁の、身の丈を越えた生活を繰り返し、垂直での自己探求よりも、水平の自己探求だけにこだわりを求める。

昔の商業プロレスに憧れるなら、現代のプロレスの商業性を考えれば良い。
かつての伝統的なスタイルで大金を稼いで来たプロレスラーたちの生活スタイルに憧れているのか、かつてのスタイルのまま彼らのような粋な生活スタイルが出来ると思う矛盾の男でも有る。

東洋医学というならば、船木ばりに呼吸法の基本くらい覚えれば良い。
何かを悟ろうとして瞑想を繰り返し、悟れない事を悟った仏教の指導者のように、いつか、西村も果てしない自己探求の旅から抜け出して欲しいものだ。

西村が藤波というかつてのスターを祭り上げたところで、大きな負担は藤波にしかない。
ファミリー総出で、後戻りの無い闘いに繰り出す藤波に変わって、自らが、「無我」というマットを、全社員を守る気持ち等無いのか?

その結論がハッスルに出て行く事ならば私は納得する。

しかし、おそらく違うであろう。
身の丈を越えた自分の生活スタイルを維持する為に、机上の哲学と宗教の書物を一旦、置き去り、矛盾の旅に出るのだ。

がん患者と言う西村にとっての最大の免罪符も、小橋のあまりにも真摯な練習と情熱による復帰により、その価値を落として行くであろう。

これから西村は何を語って行くのか?
変人・西村のファンとして私は楽しみにしている。

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posted by shingol at 11:19| 新・レッスルする世界 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする