ほとんどが「私は」ではなく、マツダさんは、ドリーさんは、ブリスコさんは、ゴッチさんは…と他人を主語として語っているのである。
つまり他人の世界を自分の言葉としている男なのである。
しかも、殆どの人間が外国の選手もしくは亡くなっている選手であり、本当に西村が勝手に都合の良いように解釈している感も有る。
おそらく西村修と言う男は、コンピューターに例えると自分のOSが無いのであろう。
果てしなき自分探しをしているようで、水平の移動だけに頼り殻に閉じこもっている男としか思えない。
海外経験等一度も無い小橋が同じ病気を患いながらも、まさしくプロレスラーらしいメッセージを多くの人に与えている姿とは対照的である。
長州、藤波と永遠に上司批判を繰り返す男でもありそうだが、ガミガミ言う上司、優柔不断な上司等どこの社会にもいてるものだ。
そのような些細な事から逃げた事を亡命と表現しては、もはや、ファンにどのようなメッセージを与えられるだろう。
ドリー、ブリスコ、マツダ、そしてゴッチさんにしろ、アメリカマット界でしっかりと商業的な成功を収めた人間である。
誰にも後ろ指差される事無く、身分相応の生活をしてきたのである。
西村の本質は、彼らが、仕事をこなしてきた対価として得た報酬で楽しむ味わい深い生活の表面だけを真似ているだけである。
自分が商業的にどれだけ価値が有るのか?
知っているかどうかよりも、そもそも、商業主義を否定していた人間では無かったか?
あの子供のような西村の表情を見るにつけ、ある意味、この狭いプロレス村で育ち、大人に成りきれない悲しいレスラー像を感じてしまう。
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