2008年01月22日

ブライアン・ジョンストンのプロレス愛

どういう訳か、外国人の格闘家がプロレス団体に所属した場合、必要以上の帰属意識を持つようである。

日本独特の集団での巡業を経験し、様々な地方の体育館で同じ汗をかき、プロレスという共同作業において遂行していく日々を送れば、自ずと所属するプロレス団体の同僚への仲間意識、団体への帰属意識、ひいてはプロレスラーへの自我も生まれて来るはずであろう。
そういう意味ではジョシュバーネットが自身をプロレスラーである事に拘る理由として挙げるU系オタクであったファン時代の事は後付けであった事が分かるだろう。
ジョシュはプロレスラーとしてはあくまで新日本プロレスに対してだけ帰属意識を持っていた格闘家である。

ジョシュ・バーネットほど声高にプロレス愛を叫ぶ事は無くとも、ブライアン・ジョンストンは静かに動詞の愛を持ってプロレスを愛した格闘家である。
UFC黎明期、テレビインタビューにおいて、少し覇気が足りないくらい照れた等身大の表情で自己紹介を行うジョンストンはまるでエンターテイメントとは無縁の世界の人間に思えた。
しかし数年後、ミサイルキックを放つほど見事なプロレスラーと化していた。
総合に出陣するプロレスラーたちにとって、自分たちの指南役がプロレスラーである事はどれほど心強かったであろう。
ジョンストンがプロレス側にいてくれなければプロレス界に、誰一人、総合格闘技への指南役など存在しなかった時代である。

私は安田忠夫に控え室で電車道の如くつらぬく胴タックルの指示をする途中で、脳梗塞のふらつきを起こしたジョンストンの姿、あるいは藤田がマーク・ケアーを破り、藤田と抱き合ったジョンストンの姿が忘れられない。

現役生活をプロレス側で終え、多くのプロレスラーの勝利に貢献したジョンストンの功績はもっと評価されるべきである。

もっともイワン・ゴメスから始まり、ジョンストン、デバイン、ジョシュと多くの外国人格闘家たちを囲ってきた新日本の歴史は終わっている。
もはや新日本に闘いは無いのだから。

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2008年01月21日

前田日明が救済する相手

前田日明が不良少年たちによる格闘技大会を開催するとの事だ。
私的には、現在の受身的な技術が消極的なペナルティを負うことなく認められている格闘技界の風潮とは異なる、不良少年の前に出る気持ちが見られるのなら素晴らしいことだと思う。
しかし、元々、何の格闘技のベースも持たない前田が、不良たちの喧嘩に自らの原点を重ね合わせようとしている郷愁ゆえの気持ちからだとしたら、前田の勘違いであろう。
また前田日明は格闘技経験の無さゆえか、自分のベースやバックポーンの在り処を、プロレスの受身にまで求めたりして何とか見つけ出そうとしている感がある。
今回の不良少年のケースもである。

前田日明とは不良ではない。
群れず一人で闘ってきた人間ではないか。
太宰を読み、悶々とした暗い青春を過ごしてきた人間である。

社会貢献の意味があるなら、不良のようにカラッとしている連中ではなく、自身と同じく太宰を読みふけるような根暗な悶々とした若者を相手に対象にして欲しいものだ。
単純に汗をかくこと、クタクタになることの素晴らしさを伝えてもらえれば前田のような異質な格闘家も生まれるかもしれない。
何よりも過去の自分を投影する対象を前田自身が間違っているのではないか。

多くの不良たちは、前田が心配するまでも無く、もっと、したたかで、もっと強いものである。少なくとも前田よりは。
前田が行うべき弱者救済の対象でもないだろう。

もっとも私自身、前述したように、不良たちの格闘技大会は楽しみには変わりは無い。
前田が関わらなくてもと思うだけだ。
前田いうところの「前に行く気持ち」が1分間続けば、たいしたものだ。
喧嘩になれば心拍数は180を越えてしまう。
200近くにもなるだろう。
その状態で喧嘩と違って、競技時間内、バテたからと前に出る気持ちを止めることなく、攻撃し続けられれば本物だろう。
そうなれば激しい心拍数を練習で培ってきた格闘家たちは何だとなってしまう。

もっとも私の経験から、どんなに激しい喧嘩よりも、格闘技の試合で前に出て行くことはキツイ事であるが。

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2008年01月18日

PRIDEの約束試合

もし高田延彦がハッスルにおいて、自分のPRIDE時代の約束試合を揶揄した台本を考え、遂行したなら、私は高田を見直すであろう。
フェイクの場でフェイクに従わざるを得なかった場所であった新日本。
リアルを名乗りながらフェイクであったUインター時代。
そしてリアルの場でありながらもフェイクであったPRIDE時代。
全ての時代の自分に懺悔し、揶揄できるならたいしたものだ。

しかし高田の懺悔と揶揄はプロレス時代に対してのみである。
カイル戦、コールマン戦、半ば開き直った展開であった大塚戦。
リアルな場で異質であった試合を封印してまで、プロレスを攻撃し、プロレスを揶揄する事をしたいのだろうか?
我々はどの時代の高田も受け入れ、フィクションとしての高田を応援してきたはずなのに。
コールマンにヒールホールドを決めたとき、多くのファンは自分自身を騙しながら高田はヒールが上手いと納得しようとしていた。
なら、せめてPRIDEというリアルな場に汚点を残した自分の約束試合の告白だけはしないでもらいたいものだ。
それくらいは墓場に持っていく男気が欲しいものである。


しかしテレビ番組でリアルでは勝ったことが無いとつい口走ってしまった。

フェイクな男にプロレスがフェイク呼ばわりされる必要など無いのだ。






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アントニオ猪木と永田裕志の佳作的プロレス

プロレスブームが始まるくらいから、急激にアントニオ猪木の老いが始まった。
元々、プロレスが上手い選手ではない。
独自のショーマンシップにより、多くの観客を惹きつけてきた選手である。
そのショーマンシップを発揮する為の肉体の能力と見栄えのどちらも無くしてしまったのである。
しかし幸い、アントニオ猪木がリングに上がる頃、プロレスブームの主役たちの熱戦によって、会場の雰囲気は出来上がっている。
すでに出来上がっている会場のファンを前に、アントニオ猪木は負担の少ない技と顔芸によって短時間の試合を誤魔化し誤魔化し提供し続けた。

私たち猪木ファンにとっては辛いブームの最中、キラー猪木といわれたアントニオ猪木の実態であった。

しかし、そういう中で、稀にアントニオ猪木の体調が良好な時があった。
そういう場合の猪木は普段難しい長時間の試合を提供しようと心がけてくれたものであった。

かといって、一過性の体調の良さである。
かつてのように肉体的特性から発揮するショーマンシップや闘う気持ちを前面に押し出しての試合が出来たわけではない。
更に、プロレスが上手いわけではない。
職人のような技の応酬を展開できたわけでは無い。

肉体とプロレス技術を無くしたアントニオ猪木が見せてくれる長時間のプロレスは、意外とオーソドックスな基本プロレスであった。
そういうじっくりとしたプロレスを、マードック、マスクド・スーパースター、長州力あたりを相手にじっくりと見せてくれたものであった。
しかし、それらの試合でも、体調のどん底時、誤魔化しの為か使い出した顔芸は要所要所に散りばめられていた。

私的には、アントニオ猪木的世界とはやや異なる性質の試合だったとはいえ、味わい深い猪木の佳作の作品の数々であると思っている。

不思議なのは、永田裕志が王者だったとき、重ねてきた佳作的な名勝負の数々も、それに猪木の試合と同じような雰囲気を感じてしまうことだ。

プロレスが下手なもの同士、ファンに対してじっくりとした試合を提供とすれば、どこか似たような雰囲気を醸し出すのかも知れない。
しかし永田の顔芸を見るにつけ、ひょっとして永田はあの時のアントニオ猪木の作品群を知っているのではないかと、ふと思ってしまう。

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2008年01月16日

脱・プロレス村2/高田延彦の罪

多くの暴露本が登場したプロレスというジャンルであるが、幸いなのは未だプロレスを運営する団体側のカミングアウトは無いという事だ。
プロレスがどこまでリアルで、どこまでフェイクなのか、どこまで打ち合わせしていて、どこまでアドリブなのか、全てが謎のままのジャンルであることに変わりはないのである。
元・当事者たちの告白は有れど、現役の当事者たちの告白は無い。
ならば私たちは実在するかどうかも確かでないプロレス隠語に振り回される必要も無いであろう。

暴露本に乗っかって多くのファンがプロレスという想像性の高いジャンルを楽しむ事を放棄してしまっているのである。

かつてプロレスがリアルでないにしても、痛みは本物だという事が、プロレスという競技の体裁を借りたショースポーツを提供するものの免罪符であった。
しかし前の記事で書いたように、最近は免罪符すら放棄してしまっている。
それほど罪が怖いのだろうか?

かつてのプロレスラーたちは、決してリアルとは思えない事を必死にリアルに見せかけ、生業としていた職人たちである。
自分たちの仕事への罪の意識も有っただろう。
それでも貫き通さなければいけないフェイクも有っただろう。

プロレスの見方がジャンルとしての大人になる時代までは、多かれ少なかれ、当事者であるプロレスラーたちに嘘をつく事の罪の意識も有ったかもしれない。

それでもプロレスラーたちは、自分たちのついた嘘を、墓場まで持っていってくれるものであった。
プロレスというマスコミ、ファン、プロレスラーたちが一致団結した共犯関係の世界の中で一人だけ罪の意識に負けてカミングアウトして許しを請うような男が、プロレスラー側であった事は私はショックであった。

ハッスルと高田についてである。

極論すればプロレスに嘘が無くなればプロレスではない。
バレバレの嘘を意地を持って突き通してきたのがプロレスというジャンルである。
嘘をつくという罪深さを背負ってこそプロレスのジャンルの重みは増えるのだ。

ファンのため、つまり、人の為についた嘘は、墓場まで持っていくのが男である。
それが人の為=偽の闘いを貫くプロレスラーたちの使命でもある。

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posted by shingol at 21:18| 新・レッスルする世界 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

脱・プロレス村

私がハッスルに感心するのは、その熱である。
またプロレスラーとは「おまえが頼りだ」と言われれば意気に感じる人種である。

プロレスはこのままではいけない。
プロレスはカミングアウトしなくては行けない。
その先の素晴らしさが有る。

おそらくハッスルのフロント陣は、ジンと来るような熱い台詞を並べ立て、レスラーたちを道化に誘い込んだのだろう。
どのような業種の仕事であっても、社員の士気を高めるのは熱である。
法に触れずとも明らかに天罰が下るような商品を売っているような会社でさえ、その会社独特の営業道が有り、熱が有る。
消費者を騙す前に、まずは社員を洗脳させるゆえで大切な事は、何より熱である。

ハッスルに参戦するプロレスラーたちは、どういう風に洗脳されたのか気になるところだ。
あるいはハッスルに参戦するプロレスラーたちの意識は「割り切り」がまずありきだったのかも知れない。

生活のため、割り切る中で、ハッスルの制作側の熱は、割り切りを超越した都合の良いエネルギーを与えてくれたのであろう。

しかしボクシングならば世界王者の一歩手前までアルバイトしなければ生活出来ないのに、プロレスラーだけが本来したくない仕事までして中途半端に高級な生活しなければいけない理由は無い。
好きな事を貫いて貧乏なら、それでいいではないか。

私は闘うプロレスであれ、全日本プロレス的な調和的な世界であれ、プロレスとはファンとマスコミ、団体側との共犯関係であるというのが持論である。
競技スポーツの体裁を借りているからこそ、競技スポーツを観戦する思考で、闘いも笑いも楽しめる。
アントニオ猪木の空振りの延髄切りで倒れた選手を何人見ても、あくまで競技スポーツとしての体裁を持って、ファンは観戦する。
プロレスラー、マスコミ、ファン、全ての者がリング上がフェィクであることを知りながらも、競技スポーツとしての体裁を借りた空間を楽しんでいる。
不思議なジャンルである。

しかしハッスルにはそうしたファンとマスコミ、団体側との共犯関係はない。

小橋健太がハッスルに参戦する。
あのチョップを芸能人に打ち込む。
ミミズ腫れしても、芸能人は何度も立ち上がる。
そうなれば小橋の神話は崩壊するだろう。
ハッスルではないが高山や鈴木が素人とは変わらない身体のレスラーを物凄くいじめたとの事。
しかし、そのレスラーは死ななかった。
彼らの技はそういうものだ。高山や鈴木の技などたいしたことはないのだ。
何故、彼らは自分たちを安売りするのだ。


何度も記すが、プロレスは競技スポーツとしての体裁を借り、競技スポーツでないのに、レスラー、ファン、マスコミ皆が共犯となって競技スポーツとしての空間を作り出す不思議なジャンルである。

私はプロレス経験は無いので、実績の無いレスリングの経験と子供の頃よりのファン歴でしかプロレスを語れない。
語るというより想像しているのだ。
想像するしか無いジャンルなのである。

しかし最近の風潮は恐ろしい。
ファンの口から当たり前のように、セール(セル)、ワークなどの業界用語が飛び出す。
芸能人でもないのに芸能用語を使っているようなものだ。
そこまでしてプロレスを語りたいのか?と私は思う。

私たちはプロレスを想像するしか無い。
想像するしかないからこそ、好き勝手な事も言えるのだ。

しかし少なくともプロレスラーたちが公に発言していない言葉まで持ち出してまで、プロレスを語る意味など有るのか。
私はそう思っている。

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posted by shingol at 20:49| 新・レッスルする世界 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月14日

リアルでない「闘いのプロレス」新日本と全日本との相違点

何度も記事にしているのに、それでも誤解を受ける事が多いようだが、私は全日本的なプロレスも好きである。

私にとっての全日本的プロレスとは、舞台、選手双方、つまりハード、ソフトの両面において、絢爛豪華きわまりない名優たちの世界であった。
例えば全日本の名優たちの不思議なところは、それぞれが一シリーズの主役を張れる実力、風格、知名度を併せ持つのに、その個性を発揮してくれるのが各々が主役を張るシリーズではなく、名優たちの集合体である大きなシリーズにおいてであった。
例えばエキサイトシリーズで主役を張るビル・ロビンソンに華は無いし、シリーズにも華は無い。
しかし年末の最強タッグという最高の舞台つまり最高のハードを得ると、ロビンソンというソフトは名優としての華と輝きを得てしまう。
全日本に集う絢爛豪華な名優たちは全日本の用意する最高の舞台においてこそ名優となれるのである。

さらに不思議なのは、普段、各シリーズのトップを張る外国人レスラーたちが、年末のシリーズにおいては実に適材適所に自分の番付に応じた役回りを演じている事であった。
リング上の様式美のプロレスと同じく、エゴなき、すなわち闘い無き、名優たちのコスモスの世界でもあった。

私は子供の頃より新日本のプロレスの世界を自分の最大の趣向としていたので、その世界がデーンと存在していれば、安心して、逆に、闘いとはかけ離れた様式美あふれる全日本の世界観も楽しめたのである。

しかし前も記したが、今のプロレスというジャンルは全て当時の全日本プロレスが細分化されたジャンルとなってしまった。

私が「闘うプロレス」を、総合格闘技ではなく、プロレス界に取り戻したく何度もブログに記している理由はそれである。
しかし私が見ていた「闘うプロレス」とは言うまでもなく、セメントでも、シュートでもなかった。

プロレスというジャンルの一番右寄りにシュートな世界である総合格闘技が来てしまい、皆が左に逃げ込んでしまった。
「闘い」でリアルにかなわないと思った事が、プロレス界の恥ずべき勘違いなのである。

よってリアルでない「闘いのプロレス」はプロレスというジャンルにおいて空席となってしまっている。
リアルでない「闘いのプロレス」は、プロレスブーム以後のファンにとっては単純に中途半端なプロレスでしかない。
それらのファンにとってはプロレスとは「沸くか、涌かないか」「観客が満足して帰るかどうか」あるいは「リアルか」それらしか価値基準を持たないからである。
極論をいえばプロレスブーム以前の新日本プロレスとは、観客が満足して帰れないプロレスだったのである。
暴論を吐けば、今の新日本が顧客満足の為のプロレスを追求していても、かつての人気は得られないだろう。
何でも言う事を聞いてくれる異性よりも、自分の思い通りにならない異性に魅力を感じてしまう。
そういう異性としての魅力が、かつての新日本にはあったのである。

今のファンは安心して結婚出来る対象としてしかプロレスを見れない。
プロレスに振り回される喜びを知らないのである。


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2008年01月12日

私的プロレス論3/レスリングからプロレスへ/ディフォルメされた動き

プロレスを商業ベースで行う為に、様々な取り決めが出来ていった。
アマチュアレスリングの強者たちは、それぞれの技術をプロレス的つまり商業的にディフォルメしていった。
片足タックルからのリフトは、いつのまにかボディスラムに変化した。
背後からの腕取りはコブラツイストに、タックルからの押さえ込みはエビ固めに変化した。
効率よく商業試合を展開させる為の取り決めである。

商業試合の為にディフォルメされたプロレスのボディスラムとはいえ、その技を仕掛けられる選手は、本当のボディスラムの原型を相手の協力を得ずしても仕掛けられる選手たちばかりであったのである。

その点が現在と異なる点である。
現在のプロレス界で相手の協力が無くともボディスラムを仕掛けられる選手はどれほどいてるだろうか?

相手の協力無くして成立しないディフォルメ済みの技術だけを展開したところで、様式美の世界でしかない。
プロレスとは様式美の世界ではなかったはずである。
相手の協力無くしても技を仕掛けられる強者たちのディフォルメされた攻防であったはずである。

ここに、かつて、プロレスがアマチュアレスリングの動きから商業プロレスへと変化していった時代を想像させてくれるような動画が有る。

WCWに出場した時のザンギエフの動きを観てもらいたい。
ツーオンワンといわれるスタンドでの基本からフェィントで背後から片足タックルを仕掛ける。
アマチュア流のアンクルホールドに相手の足を固める。
その直後、ザンギエフはアマチュアには無いボーアンドアローの体勢に持ち込むのである。

そしてヘッドシザースで捉えられると、アマチュアのブリッジワークの練習そのままの動きで脱出する。

まさしくアマチュアレスリングの動きを商業プロレス流に見事にディフォルメしているのである。

おそらく商業プロレスのルーツがアメリカではなく、ロシアであったなら、こういう動きがプロレスの基本ムーブとなっていただろうと私は思っている。
アメリカにはアメリカのフリースタイルレスリングの技術をディフォルメされたプロレスの基本が有る。
ヨーロッパにはグレコも含めたディフォルメされたプロレスの基本が有る。

私は、極端な話をいうとプロレスの約束の動きの基本が、どのような格闘技から変化したものでもいいのである。
柔術であれ、あるいは街の喧嘩でも、フットボールで鍛えた瞬発力でもいい。
たとえば強さとは関係のない大見得の技でも何がしかの説得力が有ればいい。
たとえば猪木のナックルパートは砲丸投げ、鶴田のジャンピングニーはバスケットボールのシュートのディフォルメである。

どれだけディフォルメされたプロレスとしての動きをこなしていても、ディフォルメなくしても本当に相手に仕掛けられる技術や能力である事が大切なのである。あるいは大見得の技なら何がしかの動作の説得力が必要である。

おそらく動画のザンギエフの相手は、協力を拒否したところで、ザンギエフにあの動きを展開され続けたであろう。
ザンギエフは相手の協力の有る無しに関わらず、自分のレスリング技術を、ディフォルメされたプロレスに昇華させているのだ。

当然、相手の受けは大切である。
しかし、本来の技術すなわち相手の協力無くしても相手に技を仕掛けられる技術や能力を持っている選手たちこそディフォルメした技が生きるはずである。

例えば西村修がいくらクラシックスタイルを提唱しようとも、西村本人は先人たちがディフォルメ加工させた技術だけしか使えない。
何の説得力が有るのか?

プロレスとは受け合いの様式美の世界ではない。
能動的に技を仕掛けられる選手たちの最低限の取り決めを持って行う世界である。

かといつてプロレスがシュートやセメントで良いという事では無い。
かつて石沢と永田が、金原相手に、様式美の世界無くしてプロレスを成立させた事が有った。
おそらくアントニオ猪木が理想とするプロレスの一つであると私は思っている。



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2008年01月09日

私的プロレス論2/売れ線プロレス

私か驚くのが、現在のプロレスファンは驚くほど限られた物差しでしかプロレスを見れないという事である。
相手とスイングして技のラリーが続く試合、会場が沸く試合、その二つでしかプロレスを測る物差しを持っていないのではないかと私は思ってしまう。

そんなプロレスは極端な話、売れ線的なプロレスでしかないと思うのだが、今のファンは売れ線としてのプロレスしか評価出来ないのだ。
売れ線的プロレスを測定するプロレスの基準しか持ち合わせていないという事である。

例えば会場が一体化して床を踏み鳴らす試合が好試合だと錯覚されているが、それは、あくまで売れ線的プロレスの価値観でしかない。
ハイレベルで激しい技の攻防が繰り広げれる試合が良い試合だというのも、売れ線的プロレスの価値観でしかない。

売れ線的なプロレスブームに夢中になった世代が、プロレスラーとなり、更に進化させた売れ線的なプロレスを展開していく。
それに夢中になったファンたちで作り上げられたプロレス村は、売れ線的な価値観でしかプロレスというジャンルを測れなくなっているのだ。

かつてはプロレスというジャンルは想像力を必要としたジャンルであった。
自分の期待通りに終わらない試合内容、呆気ない結末、それらを通して、かつてのファンは自分の思い通りにならないプロレスと言うジャンルへの耐性と想像力を身につけたものであった。

売れ線的プロレスしか測れない物差しで例えばIGFの試合を見たとする。
プロレスの下手な選手が全然盛り上がらない試合を展開しているというなという見方しか出来ない。
しかし売れ線的プロレス価値感ではしょっぱい試合であっても、私はIGFほど余韻を感じるプロレスは無いと思っている。

逆に言えば、しょっぱい試合というのは、売れ線的プロレスしか知らないファンたちが勝手に作り上げた見方でしかない。

今のプロレス界は売れ線的プロレスを測るしか出来ないファンの集まりであるので、プロレスラーたちは更にファンに好かれるよう売れ線的プロレスを展開しようとする。

しかし世間の人たちはプロレスファンが思うほど、進化しすぎた売れ線的プロレスのベストバウトを観ても、凄いと思うわけではない。

ファンの求めているものも、レスラーが提供しようとしているものも、プロレス村の中で完結してしまっている。

プロレスを低迷させたのは、売れ線的プロレスの物差しでしかプロレスを観れないファンと、そして、そういうファンを育ててしまったプロレスラーの責任ではないかと私は思っている。

そういう意味では、安易に売れ線的プロレスによってブームを起こした昭和のプロレスブームの頃から、プロレスの衰退は決まっていたのだ。

プロレスが人気を取り戻す為には、良いプロレスの定義や物差しなど何も持たないまっさらなファンを捕まえる事である。
世間の人が一目置く格好よさ、異形ぶりとは何かを考えたら、世間のイケメンの二番煎じのルックスだらけのプロレスラーなどに世間は飛びつかない事は分かるであろう。
猪木であれ、前田、長州であれ、世間にいない色気を持つ男こそ世間を振り向かせられたのだ。
私が否定する昭和のプロレスブームであるが、まだ売れ線的なプロレスとはいえ、長州にも藤波の試合にも美しさが有った。
人々を刹那的に高揚させる事は消費でしかない。
それが売れ線プロレスである。
その元祖とも言える長州対藤波であったが、今の売れ線プロレスと異なる部分は多い。

今はプロレスファンを喜ばせる試合に精を出しても、プロレスファンだけが喜ぶ売れ線プロレスである。
しかし過去の長州と藤波は世間に対しての売れ線プロレスであった。
進化しすぎていなかったからだ。

進化しすぎた売れ線はプロレス村のマニア相手の売れ線でしかない。
大技の攻防をスイングして繰り広げ観客は興奮しきっちりと決着がつく。
それがプロレスの良い試合だという考えは、世間にも何処にも無い。

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2008年01月08日

私的プロレス論1/闘うプロレス

私の考えでは、基本的に、リアルであれ、フェイクであれ、その闘う姿が見ている者の闘争本能を刺激し、何がしかの力を与えてくれるものであれば、それは闘いであると思っている。
私の子供の時のプロレスは、まさしく闘いであった。
アントニオ猪木は少なくとも、本当に闘う感情を持って、私に闘う事は何かを教えてくれた。
アントニオ猪木がフィクションであれ、ノンフィクションであれ、少なくともアントニオ猪木が演じる闘う姿は、闘い以外の何物でもなかったのである。

私はアントニオ猪木のプロレスがあまりにも闘いそのものであったので、逆に、片方の全日本のプロレスも思う存分楽しめた。
アントニオ猪木が闘いを見せてくれたからこそ、闘いとは関係のない幻想的な夢の世界である全日本をも存分に楽しめたのだ。

子供の頃の私にとってはプロレスとは、アントニオ猪木が見せてくれる闘い、そして、闘いとは若干かけ離れた全日本プロレスの夢空間と、二つの対局を成す大変幅の広いジャンルであった。

ジャンルが細分化した今のプロレス界であるが、私の子供の頃のようなジャンルの幅は無い。
細かく趣向が別れたプロレス界であるが、ジャンルの幅の右にも左にも、そこに闘いは無くなってしまっている。

私的には全日本プロレスの世界が細分化された世界が、今のプロレスと言うジャンルなのだと思っている。

闘いを見せてくれたアントニオ猪木のプロレスは、いつしか総合格闘技へと飛び越え、アントニオ猪木、かつての新日本プロレスという世界観が、かつてのファンを引き連れ、総合へ進化したというのが一般的な見方である。
アントニオ猪木のプロレスが、いくら闘いをテーマにしたところで、本物の闘いには勝てないという意見を持って、プロレス界から、闘いというテーマが消えてしまったのである。

しかし、私たちが子供の頃、夢中になって見つめていたアントニオ猪木の闘うプロレスとは何だったのであろうか?
本物の闘いを見るための素養を身につけるための準備期間でしか無かったのであろうか?
本物の格闘技を見るための入り口としての存在でしかなかったのであろうか?

私の答えは否である。

リアルでないジャンルが、リアルなジャンルにのめり込む為の入り口でしか無いのだとしたら、この世にあらゆるジャンルのドラマも映画も小説も存在していないであろう。

実際に恋愛をしていても恋愛小説を読むものである。
しかし、その恋愛小説が、リアルでないからと最初から実際の恋愛とはかけ離れた世界観にこだわれば、誰も恋愛小説など読みはしないであろう。

今のプロレスがそうである。
リアルでないからと、実際の闘いとはかけ離れた世界にジャンル全体が逃避してしまっているのだ。

リアルでないからこそ逆に醸し出せるリアリティも有る。
そのリアリティを持って、本物の格闘技以上に、闘いとは何かを表現出来たのが、アントニオ猪木のプロレスであったのだ。
決して、格闘技への入り口、格闘技ファンのビギナー版としての似非・格闘技としてアントニオ猪木のプロレスは有ったわけではないのだ。

                            (この稿 続く)



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底が見えたヒョードル

後だしジャンケンを記すつもりは無いが、ヒョードルが再びアローナと再戦したとする。
リングス時代よりも遥かに進化した現在のヒョードルであっても、アローナの弾丸タックルを防ぐ事は出来るだろうか?
アローナに転倒されるしか無かったヒョードルが不思議な判定勝ちを手にして以後、ヒョードルはプライドのリングにて実力を発揮し続けた。

しかし、おそらく誰もが知っていてあえて記さない事だろうが、ランデルマンに反り投げをされたヒョードルは明らかに一瞬、意識を失った。
投げたランデルマンが逆に動揺して、攻めを躊躇した事実は、誰もが触れないヒョードル神話形成のためのタブーでもあった。
藤田和之には片足からリフトされてしまった。
以前にも記したが、リフトされたという事は思い切り自分で転倒されまいともがき踏ん張っている事を証明している。
それでもリフトされてしまったのだ。
ヒョードルの、その体型を生かした被テイクダウン能力でもあるが、実は体型の特性以上の腰のバランスや被テイクダウン能力はない事は徐々に証明されつつ有る。

私が驚いたのはホンマン戦である。
少なくとも裸体の格闘技の経験が有れば、自分より遥かに身長が高い相手に、あそこまで四つに組む事はしないであろう。
結果、ホンマンにあそこまで見事に潰されてしまった。
自分より体重の有る相手に、さば折にしろ、自分の投げミスにしろ、潰され、覆いかぶされ転倒するという事は、悶絶ものである。

しかし悶絶しパニックになっている表情はヒョードルのポーカーフェイスに隠れてしまっている。
結果、涼しい顔でに若干の傷跡をつけたヒョードルは格闘技界の王者の面目躍如を果たしたが、私はたとえ今日、再戦したとしてもヒョードルがホンマンに再び勝てる事は無いと思っている。
それはヒョードル自身が知っている事である。

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2008年01月06日

佳作の男 永田 裕志

永田 裕志とは、新日本の強さの幻想を無くした男の一人でもあるが、同時に幻想をギリギリ抱いている男でもある。
もはやテレビゲームのキャラクター化した選手たちの中で、ヒョードルやミルコとリアルに交差した永田の過去は異質である。
リアルでショッキングな過去でもあったが、あまりにも一瞬で終わった試合であったがためにリアルな映像さえ逆にリアルで無く幻想化してしまっているのだ。
ヒョードルとミルコに挑んだ二つの試合が、例えば、桜庭に負けた船木のように中途半端な短時間で実力を見せつけられたものであったならば、私は永田に抱く幻想を無くしてしまっているが、まるで出会い頭の衝突事故とも取れる一瞬のリアルでかつショッキングな光景が、永田の幻想を救っているのだ。

以後、プロレス道に邁進していった永田であったが、地道な防衛戦の数々が私は好きであった。
ファンを裏切る事こそ、新日本だと私は思っているが、今の新日本にファンに対してそのような余裕ある優位性は無い。
ひたすらファンに対して誠実という媚びを売る現在の新日本であるが、永田 裕志がIWGP王者でいる事こそが、新日本がファンに対して行った唯一の挑発であり意地であった。

永田 裕志は二千年代型の大技のラリープロレスが出来る男ではない。
そんなプロレスなど、現在の新日本であれば、いくらでも永田より上手い選手はいてるだろう。
永田はミルコ戦、ヒョードル戦に至まで、常に闘ってきた新日本のプロレスラーなのである。

その永田が、ファンを満足させる上手いプロレス、ジェットコースター型のプロレスを提供出来る訳は無い。
しかし、ファン主導の新日本において、永田は上手くないプロレスを誠実に提供しようとしてきた。
本来はUWFや他団体相手のケンカマッチこそ絵になる男がである。
元々プロレスが上手くない男(あくまで今風のという意味である)が提供出来るプロレスらしいプロレスとは、大技のラリーが少なくとも、丁寧で、じっくりと攻め合う前座時代のようなプロレスである。

学生プロレス出身の選手たちと対極に位置する激しいラリーの応酬のないプロレスである。

そのプロレスを基盤として永田は、王者時代、丁寧で誠実な作品を作り上げてきた。
ベストバウトとなるような今風のプロレスではなくとも、永田が丁寧に作り上げていった佳作の数々は私的には好きなプロレスで有る。

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2008年01月05日

HERO'Sという不思議なイベント

私的に今、一番興味のある団体、イベントは「HERO'S」である。

かつてのアントニオ猪木の迷走は自己の世間への承認欲求を環状線理論に求めた事が始まりであった。
アントニオ猪木という極めて異端で反主流の男を支えたのは、あくまで、アントニオ猪木に熱狂した核のファンの熱気であった。
その核の熱の広がりが世間にまで届いたのがプロレスブームであった。
プロレスブーム時主流を成した日本人対決など見方を変えれば極めてマニアックで有り、プロレスの非日常的要素など皆無の世界でもあった。
ジャンルの核の熱気が世間に伝播したのである。
であるのに、当のアントニオ猪木本人は環状線理論というものを持ち出して、ひたすら環状1号、2号より外側の世界を求め続けた。
結果、プロレス界を混乱させたアントニオ猪木の後期の迷走は始まったのである。
世間に届く熱とは、あくまで、核の熱気が膨張し爆発した姿である。
なのに核の熱なき空洞化した姿を持ってしても、世間を追いかけ、媚び続けたのである。

現在、アントニオ猪木の核の熱無き空洞化路線、環状線理論を引き継いでいるのが、谷川プロデューサーである。
谷川プロデューサーの感性が著しく劣化していない限り、「やれんのか!」とのカードの割り振りをした時点で、両イベントの熱気の違いなど充分把握出来たであろう。
どういう意図であれ、谷川プロデューサーは核の熱を発生させるカードを「やれんのか!」に譲ったのである。

谷川プロデューサーの視線にはジャンルの核となるファンなど存在していないのだ。
あくまでテレビの先の何も知らない視聴者と何も文句を言わない環状線の外側のファンでしか無いのだ。

大晦日恒例の「Dynamite!!」の会場に行けば分かるが、もはやイベントとして不可欠な熱気など存在していない。
辟易するほど、多くの試合を見せられ、イベントを楽しむ体力さえ消耗させられる。
それでも誰も文句は言わない。
文句を言う熱すらないのである。

煽りVTRで、片方のイベントのクオリティと比較する人たちがいるが、根本的に、両者の質は異なっている。
「PRIDE」「やれんのか!」の佐藤Dの映像は、核のファン一人一人の感情と知識の確認作業である。
VTRで会場中の感情が一体化するための大きな要素でもある。

しかし「Dynamite!!」「HERO'S」のVTRはあくまで、会場のビギナー、そしてテレビの前の一見さんに向けての選手紹介・見所紹介、つまり情報の提供でしかないのだ。

一昨年の大晦日の秋山の件で、「HERO'S」側のあまりにも前時代的な情報操作、隠蔽があまりにも、ファンの反感を買ってしまった。
しかし、もし「HERO'S」が「PRIDE」のような核のファンに支えられたイベントであったら、そのような事は許されなかったであろう。
あまりにも前時代的、隠蔽体質気味に思えた「HERO'S」側の対応は、実は核のファンというジャンルの住人のいないイベントとしては普通の事だったと私は思っている。

つまり情報を持ったファンを相手にしない事こそが「HERO'S」の本質なのである。

情報を持った熱いファンが一方のイベントで「三崎対秋山」に熱中しても、自らのイベントの全試合合わせても、その試合一試合の熱さえ無くとも、谷川プロデューサーにとっては充分想定範囲内の事である。

肝心は三崎対秋山の熱よりも、紅白なのである。

大晦日恒例の大阪ドームは、あれだけ熱の無い不満足な興行が恒例となっても、そこそこ集客出来継続できている不思議なイベントである。
そこには迷走時の新日本をからかいにやってきたような野次も無ければ歓声も無い。
ひたすら大人しいビギナーの群れである。

私は、この情報を持たないファンをターゲットにした「HERO'S」というイベントが、どのような形を持って成長していくか楽しみである。

核も熱も無い空洞化した不思議な大規模イベントであるが、逆に、マニアの熱気が無く、一見さんが入りやすいイベントでもある。

そのイベントで最後まで環状のはるか外側の観客や視聴者を対象とする姿勢は最後まで見せてほしいと私は思う。
それによってマニア層、ファン層のいないリングで、本当にファイトマネーに値する選手たちのプロとしての商品価値がはっきりするからである。

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posted by shingol at 12:29| 新・レッスルする世界 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月03日

「やれんのか!」は三崎を守れ!

三崎の劇的な勝利が、水を差されてしまった。
私的には三崎には二度と秋山と関わってほしくない考えである。
もう三崎は仕事をこなしたのだ。

今後、再戦したところで、あの大晦日の闘いに挑んだ時のようなモチベーションと気持ちの入り方を持って三崎が闘う事は無いであろう。

世間から何と言われようと勝ち逃げする事がベストである。
勝ち逃げというよりも、当たり前の勝者の権利として秋山との関わりを断絶してしまう事である。
それくらいのプロの商品価値としての優位性も高めた男である。
主催者側から何をオファーされようが、断固拒絶すべきできである。

秋山に関しては、同階級に何人も観たいと思わせる相手がいるのだ。
そちらと闘えば良いのだ。

私は旧PRIDEのクリーンとはいえない資本に任せての世界観とやらは好きではなかった。
残ったメンバーで、誠実な世界観を作り上げようとしているときに、皮肉にも、UFCに続いて再び、巨大な資本に飲み込まれつつあるような気がする。

もしイベントを継続するのなら、ファイトマネーの高い選手を招聘する事無く、独自のミニマムな世界観を作り上げてしまえば良いのだ。
過去のダイナミズムの幻を追い求めていく限り、FEG側に足下を見られ、飲み込まれてしまうだろう。

飲み込まれなければ継続できないイベントに、何の意味があるのか。
リング上でPRIDEへの別れの挨拶を理想の形で行った三崎まで、力関係のまま、FEG側に差し出してしまえば終わりである。
差し出し、いたずらに大衆イベントでの遺恨戦に三崎を放り込めば、あの大晦日の三崎の心中を全て裏切る事になるであろう。

「やれんのか!」はFEGから三崎を断固として守るべきである。

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posted by shingol at 18:56| 新・レッスルする世界 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ミノワマンと船木よ、気持ちを見せろ

私のたいした事の無いレスリング経験から言わせてもらえれば、ある程度、気持ちと体力があれば、技術は凌駕できる時があると思っている。
比較的、単純な技にでも気持ちを込めれば、スピードと思い切りが生まれる。
これしかないと信じきる事で、迷いも無く、その技も生きる。
そういう意味では、総合の技術において出遅れているプロレス系の格闘家たちの特性を生かせば充分勝機は出てくると私は信じている。

プロレスラーの武器とは体力と気持ちであった。
それを生かした闘いを繰り広げていたのは、かつてのミノワマンでもあった。
セルフハンディキャップ無き闘いにおいて、吐くほどの緊張を強いられた闘いの数々でこそミノワマンの超人ぶりは発揮されたと思っている。

当時、鈴木みのるに師事していたミノワマンは、練習でタックルからのリフトを延々と繰り広げていた。
体力を過度に消費する練習で、気持ちを身につけたミノワマンは、試合中、たとえタックルを切られても、多くの選手のように寝たまま相手の足にしがみつく事も無く、前進し続けた。
結果、相手はタックルを切っているにも関わらず、ミノワマンに上を取られた。
タックルを切られても相手を押し切る気持ちと体力を持っていたのである。

パンクラスを辞めた後は、やや手堅い日本人相手の試合においても、当時の闘い方を忘れ、比較的、省エネチックに上手く堅実な闘い方をこなすようになっていった。
手堅い相手には手堅い闘い方をするようになったのである。
その頃から、私はミノワマンの気持ちが見えなくなってしまった。

以降の無差別路線においては、ミノワマンの体力と気持ちなど最初から期待できない怪物相手との闘いにおいて、軽業師的な身のこなし方を持って超人ぶりをアピールしているが、もはや、その路線が限界なのは「K-1心中」様でも再三記述されている通りであろう。

一番魅力的な相手が多いミノワマンの階級の相手と闘わず、ひたすら対怪物路線を歩む事は、ミノワマンが同階級の相手と闘っては、勝てない事を、そして何の商品価値もないと考えている主催者側と本人の意向であろう。
しかし、ミノワマンが絶対に負けられない相手と闘う際に発揮する超人ぶりは、主催者も知らず、そして、本人も忘れてしまっている事なのだ。

無謀というセルフハンディキャツプの逃げ道に走ればミノワマンの特性は発揮される事は無い。
そしてやや先輩、やや後輩の相手において落ち着いて堅実な闘い方を通そうとしても、ミノワマンのリミッターは外れる事は無い。

ミノワマンは意地を持って追いつめられたとき、必ず、かつての超人ぶりを発揮するであろう。

船木も同様である。
船木もミノワマンとやや異なるが、それでも、追いつめられた時の気持ちと意地、そして体力を持って、総合格闘家たちと比べてやや未熟な技術を凌駕してきたのである。

気持ちと体力を持って闘う二人が、落ち着いた表情で気持ちを殺し闘っていては勝てないのではないか。
私はそう思っている。

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2008年01月02日

船木誠勝は復活するのか?

私が気になっているのは、船木の最初の引退間際から船木の顔つきが変わってしまった事だ。
あの険しく何かを思い詰めたような表情の船木が、ヒクソン戦の前あたりから柔和などこか心細そうな表情に変わってしまった事である。
自己にも他者にもアドレナリンの刺激と毒性を放つようなオーラを纏っていた船木が、アドレナリンとは程遠い自然体の姿を我々に見せつけるようになった。
あのストイシズムあふれる濃い船木の表情は、ボンヤリと薄い顔に変化した。

最初の引退前、初期パンクラスルールにおいても後輩の国奥あたりに負け、パンクラチオン・ルールにおいてはいよいよ等身大の実力を見せ始めてしまった。
その当たりから、船木を支えた基盤のようなものが自身でも朧げに見えてきたのであろうか?

しかし実は最初から船木を支えた基盤など何も無かった事を、船木自身はうっすらと気づいてもいたが、船木自身の意地によって、船木の基盤と言う幻影を守り続けてきたのである。
狭い仲間内でのスパーリング大会であったパンクラスに、山田学が参戦してきて、打撃、関節技共に完敗を喫してしまった。
エベンゼール・ブラガにも実質的には完敗を喫した。
スパーリングではエンセン井上にもボロにされたという。
それでも船木は自分の意地を捨てた事など無かった。
山田に負け、険しい表情で、リングをさっさと降りた船木は、その行為によって自分の幻想を守り抜いたのだ。

船木の実体のない幻想のような基盤は追いつめられたときに爆発する。
スミス戦、もはや形となしていないタックルであったが、見事なスピードであのスミスを捉えた。
追いつめられたとき。船木自身の意地が自分の基盤無き実力や技術を凌駕してしまうのである。

年齢的に血気盛んな時代は過ぎたであろうが、船木が復帰して、もう戦いから逃げられない状態の中で、ヒクソン戦以後のように、意地を忘れ、アドレナリンを忘れる自然体のままでいれば、船木は連敗を重ねていくだけであろう。

船木自身の基盤無き、中途半端な打撃、中途半端な関節技、中途半端な投げ技、それら全てを生かすためには、今の船木の「何かを悟ったような」自然体の振る舞いでは駄目なのだ。
追いつめられ意地をむき出しにしたとき、自身の精神が自身の半端なテクニックを凌駕する。
そういう気持ちのファイターであったはずである。

かつてのようにストイシズム溢れる意識を持って闘う事が年齢的にどれほどの負担を強いるかは分からない。
しかし、かつての格下の桜庭にあっさりと決められ、柔和な表情で負け犬顔をさらす船木はかつての多くのファンを裏切っているであろう。

私が観たいのは、桜庭に負けて、実力差をさらけ出されても、険しい表情でリングを去る船木である。
また、そういう意識で闘ってくれる船木である。

だらだらと今のままのような闘いを忘れた柔和な表情で復帰ロードを歩むなら、後、一年でも二年でも期間を決めて、かつてのアドレナリン、闘う魂を取り戻してほしい。
船木は落ち着いて闘う上手いファイターでは無い。
意地と気持ちを持って闘うファイターなのだから。

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2007年12月31日

大晦日雑感2/桜庭和志への想い

リアルとフェイクの入り交じったプロレス団体の筆頭といえばリングスであった。
しかし私的にはUインター崩壊後のキングダムも忘れられない。
リアルとフェイクが入り交じったというよりは、実際には、多くの強豪外国人をリアルな闘いで桜庭や金原が迎え撃ったという印象が私には強い。
グレッグ・ダグラスやラリー・パーカーといった地味な強豪と闘う前の桜庭は、今では考えられないほど、緊張した面持ちで挑んでいたものだ。

私は桜庭の強さとは実はこのキングダム時代が大きな礎であると思っている。
エースのいない団体を何とか守ろうと、若手選手である桜庭が、必死に、地味な強豪選手相手にリアルファイトを闘い抜いてきた。

私は桜庭のプロとしての試合の勝利への遂行意識、強さとは、桜庭自身が世に出る少し前の、このキングダム時代に養われたような気がする。

逆にプライドで、キングダム時代の険しい表情を見る事は無かった。
団体を守らなければいけない悲壮感が消え、大舞台でのプロとしての責務を楽しめる環境になったのである。
多くの闘いを重ね、心身にダメージを重ねても、以後、桜庭はあのキングダム時代のような緊張や悲壮感を感じさせる事は無かった。
そういう振る舞いをしてきたのだ。

何気ない事をオーバーに陰の要素、ナルシストの要素に転化させる船木の生き方とは異なり、桜庭は出来るだけ周囲に陰の要素を感じさせないような振る舞いを貫いている。
それが桜庭の美意識なのであろう。


悲壮感を常に抱きながらも、気丈に振る舞う事で桜庭はファンの感情を取り込んできた男である。

逆に悲壮感を前面に出しながら強烈なメッセージをファンに与えてきた男が船木誠勝である。
しかし、いくら居合いに取り組もうが、肉体を作り上げようが、船木に悲壮感は無い。
悲壮感という重みのある色が消え空洞化した船木がいるだけである。

おそらく、今回の船木は、10年以上前、キングダムで負けられない闘いを遂行してきた若き日の桜庭の1/10の悲壮感も持たないであろう。
ただ自分のためだけに復帰し自分のためだけに闘おうとしているのではないか。
負けられない悲壮感が強烈な色を醸し出していた、かつてのナルシストとしての船木の面影は無いのだ。
ただ表面上のナルシズムに酔い、居合いし、肉体を作り上げても、何のメッセージを発せられるのであろう。

対して桜庭は、常にプロレスラーとしての責任感は遂行しようとしてきた男である。
それはキングダム時代と変わらず続いてきた意識なのである。
ファンには笑顔しか見せず、ただし、酒と煙草で心の負担を解放させる。
肉体の脂肪でさえ、桜庭自身が経験し続ける闘いと重圧を逆説的に象徴している。

酒や煙草とリング上の死闘とが同居している桜庭和志と言う不思議な男の抱えている精神世界は、私たちが覗き込めないくらい複雑で、かつ、崇高なものであるのだ。

やはり私は桜庭の勝利しか願っていない自分を確認できている。

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2007年12月30日

大晦日雑感

これまで総合のリングに上がったレスリング出身者の中で、私が最も驚いた闘い方をしたのはルーロン・ガードナーであった。
限られたルールの中で発達したゲーム性の高い競技スポーツのグレコローマンスタイルとしての闘い方そのままで吉田を圧倒したのである。
当時のグレコローマンスタイルは、実際に相手を転倒させる技術を発揮させるというよりも、スタンドで相手を攻める=相手に何もさせない事でパッシブを奪い、グラントで下の相手にポイントを稼ぐ闘い方を貫く選手が多かった。
グレコの選手は以外と柔道選手との組勝負では分が悪い。
ガードナーはグレコローマンの投げを封印し、堅実な競技のゲーム性あふれる闘い方を持って、吉田に何もさせなかったのである。
当然、あまりにもアマチュアチックともいえるガードナーの闘い方は評価を得られなかったが、私はこういう闘い方でも総合の試合をコントロールできるかと驚いた。

もしガードナーが総合を舐めたまま、グレコの投げ技そのままで闘おうとすれば、おそらく柔道技に転倒し、勝手の違う総合の呼吸の中で、パニックを起こす事になっていたであろう。
あるいは逆に、総合を心の中で巨大化し、同化しようとしていれば、自分の特性を忘れ、総合の真似事に徹し、短いリーチで下手な打撃を繰り出していたかもしれない。
しかしガードナーは総合をしっかりと自分なりに理解し、その上で、総合に同化する闘い方でなく、自分のバックボーンであるレスリングでの闘い方、技術を貫いたのである。

総合格闘技の技術、レベルは飛躍的に進化しつつ有る。
しかし未だ進化しているという最中であるという事は、まだまだ完成された競技スポーツの選手たちが、総合での注意点を頭に入れた上で自分たちのバックボーンの特性を生かせば、まだまだ勝てる段階なのではないかと私は思っている。

ホンマンは前述したどちらの意識を持って総合に挑むのかは分からない。
しかし、オロゴン戦で反射神経を研ぎすまして、全方位に対応できる呼吸を持ってラッシュをかけたホンマンならば、今回も総合に対応した呼吸と意識をしっかりと持って試合に挑むであろう。
実はヒョードルは体系的な特性以外に特別な非テイクダウン能力を持っているとは思えない。
ランデルマンには、あの反り投げを食らう前にも、大きくタックルからリフトされている。
藤田にも片足からリフトされている。
転倒されるのではなく、リフトされるという事は、実際に懸命に倒されまいと我慢していた事を証明している。
アローナには何度もテイクダウンを喫している。
私はホンマンがまわしをつけていなくとも、しっかりと四つに組めば、ヒョードルを圧倒できると思っているが、おそらくヒョードルは小川を転倒させたように、振り回しや打撃を用いてホンマンのバランスを崩し浴びせ倒し気味に転倒させる事を狙ってくるであろう。
片足タックルを狙ってくるかもしれないが、ヒョードルがホンマンの片足をつかんだ時、ホンマンの圧力にヒョードルがパニックにさえならなければ、ヒョードルの勝ちは固いであろう。

しかし片足をつかんでも相手も倒れないという場合の精神的・肉体的疲労は大である。
私はヒョードルが片足タックルに失敗すれば、ホンマンが限りなく勝利に近づくような気がしている。

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posted by shingol at 20:27| 新・レッスルする世界 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月23日

私的ベストバウト

私が数多く観てきた試合の中でのベストバウトは色々有る。
本当は一番好きな中西学がリアルファイトを闘ってくれた藤田和之戦。
船木誠勝が壮絶に散ったバス・ルッテン戦。
長州力がベールを脱いだ安生・中野組戦。
もちろん安田がバンナを下した一戦も忘れがたい。

しかし私の心の原体験とも言うべきベストバウトは猪木対大木金太郎戦であった。
猪木と大木に共通しているのはプロレスが下手なところである。
あの試合で一つ一つの技のつなぎがギクシャクしていたのは試合をリードすべき存在がいなかったという事だと思っている。
試合の短さも同様だと思っている。
後に全日本に行った大木が、猪木戦よりも短時間で馬場に負けたが、私は馬場の意図というよりも単に大木に長時間の試合を勤める技量が無かったからだと思っている。

同年に行われた猪木と小林の闘いは、猪木らしからぬプロレス的完成度の高い試合だったので私はそれほど好きではない。
しかし実はあの試合こそ現在のプロレスにつながるジェットコースター式技の応酬プロレスの原点だとは思っているが。

大木との闘いは、ギクシャクした攻防の中で、アナログ的なハイライトシーンがあった。
大木の専売特許である頭突きをリアルに受け止めた猪木の額からこれまたリアルな血が流れた。
胸を突き出してのチョップ合戦では味わえないプロレスの色気が有った。

今のプロレスでは呆気ないほどのフィニッシュに余韻が残った。

余韻の後、本当の涙を流す猪木を観て、プロレスとは何だと考え、この不思議なジャンルに夢中になっていたきっかけの試合でもあった。

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2007年12月22日

船木誠勝の体格と精神の特性

私は等身大の船木というのは観た事が無い。
船木は若手の頃より、レスラーらしくない柔和な表情を持つ男でもあった。
しかし、自身の、その優しさを頑にファンに対して見せる事の無いストイックでプライドの高い男でもあった。
そのストイックさ、プライドの高さが等身大の船木の優しさや弱さを隠し、等身大の船木以上の幻想を抱かせてくれたものだ。
しかし船木の幻想とはパンクラスに山田学が参戦して崩壊してしまう。
技術的にはそれほどの差はなくとも、リアルで闘ってきた歴史においてパンクラス勢と当時の修斗の差を痛感するほど山田学は日本勢の中では飛び抜けてしまっていたのだ。
覚悟を決めた表情でリングに上がった船木は、結局、打撃でも、決め合いでも、一本を許し、完敗を喫した。
しかし、その後、船木は決して笑顔など見せる事無く、険しい表情でリングを降りた。
完敗しても、なお、プライドや意地を守ろうとした船木が、船木自身の幻想を守ってくれたのである。
船木が変わってきたのはマチャド柔術に出稽古にいったあたりからである。
少なくとも「決めっこ」においては当時の格闘技界においても長いキャリアを持つ男でもある。
自身の特性を生かすためには、「決め」に至までの軌道の技術を完成する事であるのに、いたずら柔術の技術を取り入れようとしてしまった。
しかも中途半端に取り入れた結果は、船木の後に柔術を知った連中にも及ばない程度の技術でしか無かった。
実は船木の最大の特性とは、そのリーチの長さである。
プライドを持って高校レスリングの実績を持つ鈴木とスパーを繰り返してきた船木は、本能的に高校生程度のレスリング技術に対応できる男でもある。
身長に対してリーチの長い船木はレスリングに適した男なのである。
しかし、それも自身の体格的特性と決めの技術を持つ選手としての特性を持った上で成り立つ技術なのである。
私が忘れられないのはモーリス・スミスとの決着戦であった。
鈴木みのるの高校レスリング特有のストレートなタックルを切りまくったスミスを、船木は、ものすごい完璧なタックルでテイクダウンさせた。
後で知ったが、高橋から教えてもらった技術を使ったという事であったが、当時の船木が高橋に弟子入りしていた訳でもなかろう。
つまりプライドと体格的特性と基盤にした船木ならば、我々アマチュアレスラーが実践できないほどの動きをリアルに使える男なのでもある。
ヒクソン戦の前、一からレスリング技術を習得しようとした船木は、自身の特性を忘れたかのように、高校一年生程度のレスリング技術を頼りに、実におぼつかない表情で、ヒクソンの片足タックルを基本通りにさばいた。
しかし、その表情は弱気の垣間見える高校生の初心者のようでもあった。
そんな船木のどこに魅力が有るのだろうか?
船木の魅力と武器とは自身のプライドと体格的特性でしかないのだ。
船木がパンクラス中期以後、立ち腰になったことで、船木のリーチの高さ、つまり、懐の深さの特性は使えなくなってしまった。
実はUWF後期、疑似リアルで見せた船木のフォーム、動きは、船木のプライドと体格的特性を生かす理想型の動きであった。
私はどんな批判も承知の上で書くが、あのフォーム、動きこそ、船木の理想の闘いであったと思っている。
中学から入り、スクワットや意味の無い練習を耐え抜いてきた船木。
自分の手を水平にのばした時の身長が、自身の身長を遥かにオーバーする日本人離れした体格を持つ船木、その根性と体格の特性が最も如実に疑似ファイトとはいえ現れていたのがUWF後期だということである。
あの船木の体格を持ってUWF時代のやや浅いクラウチングスタイルにはタックルも入りにくいであろう。
そして自身のプライドを持った打撃も今よりはは放ちやすいであろう。
私はレスリング経験者として、プロレスファンとして、実はあの時の船木ほど感情移入できる選手はいなかった。
しかし自身の体格的特性とプライドを忘れた船木は今更、何を持って違う技術に頼るのか?
プライドを忘れた船木ならばヒクソン戦の二の舞いであろう。
そして体格的特性を忘れた船木ならばもっと二の舞いであろう。
ボーっとした表情で、立ち腰で、リラックスした表情を意識しすぎて、あっさりテイクダウンを奪われるだろう。
それでも、平静を装い下から中途半端な動きを繰り出し、結局、決められるだろう。
そんな船木は船木ではない事を船木自身が知らないのである。
しかし少し気になる事がある。
今の船木のスパー相手がレスリング経験者の福田であると言う点である。
福田に簡単にテイクダウンさせられない自身を確認したとき、船木は鈴木とスパーしていた時の自身を再確認するであろう。
プライドしか無かった新日本での若手時代を。

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