2008年01月27日

アントニオ猪木の「闘うプロレス」という動詞の愛

私は子供の頃より、アントニオ猪木の「闘うプロレス」に夢中でした。
幼い頃より両親が共働きでしたし、後に離婚もしました。
実生活の不安に対して、常に、アントニオ猪木から「勇気」をもらっていたものです。
私にそういうものを与えてくれるアントニオ猪木の存在は、フィクションであれ、ノンフィクションであれ、子供の私にとっても、どうでも良い事でした。
与えてくれたものが、実際の熱量を伴った「闘い」ならば、その闘いがリアルであれ、フェイクであれ、関係のない事だと子供心に思っていたからです。

駅のホームで携帯電話で話しながら頭を下げているサラリーマンをよく見かけます。
そのサラリーマンの気持ちがリアルな感謝であれ、フェイクな気持ちであれ、サラリーマンが頭を下げている行為は多少の熱を生み出します。
よく人間は本音や建前を分けたがるものですが、相手に伝わる気持ちを動作に込め、それが例えなりとも熱量(消費量)を発生すれば、極端な話、本心等関係ないものです。
考えるだけで脳内で、いくら相手の事を想っても、伝わらなければ意味は在りません。
伝える為の動作に、リアルもフェイクもありません。
また、動作は時として本心を凌駕する真心も生み出します。

そういう意味で、サラリーマンの例えに通じるかどうかは分かりませんが、実際にアントニオ猪木が、リング上で、リアルな闘いと同等の熱量を持って、フィクションとしてのアントニオ猪木を演じ続けてくれた世界は、本当の心とは別次元の、完全な動詞の世界でもあります。

元々、その動詞の世界に乗っかったのがプロレスファンであるはずでした。

また我々の父の世代のくらいの人間は粋な男が多かったものです。
付き合う女に、わざわざ、本心の愛を求めたりしなかったものです。
本心とは裏腹の部分でも、付き合う男と女が、お互いを喜ばせる為に振る舞う言葉、行動、全ての言動は、動詞の愛に他なりません。
その動詞の愛さえ、提供してくれれば、充分だったのでしょうから、本心を覗こうと相手に心内のストリップ行為を要求する事等意味も無かったのでしょう。

愛情というものが相手の本心にばかり在ると考える輩は絶対に愛に満たされません。
動作、動詞で示す愛情表現は、たとえ本心がどう在れ、実際の熱量を伴う愛に他ならないからです。

プロレスファンにも、そしてプロレスラー側にも、似た傾向が在ります。
付き合う相手に本心か建前をしっかりと求めるように、リアルかショーかの区別をつけたがるファンが増えました。
またプロレスラー側の考えはもっとひどいものです。
私は本当はあなたを好きではないので嘘の私を楽しんでほしいと堂々と宣言しているようなものです。
リアルでないから、もう闘いは辞めようと短絡的な結論を出してしまっているのです。
そう思うプロレスラーたちは、ファンに「闘い」を演じ続け提供しようとする動詞の愛等放棄してしまっていますし、また、ファンもまた、自分たちを騙し続けてくれる相手に乗っかる楽しみを放棄してしまっているのです。

どのようなファンも馬鹿ではありませんので、プロレスをリアルと信じ続ける必要も無いでしょう。
しかし「闘い」の意識を持って「闘い」を演じ続け、遂行していくプロレスの世界は、本心、つまり本当のリアル・ファイトを凌駕する色気や勇気を与えてくれるものです。

単純にリアルファイトか、エンターティメントかの二分化しか出来ない今のプロレス界に先はあるのでしょうか?


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posted by shingol at 11:21| 管理人より | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする