人間のおおよその行動の信号に「闘うか」「逃げるか」反応があります。
その際の判断材料の一つとして、興味深い事があります。
人間が「闘うか」「逃げるか」を判断する際、大きな判断材料とするものの一つに「体重」があるという事です。
人間は、何故か、瞬時に、相手の体重が自分より重いか軽いかを察知する機能を携えているという事です。
もう一つが、相手が鋭利なものを持っているかどうかという事も判断材料の一つに成るようです。
昔ならば鋭利な刃と爪を持った肉食獣であり、現代ではナイフなどを携えた輩と言う事に成るのでしょう。
ちなみに私が闘うのは、体重別スポーツですので、同じ体重の人間のみです。
また私が逃げるのは、体重の重たいというより、あるいは鋭角的な人間というより、例えて言うなら宮代真司のような色々な意味で市井の実体験の言葉が通じない人間でしょうか?
俗世間の市井の言葉を使わず、理論ばかり使う人が、私の職場にいましたが、その人の言葉を聞いただけで虫酸が走り出したので、出来るだけ関わらないようにしていました。
私の仕事は社会学系統、心理学系統の流れを汲む仕事ですので、やけに専門バカの連中が多いのです。
私が最初に12年間勤めた職場は、そういう業界の風潮に呆れ、勉強よりも市井のアルバイトや異性遊びを熱心にやってきた人間である事を採用の第一条件としていました。
私も社会学系統の出ですが、成績は芳しく無く、体育会系という事で採用してもらえました。
ちなみに、そこの職場は私がプロレスラーを目指して退職した時も、休職扱いにしてくれていたので、厚かましく出戻りした職場です。
斎藤孝の著書で共感したのですが、自分の心の中の感情を言葉に昇華させた時の喜びの記述があります。
私も心の中のどこかむずがゆい気持ちを、簡潔に言葉に置き換えれた時はかなりの喜びを感じ得ません。
そういう意味で自分の感情の言葉を探り当てるとき、漢字という文化が存在している事は大きな喜びです。
しかし自分の感情にぴったりと当てはまる漢字に辿り着く時間ほど、何とも、むずがゆく自分の無知を思い知らされる時間はありません。
しかし、そこであらかじめ提示された書物の言葉を使ってしまえば、私のブログの価値ははありません。
時々、私の記事の文体の特徴に対して、評価を頂く方のメールを拝見し、大変恐縮するのですが、私は活字バカですが、私小説と思想本以外殆ど読まないですし、文章の勉強等した事はありません。
もし素人の私の文体を喜んでくれる人がいるならば、多分、その人は昭和プロレス者です。
私はアントニオ猪木のプロレスブーム前の試合構成を、実は、自分の文体のベースとしているからです。
そのことは分かる人には絶対、分かってくれているようです。
それが私には物凄く嬉しいのです。
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