taizan*shingol-.jpg inoki-2.jpg

2008年05月31日

モーリス・スミスの試合から何かを見つけ出そう!

吉田秀彦の対戦相手がモーリス・スミスに決まった。
何とか安全で、かつ、勝てば評価の高まる大物を探したあげく、そういうリストから抽出されたのは、あまりにも時代性のかけ離れた過去の大物でもある。

しかし、そんな馬鹿馬鹿しいカードが見たく無いかと問われれば、私は見たい。

吉田が誰と闘おうと、もはや多くのファンは感情移入は出来ないであろう。
ならばベテラン・スミスを久しぶりに見れる分だけ、私は吉田の試合に久しぶりに興味を持てるような気がする。

本来なら、実はベテラン・スミスの闘いぶりをリアルファイトの場で確認出来る事は、実に味わい深く、想像力を刺激されるカードでもある。
第一線から離れたとはいえ、未だに自分のペースでリアルファイトの場で闘い続けるスミスの闘いぶりは、若い選手たちの試合には見られない「気づき」を与えてくれる可能性もあるはずである。

しかし、吉田の相手がスミスと決まっただけで拒絶反応を示す人たちが多いのは、私は少し理解出来ない部分もある。
バブル時の総合格闘技イベントの出し惜しみしない好カードの連発にファン側の感性が麻痺されてしまっているのではないだろうか?

この選手と、この選手に闘って欲しい。
この選手とこの選手はどちらが強いのか知りたい。

それらの願望が、ほぼ100パーセントのレベルで叶えられ続けて来たバブル時代の格闘技イベントに染まった結果、バブルが終わった今でも、目に見える好カードだけを追いかけ続けしまっているような気がする。

本来、好カードとは、どのようなジャンルにおいても滅多には見られないものであるのに、何故か格闘技ファンだけはどのようなイベントにおいても全試合好カードを提供しろとの姿勢が強いようである。

目に見える好カードではなく、吉田対スミスのような谷間のカードに何かを見つ出す作業は、イベント側ではなく、受け手側のファンの感性の仕事である。

ところで吉田の発言で気になる事が在る。
スミスとの闘いを「おやじ対決」と表現した事である。
自分の試合を「おやじ対決」と表現する事は、バーネットとの試合前の笑顔と同様、ファンの事を考えているとは言い難いものがある。
まして自分より10歳近く上のスミスと自分を同じ「おやじ」の枠にはめ込む事に、吉田のプロ意識に甘えと勘違いのようなものを感じてしまう。

スミスは、決してロートルではない。
ベテランである。

人気ブログランキングへ










posted by shingol at 14:40| 新・レッスルする世界 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする