2008年02月27日

アントニオ猪木最後の弟子/小川直也が輝いていた時

小川直也は、アントニオ猪木の教えを何とか忠実に守ろうとする弟子の一人でもある。
多くの弟子たちが、猪木の元を離れる中で、小川だけは意外と猪木の側にいるものである。
最初から適度な距離を持っているのだろう。
「師匠」と猪木を呼び続ける事で、アントニオ猪木への愛情と尊敬を無理矢理にでも自分の心の中に言い聞かせている男でもある。

猪木が小川に何を教えたかというと、抽象的なプロレス道でしかない。
元々、猪木の世界に言語は無いので、論理的に何かを伝えられる事は無い。
抽象的な何かを感じ取るしか無いのだ。

人の成功や繁栄を羨むアントニオ猪木であるが、新日本とUインターの試合においては意外と素直に、長州や永田、石沢の試合を褒め讃えていたものだ。

反面、橋本真也が中野のジャーマンを受けたとき、放送席で静かな怒りを示した。
プロレス的な技は受けても、強さのイメージを奪われかねない技は、絶対に受けてほしくないというのが猪木の想いなのだろう。

日本プロレス時代あれだけドリー・ファンク・ジュニアと上手い純プロレスを展開した猪木が、新日本旗揚げ以後、ドタバタしたプロレスを展開し続けた。
猪木の身体から受け身に必要な脂肪は削り取られ、純プロレスに必要な、丸みを浴びたプロレスラー体型ではなくなってしまった。

体型からして純プロレスの約束的動きを必要としない事を証明しているのだ。

巨漢の小川直也を自らの元でシェイプさせたのは、プロとしての見栄えを優先する猪木の考えもあっただろう。
しかし、何より、小川を痩せさせた理由、純プロレス的な練習もさせなかった理由は、総合をさせる為でも、純プロレスをさせるためでも無い。
アントニオ猪木の理想のプロレスを小川に託したかったに他ならない気がする。

純プロレス的な言語や約束事に頼らず、観客を掌に乗せるプロレスがある事を、小川は少しだけ他の選手よりは知っているはずだ。

小川直也に必要なのは、当然、強さではない。
それ以上に、プロレスの上手さでもない。

プロレス言語や約束事に頼らず、人の感性に訴えるショーとしてのプロレスの手法である。

一時、小川は忠実にこの教えを守っていた。

例えば、総合に出陣する以上の闘争心や殺気を全面に押し立てて、プロレスを遂行した。
しかし、プロレスなので本気で相手に闘争心を全開には出来ない。
結果、小川の闘争心は、相手や観客に露出されず、自身の感情の中で抑制される。
それが小川直也のプロレスラーとしての色気と殺気を醸し出していたのだ。

怒りの感情を大見得を切ってアピール、表現する場面は猪木的プロレスの少ない言語シーンである。
しかし、それは猪木の数少ないプロレス言語でしかない。

猪木的闘争心とは、感情を露出、全開し、声を張り上げ、胸板への激しいチョップ合戦を繰り広げるような物ではない。

むしろリアルな殺気と憎しみを持ちながら、プロレスという職務を遂行する事で、つまり感情をいたずらに露出しない事で、観客に感情を醸し出させるのだ。

前田日明が一番魅力を全開にしていたときもそうであった。
前田が胸に秘めていたものはリアルな感情である。
そのリアルな感情を、必至に胸に止めながら、いたずらに露出せず、職務としてのプロレスを遂行し続けたとき、観客には前田の殺気が観客に伝わる。
その殺気には感情を露出せず心内に溜める事で忍ぶ者の色気が加わる。


プロレスだからと、リアルな感情は必要ないと考えれば無機的な格闘家たちのプロレスになってしまう。
あるいは感情をいたずらに露出し、その感情を、表情や胸板へのチョップ合戦等の激しさと言うプロレス言語によって表現すれば純プロレスでしかない。

感情とは内に秘めながらも簡単に露出させない事で、リアルに観客に伝わるものだ。
心の中のリアルな感情を維持したまま、セメントでも、リアルファイトでもなく、プロレスを遂行していた時が、小川直也の最も輝いていた時代であった。

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posted by shingol at 04:34| 新・レッスルする世界 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする