2008年03月31日

昭和プロレス者6/孤独と名乗った仮面・エル・ソリタリオの世界

昭和プロレス者には、馴染み深い、エル・ソリタリオの動画です。
名前からして、イカしています。
直訳すると、何でしょうか?
ザ・孤独とでもなるのでしょうか?
孤独の象徴として狐なのか狼なのか分かりませんが、どちらにしてもイヌ科の動物をモチーフにしたデザインのマスクも最高でした。
これほどまでにエレガントなソバットを放つ選手は、最近はあまりいていません。



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posted by shingol at 21:52| 新・レッスルする世界 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

今を嘆き今を見る昭和プロレスファンの問題提起/そして昭和プロレスファンに吉報そして必見!のプロレス文学ついに誕生!

本題に入る前に、アントニオ猪木が辻仁成の脚本・監督作品で主演を演じるとの事です。
私は正直、辻仁成は最も嫌いなタイプな小説家でした。(エコーズ?時代のいきりぶりを見れば嫌いになって当然でしょう)
従って、先入観から、辻仁成の小説も読んだ事は無かったのですが、私は今後、辻先生を全面的に応援する事に決めました。
私は現金な猪木ファンですから仕方ありません。

こう書くといかにも猪木信者バカと思われがちなのですが、私は前々から記しているように、猪木信者ではありません。
というより昭和の猪木ファンに猪木信者など本当は存在するはずは無いのです。

盲目的に猪木を信じるファンこそが、昭和の猪木ファンだと、勝手に決めつける輩が多いのですが、猪木の負の部分を誰よりも知る昭和の猪木ファンの心情など、なかなか今のファンには理解出来にくいかと思います。

ついでに記しておくと、私あてに、わざわざ「過去に浸るな」「今を見よ」と馬鹿なメールを送りつけてくるオカマ連中がいます。
いちいち、そういう輩には返信はしていませんが、この機会に記しておきます。
目の前で言えよ。

そして、何より、私は貴方たちの数倍は「今」のプロレスを愛してますよと。

貴方たちが形成したプロレス村によって、多くの孤独な人たち、暖かさや勇気を必要とする人たち、そういう市井の人たちがプロレスと出会う可能性を無くしています。
プロレスという比類無きジャンルにおいての動詞の愛を、本当に世の中の多くの人たちが求めているのです。
しかし、貴方たちが形成したプロレスマニアック村によって、そういう人たちとプロレスとの出会いが阻害され続けています。

そして激しさという免罪符のもと、多くのプロレスラーを、個人的には、私の最愛の福田雅一を死に追いやった、今のプロレス界のとんでも無いスタイルと風潮に対して、私は徹底的に問題提起していくつもりです。
福田の殉職を無駄にしない為にも。

どこの世界に、わざわざ技を受けてくれる相手に対して、脳が揺れる技を放つ世界があるのでしょうか?
そして、そういう世界に歓喜するファンがいるのでしょうか?
私は、相手との信頼関係を尊重して相手を傷つけないプロレス。
あるいは、相手とのリアルな主導権争いに寄って成り立つプロレス。
どちらも見て育ちました。

しかし、相手が受けてくれるのに、本当にリアルに相手に致命傷を負わせる歪な世界にプロレス界が成るとは思っていませんでした。
何故、そういう世界に興奮し歓喜するのでしょうか?

私は昔のプロレスを知っているからこそ、今のプロレスラーたちが、どれほど命を掛けてプロレスに携わっているか痛いほど分かるつもりです。

だからこそ、命を削る彼らに、簡単に感動し、興奮するファンが信じられないのです。
プロレスラーたちは貴方たちの「激しいプロレス」願望の奴隷では絶対に無いのです。

私はプロレスが、免罪符としての「激しいプロレス」を展開する風潮に多いに反対します。
プロレスラーは、貴方たちの為に、命を削る必要等全く無いからです。
私は今のファンにこう言いたいと思います。
おまえらは残酷なサドでしか無いと。

私が、今のプロレス界に対して警笛を成らす為には、今と成っては化石化した昭和プロレスというジャンルからの引用が必要です。

それを持って過去に浸るというような輩は、過去からは何も学べない輩でしかありません。

そして私には昭和プロレスファンの力が必要です。
どうか力を貸して下さい。

プロレスラーが、マニアなプロレス村の「激しさ願望」の奴隷と成らず、本当にエンターティメントとしてのプロレス、あるいは闘いとしてのプロレス、それらを取り戻す為に、微力ながらプログで訴え続けていくつもりです。

福田の事を記しましたが、福田選手の脳に響く技を放った選手の事を責めているわけではありません。
その選手も、ファンの「激しいプロレス」願望の犠牲者なのだと私は思っています。

そして、その選手は、今、本当の闘いの世界において悪戦苦闘しています。
しかし私は、その選手の事は、最後まで応援し続けるつもりです。

その選手が、本当の闘いの世界に向かった事を喜んでいるのは、何より、福田だと思うからです。

さて、今のファンへの訴えはここらあたりで、ここからは昭和プロレスファンへの吉報を伝えます。

さて、とうとう昭和プロレスもの必見の小説が誕生しました…。
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私は、あまり女性作家の小説は読まないのですが、西加奈子さんの「通天閣」だけは読みました。
理由は単純に大阪を舞台にした小説だからです。
それぞれの土地を舞台にした小説がありますが、私は大阪を舞台にした小説というのは、ある種の特異なメッセージを備えているのだと思っています。

何故なら、大阪の風景を描く為には、大阪の湿度の高さと市井の人たちの溢れる情を、描かざるを得ないからです。
私のような素人の勝手な評論ですが、西加奈子さんは「通天閣」で、私の期待通りの、大阪の溢れる湿度の情の世界を描いてくれました。

まさしく、それは井原西鶴、織田作之助、藤本義一、難波利三、車谷長吉と続く大阪文学の同質の匂いだったのです。
(川上未映子は大阪弁を使っていますが、断じて大阪文学ではありません)

そして、私は今日の通勤時の「週刊ポスト」を読み、驚きました。

あの西加奈子さんが、友人家族の知り合いのプロモーターに招待され、幼き頃よりプロレスを見続けてきたプロレスファンであった事にです。

「あの人はそこいらの子供以上に、猪木のことが好きで好きで」

「女共よ、黙れ」

「猪木に涙する俺たちを見よ」

昭和の猪木ファン(返す返す盲目的な信者ではありません)が台詞を聞いただけで、涙するような小説が、ついに誕生したのです。

昭和プロレス者感涙の二冊
      ↓





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posted by shingol at 18:04| 新・レッスルする世界 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

西村修とヤマケンの上質な生活の日々

Y様からのメールで、ヤマケンのブログの卵かけ御飯の記事を知りました。
思わず私も卵かけ御飯を作ってみたくなりました。

しかしヤマケンのブログは大変面白い記事が多いです。
一時の迷いが吹っ切れたように、日々、人生をシンプルに楽しむヤマケンの生き生きとした鼓動が、こちらにも伝わって来るようです。

何故、私のような中年のファンが、こんなにもヤマケンに感情移入してしまうのでしょうか?
ヤマケンへの思い入れは、何回か記事にしましたが、結局は、自分の描く夢に向かい不器用に前進し続けてきたヤマケンが魅力的なのだと思います。

苦労人のヤマケンには何とかセレブな経営者として成功して欲しいものです。
しかし、ヤマケンはどれだけセレブになったところで、美味しい卵かけ御飯の喜びを忘れる事は無いでしょう。

セレブと言えば、ヤマケンのブログとは正反対のセレブ三昧の日々を綴るのが、西村修のブログです。
私のような庶民には手の届かない上質な生活の日々を相変わらず過ごしているようです。
ある意味、西村の生活は大人の上質生活の見本のようなものであり、それはそれで素晴らしく感じます。
しかし腹が立つ?のは、西村の嗜好が私の嗜好と一致する事で、フィリーズやスイッシャーの葉巻を一日一本吸う時間を至福の時としている私には、高級葉巻を粋に嗜む西村には、嫉妬を覚えてしまいます…?????i?{???????j

ここで私的な考えを記す事を御許し頂きたいのですが、私も、限られた時間、限られた財布の中で、出来るだけ上質なものを選択する人生を送りたいと思っています。
未来と今は同じという考えなので、例え、目標に向かっている最中でも、今を今なりに楽しく過ごしたいという考えが強くあります。
しかし、成功哲学かぶれの人間に多い例ですが、未来と今は同じという考えのもと、渇きを楽しむ事を忘れているような人たちがいます。
未来と今は同じなのですが、今、身の丈を越えては、渇きを汚してしまいます。

例えば少々小難しい話ですが、私は立ち飲み屋のカウンターで、未来に経済的に無理なく毎週ホテルのバーで飲める自分を夢見ています。
それは立ち飲み屋という身の丈に合った上質な空間だからこそ、夢見る事が可能なのです。
しかし、居酒屋チェーンでは未来のイメージは描けません。
立ち飲み屋と比べて、上質感は無いからです。(立ち飲み屋は安価ながらも良質のあてが多く、生ビールの味も最高です)

そういう意味で、今も、出来るだけ財布に見合った生活の中で、出来るだけ上質の生活に触れておく事は、決して、今、身分不相応に背伸びをせずとも出来る事なのです。

(もちろん、そんなこだわりを捨てて、気楽に居酒屋で飲み食いするのも楽しい時間ですが。)


ブログで生活感溢れる食事の一つ一つに喜びを表すヤマケンは、まさしく目標に向かって身分相応に生活を楽しんでいる風情を感じさせてくれます。
しかもヤマケンのブログに出てくる食べ物や調味料の類いは、安価ながらも、上質のものばかりです。

ヤマケンと西村修、値段のレベルは大きく違えど、どちらも上質な物に囲まれた生活に違いは無いようです。
しかし私的には、やはりヤマケンのブログから垣間見える生活スタイルに、明日に向かって渇きを楽しむ若者らしさを感じて、楽しめたりするものです。

西村の生活が本当に身の丈にふさわしいほど、今のプロレスラーが潤っているのなら、それはそれで素晴らしい事だと思いますが…。
しかし、病気の事があるのか、西村は先を見ず、上質の生活に囲まれて、今の人生を謳歌する事を求めているのでしょうか?

まあこんなことを一介のプロレスファンにいわれても西村にとっては余計なお世話でしょうが?????????i?????U?????j

そういえば、ここまで書いていて、昔、大阪城ホールで開かれたアントニオ猪木の「突然卍固めライブ」でヤマケンと西村が闘った事を思い出しました。

※絵文字は今回の記事だけにしておきますのでご安心ください???[???i?????????j



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posted by shingol at 02:31| 新・レッスルする世界 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月30日

猪木ゲノムは難しい/橋本対小川のセメントマッチの誤解

私が少し驚く事は、小川と橋本の三度目の対戦がセメントだと、世間では思われている事だ。
正確には、小川がセメントを仕掛けたと言われている事である。

おそらく70年代の猪木を見てきたファンならば、この試合がセメントを狙って、小川が橋本に仕掛けた試合ではない事は理解出来るはずである。

しかし、今のファンには小川がセメントを仕掛けたという考えしか出来ないのかなと、私は年代の差を感じてしまった。

猪木は決して小川にセメントを指令したわけでは無かった。
単純に、相手の技を受けず能動的に主導権を奪えと小川に命令したはずである。
それが何故セメント指令だったと誤解されるのかは私は分からない。

純プロレス的世界観で、橋本の重い攻撃を受ける事は、観客に対して、強さのイメージを示す事は出来ない。
したがって、もし強さのイメージを大切にするレスラーならば、橋本の蹴りは簡単には受けてはいけない技なのである。

橋本もベイダーも、相手が受けてくれる事を前提とした世界の中で、強烈な強さのイメージを維持してきた。

しかし技を受けてくれない相手に対しても、能動的に自分の技を放つ事が出来れば、まさしくアントニオ猪木の理想とするリアルな主導権争いによるプロレスが展開出来た事であろう。

しかし橋本はそうはとらなかった。
まるでプロレス技としては硬めの攻撃を繰り出すUWFの攻撃にセメントだと勘違いする外国人レスラーのように、橋本自身が、この試合はセメントだと勘違いしてしまったのである。

しかも外国人レスラーのように切れる事も無く、試合を放棄してしまった。

あの時の小川の攻撃は、新日本との対抗戦で金原が、永田や石沢らに繰り出した攻撃と同質のものである。
しかし、何故その試合はセメントマッチと成らなかったのか?
永田や石沢は、金原の攻撃を捌け、かつ技を安易に受けない金原の意思に関係なく、リアルに放てる技術を持っていたからである。
何度も記すが、アントニオ猪木が絶賛した試合である。


橋本は重く痛い攻撃によって強さのイメージを限りなく示す選手であった。
あのUWF勢でさえ、プロレスの枠内では、橋本に「強さのイメージ」を独占された。

私は高田が橋本の攻撃を受ける前に怯えた表情をしていたのを忘れられない。
リアルに痛いのであろう。
リアルに痛い技を、避けずに受けなければ行けない。
これほどの恐怖は無いのかも知れない。

それはそれでプロレスの美学であるが、昔のプロレスはリアルに痛い技を受けたりはしなかったものだ。

リアルに痛い技は、受けてくれる相手に放つものではない。
避けようとする相手に放つ技である。
そして、その攻防をリアルに魅せるものである。

格闘技プロレスと皆が一言で片付けるので、格闘技プロレスを分類してみました
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posted by shingol at 22:21| 新・レッスルする世界 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

私的・大阪のプロレス会場ベストとワースト

私的な思い入れ強い、大阪及び関西の主要会場の事を記したいと思います。
ただし、私は曖昧な記憶に頼って書いていますので、適当に記してみました。


ベスト部門

1位 旧・大阪府立体育会館

冷暖房無しという信じられない設備の大型体育館でした。

1位 新・大阪府立体育会館

旧と比べると全然綺麗になった感じでした。

※ 府立体育館は「府立タイイクカイカン」では無く「なんばの府立タイクカン」と呼ぶ事が地元の場合は多いと思います。
どちらにしても、立地条件も最高の会場です。

3位 堺市・大浜相撲場

すりばち状の会場は、格闘技観戦には最適な気がいたします。
しかし立地的には?です。

4位 大阪城ホール

プロレス界が少し背伸びするには最適な会場です。
立地も最高です。  


ワースト部門

1位 大阪市中央体育館

立派な設備ですが、あまりにも立地条件が悪すぎます。
一時、体育館近くの出身の前田日明のリングスがよく使用していたいました。

2位 大阪ドーム

プロレス界が身の丈を越えたバブル時によく使っていました。

3位 なみはやドーム

こちらも立地は最悪です。

希望会場部門
 
1位 OMMビル展示ホール

立地は最高です。

2位 扇町公園

特設テントを組めば立地は最高です。

3位  nambaPLACE

立地は超・最高です。

以上、あくまで立地のみにこだわって記してみました。
繁華街とは程遠い場所でプロレス等見たいですか?

近藤有己という波動/3.日本人格闘家たちを撃退し続けた無我のプロレスラー

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posted by shingol at 13:23| 新・レッスルする世界 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

弱気になった船木誠勝・田村潔司に勝つ為に

船木誠勝が元気がありません。

何度も記してきた事ですが、復帰後というよりも、引退試合と成ったヒクソン戦の少し前より、船木の表情は変わっていったように思います。
表情から覇気が無くなっていっているのです。

船木誠勝は、かつてセルフ・ハンディキャップとは無縁の男でした。
この場合のセルフ・ハンディキャップとは対戦相手の選択の事ではありません。
最初から強気で、そして、負けても、また強気の男だったのです。

パンクラスを旗揚げして、しばらくして、プロレスファンには少し現実を見せつけられた試合がありました。
修斗出身の山田学との対戦です。
その試合で、船木はスタンドでハイキックを浴びダウンし、かつ、フィニッシュでは足関節を決められタップしました。
プロレス界の格闘技志向の最右翼としてキャリアを積んできた船木でしたが、実際に長く競技スポーツである修斗で実戦のキャリアを積んできた男に、スタンドでも、グランドでも完敗を喫してしまったのです。
私はパンクラス旗揚げ前のUWF的運動体が、どれほどプロレス的な神話の世界を土台として存在していたかを痛感しました。

しかし私は救われた事があります。
その試合、リングに上がる前も、リングを降りる時も、船木は最初から最後まで険しい表情をしていたのです。
負けても、悔しさ全開の顔で、少しふて腐れたように、無言で、足早に、リングから去っていきました。
もし、あの試合後、船木が山田の勝利を笑顔で讃えていれば、私は試合結果と合わせ、更に辛い気分に成っていた事と思います。
船木は試合後も「強気」を保ってくれた事で、私のようなファンは救われたのです。

最初から最後まで自分の敗北を認めないかのような船木の表情に、パンクラス前まではリアルでなかったとしても、リアルファイトとしてのプロレスを夢見て長く業界を牽引してきた船木の意地を見たような気がします。

敗北に、媚びず強気を通す船木の姿勢に、私は船木の山田学という他流派格闘家に挑むセルフ・ハンデキャップ無き、闘いの意識を感じる事が出来ました。

船木誠勝はパンクラス時代から大事な試合でよく負ける男でした。
気負えば気負うほど、悲壮感を醸し出せば醸し出すほど、船木の試合は我々に高くメッセージ性の強い試合となり、そして、船木は負けるのです。
気負いや悲壮感は勝利の天敵と成る事が多いものです。
しかし私はそういう船木の姿を見て、もはや船木は試合の勝敗を超越した存在であるのだと感じざるを得ませんでした。

よって私は今も船木の勝利を特別に強く見たいというわけではありません。

我々、同世代を勇気づけてくれ続けた船木の熱いメッセージ性溢れる試合が見たいだけなのです。

そんな船木が自らの意識にセルフ・ハンディキャップを用い始めたのは、ヒクソン戦からであったと思います。
あの試合から、船木の表情は変化しました。
「気負い」も「悲壮感」も消え、同時に、意地も、強気も、その表情から消え去りました。
まるで、負けた後の言い訳のように、最初から覇気のない表情で、リングに立つ船木がいました。

復帰後は、その傾向が更に強くなっているのだと私は思います。

船木の表情が変化した事で、年を重ね、ベテランらしい風情に成ったという声もあるでしょう。
しかし例えば近藤有己の静かな表情と比較しても、船木に近藤のように達観したかのような落ち着きはありません。
何かに怯えているのです。

最初から負けた時の為に、静かで、気負いや覇気のない表情で、リングに立つ船木は、試合結果に捕われていない、試合結果を超越している、というよりは、あらかじめ負けた時の事を想定しているとしか私は思えません。

何が船木をそこまで弱気にしてしまったのでしょう?

多くの他流格闘家とのスパーリングで、決められまくった事でしょうか?
しかし船木は潜在能力によって自らの技術と体力を発揮する男です。
スパーリングの船木と、試合の船木は違うという事を、船木自身が忘れてしまっているのではないでしょうか?

ここで私の考える格闘家・船木の利点を記していきたいと思います。

まず決めの技術を知っている事です。
この場合の決めとは格闘技オタクの世界のベーシックな決めの技術の事ではありません。
その決めの技術を発揮する為の、スタンドからのテイクダウン技術において船木は意外と確かなタックル等が出来る男でもあります。
長いリーチ、コンパスによってひと味違う独特のフォームのタックルですが、それはそれで完成もされているのです。
またタックルに行く時の迷いの無い船木は、おそろしい瞬発力を発揮します。
体力的な特性でしょう。
そして、ポジショニングからではなく、これまた独特の軌道で相手の首、足に飛びつき、関節を狙います。
タックルを切った船木が相手をがぶったまま、相手の身体を飛び越え足首に飛びついたシーンを見て驚きました。
船木は極めの基本以外は全て船木の独自の技術なのだと私は思っています。

そして大切な事ですが、それらの船木の独自性、体格的特性、体力的特性を備えた技術が発揮されるのは、迷いの無い船木であればこそなのです。

私が思うに、スパーリングでの船木は、セルフハンディキャップ的な心構えで、相手と手を合わせている事が過去から多いと思います。
そういう中で相手に極められ続けていると、自分に自信が持てなくなっても仕方ありません。
まして今の弱気な船木が、年の離れたグラバカ勢にスパーリングをリードされ続けるような稽古を続ける以上、かつての船木の「強気」は戻ってこないと私は思います。

船木に取って理想なのは、流行の技術に左右されず、自分が構築してきた自分独自の技術に磨きをかける事です。
そのためには、極端な話、格闘技歴の浅い新弟子程度の相手とスパーを続ける事だと私は思っています。
自分の技術と自信を取り戻すのです。

船木の技術は、総合格闘技の攻防や、柔術の攻防で、発揮されるわけではありません。
攻防等関係なく、迷いの無い、吹っ切れた船木が、気持ちと様々な自身の特性を掛け合わせて発揮する事でこそ、船木は潜在能力を発揮するはずです。


田村戦が決まりました。
おそらく涼しく覇気のない表情で、かつての後輩・田村と対峙し、負けた所で、これまた素直に田村の勝利を讃えるのでしょう。
そんな船木はもう見たくありません。

田村との攻防では、船木の技術の特性は発揮されるとは思いません。
もはや自身の技術を忘れ、柔術初心者のような闘い方をするつもりでは無いと思いますが、例え、Uスタイル的な技術の攻防になったところで、船木は田村の術中にはまってしまうだけでしょう。

船木が勝つ為には、絶対に攻防をしない事に尽きると私は思っています。
攻防シーンを頭に描かず、自分の技術だけを発揮する事だけを心がけてほしいのです。

追い込まれた船木が迷いを無くし、強気を取り戻せば勝機はあると私は信じています。

そして、唯一、この試合において、船木に有利な事があります。

田村にとっての船木は「ロートルの先輩」です。
セルフ・ハンディキャップとしてこれ以上、最適の相手はいてないでしょう。
田村がセルフハンディキャップの匂いを感じさせる選択をしたという事は、田村とって大きなミステイクでしょう。
何故なら、田村こそ、かつての船木に匹敵するほど追い込まれた時の意地を発揮する男でもあったからです。
セルフハンディキャップを選択した田村は、自身の利点である「意地」を発揮する事は無いように感じます。
ならば「意地」は船木の独断上となります。

実は復帰後の船木が、過去の後輩である桜庭や田村と闘う事は、船木自身の意図的なセルフ・ハンディキャップの側面も感じてしまいますが、それでも船木には最後まで、追い込まれた状態でリングに上がってもらいたいものです。

追い込まれ、かつ、強気と意地を捨てなければ、船木は勝てるはずなのです。

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2008年03月29日

田村潔司に見るUWFスタイル・相手を選ばず、細分化された技術を発揮せよ!

田村潔司がしだいにファンに愛想を尽かされつつある。
実績も何も無い男が、よくぞ、ここまで自分の優位性を保てると思うものだが、それでも、やはり総合の市場において、田村は試合に対しての選択権を持つほどの商品価値を未だ持っている事は確かだ。

田村が本当にしたいのはプロレスの闘いである。
自らがデビュー時より培ってきたUWFでのプロレスにこだわりを持つ男である。
かつて田村が違う事に例えた言葉であるが、「本当はこだわりの寿司で通したいが、営業する為に、昼定食も出さなければ行けない」という言葉があった。
田村が本当にやりたいのは、あくまでUWFスタイルのプロレスであり、総合は自らの世界を維持する為に、糧を得る出稼ぎの場でしかないのではないかと私は思う。

田村が実は日本人としては、限りなく、最初の段階で総合格闘技に出陣した事を、最近のファンは知っているだろうか?
まだオープン・フィンガー・グローブすら無かった時代に、K-1のリングで、パトリックスミスを沈めた。
私は、追い込まれた田村の悲壮感溢れる表情が忘れられない。
数年後、総合では無いが、リアルにヘンゾ・グレイシーを封じ込めた。
あの頃の田村は、自分のしたい世界としなければいけない世界が一致していたのだと私は思っている。

田村は一つ一つの技術においては、分類化された技術をそこそこ身に付けている選手でもある。
総合格闘技の歴史以前に、打・倒・極のそれぞれの専門的技術を、能動的にマスターしてきた男である。

日体大に出稽古に出かけた格闘家、レスラーは田村が最初ではないかと私は思う。
私はおそらく成人にも満たない1年生の学生に、プロの田村が自由自在に肉体をコントロールされた事は容易に想像出来る。

そうやって等身大の自分を見つめながら、ファンの前では、UWF神話を守ろうとしてきた男なのである。

そんな田村にとって今の総合への取り組みは、過去とは全く異なる考えを持って挑んでいるように思えて成らない。
何の為に、総合に出るのか?
ヘンゾ戦、パトスミ戦の時とは異質の気持ちの正体が何であるのか、私はファンではないので、分からない。

しかし恐ろしい事は、田村はプロレスにおいては、総合以上に、頑固なこだわりを貫く事である。

頑に、UWFスタイルにこだわり、UWF的様式美が作れない相手とは絶対に試合をしない。

総合では前田が、プロレスでは猪木が、田村のこだわりの世界を打ち砕こうと画策してきた。
しかし結果的に、前田も猪木も呆れた田村のこだわりが何であるかは私は分からない。

しかし、こだわりとこだわりの無い世界のバランスが田村の中で崩れ去っていくのは確かな気がする。

前田や猪木がプロレスに求めるものは、予定調和ではない、リアルな主導権争いである。
しかし田村はプロレスにおいては予定調和のUWFスタイルを求めずにはいられないようだ。

考えてみれば分かる話であるが、リアルファイトではなかったUインター時代からして、新日本とのプロレスを拒絶した男なのである。
同じプロレスであっても、例えて言うなら、ルチャの攻防が出来る相手としかプロレスはしないルチャドールと理屈は全く同じなのだ。
そういう、こだわりを持つ男なのである。

その田村のプロレスへの昔からの取り組み方を知っているファンならば、総合の場で田村がどれだけ気難しさぶりを発揮しても少しは理解出来るのかも知れないが、格闘技ファンには理解等無理な話であろう。

そういう田村を前田が毛嫌いする理由も分かる気はする。

予定調和とは程遠い、いつ怒りだすか分からない巨大な外国人レスラーたちと、歪な主導権争いを展開してきた前田にとっては、そういう闘いこそを経験せずして、様式美溢れる演武的な田村のUWF的スタイルへのこだわりは許せないものがあるのだろう。

ならば田村は、総合で、リアルにUWFの様式美を示せば良いのだ。

自身が細分化して磨いてきた総合格闘技の技術を一つ一つつなげる技術を確認すれば良い事だ。

例えば田村のタックルは、アマチュアレスラーに匹敵する田村独自の完成されたフォームによるものだ。
しかし倒してからの相手のコントロール法を知らない為に、金に涼しい顔をされた。
金のガードの仕方はレスラーに取っては「カモ」であった。
それをみすみす逃した田村は、何の為に日体大に出稽古に言っていたのかと私は思う。

田村は今の総合の技術体系を覚える必要などない。

自身が能動的に努力して培ってきた細分化された各・格闘技の技術をもう一度復習していけば田村は、今の格闘家たちに混じっても、かなりのハイ・レベルの技術を持つ男であると私は信じている。

プロレスでUWFスタイルを展開出来る相手にこだわるのは理解も出来る。
しかしリアルファイトの場にまでUWFスタイルを出来る相手に拘っていては、前田が怒るのも当然である。

相手がUWFを知らなくとも、自身の技術を能動的に発揮すれば良い。
それだけの技術を再確認すれば良い事である。


格闘技プロレスと皆が一言で片付けるので、格闘技プロレスを分類してみました
近藤有己という波動/3.日本人格闘家たちを撃退し続けた無我のプロレスラー
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昭和のプロレスと平成の格闘技ブームの原因と教訓・4/70年代全日本プロレスとK-1の一致

昭和のプロレスと平成の格闘技ブームの原因と教訓・1
昭和のプロレスと平成の格闘技ブームの原因と教訓・2/テレビを通じてではない世間への伝播
昭和のプロレスと平成の格闘技ブームの原因と教訓・3/昭和の全日本プロレスの二重構造

より続く


前の記事で、全日本は二部構成だったと記したが、もう少し厳密に記せば四部構成でもあった。

NWAのトップクラスたちによる地味でマニアックな権威のプロレス。
権威とマニアなファンによる全日本の核の部分である。

ブッチャーや、マスカラス等による一般向けのプロレス
異人たちによる分かりやすいプロレスで一般視聴者層を取り込む為のプロレスである。

かつ、その両者のシリーズの間には、谷間のシリーズと呼ぶべきシリーズが存在していた。
つまり経費を抑え、やや格落ちしたレスラーを主役にしたコンパクトなシリーズである。

そして全てのシリーズの主役たちが出そろう年末な豪華な祭典シリーズ。

見事な団体としてのバランスであった。

マニアの核が喜ぶシリーズと、一般や子供が喜ぶシリーズ、そして両者が楽しめる年末と、見事にマニアと一般ファンを共存させた団体運営であったのだ。

夏休みにマスカラスを通じて、プロレスを知った少年ファンを取り込んだ所で、夏休みが終われば、再び、大人のファンを対象にしたシリーズを展開する。
せっかくプロレスファンになった少年たちは、黙って、大人向けのマニアなクラシックプロレスを見続けるしか無かったのだ。
あるいは、そのシリーズが終わると、華やかさとは程遠い、地味なB級外国人による谷間のシリーズに付き合う。
再び、プロレスに出会った頃のような華のあるシリーズに出会えるのは、年末か、一年後しか無かった。
そういうプロレスとの付き合い方を通じて、異人たちによってプロレスに取り来れた少年ファンも、徐々に見る者の耐性を身につけていったのだ。

私が今の格闘技・プロレスファンを見て残念だなと思うのは、そういう耐性がない事である。

一つ一つのイベントの演出や視聴率に一喜一憂する。
地味な事が我慢出来ない。
参加メンバーに不満だ。

時代が違うといえばそうであるが、ジャンルに出会った頃の夢の部分だけを、現在のイベントの全てに求めて、一喜一憂する。
何故それほど耐性が無いのだと、私は思う。

PRIDEが、かつて、これまでかとばかりカードを出し惜しみせず、豪華外国人を招き、演
出に経費を掛け、ファンに振る舞ってきた夢の空間で手厚く持て成されて、格闘技ファンに成った面々には仕方ない事かも知れない。

私はK-1に特に詳しいわけではないが、その点、K-1のファンには、まだファンとしての耐性を感じる事が出来る。
長い歴史の中で、自分の思い通りに成らない世界と接していると、自ずとジャンルに対しての見る者の耐性は養われていくものだ。

そういうばK-1にも、70年代の全日本プロレスと似た部分がある。

本格派の豪華外国人、個性派外国人、そして圧倒的な権威。
マニアとファンが両立しているジャンルである事は確かである。



新日本プロレスについては最後に記す事にして、次回は、私也にK-1について記していきたいと思う。

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posted by shingol at 09:30| 新・レッスルする世界 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月28日

昭和プロレス者/5.ミスターレスリングとハッスルの勘違いした笑いの世界

ミスター・レスリングをご存知でしょうか?
白覆面のシンプルな覆面を被った70年代のアメリカの人気レスラーです。
いつぞやの大統領が、Mr.レスリングではなく、Mr.レスリング2号の大ファンだった事は有名です。
私はプロレスを観て育ち、レスリングに没頭してきた男です。
70年代のアメリカの牧歌的なプロレスを展開する男が、実はレスリングの強者であった事は大変な喜びです。

以前も記しましたが、メキシコの覆面は個性そのものです。
しかしアメリカの70年代のプロレスラーは個性を消す為に覆面を被っていました。
そういう部分におどろおどろしさと愉快さが同居した世界があったのです。

個性満点のメキシコの妖怪たちより、個性を消し去る仮面を被ったアメリカのダサい覆面レスラーが私は好きでした。

ハッスルが、エンターティメントとして突き抜けるならば、このMr.レスリングのハチャメチャなインタビューシーンを参考にすべきでしょう。

しかし、問題は、そこに意図的なものがあるかどうかです。
笑いを求めた訳では無いのに、牧歌的な笑みがこぼれる世界と、最初から笑いを求める世界は違います。

ハッスルはいい加減早く気づくべきでしょう。











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posted by shingol at 19:59| 新・レッスルする世界 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

近藤有己という波動/3.日本人格闘家たちを撃退し続けた無我のプロレスラー

近藤有己というプロレスラーは、全てのキャリアをリアルファイトに費やしてきた新世代のレスラーである。
近藤が発する牧歌的な雰囲気は、プロレスラーとしては異質ながら、それでも、まぎれも無く、プロレスラーしか持ち得ないオーラを身にまとう男でもある。

多くのレスラーたちが、毒気や自我の強さを、自身の色気やオーラの要因としていた事に対し、近藤には、毒気も自我の強さも無い。

では近藤の色気とオーラの正体とは何なのだろうか?

近藤に他人を押しのける自我の強さは無い。
しかし、その自我の無さを飛び越えて、近藤に鋭角的な刺を与えているものがあるとすれば、近藤の研ぎすまされた打撃の技術であろうと私は思っている。
近藤は、その打撃で多くの格闘家たちを病院送りにし続けてきた。
私が恐ろしく思うのは、スタンドよりも、グランドでの相手への打撃である。
タックルをがぶったまま相手を殴り続け、戦意喪失させ、マリオ・スペーヒの額を膝でえぐった。
無表情で相手に鋭角的な攻撃を浴びせる近藤は実は物凄く自我の強い男ではないかとも思う。
しかし、重要なのは、近藤の自我の行く末である。
相手を見ていないのである。
相手に自分の自我を浴びせるのではなく、相手を見るのではなく、淡々と自分の世界だけを発揮する世界観が近藤からは垣間見えてしまう。

「Book Of Days」をテーマに入場してくる近藤は、既に相手との闘いを超越しているのである。
逆に、相手を見れば、近藤は負ける。
そういう男である。

近藤の色気とオーラのもう一つの原因らしきものがある。

そのリング上での肉体と、身のこなし方である。
近藤は筋肉質というわけでは無い。
近藤の肉体自身がすでに、無機的な戦闘スーツとは程遠い、緩やかなドレーブを描いた肉体は有機的な雰囲気を醸し出しているのであるが、私は驚くのは、その肉体が放つマットワークである。
機械的なアスリートのそれではなく、近藤独自のリズムを、ゆるやかに醸し出している点である。
全ての競技スポーツの世界での効率性を求めた機械的とは程遠い動きの中で、近藤は自分の内観に身を委ねながら、淡々と、静かに、リングに韻を踏んでいるのである。
決してキン肉マンでも無く、躍動感溢れるファイトぶりでもない、近藤の肉体と闘いがファンに確かな美感と余韻を残す魅力の一因は、その肉体と動きのアナログ的な有機性にあると私は思っている。

そんな近藤の魅力が発揮される時は、近藤自身が無我の境地に辿り着いた時だ。
郷野の挑発に相対せず、静かに、自らの内観に身を委ねた近藤は、相手を見ないまま、淡々と、かつ、残酷に、郷野をマットに沈めた。

逆に、負けられないと勝敗を意識したとき、あるいは、相手を見すぎたとき、自身を忘れる男なのである。

近藤の好不調の波が激しい事が、近藤の問題が、技術ではなく、メンタルの安定のみにある事を物語っていると私は思っている。

多くの格闘家を撃退してきた近藤の好調の波は、次はいつやってくるのであろう。
しかし、次の好調時には、もはや近藤は、生涯、揺らぐ事の無い無我の境地に達しているはずである。

私は近藤有己という選手がプロレス界にいてくれた事を誇りに思う。

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posted by shingol at 19:08| 新・レッスルする世界 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

強さへの最短距離をいかなかったプロレスラーたち/田村潔司よファンを白けさせるな

プロレスラーの定義は様々です。
しかし総合格闘技に限定してのプロレスラーの定義は簡単な事だと私は思っています。

無駄な事をしてきた事。
つまり最短距離で強くなってこなかった選手たちが、すなわちプロレスラーであるのだと私は思っています。

プロレスの道場神話というものがありました。
しかし、そこは強くなる為の最短距離の虎の穴でない事は、誰もが、知っている事です。

プロという環境であるにも関わらず、実際には働きながら、町の道場において最短距離での強さを求めていった多くの格闘家と比べ、プロレスの道場は強さの追求に対しては非効率な環境でもありました。

強さに直結するわけではない地道な補強練習、精神力につながるわけではない先輩のいじめ、雑用、それらは強さを最短距離で求める人間たちにとっては何ら意味の無い事でしかありません。

しかし、同時に、このように強さに直結しない無駄な部分にこそ、多くのファンは、どういうわけか魅力を感じ、プロレスラーに感情移入出来てきた事も事実です。

常人では真似の出来ない生活環境を乗り越えてきた特別な人間へのリスペクトを、皆、潜在的にプロレスラーに持っているのではないでしょうか?

そういうプロレスラーが町の道場出身の選手たちに実力差を見せつけられ、敗退する現実を見せつけられるようになり、どれくらいの月日が流れているでしょう。

単純に考えると、スクワットを何千回とこなすよりも、親切丁寧に技術を教えてもらい反復し続けるほうが強さの最短距離である事は皆、分かっている事です。
それでも、皆、スクワットを何千回とこなし続けてきたプロレスラーに勝ってほしいのです。
競技だけでなく、空いた時間はお洒落や別の事を楽しむ格闘家の生活は、素晴らしい生活スタイルの一つのモデルと成りました。
しかし、練習を終えても丸刈り姿で雑用に追われるプロレスラーの新人を、プロレスファンは応援し続けてきたのです。

私はプロレスバカは嫌いです。
土台を作ってもなお、プロレスだけの上積みを行なうプロレスラーたちに対しての気持ちです。
しかし、土台を築くまでの間は、それ一本に掛けて懸命に生きなければいけない時期があるはずです。
そういう意味で、プロレスラーたちは、プロレスラーという土台づくりのために、人の真似出来ない日々を過ごしてきた誇りをもっと持ってもらいたいと私は思います。

それが最短距離での強さにつながるものでなかったとしてもです。

私は三流のアマチュア競技者でしたが、そんな私でも、強く信じている気持ちがあります。
最短距離で強くなった所で何の意味も無いという事です。

別にいたずらな根性論等全く意識した事はありませんが、それでも非科学的に無意味な事を懸命にやってきた人間はどこか常人とは雰囲気や表情が違います。

もし総合に出陣するプロレスラーに、異質のオーラを感じるファンがいたとすれば、それはプロレスラーが無駄な事、意味のない事を続けてきた人間としての揺るがない土台が醸し出しているともいえるでしょう。

そういう意味では、パンクラスの選手には若手からでも似たような雰囲気を感じてしまうものです。

かつて佐藤に勝った竹内は「強くなる為の練習をしているのか?」と佐藤に言い放ちました。
強くなる為の最短距離の練習をしてこなかったからこそ、プロレスラーたちの魅力がある事を、多くの格闘家たちは未だに気づいていないようです。

しかし私は少しだけ、プロレスラーたちの口癖が気になりもします。
何千回スクワットをやらされた。ひどい雑用だった。
全て「受け身の苦労自慢」なのです。
プロレスラーたちの新人時代の苦労は誰もが分かっている事です。
しかし、逆説的に記せば、受け身的な環境に入り込んで、耐えていただけの苦労自慢でしか聞こえない時もあるのです。

例えば人生のベテランと話していて、皆さんは、苦労自慢を聞きたいでしょうか?
どれだけ苦労に耐えてきた話よりも、自ら能動的に努力を買ってきた話を聞きたいのではないでしょうか?

そういう意味で、プロレス道場での受け身的な苦労を、更に昇華させたパイオニアが田村潔司でしょう。
たった独りの新弟子として耐え抜いた苦労の新人時代を終えると、今度は能動的な努力を果たそうと、町道場や大学のレスリング部での出稽古を始めました。
それらの何層もの苦労と努力の歴史は、田村が良くも悪くも、他のプロレスラーたちよりも更に輝くオーラを身に纏うスター性を持つ要因でもあると私は思っています。

かつてリアルファイトの場に挑みつつあるとき、田村はこう言いました。
「ファンの持ってくれている自分への強さのイメージを守りたい」と。

そういう悲壮な決意のもと、能動的に自ら努力を買い、総合に出陣していた頃の田村は、本当に魅力的でした。

しかし今の田村はあの頃のような悲愴な表情をする事はありません。
涼しい顔で闘っていこうとしているのなら、田村は過去の苦労と努力の貯金を自ら食いつぶしていく事になると思います。

田村はひとつ勘違いしている事があります。
総合において桜庭ほどの実績は無いという事です。
実績の無い男が、自らのプロレスラーとしてのスター性を持って、団体やファンから総合格闘技への出陣を望まれているのなら、もう涼しい言動をしている暇は無いはずです。

「ファンのイメージを守りたい」と悲壮だった田村はリスクのある闘いを悲壮な決意で突破してきました。
しかし最近では、闘う事よりも、闘う相手を選ぶ事でイメージを守りたいとでも思っているのでしょうか?

かえすがえす田村には、桜庭ほどのジャンルに対しての優位性はありません。
優位性の無い男が、対戦相手を選んではがりいると、ファンは白けていってしまうだけです。

田村の魅力の一つとは、強さ弱さではなく、ファンの為に強さのイメージを守ろうと闘ってくれた部分だと私は思っています。
まさしく人の為に闘うプロレスラーそのものの姿でした。

一生懸命ファンの為にリスクのある闘いでベストを出してくれた結果なら、負けた所で、ファンは誰一人失望等しないはずです。

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posted by shingol at 01:20| 新・レッスルする世界 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月27日

金原の敗戦、桜庭と船木について

昨日の金原の敗戦は、私にとってショックだった。
試合内容は詳しくは分からないが、写真を見る限り、気になる事があった。
どの写真も、金原が弱々しく不安げに、相手の竹内を覗き込むかのように見つめていた写真が多かった事だ。

気力と体力を奮い立たせリングに上がった金原であったが、かつての強気の金原はリング上に上がった時から存在していなかったような気がする。

しかし金原は現在の心身のコンディションでベストの結果を出したのだから、とりあえずはゆっくりと静養してもらいたい。

桜庭のトーナメントが強行?発表された。
桜庭のかさぶたの意味を、多くの人は、秋山の存在のせいだと考えているようだが、私は桜庭のかさぶたの意味とはそんなに単純なものでは無かったと思っている。
桜庭の闘いの歴史にとって秋山戦は一部でしかない。
秋山と闘いたくないという理由が、トーナメント不出場の意思の原因なほど、桜庭の歴史は浅いものでは無い。

桜庭はもうリスクを伴ってまでして名誉を手に入れるべき存在ではない。
また、そういう闘いを通じて、ファンに勇気を与える存在でもない。
名誉も手に入れ、充分にファンにも勇気や感動を与えてくれた男だ。

桜庭はファンに対して、リスクのある悲壮感のある、かつベストではない現在の自分の闘いトーナメントで見せる事にどのような意味があるのだろう。


桜庭は選択肢の無い闘いを乗り越えてここまで来た男だ。
同時期に総合に出陣してきた田村や金原と比較される事が多いが、出場した試合数は全く異なる。
決して、一度だけのチャンスを持って英雄と成った男ではないのである。
特にPRIDE黎明期においては、ニュートン、ベウフォート、ゴエスといった面々と、リスクの大きい闘いをこなしてきた男である。
かつファンの期待に応え続けた桜庭のファンに対しての優位性、貯金は圧倒的に大きいものがある。

当然、その優位性はファンだけでなく、ジャンル全体にあるはずである。
切れなければ絶対に相手にNOといえない桜庭の人の良さを利用するならば、ファンは絶対に許さないはずである。

船木と田村の闘いが決まった。
私は船木の勝利等求めていない。
かつての船木が見たいだけなのである。
しかし、このままでは、大晦日の船木と何も変わらない船木を見る事に成りそうな予感がしている。
何度も記してきたが、船木に必要なのは、メンタル面だけであって、もはや新しい技術は必要ないというのが私の考えである。
格闘技オタクたちの風潮に負けて、自分の技術に自信が持てなくなっているのである。

船木がグラバカで練習相手に決められれば決められるほど、船木は弱気な記憶を刻み込んでいってしまう。
つまり闘う為の出稽古で、闘いに必要な気持ちを奪われていってしまっているのだ。
もはや船木は等身大の自分を知る時期ではないであろう。

なにより船木は等身大の自分ではなく、潜在本能を限りなく発揮する事で、劇的な闘いを遂行してきた男なのである。

迷いの無くなった船木は、気持ちを持って自分の技を仕掛けられるはずなのである。
船木が相手を決めるための軌道は、船木自身が決めてきたことである。
どのように現代の格闘技オタクたちのベーシックな理論とはかけ離れた技術であっても、船木は肉体的特性である瞬発力と追い込まれた気持ちをうまく相乗させ、相手を仕留められる選手である。

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posted by shingol at 23:25| 新・レッスルする世界 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月25日

昭和プロレス者/4・長州力という情動によるリアル猪木ゲノム

私のブログを御読み頂く方には、私の一つの大きな矛盾に気づいている方もいるようだ。

私は長州力というプロレスラーが好きである。
同時に長州力のプロレスは好きではない。

それは私が長州力を観るより先に、プロレスブーム前のアントニオ猪木の試合を観て育った事が大きな要因であろうと思う。

猪木のプロレスを観て育ったファンにとって、長州力のプロレスとは、ハリウッド映画や売れ線歌謡曲そのものの世界である。
全編クライマックスや、全編サビだらけの、刹那的な消費物でしかない。
ファンに想像力を働かせる間もなく、受け身的にファンを高揚させ、ジャンルを楽しむ耐性を無くす、後の平成プロレスに続くプロレス衰退のA級戦犯でもあると私は思っているからだ。

しかし、私は長州のプロレスを否定しながらも、それでも、長州力の発散する熱量に夢中にならざるを得なかった。
私の好みでないプロレスを展開しても、なお、私を惹き付ける情動の塊として長州のプロレスは存在していたのである。

属性とは、結局は、各々が属する場でのコウモリの如くの都合の良い逃避的な自己防衛でしかない。

しかし私は日本人の中にいる時、レスリングの集団にいる時、プロレスファンの中にいる時、その全ての場面、場面において孤独を感じている時、私の求める属性を全て満たす男である長州力が救ってくれたのは事実であった。

プロレスファンとして、同胞として、アマチュア・レスラーとして、長州力はまさしく私の神であった。

私が以前も記した事だが、私は長州力のアマチュア時代を知る恩師に、長州力の誰も知らない本当の闘い方を聞いた事がある。
私は出来るだけの想像を働かせ、長州のまだ見ぬ闘い方を、反復し、身につけた。

安生と中野と闘った長州によって、私の想像はようやく、頭の中だけでなく、実際のリング上のスクリーンに映し出された。

腕取り、がふり、腰高のタックル、ツーオンワン、ネルソン、本当の自分の闘いを貫く長州力は、普段とは別の人間であるかのように、感情を抑制し、淡々と、相手を追いつめ続けた。
それは情動を全開させる長州力のプロレスとは異質の、抑制された感情としての色気を醸し出した。

アントニオ猪木は放送席でその試合を絶賛した。

おそらく、アントニオ猪木はIGFにおいて、この日の長州のような「プロレス」を心底、願っているのだと、私は強く信じている。

当ブログ勝手に選定・プロレス昭和異人殿堂発表
昭和プロレス者/3・世界一平和を願う男・前田日明の行く末
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posted by shingol at 19:33| 新・レッスルする世界 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月24日

プロレスファンよ、桜庭和志を守れ

どうも記者会見での言葉を聞く限り、桜庭はトーナメントに出たく無いというのは本音のようである。
当たり前である。
今更、最強の称号を手に入れるための闘いに命をかけるつもりは無いのは、桜庭のコメントから明白である。

私は桜庭が、秋山ほか多くの日本人格闘家を倒す姿も見たい気持ちもある。
ファンなら見たいのも本音だ。
しかし、桜庭が出たく無いなら出る必要は無いと一貫して考えている。
他の選手ならプロとしてのサバイバルを背負う以上、そのような自分本意の都合等言える資格は無いであろう。
しかし、桜庭はあるのだ。
プロモーターとファンに対して圧倒的な優位性を保つ男なのである。
その優位性は桜庭が総合黎明期より命をかけて業界を引っ張ってきた男の勲章としての特権でもある。
もし桜庭が本気で出たく無いといっているにも関わらず、強引に出してしまうプロモーターがいるなら、ファンは完全に退くであろう。

桜庭の事だ。
口八丁のプロモーターに掛かれば、人の良さで、思い切ってのトーナメント参戦も考えられる。

しかし長年、桜庭のファンである人間ならば「かさぶた」がファンに対しての切実な信号である事は理解出来るはずである。
その「かさぶた」の重みを今こそプロレスファンは理解してほしい。
桜庭は出たく無いのだし、出る必要等少しも無いのだ。

プロレスファンは、どうか桜庭を守ってほしいと私は切に思う。

桜庭和志という昭和・プロレス者/悪魔童子と桜庭和志

桜庭和志のミドル級トーナメント不参加を支持する

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2008年03月23日

当ブログ勝手に選定・プロレス昭和異人殿堂発表

少しおふざけですが、当ブログが勝手に昭和プロレス殿堂入りさせたプロレスラーたちを紹介したいと思います。

昭和プロレス・グラインドハウス部門

ジプシー・ジョー

アブドーラ・タンバ


昭和プロレス・アートシアター部門

ジャック・ブリスコ

エル・ソリタリオ

昭和プロレス・ヌーヴェルヴァーグ部門

アントニオ猪木
長州力
前田日明
永田裕志
石沢常光

昭和プロレス・ドキュメント映画部門

桜庭和志
藤田和之
柴田勝頼
船木誠勝

ブロック・レスナー

昭和プロレス・3D映画部門

星のパンツ時代のジャンボ鶴田

サミー・リー

武藤敬司

昭和プロレス・サイレント映画部門

ドリー・ファンク・ジュニア

スティーヴ・ライト

昭和プロレス・ヤクザ・ギャング映画部門

グレート小鹿 大熊元司

アドリアン・アドニス ボブ・オートン・ジュニア

昭和プロレス・西部劇部門

ボビー・ダンカン  

ワフー・マクダニエル

昭和プロレス・カラテ映画部門

レフトフック・デイトン
モンスターマン
ウィリー・ウィリアムス

ドン中矢ニールセン

昭和プロレス・教育映画部門

カール・ゴッチ

ビル・ロビンソン

昭和プロレス・ロード・ムービー部門

ハーリー・レイス
他歴代NWA王者の皆さん

昭和プロレス・マサラ・ムーヴィ部門

タイガー・ジェット・シン

昭和プロレス・連続活劇部門

初代タイガーマスク

小林邦明

新国際軍団

昭和プロレス・ゲイ映画部門

ローラン・ボック 

パット・パターソン 

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2008年03月22日

昭和プロレス者/3・世界一平和を願う男・前田日明の行く末

私は、世界一情が厚く、世界一暖かい血の流れる人間は前田日明であると思っている。
私と同じ世代の人間が前田に失望し、呆れ、それでも前田を追いかけせざるを得ない理由は前田の果てしない情の幻影を求める事で、あまりにも劇的とは成らない自分たちの人生観を投影しているからでもあると私は思う。

私は前田日明が世界一大嫌いでもあるので、前田の暴力に屈するような人間を軽蔑する。
暴力に屈するようならペン等いらないのだ。

私が同胞として前田を好きなのは、同じ関西圏の同胞でもあるからだ。
幼き頃より孤独と振り向き合った少年なら、周りの人の好意に過剰に感謝し、過剰に感謝することにつけ込む輩を知り、そして警戒の為に心を刺のようにする過程は理解出来る。

港区を歩き、前田の生家らしき場所を偶然通りかかった時に、新日本プロレスという心の故郷を見つけた前田の数奇な半生を頭の中で想い描いた所で、まだ結果の出ていない行く末の答えでしかないのだと思った。

前田日明はいつも自分の心の故郷を求め続ける人間である。

前田日明の口癖がある。
「こと…」である。

「こと、リングの上に関して言えば猪木さんは姑息ではなかった」
「こと、佐山さん…」「こと長州さんが…」

自身の人生において対峙した人間たちを何とか認めようとする時の前田の口癖である。
それは前田が新たなる敵と対峙していることを伝える信号としての言葉でもある。

カレリン戦前、とうとう、こういう言葉が出た。
「こと、受け身に関しては新日本プロレスは世界最高のレベルを持っていたから、カレリンに投げられても平気だ」と。

プロレスラーでありながら中途半端に格闘技界の顔役を果たした前田は、またしても自分の属性を探し求め、ヤンキー集団の闘いまで構築してしまった。
しかし前田はヤンキーとは程遠い。
一人で喧嘩してきた孤独な文学青年である。
きっと自身の心の拠り所を求め創り上げたイベントの中で、また、孤独を感じる事であろう。

どんなものを、なにをもとめても、前田の属性は満たされる事は無いのだ。
前田の孤独を満たすための属性は、不良にも、格闘家にも無く、血筋にも無く、「ブロレスラー前田日明」として常に孤独と振り向き合ってきた自身の名前以外には存在しないはずである。
よってどこにも属さない孤独なプロレスラーとしての自身を属性とするしかないのである。

そんな前田の好きな漢詩がある。
「月下独酌」の世界は前田という頑固な性に苦しめられる人間が憧れる桃源郷でもある。

その詩を読めば、前田が、どれだけ暴力と戦争を嫌っている人間であるか、理解出来るはずである。
暴力以外には暴力は絶対にふるわない男なのである。

私は前田日明と出会えたら、多分、鼻血を出して気を失うだろう。
それくらい私が世界で一番憧れる人間であり、そして、世界で一番嫌いな人間でもある。


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posted by shingol at 13:07| 新・レッスルする世界 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月21日

昭和プロレス者/2・ベニー・ユキーデと前田対ニールセン

伝説的なアメリカのキックボクサーを無理に昭和のプロレス者にする事を御許しいただきたい。
しかし、私にとっては、ベニー・ユキーデは、昭和のプロレスブーム前の新日本の世界とリンクしていたプロレスカテゴリーの名選手であった。

プロレスブーム前、ようするにIWGP構想以前の新日本の主軸は異種格闘技戦であった。
その異種格闘技戦の世界観の中で、劇画「四角いジャングル」に登場したユキーデは、まさしく猪木と梶原一騎の世界観が一致していた時代の名優でもあった。

当時、小学生であった私でも、ユキーデが日本のキックボクサーたちと全く異なるスタイルの選手である事は分かった。
映画版の「四角いジャングル」で見たユキーデの、まるでブルース・リーのような半身のスタイルは斬新であった。

当時ユキーデの上がった団体とは別のTBS系列の団体が、アメリカン・マーシャルアーツ勢を招いて武道館で興行を打った。
富山勝治に次ぐ二番手の日本人を、マーシャルアーツ殺法で沈めたアメリカ人選手に、思わずアナウンサーの口から、他団体のスター、ユキーデの名が出た。
「寺内さん、この選手はユキーデみたいですね。ユキーデ見ましたか?」

私は興奮したアナウンサーに驚きつつも、関西ではユキーデは劇画でしか見れないのに視聴者無視だなと、少し思った。

猪木対ウィリーから数年後、猪木の弟子とユキーデの弟子が、死闘を展開した。
リアルファイトではなく、プロレスの範疇で行なわれた壮絶な果たし合いは、梶原一騎の願った世界観が達成された見事なエンターティメントであった。

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昭和プロレス者/1・倍賞鉄夫リングアナの色気と美声

後楽園で昭和プロレス開催との事。
私としては昭和フロレスの名脇役は間違いなく倍賞リングアナだと思っている。
是非、倍賞リングアナの美声を聞きたいものだ。

プロレスブームが起こり、田中リングアナが、ブーム後のムラ化したプロレス界のファンの代弁者と成った。
その功績は大きいのは事実だ。

しかし、一つだけ記したい。
田中リングアナの良くも悪くも世間一般とはかけ離れたファッションセンス?は間違いなくムラ化したプロレス界の一つの象徴でもあったはずである。

私が痺れたのは大晦日の猪木ボンバイエで永田裕志を呼び込んだケイン・コスギである。

しかし倍賞リングアナのケイン・コスギに負けないくらいの色気のある雰囲気は、プロレス村には向かないものの、世間の人たちを振り向かせる独特のオーラを醸し出していたのは確かだ。

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posted by shingol at 21:57| 新・レッスルする世界 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

昭和のファンに感謝

昨日は浜口京子の勝利にホッと胸を撫で下ろしました。
五輪では何とかベストを発揮できるように願います。
ベストさえ発揮できれば、結果は必ずついてくるかと思っています。

さて、いきなりですが、何気にアクセス解析を見ていると気づくことが有ります。

私のブログへは、ブックマークをしていただいている方が1/3、あるいは私のブログを紹介いただく方々のブログからのリンク、またスポーツナビのトラックバックからなどのアクセスが1/3ほど。

残りの1/3については、検索エンジンからのアクセスになっているようなのですが、主な検索ワードは私のブログ名そのままが殆どのようです。

しかし本サイトでの私のブログ開設以来、ほぼ毎日、同じ検索ワードで引っかかっているプロレスラーの名前があります。

それは「マイク・ジョージ」と「ミレ・ツルノ」そして「アポロ菅原」の三人のレスラーの名前です。

毎日、上記の三人の名前を検索しておられるプロレスファンがこの日本に、いらっしゃることは不思議な感じがしますが、昭和プロレス者としては嬉しさを隠せません。

したがって再び、また彼らのような昭和の名脇役レスラーたちの思い出をシンプルに記事にしてみたいと思っています。

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2008年03月20日

昭和のプロレスと平成の格闘技ブームの原因と教訓・3/昭和の全日本プロレスの二重構造

昭和のプロレスと平成の格闘技ブームの原因と教訓・1
昭和のプロレスと平成の格闘技ブームの原因と教訓・2/テレビを通じてではない世間への伝播
より続く

プロレスブームが起こる前の昭和のプロレス界について、私は少し興味深い事がある。

全日本プロレスについてである。

昭和の全日本プロレスは基本的にマニアックな団体であった。

例えば、馬場がいくらNWAがどうのこうのと権威を主張した所で、一般の人は知る由もない。
しかし頑に、プロレス雑誌を見るようなファンだからこそ知るような権威を基盤に、それらに基づいた強豪外国人たちを主役とし続けたのである。
いくらレイスやドリー、ブリスコたちが味わい深い個性を持っていたとしても、彼らの個性がNWAを凌駕し、一般層に強烈な印象を与える事は無かった。
彼らの本当の素晴らしさを知るのは一般層では難しいものがあったからだ。

しかもNWAの強豪外国人との試合は、実はかなり観る側の耐性が必要な、ハイライトシーンの少ない地味なプロレスである。

しかし馬場のプロレス観の二重構造は実はこの頃からあった。

権威ある王座や、権威ある外国人たちとの試合を絶対的な団体の基盤としながらも、一見さんを取り込む為の異人たちをどんどん投入していったことだ。

オーソドックスな世界を好みながらも、ブッチャーやマスカラスといった元々の知識等必要なく楽しめるプロレスラーたちの招聘にも力を入れていたのである。

しかも、それらは各シリーズ毎にしっかりと色分けされていた。

私はこういう馬場の日頃の二重構造の本領が発揮されたのは、毎年末のリーグ戦であったと考えている。

マニアックなファンが泣いて喜ぶ世界と、一見さんも楽しめる世界が、混在していたのである。
つまり一般大衆とマニアが共存出来る世界があったという事だ。

そのリーグ戦から、ファンクスという元々はマニアな世界の実力者と、ブッチャーやハンセン、ブロディと言った分かりやすい異人たちとの直接対決が、後の全日本プロレスの主流と成っていく。

しかし、それまで年末のリーグ戦を除いて、しっかりとシリーズ毎に色分けされていた世界が、年間のシリーズを通して色分けの無い直接対決を団体の主軸とするようになってしまった。

曙やサップのいる世界と、ミルコやヒョードルのいる世界が、普段はシリーズ毎に色分けされ、しかし年末だけ揃うから夢であったのに、年間を通じて殆どのシリーズで曙対ミルコの直接対決を売りにするようになってしまったのである。

それは、それで安定した人気を博しもしたが、少しずつ、マニア層のファンが去りつつあった事も確かだ。
静かに空洞化を起こし始めた全日本プロレスに対して、意外にも、新日本プロレスがマニアと一般のまた異なる形での共存した世界を作りつつあった。

(続く)


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