昭和プロレスの興行の記事において、キラーカーンの姿が見れて嬉しかった。
記事を見るだけで何となく懐古的な気分になれるイベントの誕生であったが、私としては出来る事なら、現在進行形の昭和プロレスが見たいなと切に思う。
何を持って、昭和プロレスと定義するか等必要ない。
理屈ではなく、ファン各々の感受性のセンサーに基づいて受け入れて来た当時のプロレスに対しての心象風景は人それぞれであるからだ。
私の場合も簡単には説明出来ないし、まして、昭和プロレスと言ったところで、当時の新日本と全日本、そしてアメリカンプロレスの世界でそれぞれ趣も異なってくる。
しかし、それら昭和の当時の全ての団体に対する共通点は幾つか在る。
団体とファンの優位性は、圧倒的に団体側に在った事。
決して観客を満足させてくれなかった事。
プロレスラーたちの間にプロレスファン出身者は少なかった事。
よってプロレスファンの心理を操るのではなく、レスラー側に取っては一般大衆を操る術に長けていた事。
作り込まないアナログ的な演出であった事。
とりあえずは、そういったところが私の昭和プロレスに対しての断片的な印象である。
対して現在のプロレスに対する私の印象は、それらの全ての正反対そのものの世界でもある。
昭和のプロレスは、欲求不満のプロレスでもある。
特例としてプロレスブーム時、レスラー同士、会場のファンが一体化するスイングする好試合が続出したが、基本的に、ファンが頭の中に想い描く攻防等、レスラーたちが体現してくれる事等滅多に無かった。
思うようにならなかった。満たされなかったファン時代の夢を、自らマット上で体現しているのが今のファン出身のプロレスラーたちである。
ファンであったからこそ、ファンの気持ちも分かるプロレスラーたちが作り出す世界は、プロレスの歪な進化につながったような気がしてしまう。
プロレスラーなら、ファンの心理等何も知らなくても良いと私は思っている。
どんなプロレスファンとも共通しない、オリジナルの感性を頼りに、自分のプロレスを想像して欲しいからだ。
また私自身、かつてプロレスラーに成ろうと憧れた事が在ったが、基本的にプロレスファンは職業としてプロレスラーに成る事だけが、プロレスラーに成る事ではない。
私はプロレスラー人口におけるファン出身者の割合が激減するべきだと考えている。
そうなると、今のような機械仕掛けのような完成されたプロレスも激減するはずだ。
何よりプロレスファンが喜ぶプロレスとは正反対のものを創造していって欲しいと私は思う。
そしてプロレスファンなら、プロレス以外の場でのプロレスラーを目指すべきだ。
昭和のプロレスを見て育った柴田が、実質プロレスとは異なる場で、かつ、プロレスラーの意識は捨てず奮闘している姿勢こそ、私は好きだ。
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