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2007年11月09日

船木誠勝という希代のナルシスト3

大晦日の桜庭と船木の試合が近づいてきた。
私にとっては、かつてはプロレスラー同士の総合格闘技ほど観るに辛い試合は無かったが、総合格闘技黎明期と比べ、格闘技イベントの中でプロレスラーの価値が低下している現在、例え、プロレスラー同士の闘いであっても、大晦日のイベントとしての軸となるカードがプロレスラーによって形成されるのは嬉しい限りである。
このカードがイベントの軸であるとの格闘技メディアでの評価は存在しないが、私はそうは思わない。
HERO'Sに未だにファンの核の部分は存在していない。
核の部分が空洞化しているのがHERO'Sであり、桜庭対船木の試合が例え、懐メロ枠であっても、熱狂的なマニア層の核が空洞化しているイベントの中で、桜庭対船木を見つめるファン層の熱気は一つのイベントの核となり得るからである。

私と同世代のプロレスファンにとって船木誠勝というレスラーの闘いの過程というのは、特別な刺激に満ちていたものだ。
船木引退直後のパンクラスほど空虚感溢れるリングは無かった。
少なくとも、もう少し、船木のファンは船木の闘いを観ていたかったはずである。
しかし、リングに立つだけでオーラを発する船木であったが、実はヒクソン戦の前より、我々の期待する船木誠勝の姿を殆ど魅せてくれることは無くなっていた。
前田日明との試合、モーリス・スミスに勝った試合、鈴木みのるとの試合、バス・ルッテンとの試合、いずれの試合も、船木の内に秘めながらも洩れてくる感情の気配と、船木自身の肉体と技とが一致していた。
しかし、それらの試合を経て、競技性が明確になるにつけ、船木の内に秘めた感情が、肉体の動きに昇華されること無く、淡々とした動きに爆発的な余韻の無いまま、勝っても負けても消化不良の試合が多かったような気がする。
もっとも、消化不良の試合であっても、船木誠勝の闘う姿だけで充分に価値のあった時代でもあった。

私が船木を知らない世代にこそ、船木誠勝という男を観てもらいたい。
あれだけストイシズム、ナルシズム、を兼ね備え、それらに包まれた感情の気配を発しながら闘う男はいない。
格闘技の実力うんぬんではなく、格闘技の試合で、あれだけオーラを醸し出せる選手も珍しいはずである。
船木の魅力は、勝ち負けでも、格闘技のスキル、レベルでもない。
全てのプロスポーツがショースポーツでもあるならば、船木の突出した感情と肉体の醸し出すショーマンぶりを確かめてほしい。
なら、普通にプロレスの試合を行えばよいと思われそうだが、船木のショーマンとしての魅力は、リアルな逃げ場所の無い闘いの中でこそ、発揮されるはずである。
それが船木誠勝という希代のナルシストの特性でもあるのだ。


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posted by shingol at 15:00| 新・レッスルする世界 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする