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2007年12月13日

等身大の船木誠勝に価値はあるのか?

私は二十歳の頃から同時代を生き、かつ、何歩も前の世界で激しい闘いを通じてメッセージを送ってくれる船木誠勝が好きであった。
船木の魅力は暗さである。
パンクラス旗揚げ後の鈴木戦、ルッテン戦、スミス戦と船木は追い詰められれば追い詰められるほど、つまり、ストイックな船木の本質が発揮されるのである。
勝つにしろ、負けるにしろ、絶対に負けられない闘いの中でこそ、船木誠勝の暗さは、月の灯りに変化し、多くのファンたちに強烈なメッセージを送る男なのである。

実は似たような暗さを持つ男がいた。
ミノワマンである。
以前にも記したが、若手時代、多くの負けられない相手との闘いにおいて、悲壮感漂う、しかし、覚悟を決めてリングに上がったミノワマンも、また、
そのストイックさの本質を発揮する男でもあったのだ。

船木もミノワマンも、もはや別人となってしまっている感がある。

自身のストイックさが常軌を逸しているがゆえに、自身のストイックさを否定し、明るい世界に逃げ出しつつあるようでもある。

明るく闘えば、気持ちも楽だろう。
スポーツ心理学をかじる程度の私でさえ、競技スポーツを行う人間に明るさは必須であることくらいは常識として知っている。
そんななか、船木にしろ、ミノワマンにしろ、彼らが醸し出してきた暗いオーラを持って勝利してきた事は、特筆に価するほど、彼らが追い込まれた精神状況で底力を発揮する男であることを物語っているのだ。

私はグラバカには他意はないし、彼らの真摯な競技スポーツに生きる姿勢や、垣間見える人柄が好きでもある。
グラバカで練習していること、また、それを公にする事は、競技者としての船木誠勝としては自然なことである。
等身大の船木としてはごく当たり前の事でもある。
しかし、彼らに、思ったより動けると一段上からコメントされては、長い間、船木を見ていたファンは気持ちをどう処理すればよいのか?

私は船木に勝って欲しいとは思っていない。
ただ、プロレスラー船木誠勝しか出せない、あの暗さのオーラを、月の灯りを大晦日の大舞台で多くの一見ファンに見てほしいだけである。

日本に多くの足関節技を持ち込んだ男、総合格闘技の礎を作ってきた男、何千回のスクワットに耐えてきた男、そんな船木が、なぜ、等身大の姿を今頃我々に見せ付けるのか?

プロレスラーなら、プロレスラーとしての自分を演じきるべきである。
つまり幻想を守るべきということである。
逆に言えば幻想を無くした等身大の船木が大晦日の舞台に出て、よそさまの技術を持って例え勝ったところで、なんの意味があるのかと私は思う。

K−1心中様の記事には私も強く同意する。

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posted by shingol at 10:59| 新・レッスルする世界 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする