昨日のDREAMはTVだけの観戦であったのですが、演出も含め格闘技イベントが成熟してきたような感を受けました。
これまでの煽りVTRといわれるものは、必要以上に観客の高揚感を煽ったり、かつ、選手の紹介や試合背景を、必要以上に一般層への分かりやすいようにディフォルメした説明過剰のものが多かったように思います。
元々、PRIDEの煽りVTRというのは、知識を持たない一見層に対して発信していた情報としての意味合いと、観客を受け身的に高揚させる意味合いの二つを持っていたように思います。
後期のPRIDEでは、ある程度ファンも成熟してきたので、観客や視聴者の選手や試合に対しての知識や意識への確認作業のような意味合いも付加されていたのではないかと思います。
一方、HERO'Sでは最後まで、一見層に向けた単純化・ディフォルメした説明や知識の提供としての情報としての煽りVTRに終始していように思います。
しかし今回は、どちらとも異なっていたように思います。
煽りや説明的部分を以前よりは省き、観客の感性に静かに投げかけるような作りを感じました。
これは何を意味するのかという事を私也に考えていました。
ディフォルメした説明を以前より省いた事で、受け手の知識が、まずはある程度の一定のレベルにある事を前提にして作ったVTRである事が分かります。
また受け身的感性に訴える煽りというよりは、静かに観客の感性に語りかけるような作りをしていたことで、私は必要以上に、消費的・刹那的イベントしての熱の拡散を意図的に抑えているようにも見受けられました。
TVという最大公約数の一般層を取り込む事よりも、現段階である程度、固定化された格闘技ファンに対して発信された番組作りであったような気がしたのです。
また選手の顔ぶれは豪華外国人の集う絢爛豪華なものでもありませんでした。
それでも、さいたまスーパーアリーナに8割のお客さんは集まっていたと聞きます。
高騰するファイトマネーと非日常を醸し出す為の莫大な演出費用によって、自転車操業以上のものを余儀なくされた、かつてのイベント運営ではなく、ようやく格闘技市場の適正な規模にて格闘技イベントが進行されつつあるのではないかと私は期待しています。
バブルがはじけて、ブームも終わり、ようやく格闘技イベントの正常な身の丈を団体側が意識しだしたのではないでしょうか。
また幸い、適正な身の丈に合うだけの成熟した格闘技ファンが残っている市場でもあります。
そのファンの核こそ、静かな完全な固定人気ジャンルに成る上での強みだと思います。
かつての格闘技イベントは身の丈を越え、100人いれば100人全員を取り込む事に終始し、結果、非常に消費的・刹那的なものになっていたような気がします。
ジャンルの熱気は、静かなものであれば静かであるほど、持続します。
100人中10人に支えられる固定ジャンルとしての道を模索してほしいものです。
私はPRIDEの大阪会場は全て行きましたが、次第に熱く、お祭りのようになっていったあの一体感溢れる会場を観て、長続きしないと確信していました。
あのPRIDEの刹那的・消費的な熱気自体に、そして、その熱気の中で興奮する観客に、PRIDE自身は苦しんで来たのではないかと私は思っています。
絶対に赤い炎は消えやすいものなのです。
ジャンルとしての長持ちする火は静かな青い炎でなければいけないとおもっています。
ブームを終えて、今は身の丈を超えない適正運営を続けてく事が大切です。
元々、市場規模に合わない運営の仕方をしていたのですから、経費のかかる豪華外国人に頼る運営は避けてほしいものです。
誤解を恐れず言えば、ブーム時のような身の丈を超えたファイトマネーではなくとも、ファイトマネー以上の自身の気迫とスキルを観客に提示出来るようなピュアな日本人選手たちだけでイベントを構成していく事は本当に大切な事だと思っています。
私が昨日の試合で、もう一つ興味部深かった事があります。
観客の歓声が、お祭り的なものではなく、各々の呼吸を交えた静かな熱気だったという事です。
高揚させる一体感のある歓声ではなく無く、静かに息をのむような緊張感を観客自身も受け止めて静かな熱気の核を伴っていたのだと思います。
ブームを終えた事で、新規ファンの獲得時期は終えたのです。
後は、しっかりと身の丈を維持した誰にも振り回されないジャンルとしての運営を続ける限り、新しいファンは少しずつでも確実に入り込んでくるでしょう。
かつてのようなブームを再来させる必要等もはや無いのです。
昭和のプロレスと平成の格闘技ブームの原因と教訓・1
昭和のプロレスと平成の格闘技ブームの原因と教訓・2/テレビを通じてではない世間への伝播
格闘技プロレスと皆が一言で片付けるので、格闘技プロレスを分類してみました
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2008年03月15日
昭和のプロレスと平成の格闘技ブームの原因と教訓・2/テレビを通じてではない世間への伝播
昭和のプロレスと平成の格闘技ブームの原因と教訓・1より続く
私が高校生くらいまでは、一般的な歌謡歌手以外は、極力テレビの出演を避ける傾向が強かった。
今以上に、国民の娯楽の選択肢も少なく、テレビの影響が大きかった時代において、テレビに出ない歌手たちは、それでもコンサートでの動員や、レコードの売り上げで、テレビに出る歌手たちを圧倒し続けた。
私が理解出来なかったのは何故テレビに出なかったかという事だ。
単純に露出を控える意味合いがあったのかも知れないが、それでもラジオ等には積極的に出演していた歌手が多かったような気がする。
テレビという媒体は、特に以前は、基本的に最大公約数の人が観る媒体である。
逆にテレビに映し出される以上、最大公約数である一般層の人たちも取り込む必要もある為、元々のパフォーマンスレベルを分かりやすく低めに設定する必要が出てくる。
その媒体で、最大公約数の一般層に合わせる事無く、やや高レベルでマニアックな自分のペースを貫こうと思えば、自分の立ち位地のみでの活動に専念する方が良かった時代なのである。
(実はプロレスの誕生はその事と大きく関係してるのだが、それは違う機会に記していく。)
現在では、テレビという媒体そのものが、かつてほどの最大公約数向けでない事。要するに多種多様に細分化された娯楽の選択肢の一つと成ってきつつある事。
そして、テレビを通じて音楽番組を観る視聴者の目も越えてきた事で、以前ほどテレビを敬遠する歌手は減ってきているようだ。
それでも私が印象に残っているのは、かつてPRIDEの人気上昇時、榊原社長がテレビ放送に対して、かなり慎重になっていた事である。
当時の榊原社長のインタビューからは、PRIDEがテレビ中継される事での過度の露出や最大公約数向けジャンルに成る事での質の低下を警戒する事を匂わす発言が私也には読み取れた。
しかし残念な事に、イベント運営だけでは成り立たない経営は、テレビの放映料に頼らざるを得なくなり、かつ、頼った時点で、打ち切りにされるという皮肉な結果に成ってしまった。
逆に、最大公約数向けの一般層への分かりやすさを追求する為に、徹底して、視聴者に提示するパフォーマンスレベルを引き下げたのが、亀田であろう。
マニア層を核にする事無く、いきなり、より外側の世界に対してのみアピールする、ジャンルの核なき空洞化によって、多くのファンの目を振り向かせた所で、中身の無い、品質の低いものへの視聴者の飽きはブーム以上に短い一過性のものである。
アントニオ猪木の環状線理論も同じである。
奇をてらった一過性の話題を世間に対して発信する時の猪木は、迷走している時期だと、まず長年ファンである私はよく分かる。
猪木自身は、自分が何故、世間に届くスターに成れたのかを勘違いしている感がしてならない。
昭和の猪木や新日本プロレス、PRIDE、K-1、全てのブームを起こしたジャンルは、実はアントニオ猪木の環状線理論や亀田的なものとは全く正反対の方法によって、逆に、世間も巻き込んだブームを引き起こした。
次回からそれはどういう事かを記していく。
(続く)
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プロレスから無くなった非言語の世界
難波から新世界まで
私の憧れる最高に格好よい男と私の神様
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私が高校生くらいまでは、一般的な歌謡歌手以外は、極力テレビの出演を避ける傾向が強かった。
今以上に、国民の娯楽の選択肢も少なく、テレビの影響が大きかった時代において、テレビに出ない歌手たちは、それでもコンサートでの動員や、レコードの売り上げで、テレビに出る歌手たちを圧倒し続けた。
私が理解出来なかったのは何故テレビに出なかったかという事だ。
単純に露出を控える意味合いがあったのかも知れないが、それでもラジオ等には積極的に出演していた歌手が多かったような気がする。
テレビという媒体は、特に以前は、基本的に最大公約数の人が観る媒体である。
逆にテレビに映し出される以上、最大公約数である一般層の人たちも取り込む必要もある為、元々のパフォーマンスレベルを分かりやすく低めに設定する必要が出てくる。
その媒体で、最大公約数の一般層に合わせる事無く、やや高レベルでマニアックな自分のペースを貫こうと思えば、自分の立ち位地のみでの活動に専念する方が良かった時代なのである。
(実はプロレスの誕生はその事と大きく関係してるのだが、それは違う機会に記していく。)
現在では、テレビという媒体そのものが、かつてほどの最大公約数向けでない事。要するに多種多様に細分化された娯楽の選択肢の一つと成ってきつつある事。
そして、テレビを通じて音楽番組を観る視聴者の目も越えてきた事で、以前ほどテレビを敬遠する歌手は減ってきているようだ。
それでも私が印象に残っているのは、かつてPRIDEの人気上昇時、榊原社長がテレビ放送に対して、かなり慎重になっていた事である。
当時の榊原社長のインタビューからは、PRIDEがテレビ中継される事での過度の露出や最大公約数向けジャンルに成る事での質の低下を警戒する事を匂わす発言が私也には読み取れた。
しかし残念な事に、イベント運営だけでは成り立たない経営は、テレビの放映料に頼らざるを得なくなり、かつ、頼った時点で、打ち切りにされるという皮肉な結果に成ってしまった。
逆に、最大公約数向けの一般層への分かりやすさを追求する為に、徹底して、視聴者に提示するパフォーマンスレベルを引き下げたのが、亀田であろう。
マニア層を核にする事無く、いきなり、より外側の世界に対してのみアピールする、ジャンルの核なき空洞化によって、多くのファンの目を振り向かせた所で、中身の無い、品質の低いものへの視聴者の飽きはブーム以上に短い一過性のものである。
アントニオ猪木の環状線理論も同じである。
奇をてらった一過性の話題を世間に対して発信する時の猪木は、迷走している時期だと、まず長年ファンである私はよく分かる。
猪木自身は、自分が何故、世間に届くスターに成れたのかを勘違いしている感がしてならない。
昭和の猪木や新日本プロレス、PRIDE、K-1、全てのブームを起こしたジャンルは、実はアントニオ猪木の環状線理論や亀田的なものとは全く正反対の方法によって、逆に、世間も巻き込んだブームを引き起こした。
次回からそれはどういう事かを記していく。
(続く)
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2008年03月14日
橋下知事よ、しっかりしてや。
私は橋下知事のような、市井の世界を知らなそうな若い男に知事を託そうと思った事は無い。
票も入れなかったし、支持する必要も無い。
それでも、大阪府庁という伏魔殿を相手に改革を進めようとする知事にはエールを送りたい。
私も仕事柄、大阪府庁にはよく出向く。
来訪者には禁煙といいながら、自分たちは右手から煙草の煙を出しながら、失礼な態度で接客するような、何の社会性も無い、机上だけの高学歴者たちの集団である。
いくら死ぬほど努力して、今の職についたところで、所詮、死ぬほど努力した貯金が底をつくのも三年あれば充分だ。
努力の貯金の底のついた役人たちの、死んだような表情をしている人たちの多さに、私は心底、大阪府庁に出向く時、ここはお化け屋敷かと思う。
だからこそ橋下知事の苦労はよく理解できる。
しかし、何故、若い部下に「貴方」などど言われて、動揺する必要があるのか?
どこの世界に年長の上司を「貴方」という世界があるのか?
こんな事を思うのは私だけと思っていたら、帰りに読んだ大スポに似たような意見が掲載されていた。
知事よ、もっとデーンと構えててな。
もっと子供のような怒り方したらええねん。
しっかりせいや。
頼むから。
票も入れなかったし、支持する必要も無い。
それでも、大阪府庁という伏魔殿を相手に改革を進めようとする知事にはエールを送りたい。
私も仕事柄、大阪府庁にはよく出向く。
来訪者には禁煙といいながら、自分たちは右手から煙草の煙を出しながら、失礼な態度で接客するような、何の社会性も無い、机上だけの高学歴者たちの集団である。
いくら死ぬほど努力して、今の職についたところで、所詮、死ぬほど努力した貯金が底をつくのも三年あれば充分だ。
努力の貯金の底のついた役人たちの、死んだような表情をしている人たちの多さに、私は心底、大阪府庁に出向く時、ここはお化け屋敷かと思う。
だからこそ橋下知事の苦労はよく理解できる。
しかし、何故、若い部下に「貴方」などど言われて、動揺する必要があるのか?
どこの世界に年長の上司を「貴方」という世界があるのか?
こんな事を思うのは私だけと思っていたら、帰りに読んだ大スポに似たような意見が掲載されていた。
知事よ、もっとデーンと構えててな。
もっと子供のような怒り方したらええねん。
しっかりせいや。
頼むから。
昭和のプロレスと平成の格闘技ブームの原因と教訓・1
アントニオ猪木の環状線理論というものがある。
ジャンルの核のファンばかりだけではなく、より外側のファンに対して話題を提供し、世間の人を振り向かせようと言う考えだ。
しかし、私は、アントニオ猪木が環状線理論を求めた場合の行動の殆どは、実は猪木自身の迷走と失敗の原因にもなってきたとも考えている。
アントニオ猪木は自分自身が何故、世間の人を振り向かせる事が出来たかを、知っていないのだ。
猪木は猪木自身の唱える環状線理論で世間の人からの認知と人気を得たわけでは決して無い。
なのに、何を勘違いしたのか、いたずらな、環状線理論に頼り、結果、猪木自身の「アントニオ猪木」というジャンルとしての核を失い、空洞化を招いてきた事が多々あった。
今後、ブームを経験したプロレスと総合格闘技が、夢をもう一度として、環状線理論に基づいた世間へのアピールを続ければ、ジャンルはますます衰退するはずである。
そういう方法でブーム等呼び込めない。
第一、もうブーム等いらないのだ。
かといってムラ化したジャンルと成ってしまっても、新規のファンの取り込みは出来ない。
しかし成熟したジャンルには、成熟したジャンル也の、新しいファンの取り込み方があるはずである。
なのに、ブームの幻影を未だに追い続け、かつ、ブームが何故、起こったのかを団体側も考察していないような気がしてならない。
何故、昭和のプロレスと、そして平成の総合格闘技は世間にブームを巻き起こしたのか?
少なくとも環状線理論によってもたらされたブームでは無かった事は確かだ。
私はK-1には疎いが、K-1も含め、プロレスや格闘技が、世間に対してのブームを巻き起こした原因を私也に考え記していきたいと思う。
(続く)
格闘技プロレスと皆が一言で片付けるので、格闘技プロレスを分類してみました
プロレスから無くなった非言語の世界
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ジャンルの核のファンばかりだけではなく、より外側のファンに対して話題を提供し、世間の人を振り向かせようと言う考えだ。
しかし、私は、アントニオ猪木が環状線理論を求めた場合の行動の殆どは、実は猪木自身の迷走と失敗の原因にもなってきたとも考えている。
アントニオ猪木は自分自身が何故、世間の人を振り向かせる事が出来たかを、知っていないのだ。
猪木は猪木自身の唱える環状線理論で世間の人からの認知と人気を得たわけでは決して無い。
なのに、何を勘違いしたのか、いたずらな、環状線理論に頼り、結果、猪木自身の「アントニオ猪木」というジャンルとしての核を失い、空洞化を招いてきた事が多々あった。
今後、ブームを経験したプロレスと総合格闘技が、夢をもう一度として、環状線理論に基づいた世間へのアピールを続ければ、ジャンルはますます衰退するはずである。
そういう方法でブーム等呼び込めない。
第一、もうブーム等いらないのだ。
かといってムラ化したジャンルと成ってしまっても、新規のファンの取り込みは出来ない。
しかし成熟したジャンルには、成熟したジャンル也の、新しいファンの取り込み方があるはずである。
なのに、ブームの幻影を未だに追い続け、かつ、ブームが何故、起こったのかを団体側も考察していないような気がしてならない。
何故、昭和のプロレスと、そして平成の総合格闘技は世間にブームを巻き起こしたのか?
少なくとも環状線理論によってもたらされたブームでは無かった事は確かだ。
私はK-1には疎いが、K-1も含め、プロレスや格闘技が、世間に対してのブームを巻き起こした原因を私也に考え記していきたいと思う。
(続く)
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プロレスから無くなった非言語の世界
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2008年03月11日
プロレスから無くなった非言語の世界
私の仕事は非言語コミュニケーションを使わなければ成り立たない仕事だ。
どうしても社会的に弱者といわれる人たちとの相談業務の中では、その人たちが言葉に出す形だけに対してのみ、対話をしていっても本質等何も見えないからだ。
声の抑揚、身振り、表情、周りの風景、要するに言葉以外の相手のメッセージを受信する事が重要なのだ。
もっとも私には、まだまだ、その受信能力は足らないが。
私が分からないのは、ある大手スーパーの店員たちの物言いだ。
物凄く綺麗な言葉、完璧な日本語で、対応しながらも、その声には何の抑揚も無い。
綺麗な言葉であっても機械的で無機的な言葉は、相手の為ではなく、自分の業務の効率化の為でしかないのであろう。
いくら綺麗な言葉を使った所で、それが、相手の為の言葉でない事を多くの人は知っているのに、当の本人たちは知らないのだ。
そういう人たちに、非言語コミュニケーションの理解等出来はしないであろう。
昔のプロレスは非言語コミュニケーションの最たる娯楽ジャンルであった。
プロレスとは説明不足であるのが当たり前である。
昔のプロレスに活字など少ししか無かった。
プロレスの活字とは分かりやすい試合展開と、分かりやすい大技である。
しかし昔のプロレスは、明らかに、そういう活字は少なく、説明不足だったので、私たちは、行間を読むまでしないと、プロレスの理解等出来はしなかったのだ。
プロレスが上手いと評価される今のレスラーの多くは、論文を書くのが上手だ。
しかし昔のように、小説やエッセイをかけるようなプロレスラーは少なくなってしまった。
説明不足で、後は受け手の非言語コミニュケーションの感性に任せるしか無かった時代とは大きく異なる今のプロレスの風景である。
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どうしても社会的に弱者といわれる人たちとの相談業務の中では、その人たちが言葉に出す形だけに対してのみ、対話をしていっても本質等何も見えないからだ。
声の抑揚、身振り、表情、周りの風景、要するに言葉以外の相手のメッセージを受信する事が重要なのだ。
もっとも私には、まだまだ、その受信能力は足らないが。
私が分からないのは、ある大手スーパーの店員たちの物言いだ。
物凄く綺麗な言葉、完璧な日本語で、対応しながらも、その声には何の抑揚も無い。
綺麗な言葉であっても機械的で無機的な言葉は、相手の為ではなく、自分の業務の効率化の為でしかないのであろう。
いくら綺麗な言葉を使った所で、それが、相手の為の言葉でない事を多くの人は知っているのに、当の本人たちは知らないのだ。
そういう人たちに、非言語コミュニケーションの理解等出来はしないであろう。
昔のプロレスは非言語コミュニケーションの最たる娯楽ジャンルであった。
プロレスとは説明不足であるのが当たり前である。
昔のプロレスに活字など少ししか無かった。
プロレスの活字とは分かりやすい試合展開と、分かりやすい大技である。
しかし昔のプロレスは、明らかに、そういう活字は少なく、説明不足だったので、私たちは、行間を読むまでしないと、プロレスの理解等出来はしなかったのだ。
プロレスが上手いと評価される今のレスラーの多くは、論文を書くのが上手だ。
しかし昔のように、小説やエッセイをかけるようなプロレスラーは少なくなってしまった。
説明不足で、後は受け手の非言語コミニュケーションの感性に任せるしか無かった時代とは大きく異なる今のプロレスの風景である。
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2008年03月10日
船木誠勝に「リラックス」は必要か?
私は日々の生活の中で呼吸をよく行っています。
ヒクソン・グレイシーのような仰々しいものでは無く、生活の中で、自転車に乗ったり、机に向かっているときに、何気に深い腹式呼吸をすると頭に酸素が行き通る気がします。
また吐く息を調節する事は、意外な消費効果があるようなので、かなり体重が落ちますよ。
もし競技歴の浅い人で試合前緊張して仕方ないという人がおられたら、短い呼吸を速いペースでこなしてください。
具体的には、スッハ。スッハ。という感じで、吐く息をやや短めに、頭の中が酸欠気味になるまでやって見ます。
そうすると緊張する余裕もなく、頭の中は真っ白になるはずです。
その後、今度は逆にゆっくりと吐く息の長い静かな深い呼吸を行います。
酸欠になった頭に新しく酸素を入れるのです。
真っ白になった頭に、再び酸素を入れると、今度は頭がクリアになった後も、緊張は取れているものです。
まあ、しっかりとした専門書を読んでやってもらうのが一番ですが…。
あるいは、テレビで懐かしいぼんちのおさむがやっていたように身体中に力を入れてください。
緊張している心以上に、自ら、自分の身体を緊張させるのです。
その後、深く長い息と共に全身の力を取ります。
正式には腕や足など一つ一つのパーツからやっていくのが正しいのですが、これだけでも緊張はかなり取れます。
緊張を逆手にとって、最大の緊張を自分に経験させておくのです。
こちらは筋弛緩法といって専門的なことは本でも読んでもください。
リラックスの方法は無数にあります。
かつて人間にとって一番のストレスは猛獣に襲われることの恐怖でした。
猛獣に襲われたとき、基本的に人間の身体は怖いものと直面したとき、緊張して毛細血管の収縮から血圧の上昇を招きます。噛まれ出血多量で死ぬことを防ぐ為です。
同時に全身に急いで血液を送る為に心臓をフル稼働させ、かつ、酸素も取り入れる為に呼吸も早くなります。
緊張する人は自分の試合前とそっくりなことに気づくでしょう。
では緊張は全くいけない事かというと、そうでもない気がします。
自らの緊張を能動的にリラクセーションでコントロールした後、今度は適度なサイキングアップで闘う心を上乗せします。
私が心配しているのはヒクソン戦からの船木の試合時の表情です。
緊張から自らを守る為に、リラックスにこだわるのは良いのですが、仕上げとしてのサイキングアップの作業をやっていないのではないかと思えてしまうのです。
それがあの何故か覇気の無い、ヒクソン戦以後の試合中の船木の柔和な表情に表れているような気がします。
かつての緊張の塊のような船木は物凄い覇気のある表情をしていました。
スポーツ心理学的にはもっとリラックスを声をかけたいくらいの船木のほうが、実は、潜在能力を発揮できるのではないかと私は思っています。
船木誠勝よ、我らの青春を取り戻せ!
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ヒクソン・グレイシーのような仰々しいものでは無く、生活の中で、自転車に乗ったり、机に向かっているときに、何気に深い腹式呼吸をすると頭に酸素が行き通る気がします。
また吐く息を調節する事は、意外な消費効果があるようなので、かなり体重が落ちますよ。
もし競技歴の浅い人で試合前緊張して仕方ないという人がおられたら、短い呼吸を速いペースでこなしてください。
具体的には、スッハ。スッハ。という感じで、吐く息をやや短めに、頭の中が酸欠気味になるまでやって見ます。
そうすると緊張する余裕もなく、頭の中は真っ白になるはずです。
その後、今度は逆にゆっくりと吐く息の長い静かな深い呼吸を行います。
酸欠になった頭に新しく酸素を入れるのです。
真っ白になった頭に、再び酸素を入れると、今度は頭がクリアになった後も、緊張は取れているものです。
まあ、しっかりとした専門書を読んでやってもらうのが一番ですが…。
あるいは、テレビで懐かしいぼんちのおさむがやっていたように身体中に力を入れてください。
緊張している心以上に、自ら、自分の身体を緊張させるのです。
その後、深く長い息と共に全身の力を取ります。
正式には腕や足など一つ一つのパーツからやっていくのが正しいのですが、これだけでも緊張はかなり取れます。
緊張を逆手にとって、最大の緊張を自分に経験させておくのです。
こちらは筋弛緩法といって専門的なことは本でも読んでもください。
リラックスの方法は無数にあります。
かつて人間にとって一番のストレスは猛獣に襲われることの恐怖でした。
猛獣に襲われたとき、基本的に人間の身体は怖いものと直面したとき、緊張して毛細血管の収縮から血圧の上昇を招きます。噛まれ出血多量で死ぬことを防ぐ為です。
同時に全身に急いで血液を送る為に心臓をフル稼働させ、かつ、酸素も取り入れる為に呼吸も早くなります。
緊張する人は自分の試合前とそっくりなことに気づくでしょう。
では緊張は全くいけない事かというと、そうでもない気がします。
自らの緊張を能動的にリラクセーションでコントロールした後、今度は適度なサイキングアップで闘う心を上乗せします。
私が心配しているのはヒクソン戦からの船木の試合時の表情です。
緊張から自らを守る為に、リラックスにこだわるのは良いのですが、仕上げとしてのサイキングアップの作業をやっていないのではないかと思えてしまうのです。
それがあの何故か覇気の無い、ヒクソン戦以後の試合中の船木の柔和な表情に表れているような気がします。
かつての緊張の塊のような船木は物凄い覇気のある表情をしていました。
スポーツ心理学的にはもっとリラックスを声をかけたいくらいの船木のほうが、実は、潜在能力を発揮できるのではないかと私は思っています。
船木誠勝よ、我らの青春を取り戻せ!
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2008年03月09日
キャッチ・レスリングの本質
今、四十の手習いでキャッチ・レスリングの発展系であるカレッジスタイルを始めています。
私が25年間やってきた日本のアマチュア・レスリングとは異なる異質のレスリングの技術です。
打撃をもう少し細かくやりたいと思っていたのですが、餅は餅屋で、年齢的な事もあり、今はグラップリングだけに専念したいかなとは思っています。
ご存知の方も多いのですが、キャッチレスリングはイギリスで生まれアメリカに渡り、カレッジレスリングつまりフォークスタイルの元となりました。
その時に大幅に、関節技は削られましたが、その技術体系はキャッチレスリングの流れを汲む回転体そのものです。
そのカレッジスタイルは相手にガードを取らせず、いきなりサイドを取れるテイクダウン技術を多く要しているので、総合向けとも云えます。
柳沢健さんと話をした時も、全く同意しましたが、ゴッチさんのテイクダウンした後の技術だけをマスターしたUWF勢が、それだけの技術でゴッチさんの後継者を名乗り、結果、破れた事はゴッチスタイルの敗北と云われた事は大変残念な事でした。
キャッチ・レスリングの技術はレスリングのポジショニングの完璧さと、その位置からの決めの技術が一体化された、私の心の中の最強格闘技です。
私のようなほんの少しだけ腕関節と首関節を知っている人間にとって、必ずカレッジスタイルの技術は有意義な技術になると信じています。
プロレスファンの私が来年、必ずその技術の有効性を証明してみせます。
証明出来なかったらごめんね。
船木誠勝よ、我らの青春を取り戻せ!
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私が25年間やってきた日本のアマチュア・レスリングとは異なる異質のレスリングの技術です。
打撃をもう少し細かくやりたいと思っていたのですが、餅は餅屋で、年齢的な事もあり、今はグラップリングだけに専念したいかなとは思っています。
ご存知の方も多いのですが、キャッチレスリングはイギリスで生まれアメリカに渡り、カレッジレスリングつまりフォークスタイルの元となりました。
その時に大幅に、関節技は削られましたが、その技術体系はキャッチレスリングの流れを汲む回転体そのものです。
そのカレッジスタイルは相手にガードを取らせず、いきなりサイドを取れるテイクダウン技術を多く要しているので、総合向けとも云えます。
柳沢健さんと話をした時も、全く同意しましたが、ゴッチさんのテイクダウンした後の技術だけをマスターしたUWF勢が、それだけの技術でゴッチさんの後継者を名乗り、結果、破れた事はゴッチスタイルの敗北と云われた事は大変残念な事でした。
キャッチ・レスリングの技術はレスリングのポジショニングの完璧さと、その位置からの決めの技術が一体化された、私の心の中の最強格闘技です。
私のようなほんの少しだけ腕関節と首関節を知っている人間にとって、必ずカレッジスタイルの技術は有意義な技術になると信じています。
プロレスファンの私が来年、必ずその技術の有効性を証明してみせます。
証明出来なかったらごめんね。
船木誠勝よ、我らの青春を取り戻せ!
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2008年03月08日
船木誠勝よ、我らの青春を取り戻せ!
私は子供の頃、マジンガーZを見ていた世代である。
当然、主人公の兜甲児に感情移入し、ヒーローとしての憧れを持った世代でもある。
しかし数年後、後発シリーズの「グレンダイザー」にドジなだけの脇役として兜甲児がレギュラー出演していた時は物凄いショックな事であった。
何故、英雄を信じる子供たちに酷な設定を制作側は行なうのか私は子供心に悲しい気持ちを覚えた。
まさか、あれから三十数年経って同じように気持ちになるとは思わなかった。
当然、船木誠勝の事である。
私は昭和42年生まれである。
私の世代のプロレスファンにとって船木誠勝の存在はアンチも含めて特別な衝撃と薫習の対象であったはずである。
私は船木を見て、アマチュア競技や実人生で闘う勇気をもらってきた。
船木誠勝が追い込まれて闘う姿を見て、船木の抱える精神的重圧と自身のそれを比較し、気楽に闘えた。
自分より一学年年下の船木が悲壮な表情で、重圧の中で闘う姿を見続けて来れた事は私にとって、本当に幸せな事であった。
私が忘れられないのは鈴木みのると初めてリアルに闘った船木の暗さである。
何故、そこまで自分を追い込まなければいけないのか不思議な表情でリングで闘った船木の姿は、器用な人間の織りなす成功哲学の世界とは全く異なる世界でもあった。
モーリス・スミスとの闘いでは、絶対に怯まなかった。
ダウンし、覚悟を決めた船木は、アマチュアレスリングをやっているだけの私のような人間には絶対の真似の出来ない「気持ち満点」のタックルでスミスを粉砕した。
船木の気持ちが技術を凌駕したのだ。
山田との闘いでは、悔しさから、さっさとリングを降り立った。
私が見た最高の漢の格好よい姿であった。
ルッテンとの闘いでは、少し怯んだ。
しかし、耐久力としてのプロレスラーの気持ちの強さを見せつけてくれた。
船木誠勝という男は我々の世代のカリスマである。
その船木が、今の格闘技界で、グレンダイザーに脇役として復活した兜甲児のような存在でしかない。
船木が変わったのは、フォンデス・ブラガ戦からだ。
おそらく菊田との出会い辺りからであろう。
自身の井の中の蛙ぶりを菊田との出会いで知った船木は、それまでの悲壮な覚悟や強気を捨て去った。
等身大の船木の始まりであった。
ヒクソン戦、桜庭戦、船木は等身大の自分を知りながら、緊張とはかけ離れた世界で、自分への精神的負荷を軽減出来るかだけに労力を費やした。
闘う事を忘れたかのような船木の表情が私は悲しい。
船木の魅力は、緊張する、気負う、それでも覚悟を決めて闘う船木なのである。
また、それによって恐ろしい潜在能力を発揮する男なのでもある。
そこに勝ち負けは関係ないのだ。
柔術家にいくら決められたって良い。
それでも自分の中学卒業時からの業の歴史を持って闘ってきたのが、船木誠勝という男のプロとしての最高の魅力なのである。
船木の現役復帰期間等、後数年の事である。
悲壮な決意に勝利の女神は微笑まない事は、心理学の常識である。
しかし私は後少し、悲壮な船木の決意を見たい。
負けたって良い。
少なくとも、等身大の船木の悟ったような表情よりは、多くの人々に勇気を与える船木の覚悟を決めた気負った気持ちをもう一度見たい。
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当然、主人公の兜甲児に感情移入し、ヒーローとしての憧れを持った世代でもある。
しかし数年後、後発シリーズの「グレンダイザー」にドジなだけの脇役として兜甲児がレギュラー出演していた時は物凄いショックな事であった。
何故、英雄を信じる子供たちに酷な設定を制作側は行なうのか私は子供心に悲しい気持ちを覚えた。
まさか、あれから三十数年経って同じように気持ちになるとは思わなかった。
当然、船木誠勝の事である。
私は昭和42年生まれである。
私の世代のプロレスファンにとって船木誠勝の存在はアンチも含めて特別な衝撃と薫習の対象であったはずである。
私は船木を見て、アマチュア競技や実人生で闘う勇気をもらってきた。
船木誠勝が追い込まれて闘う姿を見て、船木の抱える精神的重圧と自身のそれを比較し、気楽に闘えた。
自分より一学年年下の船木が悲壮な表情で、重圧の中で闘う姿を見続けて来れた事は私にとって、本当に幸せな事であった。
私が忘れられないのは鈴木みのると初めてリアルに闘った船木の暗さである。
何故、そこまで自分を追い込まなければいけないのか不思議な表情でリングで闘った船木の姿は、器用な人間の織りなす成功哲学の世界とは全く異なる世界でもあった。
モーリス・スミスとの闘いでは、絶対に怯まなかった。
ダウンし、覚悟を決めた船木は、アマチュアレスリングをやっているだけの私のような人間には絶対の真似の出来ない「気持ち満点」のタックルでスミスを粉砕した。
船木の気持ちが技術を凌駕したのだ。
山田との闘いでは、悔しさから、さっさとリングを降り立った。
私が見た最高の漢の格好よい姿であった。
ルッテンとの闘いでは、少し怯んだ。
しかし、耐久力としてのプロレスラーの気持ちの強さを見せつけてくれた。
船木誠勝という男は我々の世代のカリスマである。
その船木が、今の格闘技界で、グレンダイザーに脇役として復活した兜甲児のような存在でしかない。
船木が変わったのは、フォンデス・ブラガ戦からだ。
おそらく菊田との出会い辺りからであろう。
自身の井の中の蛙ぶりを菊田との出会いで知った船木は、それまでの悲壮な覚悟や強気を捨て去った。
等身大の船木の始まりであった。
ヒクソン戦、桜庭戦、船木は等身大の自分を知りながら、緊張とはかけ離れた世界で、自分への精神的負荷を軽減出来るかだけに労力を費やした。
闘う事を忘れたかのような船木の表情が私は悲しい。
船木の魅力は、緊張する、気負う、それでも覚悟を決めて闘う船木なのである。
また、それによって恐ろしい潜在能力を発揮する男なのでもある。
そこに勝ち負けは関係ないのだ。
柔術家にいくら決められたって良い。
それでも自分の中学卒業時からの業の歴史を持って闘ってきたのが、船木誠勝という男のプロとしての最高の魅力なのである。
船木の現役復帰期間等、後数年の事である。
悲壮な決意に勝利の女神は微笑まない事は、心理学の常識である。
しかし私は後少し、悲壮な船木の決意を見たい。
負けたって良い。
少なくとも、等身大の船木の悟ったような表情よりは、多くの人々に勇気を与える船木の覚悟を決めた気負った気持ちをもう一度見たい。
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スポーツ選手、格闘家の追い込まれたメンタルについて
OMASUKIFIGHT様に大変、興味深い記事がありました。
多くの人が見逃してしまいがちな格闘家のメンタル面について記された貴重な記事であると思います。
私は仕事上、様々なうつ症状を持った人と接する事が多く、うつの症状を抱えた人たちの精神状態については浅くながらも理解しているつもりです。
また、私自身、うつになった事はありませんが、アマチュアレベルで格闘技を経験していった中で思うのは、格闘技ひいてはスポーツに集中して取り組みすぎると、大変うつの症状を発生しやすい要因になる事もあると考えています。
過剰にスポーツの世界で勝敗にこだわりすぎると、極度のアドレナリンやノルアドレナリン系のホルモンに包まれた生活を強いられてしまいます。
結果という目に見えない物に対しての不安や、対戦相手への恐怖、心身ともに緊張を強いられた生活が極度なレベルで長く続くと、どのようなスポーツ選手もある程度は心のバランスを崩すものだと思います。
ただ、その中でも、少なくとも試合という目標がある中では、文字通り、気力を振り絞っての日々を遂行しますが、試合を終えた後のバーンアウト状態の隙間にも、出やすい精神的な異変というのはあるかと思います。
私も試合前、安定剤に頼りたいと思うような強い不安に襲われた時もありました。
また、バーンアウト後は、何をするにも気力が無くなり、また気力が無い自分に対して、自己嫌悪に包まれ、極度な劣等感に包まれてしまいました。
ただし私的な意見ですか、スポーツ選手は基本的に、心の不調の際に、薬物に頼るべきではないと強く考えています。
スポーツ選手は、過度のストレスの中で、精神的に不安定に陥りやすい環境の中で過ごしやすいのですが、逆に、そういった環境の中でのセルフコントロール法を身につける良い機会も得ているからです。
調子の悪い時は、思い切って練習の量を大いに下げる事が必要だと思います。
ストレスレベルの低い軽度の運動や、呼吸の調整は、セロトニンやエンドルフィンを自ら分泌させます。
また日常での思考と感情の区別、呼吸法、筋弛緩法等によって、競技レベルでスポーツをする上での過度のストレスから心は防げます。
日本の精神科、神経科、心療内科の治療は薬物療法が基本となっています。
現在の薬は副作用が少なく、基本的に医者の指示に従う事は大切だと思っています。
しかし、服薬だけに依存しすぎると、副作用云々よりも、能動的に投薬と同じ効果を得られるセルフ・コントロールへの努力を怠る事につながってしまうのではないかと私は考えています。
うつは心の風邪とも云いますが、風邪なら、子供でも、風邪予防の知識や、風邪になった時の対処法などは基本として知っているものです。
なのに心の風邪になりやすい、すなわち心に変調を起こしやすいスポーツという環境の中にいるにも関わらず、多くの選手たちは全く予防知識を持っていないのです。
私の考えですが、スポーツをしていて単純に精神力が鍛えられるという事は無いと考えています。
スポーツを経験する上でのメリットは、自己のメンタルと振り向き合う事で、自分の恐怖や不安といった感情をコントロールできる機会と術を得られる事ではないでしょうか?
つまり過度のストレスの中で生き抜く心のコントロール法こそスポーツで得られ、そして後の実生活で行かせるメリットなのです。
なのに、心の不調時に、いたずらに薬物あるいは宗教にばかり依存する事は(それらを否定しているのではなく)非常に勿体無い事だと私は思います。
その為にも、自分の心を守る為にも、スポーツ心理学の基礎知識は、今のスポーツ選手にとっては必須であると思います。
はっきりいって格闘技雑誌にしろ、流行の技術特集や身体作りの記事は書いても、格闘家に本当に必要なメンタルコントロール、セルフコントロールといった「基礎知識」には全く触れる事はありません。
そういう意味でOMASUKIFIGHT様の記事は、格闘家が陥りやすい、うつ状態について初めて記された貴重な記事だと思っています。
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多くの人が見逃してしまいがちな格闘家のメンタル面について記された貴重な記事であると思います。
私は仕事上、様々なうつ症状を持った人と接する事が多く、うつの症状を抱えた人たちの精神状態については浅くながらも理解しているつもりです。
また、私自身、うつになった事はありませんが、アマチュアレベルで格闘技を経験していった中で思うのは、格闘技ひいてはスポーツに集中して取り組みすぎると、大変うつの症状を発生しやすい要因になる事もあると考えています。
過剰にスポーツの世界で勝敗にこだわりすぎると、極度のアドレナリンやノルアドレナリン系のホルモンに包まれた生活を強いられてしまいます。
結果という目に見えない物に対しての不安や、対戦相手への恐怖、心身ともに緊張を強いられた生活が極度なレベルで長く続くと、どのようなスポーツ選手もある程度は心のバランスを崩すものだと思います。
ただ、その中でも、少なくとも試合という目標がある中では、文字通り、気力を振り絞っての日々を遂行しますが、試合を終えた後のバーンアウト状態の隙間にも、出やすい精神的な異変というのはあるかと思います。
私も試合前、安定剤に頼りたいと思うような強い不安に襲われた時もありました。
また、バーンアウト後は、何をするにも気力が無くなり、また気力が無い自分に対して、自己嫌悪に包まれ、極度な劣等感に包まれてしまいました。
ただし私的な意見ですか、スポーツ選手は基本的に、心の不調の際に、薬物に頼るべきではないと強く考えています。
スポーツ選手は、過度のストレスの中で、精神的に不安定に陥りやすい環境の中で過ごしやすいのですが、逆に、そういった環境の中でのセルフコントロール法を身につける良い機会も得ているからです。
調子の悪い時は、思い切って練習の量を大いに下げる事が必要だと思います。
ストレスレベルの低い軽度の運動や、呼吸の調整は、セロトニンやエンドルフィンを自ら分泌させます。
また日常での思考と感情の区別、呼吸法、筋弛緩法等によって、競技レベルでスポーツをする上での過度のストレスから心は防げます。
日本の精神科、神経科、心療内科の治療は薬物療法が基本となっています。
現在の薬は副作用が少なく、基本的に医者の指示に従う事は大切だと思っています。
しかし、服薬だけに依存しすぎると、副作用云々よりも、能動的に投薬と同じ効果を得られるセルフ・コントロールへの努力を怠る事につながってしまうのではないかと私は考えています。
うつは心の風邪とも云いますが、風邪なら、子供でも、風邪予防の知識や、風邪になった時の対処法などは基本として知っているものです。
なのに心の風邪になりやすい、すなわち心に変調を起こしやすいスポーツという環境の中にいるにも関わらず、多くの選手たちは全く予防知識を持っていないのです。
私の考えですが、スポーツをしていて単純に精神力が鍛えられるという事は無いと考えています。
スポーツを経験する上でのメリットは、自己のメンタルと振り向き合う事で、自分の恐怖や不安といった感情をコントロールできる機会と術を得られる事ではないでしょうか?
つまり過度のストレスの中で生き抜く心のコントロール法こそスポーツで得られ、そして後の実生活で行かせるメリットなのです。
なのに、心の不調時に、いたずらに薬物あるいは宗教にばかり依存する事は(それらを否定しているのではなく)非常に勿体無い事だと私は思います。
その為にも、自分の心を守る為にも、スポーツ心理学の基礎知識は、今のスポーツ選手にとっては必須であると思います。
はっきりいって格闘技雑誌にしろ、流行の技術特集や身体作りの記事は書いても、格闘家に本当に必要なメンタルコントロール、セルフコントロールといった「基礎知識」には全く触れる事はありません。
そういう意味でOMASUKIFIGHT様の記事は、格闘家が陥りやすい、うつ状態について初めて記された貴重な記事だと思っています。
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2008年03月06日
田村よ、吉田秀彦にリベンジせよ。
吉田秀彦ほど、公の場でプロレスに対して、嘲笑的なコメントを何気に連発する男もいない。
決してプロレスファンからすれば、好意の持てる男ではないであろうが、実は吉田はプロレスを好きなのではないかという気持ちもしている。
かつて猪木対アリの検証番組に招かれた吉田は、今と技術レベルの比べようも無いその試合に対して、自分の頭の中から必死に謙虚で誠実なコメントを搾り出そうとしていた。
建前と本音の違いが分かる男であるからこそ、建前ではプロレスを悪く言わないのに、つい要所要所で、プロレスに対しての本音がぽろっと出てしまうのであろう。
その本音の部分も、きっとプロレスに対して敵意をもっての事ではないはずである。
吉田にとってプロレスなど敵意を持つべき対象でもないはずである。
おそらく別世界の住人に対してのリスペクトも持っているはずである。
しかし、それは、あくまで自分と別世界のという意味であるはずだ。
かつて新日本の東京ドームで、リング上の長机の上に寝かせた相手に対して、コーナー上からダイブ技が敢行された。
机は真っ二つに割れ、会場はどよめいた。
その時、テレビ画面に観戦する吉田の顔が映った。
私はその時の吉田の表情を忘れられない。
腹を抱えて大笑いしていたのである。
きっと公にテレビ解説席にでも呼ばれていたのなら、心の中の笑いも我慢し、通り一遍等の賞賛コメントでも出していたであろう。
しかし観客席で公から離れた場所で、吉田が見せたプロレスへの本心が、あの腹を抱えた大笑いに集約されているのである。
私は吉田の大笑いを見て複雑な気持ちになった。
激しい技を敢行しても、そこに笑いが起こるのは、笑われるプロレス界が悪いのか?
激しいプロレスシーンを見て、笑うだけしかない吉田の感性の問題なのか?
私的には、吉田に腹を抱えて笑われるプロレス側が情けないのだと強烈に思っている。
それでも私は、吉田についてはプロレスファンとして、あまり良い印象を持ってはいない。
しかし、それはプロレスに対して嘲笑したり、腹を抱えて大笑いする吉田の姿に対してではない。
私が吉田を好まないのは、自分の為、自分の仲間たちの為といった比較的小さな重荷しか抱えず闘っている男であるような気がするからだ。
ファンため、多くの人の為に闘う元祖であるプロレスラーたちとは反対の印象を感じたからこそ、吉田には少し無機的な冷たさを感じてしまったのだ。
それだけに私は田村が吉田に負けたことは物凄く残念なことであった。
ミルコに敗北する寸前、吉田は最後の気合を込め、大声を出した。
しかし、気合も敵わず、玉砕した。
田村も、吉田に最後の気合を込めさせるまで、吉田を追い詰めていたのである。
しかしミルコと違ったのは、田村は、吉田の気合に一瞬、身体が固まり、その後、腰が引けた事だ。
完全な気持ちの敗北であった。
K−1心中様
も記している通り、本来、吉田に完全勝利を果たすべきは、プロレスラーの役目である。
田村はそろそろ吉田へのリベンジを果たすべきであろう。
その場合は、勝利云々ではない。
せめて前回の様な吉田の気迫にたじろいだような醜態だけは見せず、吉田に対してプロレスラーの心の強さを見せ付けて欲しいと私は思っている。
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決してプロレスファンからすれば、好意の持てる男ではないであろうが、実は吉田はプロレスを好きなのではないかという気持ちもしている。
かつて猪木対アリの検証番組に招かれた吉田は、今と技術レベルの比べようも無いその試合に対して、自分の頭の中から必死に謙虚で誠実なコメントを搾り出そうとしていた。
建前と本音の違いが分かる男であるからこそ、建前ではプロレスを悪く言わないのに、つい要所要所で、プロレスに対しての本音がぽろっと出てしまうのであろう。
その本音の部分も、きっとプロレスに対して敵意をもっての事ではないはずである。
吉田にとってプロレスなど敵意を持つべき対象でもないはずである。
おそらく別世界の住人に対してのリスペクトも持っているはずである。
しかし、それは、あくまで自分と別世界のという意味であるはずだ。
かつて新日本の東京ドームで、リング上の長机の上に寝かせた相手に対して、コーナー上からダイブ技が敢行された。
机は真っ二つに割れ、会場はどよめいた。
その時、テレビ画面に観戦する吉田の顔が映った。
私はその時の吉田の表情を忘れられない。
腹を抱えて大笑いしていたのである。
きっと公にテレビ解説席にでも呼ばれていたのなら、心の中の笑いも我慢し、通り一遍等の賞賛コメントでも出していたであろう。
しかし観客席で公から離れた場所で、吉田が見せたプロレスへの本心が、あの腹を抱えた大笑いに集約されているのである。
私は吉田の大笑いを見て複雑な気持ちになった。
激しい技を敢行しても、そこに笑いが起こるのは、笑われるプロレス界が悪いのか?
激しいプロレスシーンを見て、笑うだけしかない吉田の感性の問題なのか?
私的には、吉田に腹を抱えて笑われるプロレス側が情けないのだと強烈に思っている。
それでも私は、吉田についてはプロレスファンとして、あまり良い印象を持ってはいない。
しかし、それはプロレスに対して嘲笑したり、腹を抱えて大笑いする吉田の姿に対してではない。
私が吉田を好まないのは、自分の為、自分の仲間たちの為といった比較的小さな重荷しか抱えず闘っている男であるような気がするからだ。
ファンため、多くの人の為に闘う元祖であるプロレスラーたちとは反対の印象を感じたからこそ、吉田には少し無機的な冷たさを感じてしまったのだ。
それだけに私は田村が吉田に負けたことは物凄く残念なことであった。
ミルコに敗北する寸前、吉田は最後の気合を込め、大声を出した。
しかし、気合も敵わず、玉砕した。
田村も、吉田に最後の気合を込めさせるまで、吉田を追い詰めていたのである。
しかしミルコと違ったのは、田村は、吉田の気合に一瞬、身体が固まり、その後、腰が引けた事だ。
完全な気持ちの敗北であった。
K−1心中様
も記している通り、本来、吉田に完全勝利を果たすべきは、プロレスラーの役目である。
田村はそろそろ吉田へのリベンジを果たすべきであろう。
その場合は、勝利云々ではない。
せめて前回の様な吉田の気迫にたじろいだような醜態だけは見せず、吉田に対してプロレスラーの心の強さを見せ付けて欲しいと私は思っている。
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2008年03月05日
三沢光晴に対して何も求めないプロレス
私はノアの試合を観る度、もういいだろうと云う気持ちになる。
プロレスというフェィクのジャンルに対して、真面目に対峙し、激しいプロレスを展開する姿は、ハッスルとは異なるプロレスに対しての誇りであり、ファンに対しての誠意でもある。
私はノアのプロレスラーたちを誇りに思う。
それらを重々承知して、私は記したいが、もうノアのプロレスを凄いと表現するのは辞めようではないかと提案したい。
このままでは、いつか死人が出る。
受け身の上手さを持って、大きな怪我を防いでいても、受け身の取り過ぎによって脊椎、頸椎に大きな後遺症を残す事は確かである。
また、最近の頭部への打撃技は、いくらプロレス的な技であっても、脳が揺れるに充分な衝撃がある。
怖いのは何発も連発する事だ。
小さな負荷の衝撃が、連日、脳に対して繰り返される。
しかも彼らはアルコールを飲むのである。
どれほど恐ろしい事であろう。
皆さんは、付き合う女性が、自分を喜ばせる為に、尽きぬ事の無い様々な奉仕を続ける事を喜ぶのであろうか?
その内、感謝への刺激と感覚が麻痺してくるであろう。
それが今のプロレスファンだ。
昔、大阪府立を満員にして登場した猪木は、カネック相手に、徹底的に自分の身体をいたわる味気ないファイトを繰り広げた。
カネック戦だけではない。
猪木の試合は後期、今の三沢の年齢の少し前くらいから、そういうものばかりであった。
プロレスブームのときには既に、猪木の身体はボロボロであったので、全盛期の闘いと同様のものを提示する事は出来なかったのだ。
それでも試合の激しさではなく、猪木の一挙手一投足を皆が凝視した。
ファンがアントニオ猪木に何も求めず、黙って応援し続けた時代であった。
少なくとも、昭和の猪木ファンは、ぼろぼろの猪木に激しい試合を求めたり等無かった。
後期の猪木を、逆にファンが、黙って応援する事で愛していたのである。
しかし今のプロレスファンはプロレスラーを愛しているのか?
私は甚だ疑問だ。
三沢の功績は猪木にも劣る事はないであろう。
しかし、何もしなくてもファンに愛されるべき三沢が、激しいプロレスを提示する事でファンを未だに愛しているのである。
激しい攻防を繰り広げようとする三沢に対して、三沢の身を案じブーイングを飛ばす。
三沢が省エネ的なファイトを繰り広げた所で、声援を送り続ける。
そういう、かつての馬場を応援したようなファンの世界等、今は無いのであろうか?
三沢は今はもうファンを喜ばせる段階のレスラーではない。
充分、愛されるだけのレベルにふさわしいプロレスラーである。
なのにファンたちは、三沢の愛すなわち激しさをまだ求め、その愛を確認しなければ愛せない、つまり声援を送れないのだ。
いつまで「激しいプロレス」という名の下、プロレスラーたちに奉仕させ続けるつもりであろう。
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プロレスというフェィクのジャンルに対して、真面目に対峙し、激しいプロレスを展開する姿は、ハッスルとは異なるプロレスに対しての誇りであり、ファンに対しての誠意でもある。
私はノアのプロレスラーたちを誇りに思う。
それらを重々承知して、私は記したいが、もうノアのプロレスを凄いと表現するのは辞めようではないかと提案したい。
このままでは、いつか死人が出る。
受け身の上手さを持って、大きな怪我を防いでいても、受け身の取り過ぎによって脊椎、頸椎に大きな後遺症を残す事は確かである。
また、最近の頭部への打撃技は、いくらプロレス的な技であっても、脳が揺れるに充分な衝撃がある。
怖いのは何発も連発する事だ。
小さな負荷の衝撃が、連日、脳に対して繰り返される。
しかも彼らはアルコールを飲むのである。
どれほど恐ろしい事であろう。
皆さんは、付き合う女性が、自分を喜ばせる為に、尽きぬ事の無い様々な奉仕を続ける事を喜ぶのであろうか?
その内、感謝への刺激と感覚が麻痺してくるであろう。
それが今のプロレスファンだ。
昔、大阪府立を満員にして登場した猪木は、カネック相手に、徹底的に自分の身体をいたわる味気ないファイトを繰り広げた。
カネック戦だけではない。
猪木の試合は後期、今の三沢の年齢の少し前くらいから、そういうものばかりであった。
プロレスブームのときには既に、猪木の身体はボロボロであったので、全盛期の闘いと同様のものを提示する事は出来なかったのだ。
それでも試合の激しさではなく、猪木の一挙手一投足を皆が凝視した。
ファンがアントニオ猪木に何も求めず、黙って応援し続けた時代であった。
少なくとも、昭和の猪木ファンは、ぼろぼろの猪木に激しい試合を求めたり等無かった。
後期の猪木を、逆にファンが、黙って応援する事で愛していたのである。
しかし今のプロレスファンはプロレスラーを愛しているのか?
私は甚だ疑問だ。
三沢の功績は猪木にも劣る事はないであろう。
しかし、何もしなくてもファンに愛されるべき三沢が、激しいプロレスを提示する事でファンを未だに愛しているのである。
激しい攻防を繰り広げようとする三沢に対して、三沢の身を案じブーイングを飛ばす。
三沢が省エネ的なファイトを繰り広げた所で、声援を送り続ける。
そういう、かつての馬場を応援したようなファンの世界等、今は無いのであろうか?
三沢は今はもうファンを喜ばせる段階のレスラーではない。
充分、愛されるだけのレベルにふさわしいプロレスラーである。
なのにファンたちは、三沢の愛すなわち激しさをまだ求め、その愛を確認しなければ愛せない、つまり声援を送れないのだ。
いつまで「激しいプロレス」という名の下、プロレスラーたちに奉仕させ続けるつもりであろう。
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2008年03月04日
何故、吉田秀彦は愛されないのか?
吉田は、日本人格闘家の中で類いまれなる体力と技術を要する男である。
また五輪の決勝レベルの試合を数多く経験してきた事で、実に、ハートの強い男でもある。
緊張に対して、恐怖に対して、自分の感情を操れる精神力の持ち主でもある。
しかし吉田がプロ選手として、その実力ほど、多くのファンから感情移入され愛されているとは云いがたい事も事実である。
というよりもプロ選手としてのカリスマ性とは程遠い選手でもある。
かつてリング上で、ファンに対してより先に、知り合いの歌手に向けて勝利の喜びを叫んだ吉田は完全なアマチュアのスポーツ選手であった。
ファンのためより、自分のプライドや承認欲求、仲間たちへの想い、そういったものが先に来るのなら、今後もファンに支持される事は無いであろう。
吉田に感じるのは、全く感情移入出来ないプロとしてのマイペースぶりだ。
プロとしてのクールな振る舞いと、ファンに与える無機的な冷たさは異なるものである。
柴田勝頼の試合は見れるか?
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また五輪の決勝レベルの試合を数多く経験してきた事で、実に、ハートの強い男でもある。
緊張に対して、恐怖に対して、自分の感情を操れる精神力の持ち主でもある。
しかし吉田がプロ選手として、その実力ほど、多くのファンから感情移入され愛されているとは云いがたい事も事実である。
というよりもプロ選手としてのカリスマ性とは程遠い選手でもある。
かつてリング上で、ファンに対してより先に、知り合いの歌手に向けて勝利の喜びを叫んだ吉田は完全なアマチュアのスポーツ選手であった。
ファンのためより、自分のプライドや承認欲求、仲間たちへの想い、そういったものが先に来るのなら、今後もファンに支持される事は無いであろう。
吉田に感じるのは、全く感情移入出来ないプロとしてのマイペースぶりだ。
プロとしてのクールな振る舞いと、ファンに与える無機的な冷たさは異なるものである。
柴田勝頼の試合は見れるか?
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「気」に負けたプロレスラー/吉田とヒクソンに恐怖した田村と船木
私が忘れられないプロレスラーの惨敗シーンがある。
船木がヒクソンに、田村が吉田に、負けたシーンである。
双方とも、相手を追い込みながら、追い込まれたヒクソンと吉田が気合いと共に飛び込んできた後、いとも簡単に転倒され敗北された。
気合いによって腰が引けたのである。
二人の共通点がある。
あまりにもストイックな姿勢で練習に打ち込み、暗いオーラを身にまとっていた時の、船木や田村は、実に頼りになる「強い」プロレスラーたちであった。
しかし、いたずらにキャリアを経験し、自身をリラックスさせようと振る舞えば、振る舞うほど、追い込まれた時の彼らの気持ちの強さが消え去ってしまうのだ。
片目を潰されたヒクソンが物凄い形相で船木に飛びかかった時、ローで足を破壊されかけた吉田が気合いとともに田村の懐に飛びついた時、あれほど船木と田村がチキンな男だった事は私にはショックであった。
しかし、それは試合前の恐怖からの解放としてのリラックスを求め過ぎ、闘いの本能を忘れた故の事だと信じたい気持ちもある。
自身の闘いへの追い込み方が尋常でないからこそ、船木も、田村も、かつてのような自身の闘い方は、もう経験したくないであろう。
しかし所詮、残り少ない現役生活である。
もう少しだけ覚悟を決めてもらいたいものだ。
覚悟を決めたら、彼らのハートの強さはどんな格闘家も太刀打ち出来ないはずである。
柴田勝頼の試合は見れるか?
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船木がヒクソンに、田村が吉田に、負けたシーンである。
双方とも、相手を追い込みながら、追い込まれたヒクソンと吉田が気合いと共に飛び込んできた後、いとも簡単に転倒され敗北された。
気合いによって腰が引けたのである。
二人の共通点がある。
あまりにもストイックな姿勢で練習に打ち込み、暗いオーラを身にまとっていた時の、船木や田村は、実に頼りになる「強い」プロレスラーたちであった。
しかし、いたずらにキャリアを経験し、自身をリラックスさせようと振る舞えば、振る舞うほど、追い込まれた時の彼らの気持ちの強さが消え去ってしまうのだ。
片目を潰されたヒクソンが物凄い形相で船木に飛びかかった時、ローで足を破壊されかけた吉田が気合いとともに田村の懐に飛びついた時、あれほど船木と田村がチキンな男だった事は私にはショックであった。
しかし、それは試合前の恐怖からの解放としてのリラックスを求め過ぎ、闘いの本能を忘れた故の事だと信じたい気持ちもある。
自身の闘いへの追い込み方が尋常でないからこそ、船木も、田村も、かつてのような自身の闘い方は、もう経験したくないであろう。
しかし所詮、残り少ない現役生活である。
もう少しだけ覚悟を決めてもらいたいものだ。
覚悟を決めたら、彼らのハートの強さはどんな格闘家も太刀打ち出来ないはずである。
柴田勝頼の試合は見れるか?
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2008年03月03日
柴田勝頼の試合は見れるか?
再編成なった格闘技界であるが、大衆向けのイベントであった「HERO'S」が消滅した事で、プロレスラーの出場の機会が無くなっていくのならば残念である。
私が気になるのは柴田勝頼の今後である。
柴田は師匠の船木よりは遥かに強い気持ちを前面に押し出せる強い気持ちを持っているファイターである。
後は闘い方の工夫でしかないであろう。
私的には一つの知識に傾倒する船木の影響で、柴田が、柔術の蟻地獄に陥るのが不安である。
奥の深い柔術や総合の技術をいたずらに追いかける前に、普通に、自分の闘い方を確認していけば良い。
船木にしろ、柴田にしろ、驚くのが、その被テイクダウン能力の低さである。
相手がタックルに入って来るのが分かっていて切れない。
また、切ろうとする粘りも無い。
そういう自身の闘い方の基本を疎かにしながら、柔術の練習でもないであろう。
私的な経験を記して申し訳ないが、私は先輩や恩師にテイクダウンさせられると、袈裟固めのまま口を塞がれ窒息困難にさせられたり、首を決められ落とされたりした。
恥ずかしい話、失禁もあった。
そういう経験をすれば、不思議と、簡単に転倒されない粘り腰が出来て来るものだ。
転倒された後の地獄を考えると、何とかして転倒されないように踏ん張る気持ちが強い腰を養ってくれるのだ。
そんな経験をしてきたアマチュアの私から見れば、何故、船木も柴田もあれほど簡単に転倒されるのか理解出来ない。
気持ちの問題でしかないであろう。
少なくともUWFの流れを汲むプロレスラーである。
柔術家のように下からの攻撃を習得する必要も無いし、また、そんな時間もないであろう。
そんな事よりも、まずはやるべき事は、テイクダウンされない腰を作る基本作業しか無いはずである。
転倒させられたら死ぬ。
それくらいの気持ちの上で、被テイクダウン能力と打撃を磨いていってほしいものだ。
もっとも、それ以前に、柴田に試合に出る機会はあるのかという心配の方が大きいが。
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私が気になるのは柴田勝頼の今後である。
柴田は師匠の船木よりは遥かに強い気持ちを前面に押し出せる強い気持ちを持っているファイターである。
後は闘い方の工夫でしかないであろう。
私的には一つの知識に傾倒する船木の影響で、柴田が、柔術の蟻地獄に陥るのが不安である。
奥の深い柔術や総合の技術をいたずらに追いかける前に、普通に、自分の闘い方を確認していけば良い。
船木にしろ、柴田にしろ、驚くのが、その被テイクダウン能力の低さである。
相手がタックルに入って来るのが分かっていて切れない。
また、切ろうとする粘りも無い。
そういう自身の闘い方の基本を疎かにしながら、柔術の練習でもないであろう。
私的な経験を記して申し訳ないが、私は先輩や恩師にテイクダウンさせられると、袈裟固めのまま口を塞がれ窒息困難にさせられたり、首を決められ落とされたりした。
恥ずかしい話、失禁もあった。
そういう経験をすれば、不思議と、簡単に転倒されない粘り腰が出来て来るものだ。
転倒された後の地獄を考えると、何とかして転倒されないように踏ん張る気持ちが強い腰を養ってくれるのだ。
そんな経験をしてきたアマチュアの私から見れば、何故、船木も柴田もあれほど簡単に転倒されるのか理解出来ない。
気持ちの問題でしかないであろう。
少なくともUWFの流れを汲むプロレスラーである。
柔術家のように下からの攻撃を習得する必要も無いし、また、そんな時間もないであろう。
そんな事よりも、まずはやるべき事は、テイクダウンされない腰を作る基本作業しか無いはずである。
転倒させられたら死ぬ。
それくらいの気持ちの上で、被テイクダウン能力と打撃を磨いていってほしいものだ。
もっとも、それ以前に、柴田に試合に出る機会はあるのかという心配の方が大きいが。
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2008年03月01日
アントニオ猪木という動詞の愛/イノキボンバイエを聴きながら
私が小学校3年生か4年生の頃には、アントニオ猪木はもうこの曲をテーマソングにしていたような記憶が在ります。
私はこの曲を聴くと、このテーマ曲に乗って、徹底して、フィクションとしてのアントニオ猪木を演じきってくれた猪木という人間に感謝の気持ちで一杯になります。
そして多くの昭和の猪木ファンも又、この曲を聴いて、あるいはこの曲の高揚感を抱いて、勉強、仕事、様々な困難を乗り越えてきたのでしょう。
アントニオ猪木は巨大なフィクションの世界です。
しかし、アントニオ猪木がフィクションとしての世界を演じる為に費やした熱量は、アントニオ猪木の肉体と精神にリアルな熱量として消費された世界である事に変わりはありません。
したがって、アントニオ猪木という世界はフィクションや、幻想としてではなく、リアルな動詞の愛となって、私たちを勇気づけてくれていたのでしょう。
※ちなみにこの動画の曲は猪木の引退記念CDを音源として作られています。
私はこの曲を聴くと、このテーマ曲に乗って、徹底して、フィクションとしてのアントニオ猪木を演じきってくれた猪木という人間に感謝の気持ちで一杯になります。
そして多くの昭和の猪木ファンも又、この曲を聴いて、あるいはこの曲の高揚感を抱いて、勉強、仕事、様々な困難を乗り越えてきたのでしょう。
アントニオ猪木は巨大なフィクションの世界です。
しかし、アントニオ猪木がフィクションとしての世界を演じる為に費やした熱量は、アントニオ猪木の肉体と精神にリアルな熱量として消費された世界である事に変わりはありません。
したがって、アントニオ猪木という世界はフィクションや、幻想としてではなく、リアルな動詞の愛となって、私たちを勇気づけてくれていたのでしょう。
※ちなみにこの動画の曲は猪木の引退記念CDを音源として作られています。
ノアの箱舟/小橋健太という全スポーツ界に示せるプロレス界の神
私にとってノアという団体は興味のある団体ではない。
自分の好みと大きく離れた位地にある団体なので、好きか嫌いかという選択も何も関係のない団体である。
それでもノアの激しさや、個性豊かなタレントが揃う華やかさ、層の厚さは十分、理解出来ているつもりである。
ノアに感心するのは、アマチュア・レスリング出身者の数の多さだ。
プロレスはプロレスと割り切ったファイトを展開する三沢であるが、新弟子たちには意外とアマチュア・レスリングの経歴を求めているような気がしてならない。
アマチュア・レスリングを経験する事は、格闘性だけでなく、全方位運動としてのマットワークを身につける事にもなるので、私は三沢は、この点をアマチュア出身者に対して期待しているのかなとは思う。
私は激しいプロレスという物が嫌いである。
ノアには、いたずらに激しいプロレスを発展させてきた戦犯であるという気持ちも持っている。
ノアの激しいプロレスには二つの潮流がある。
天龍のプロレスの流れを汲むハードヒットなプロレスと、相手の身を守る馬場的世界観としての激しさである。
この二つの潮流がノアのマットで、どうにか両立しているというのが現状である。
小橋という選手がいる。
私は性格的に、小橋のような神様のようなワルの要素の無い男には興味を抱かないものである。
しかし、小橋が今のプロレス界にとって神である事は確かである。
例えば、格闘家のみならず、あらゆるスポーツ競技の選手たちが小橋の試合を見たとする
。
驚嘆しか無いであろう。
それくらい小橋の試合は、心臓、持久力、筋力としての最大のパフォーマンスを求めるスポーツとして最高のレベルにあるものである。
私が小橋に感心するのは、激しさは己の肉体、心臓に求めているという事である。
天龍が相手の頭部を傷つけた攻撃を元にする、ノアの一つの潮流とは異なる激しさを持つ事である。
激しい胸板チョップは、極論すれば、誰でも受けられる技である。
大きく張れるミミズ腫れの内出血とは裏腹に、ハッスルにおいては、タレントでも受けられる安全地帯へのプロレス技である。
しかし小橋は相手の身を守る為に、胸板への攻撃を繰り返す。
相手の肉体を傷つけず、自分の心臓、肉体を追い込む為の胸板へのチョップの連発を遂行しているのである。
言ってみれば、馬場的世界観を激しさを伴って昇華させているのである。
相手の頭部への受けのプロレスを要求する、天龍的激しさとは全く異なる世界である。
プロレスラーたちは皆、格闘家を意識し続けている。
しかし、格闘家のみならず、全スポーツ選手を意識したとき、小橋が何故、プロレス界の神であるかは理解出来るはずである。
私が心配なのは、どんどんスターを輩出するノアの経営である。
多くのスターを輩出した為に、自分で自分の首を絞めた新日本の二の舞にならないで欲しいと切に願っている。
レスラーの報酬はレスラー自身の「自分は激しい事をしている」という自負で決められる物でもないであろう。
僭越ながら当ブログの誉れ
アントニオ猪木最後の弟子/小川直也が輝いていた時
非言語コミュニケーションとしてのプロレス
アントニオ猪木信者とは何か?/勘違いプロレスファンたちの新日本プロレス
格闘技プロレスと皆が一言で片付けるので、格闘技プロレスを分類してみました
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自分の好みと大きく離れた位地にある団体なので、好きか嫌いかという選択も何も関係のない団体である。
それでもノアの激しさや、個性豊かなタレントが揃う華やかさ、層の厚さは十分、理解出来ているつもりである。
ノアに感心するのは、アマチュア・レスリング出身者の数の多さだ。
プロレスはプロレスと割り切ったファイトを展開する三沢であるが、新弟子たちには意外とアマチュア・レスリングの経歴を求めているような気がしてならない。
アマチュア・レスリングを経験する事は、格闘性だけでなく、全方位運動としてのマットワークを身につける事にもなるので、私は三沢は、この点をアマチュア出身者に対して期待しているのかなとは思う。
私は激しいプロレスという物が嫌いである。
ノアには、いたずらに激しいプロレスを発展させてきた戦犯であるという気持ちも持っている。
ノアの激しいプロレスには二つの潮流がある。
天龍のプロレスの流れを汲むハードヒットなプロレスと、相手の身を守る馬場的世界観としての激しさである。
この二つの潮流がノアのマットで、どうにか両立しているというのが現状である。
小橋という選手がいる。
私は性格的に、小橋のような神様のようなワルの要素の無い男には興味を抱かないものである。
しかし、小橋が今のプロレス界にとって神である事は確かである。
例えば、格闘家のみならず、あらゆるスポーツ競技の選手たちが小橋の試合を見たとする
。
驚嘆しか無いであろう。
それくらい小橋の試合は、心臓、持久力、筋力としての最大のパフォーマンスを求めるスポーツとして最高のレベルにあるものである。
私が小橋に感心するのは、激しさは己の肉体、心臓に求めているという事である。
天龍が相手の頭部を傷つけた攻撃を元にする、ノアの一つの潮流とは異なる激しさを持つ事である。
激しい胸板チョップは、極論すれば、誰でも受けられる技である。
大きく張れるミミズ腫れの内出血とは裏腹に、ハッスルにおいては、タレントでも受けられる安全地帯へのプロレス技である。
しかし小橋は相手の身を守る為に、胸板への攻撃を繰り返す。
相手の肉体を傷つけず、自分の心臓、肉体を追い込む為の胸板へのチョップの連発を遂行しているのである。
言ってみれば、馬場的世界観を激しさを伴って昇華させているのである。
相手の頭部への受けのプロレスを要求する、天龍的激しさとは全く異なる世界である。
プロレスラーたちは皆、格闘家を意識し続けている。
しかし、格闘家のみならず、全スポーツ選手を意識したとき、小橋が何故、プロレス界の神であるかは理解出来るはずである。
私が心配なのは、どんどんスターを輩出するノアの経営である。
多くのスターを輩出した為に、自分で自分の首を絞めた新日本の二の舞にならないで欲しいと切に願っている。
レスラーの報酬はレスラー自身の「自分は激しい事をしている」という自負で決められる物でもないであろう。
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2008年02月29日
秋山という細い目の漢
私は在日韓国人であるが、自分の帰属意識は民族や血よりも、レスラーである事、そしてプロレスファンである事のほうが先にあるので、秋山が同胞であれどうであれ、私の愛する桜庭和志を汚い手段によって蹴落とそうとした秋山は基本的に嫌いな人間である。
嫌いというよりも許せない行為をした事への怒りの方が大きい。
しかし、国籍や民族しか求める属性の無い人間に、同じ大学の金メダリストが日の丸を掲げたとき、涙した長州力の気持ち等決して理解出来はしないであろう。
秋山は馬鹿な人間である。
スポーツ選手が皆、清廉潔白である事等絶対にない。
しかし、それでも、スポーツに打ち込めば打ち込むほど、出来るだけ清い心と真面目な練習によってしか勝利は近づかない事を知るのも、また事実である。
そういう意味で秋山は、アマチュア時代より、清い心以外でふと手にした勝利を持って、独特のスポーツ観を持ったと云えるであろう。
しかし秋山の心にあるのは人間の本質としての承認欲求である。
何故、清い心を消し去ってまで、その欲求を満たさなければ行けないのか?
そこまで承認されたいのは何故なのか?
私は秋山は悪人ではないと信じている。
善と悪の区別がつかない悲しい男なのである。
秋山にとって不運なのは、前田や多くの同胞たちの庇いである。
何故、悪い事は悪いと言ってあげられなかったのか?
そこまでして、秋山の心の闇を庇いたかったのか?
大木金太郎を他の選手の倍は殴った力道山のように何故なれなかったのか?
私は残念な気持ちである。
秋山の例を持って、韓国人を一括りにして論じる馬鹿な奴らがいる。
韓国人はこうだとか、100人にさえ満たない韓国人だけを見て何故恥ずかし気も無く、言えるのか?
しかし、そんな馬鹿たちよりも、私はこんなに同胞に情けない肩身の狭い想いをさせる秋山がどんどん嫌いになっていく。
しかし、子供たちに柔道の素晴らしさを少しでも伝えたいと願う秋山の心までは否定しない。
結果、子供たちを大きく裏切る事になったが、いつか秋山が基本的な善悪の区別がつけば、きっと多くの人たちの為に自分の身を削って闘う男になるであろうと私は信じている。
僭越ながら当ブログの誉れ
アントニオ猪木最後の弟子/小川直也が輝いていた時
非言語コミュニケーションとしてのプロレス
アントニオ猪木信者とは何か?/勘違いプロレスファンたちの新日本プロレス
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嫌いというよりも許せない行為をした事への怒りの方が大きい。
しかし、国籍や民族しか求める属性の無い人間に、同じ大学の金メダリストが日の丸を掲げたとき、涙した長州力の気持ち等決して理解出来はしないであろう。
秋山は馬鹿な人間である。
スポーツ選手が皆、清廉潔白である事等絶対にない。
しかし、それでも、スポーツに打ち込めば打ち込むほど、出来るだけ清い心と真面目な練習によってしか勝利は近づかない事を知るのも、また事実である。
そういう意味で秋山は、アマチュア時代より、清い心以外でふと手にした勝利を持って、独特のスポーツ観を持ったと云えるであろう。
しかし秋山の心にあるのは人間の本質としての承認欲求である。
何故、清い心を消し去ってまで、その欲求を満たさなければ行けないのか?
そこまで承認されたいのは何故なのか?
私は秋山は悪人ではないと信じている。
善と悪の区別がつかない悲しい男なのである。
秋山にとって不運なのは、前田や多くの同胞たちの庇いである。
何故、悪い事は悪いと言ってあげられなかったのか?
そこまでして、秋山の心の闇を庇いたかったのか?
大木金太郎を他の選手の倍は殴った力道山のように何故なれなかったのか?
私は残念な気持ちである。
秋山の例を持って、韓国人を一括りにして論じる馬鹿な奴らがいる。
韓国人はこうだとか、100人にさえ満たない韓国人だけを見て何故恥ずかし気も無く、言えるのか?
しかし、そんな馬鹿たちよりも、私はこんなに同胞に情けない肩身の狭い想いをさせる秋山がどんどん嫌いになっていく。
しかし、子供たちに柔道の素晴らしさを少しでも伝えたいと願う秋山の心までは否定しない。
結果、子供たちを大きく裏切る事になったが、いつか秋山が基本的な善悪の区別がつけば、きっと多くの人たちの為に自分の身を削って闘う男になるであろうと私は信じている。
僭越ながら当ブログの誉れ
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2008年02月27日
私の愛する永田裕志
私の好きなプロレスラーはアントニオ猪木、前田日明、長州力、船木、桜庭である。
しかし皆、実際には現在のプロレス界で、プロレスをやっていない男たちである。
別の位地で奮闘する長州は除かせてもらう。
そういう意味では、プロレス界にてプロレスを遂行するプロレスラーで、私が一番愛する男は永田かも知れないと、ふと思う。
永田はアマチュア時代から天才型だった訳では無い。
おそらく教育者だった御両親の影響で、目標遂行に対しての方法を試行錯誤し、地道な反復練習にて努力を繰り返し、全日本の覇者となったはずである。
何故かアマチュア時代、ジャンボ鶴田二世と云われた男であるが、確かに、そのリーチの長さは重量級のレスリングでは鶴田以来であったような気がする。
猪木の入り込む余地のなかった一時の新日本の黄金期を支えたのは永田である。
黄金期の新日本を支えたものは「強さのイメージ」である。
「強さのイメージ」を持って、安心して、UWF勢に影響される事の無い90年代の新日本的純プロレスを展開出来ていたのである。
しかしUWFインターが参戦したとき、UWFを相手に純プロレス的な試合を展開すれば、団体としての強さのイメージは吹っ飛んでいたはずであろう。
しかし、第一次UWFと新日本の闘いを遠くから眺め呆れていたかのように長州力は頑に、UWFの攻撃からの純プロレス的な受けを拒絶する方向に出た。
長州力は、ここぞと云う時の強さのイメージにつながる受けは絶対に拒絶する男である。
リアルな攻撃を受けたら最後、純プロレスを展開する上で必要な「強さのイメージ」を保てない事を知っていたのだ。
結果、永田は抗争初戦で、プロレスの枠内で、徹底的に、Uインターの選手の技の受けを拒絶した。
拒絶する者同士のプロレスはリアルな主導権争いでしかない。
おそらく、強さからいえば、強さを追求し続けた学生時代から、それほど年月を経ない最も強かった時期の永田が、Uインター勢を相手に縦横無尽に活躍した。
私が忘れられないのは中野に決めた「後方がぶり返し」である。
リアルにフロント・ネック・チャンスリーが90年代のプロレスの試合で見られたのである。
ドームでの金原相手の激闘は、私にとって「奇跡の試合」であった。
勝ち負け以外のプロレスの約束事に従おうとしない金原の攻撃を、永田は純プロレスではなく、リアルな主導権争いによって、封じ込めた。
あの時代、前座の永田が死守した新日本プロレスの「強さのイメージ」によって、新日本は安心して以後の純プロレスも展開出来たのである。
その永田が、あの時の試合とは程遠い、純プロレス的激しさで、脳に傷を受けた。
Uインターとの抗争で、相手の技を捌き、強さのイメージを保った永田がである。
平成のプロレスファンは、どこまで、危険なプロレスを、プロレスラーに展開させたいのであろう。
強くないから、リアルファイトでないから、激しいプロレスを展開しなければいけないのが今のプロレスならば、永田の若き日の激闘も報われないであろう。
アントニオ猪木最後の弟子/小川直也が輝いていた時
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しかし皆、実際には現在のプロレス界で、プロレスをやっていない男たちである。
別の位地で奮闘する長州は除かせてもらう。
そういう意味では、プロレス界にてプロレスを遂行するプロレスラーで、私が一番愛する男は永田かも知れないと、ふと思う。
永田はアマチュア時代から天才型だった訳では無い。
おそらく教育者だった御両親の影響で、目標遂行に対しての方法を試行錯誤し、地道な反復練習にて努力を繰り返し、全日本の覇者となったはずである。
何故かアマチュア時代、ジャンボ鶴田二世と云われた男であるが、確かに、そのリーチの長さは重量級のレスリングでは鶴田以来であったような気がする。
猪木の入り込む余地のなかった一時の新日本の黄金期を支えたのは永田である。
黄金期の新日本を支えたものは「強さのイメージ」である。
「強さのイメージ」を持って、安心して、UWF勢に影響される事の無い90年代の新日本的純プロレスを展開出来ていたのである。
しかしUWFインターが参戦したとき、UWFを相手に純プロレス的な試合を展開すれば、団体としての強さのイメージは吹っ飛んでいたはずであろう。
しかし、第一次UWFと新日本の闘いを遠くから眺め呆れていたかのように長州力は頑に、UWFの攻撃からの純プロレス的な受けを拒絶する方向に出た。
長州力は、ここぞと云う時の強さのイメージにつながる受けは絶対に拒絶する男である。
リアルな攻撃を受けたら最後、純プロレスを展開する上で必要な「強さのイメージ」を保てない事を知っていたのだ。
結果、永田は抗争初戦で、プロレスの枠内で、徹底的に、Uインターの選手の技の受けを拒絶した。
拒絶する者同士のプロレスはリアルな主導権争いでしかない。
おそらく、強さからいえば、強さを追求し続けた学生時代から、それほど年月を経ない最も強かった時期の永田が、Uインター勢を相手に縦横無尽に活躍した。
私が忘れられないのは中野に決めた「後方がぶり返し」である。
リアルにフロント・ネック・チャンスリーが90年代のプロレスの試合で見られたのである。
ドームでの金原相手の激闘は、私にとって「奇跡の試合」であった。
勝ち負け以外のプロレスの約束事に従おうとしない金原の攻撃を、永田は純プロレスではなく、リアルな主導権争いによって、封じ込めた。
あの時代、前座の永田が死守した新日本プロレスの「強さのイメージ」によって、新日本は安心して以後の純プロレスも展開出来たのである。
その永田が、あの時の試合とは程遠い、純プロレス的激しさで、脳に傷を受けた。
Uインターとの抗争で、相手の技を捌き、強さのイメージを保った永田がである。
平成のプロレスファンは、どこまで、危険なプロレスを、プロレスラーに展開させたいのであろう。
強くないから、リアルファイトでないから、激しいプロレスを展開しなければいけないのが今のプロレスならば、永田の若き日の激闘も報われないであろう。
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アントニオ猪木最後の弟子/小川直也が輝いていた時
小川直也は、アントニオ猪木の教えを何とか忠実に守ろうとする弟子の一人でもある。
多くの弟子たちが、猪木の元を離れる中で、小川だけは意外と猪木の側にいるものである。
最初から適度な距離を持っているのだろう。
「師匠」と猪木を呼び続ける事で、アントニオ猪木への愛情と尊敬を無理矢理にでも自分の心の中に言い聞かせている男でもある。
猪木が小川に何を教えたかというと、抽象的なプロレス道でしかない。
元々、猪木の世界に言語は無いので、論理的に何かを伝えられる事は無い。
抽象的な何かを感じ取るしか無いのだ。
人の成功や繁栄を羨むアントニオ猪木であるが、新日本とUインターの試合においては意外と素直に、長州や永田、石沢の試合を褒め讃えていたものだ。
反面、橋本真也が中野のジャーマンを受けたとき、放送席で静かな怒りを示した。
プロレス的な技は受けても、強さのイメージを奪われかねない技は、絶対に受けてほしくないというのが猪木の想いなのだろう。
日本プロレス時代あれだけドリー・ファンク・ジュニアと上手い純プロレスを展開した猪木が、新日本旗揚げ以後、ドタバタしたプロレスを展開し続けた。
猪木の身体から受け身に必要な脂肪は削り取られ、純プロレスに必要な、丸みを浴びたプロレスラー体型ではなくなってしまった。
体型からして純プロレスの約束的動きを必要としない事を証明しているのだ。
巨漢の小川直也を自らの元でシェイプさせたのは、プロとしての見栄えを優先する猪木の考えもあっただろう。
しかし、何より、小川を痩せさせた理由、純プロレス的な練習もさせなかった理由は、総合をさせる為でも、純プロレスをさせるためでも無い。
アントニオ猪木の理想のプロレスを小川に託したかったに他ならない気がする。
純プロレス的な言語や約束事に頼らず、観客を掌に乗せるプロレスがある事を、小川は少しだけ他の選手よりは知っているはずだ。
小川直也に必要なのは、当然、強さではない。
それ以上に、プロレスの上手さでもない。
プロレス言語や約束事に頼らず、人の感性に訴えるショーとしてのプロレスの手法である。
一時、小川は忠実にこの教えを守っていた。
例えば、総合に出陣する以上の闘争心や殺気を全面に押し立てて、プロレスを遂行した。
しかし、プロレスなので本気で相手に闘争心を全開には出来ない。
結果、小川の闘争心は、相手や観客に露出されず、自身の感情の中で抑制される。
それが小川直也のプロレスラーとしての色気と殺気を醸し出していたのだ。
怒りの感情を大見得を切ってアピール、表現する場面は猪木的プロレスの少ない言語シーンである。
しかし、それは猪木の数少ないプロレス言語でしかない。
猪木的闘争心とは、感情を露出、全開し、声を張り上げ、胸板への激しいチョップ合戦を繰り広げるような物ではない。
むしろリアルな殺気と憎しみを持ちながら、プロレスという職務を遂行する事で、つまり感情をいたずらに露出しない事で、観客に感情を醸し出させるのだ。
前田日明が一番魅力を全開にしていたときもそうであった。
前田が胸に秘めていたものはリアルな感情である。
そのリアルな感情を、必至に胸に止めながら、いたずらに露出せず、職務としてのプロレスを遂行し続けたとき、観客には前田の殺気が観客に伝わる。
その殺気には感情を露出せず心内に溜める事で忍ぶ者の色気が加わる。
プロレスだからと、リアルな感情は必要ないと考えれば無機的な格闘家たちのプロレスになってしまう。
あるいは感情をいたずらに露出し、その感情を、表情や胸板へのチョップ合戦等の激しさと言うプロレス言語によって表現すれば純プロレスでしかない。
感情とは内に秘めながらも簡単に露出させない事で、リアルに観客に伝わるものだ。
心の中のリアルな感情を維持したまま、セメントでも、リアルファイトでもなく、プロレスを遂行していた時が、小川直也の最も輝いていた時代であった。
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多くの弟子たちが、猪木の元を離れる中で、小川だけは意外と猪木の側にいるものである。
最初から適度な距離を持っているのだろう。
「師匠」と猪木を呼び続ける事で、アントニオ猪木への愛情と尊敬を無理矢理にでも自分の心の中に言い聞かせている男でもある。
猪木が小川に何を教えたかというと、抽象的なプロレス道でしかない。
元々、猪木の世界に言語は無いので、論理的に何かを伝えられる事は無い。
抽象的な何かを感じ取るしか無いのだ。
人の成功や繁栄を羨むアントニオ猪木であるが、新日本とUインターの試合においては意外と素直に、長州や永田、石沢の試合を褒め讃えていたものだ。
反面、橋本真也が中野のジャーマンを受けたとき、放送席で静かな怒りを示した。
プロレス的な技は受けても、強さのイメージを奪われかねない技は、絶対に受けてほしくないというのが猪木の想いなのだろう。
日本プロレス時代あれだけドリー・ファンク・ジュニアと上手い純プロレスを展開した猪木が、新日本旗揚げ以後、ドタバタしたプロレスを展開し続けた。
猪木の身体から受け身に必要な脂肪は削り取られ、純プロレスに必要な、丸みを浴びたプロレスラー体型ではなくなってしまった。
体型からして純プロレスの約束的動きを必要としない事を証明しているのだ。
巨漢の小川直也を自らの元でシェイプさせたのは、プロとしての見栄えを優先する猪木の考えもあっただろう。
しかし、何より、小川を痩せさせた理由、純プロレス的な練習もさせなかった理由は、総合をさせる為でも、純プロレスをさせるためでも無い。
アントニオ猪木の理想のプロレスを小川に託したかったに他ならない気がする。
純プロレス的な言語や約束事に頼らず、観客を掌に乗せるプロレスがある事を、小川は少しだけ他の選手よりは知っているはずだ。
小川直也に必要なのは、当然、強さではない。
それ以上に、プロレスの上手さでもない。
プロレス言語や約束事に頼らず、人の感性に訴えるショーとしてのプロレスの手法である。
一時、小川は忠実にこの教えを守っていた。
例えば、総合に出陣する以上の闘争心や殺気を全面に押し立てて、プロレスを遂行した。
しかし、プロレスなので本気で相手に闘争心を全開には出来ない。
結果、小川の闘争心は、相手や観客に露出されず、自身の感情の中で抑制される。
それが小川直也のプロレスラーとしての色気と殺気を醸し出していたのだ。
怒りの感情を大見得を切ってアピール、表現する場面は猪木的プロレスの少ない言語シーンである。
しかし、それは猪木の数少ないプロレス言語でしかない。
猪木的闘争心とは、感情を露出、全開し、声を張り上げ、胸板への激しいチョップ合戦を繰り広げるような物ではない。
むしろリアルな殺気と憎しみを持ちながら、プロレスという職務を遂行する事で、つまり感情をいたずらに露出しない事で、観客に感情を醸し出させるのだ。
前田日明が一番魅力を全開にしていたときもそうであった。
前田が胸に秘めていたものはリアルな感情である。
そのリアルな感情を、必至に胸に止めながら、いたずらに露出せず、職務としてのプロレスを遂行し続けたとき、観客には前田の殺気が観客に伝わる。
その殺気には感情を露出せず心内に溜める事で忍ぶ者の色気が加わる。
プロレスだからと、リアルな感情は必要ないと考えれば無機的な格闘家たちのプロレスになってしまう。
あるいは感情をいたずらに露出し、その感情を、表情や胸板へのチョップ合戦等の激しさと言うプロレス言語によって表現すれば純プロレスでしかない。
感情とは内に秘めながらも簡単に露出させない事で、リアルに観客に伝わるものだ。
心の中のリアルな感情を維持したまま、セメントでも、リアルファイトでもなく、プロレスを遂行していた時が、小川直也の最も輝いていた時代であった。
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2008年02月26日
非言語コミュニーケーションとしてのプロレス
昔のプロレスは非言語コミュニケーションを駆使したジャンルであった。
昭和のプロレスは、今のマニアックなジャンルとしてのプロレスよりも、更に最大公約数のファンである大衆層に向けての、分かりやすい娯楽性を伝える義務があった。
しかし、その伝え方は、決して理に叶う細かい説明の仕方ではなかった。
説明ではなく、受け手側のファンに、感じさせていたのだ。
まだディフォルメされすぎないシンプルな技術にリアリティを求めながらも、試合自体においては、文章の行間を読んだり、言外を読むような、受け手側の努力が必要であった。
気づいてるファンは気づいてるのだが、プロレスブーム前の普段のアントニオ猪木の試合と、今のIGFの試合の雰囲気は似ている。
消化不良で、呆気なく終わり、盛り上がりも、見せ場もない。会場の一体感もない。
実は猪木の試合とは、そういう試合が多かったので、我々猪木ファンは、目に見えるアントニオ猪木の試合の部分以外の、行間や言外の中に、呆気なく終わった試合の答えを求めるしかなかったのである。
しかし昭和のプロレスブームは、行間や言外を読まないファンを大量に生産してしまったのだ。
確かに、受け手側の能動性に頼っていてはブームなど起こるはずもなかった。
しかし、受け手側に行間や言外を読む余地など無いままに、ただ、ひたすら受け手への親切な説明が度を越してしまったのが今のプロレスだ。
大技や、目まぐるしい動きや、激しさや、そういう目に見える言語だけを用いて、プロレスが言語コミュニケーションの世界になってしまったのだ。
プロレス言語の最たるものは、危険な大技の乱発や激しい痛みを伴う打撃技と言う説得力である。
その説得力というプロレス言語を持ってしか、今のプロレスは今のファンに説明するものを持たない。
猪木の延髄斬りが空振りしたのに関わらず、相手が一回転して勝敗は決した。
説得力のかけらも無い結末である。
しかし昔はそれで良かった。
ファンが馬鹿だったからではない。
ファンがプロレスの中の目に見える言語だけを持ってプロレスを読み取らなかったからだ。
言外や行間を読めていたのである。
(管理人より)
ka-lei-do-scope weblog様
函館望郷ブログ Life is a Journey! 様
に当ブログの事をご紹介いただきました。
大変嬉しく思います。
ありがとうございました。
アントニオ猪木信者とは何か?/勘違いプロレスファンたちの新日本プロレス
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昭和のプロレスは、今のマニアックなジャンルとしてのプロレスよりも、更に最大公約数のファンである大衆層に向けての、分かりやすい娯楽性を伝える義務があった。
しかし、その伝え方は、決して理に叶う細かい説明の仕方ではなかった。
説明ではなく、受け手側のファンに、感じさせていたのだ。
まだディフォルメされすぎないシンプルな技術にリアリティを求めながらも、試合自体においては、文章の行間を読んだり、言外を読むような、受け手側の努力が必要であった。
気づいてるファンは気づいてるのだが、プロレスブーム前の普段のアントニオ猪木の試合と、今のIGFの試合の雰囲気は似ている。
消化不良で、呆気なく終わり、盛り上がりも、見せ場もない。会場の一体感もない。
実は猪木の試合とは、そういう試合が多かったので、我々猪木ファンは、目に見えるアントニオ猪木の試合の部分以外の、行間や言外の中に、呆気なく終わった試合の答えを求めるしかなかったのである。
しかし昭和のプロレスブームは、行間や言外を読まないファンを大量に生産してしまったのだ。
確かに、受け手側の能動性に頼っていてはブームなど起こるはずもなかった。
しかし、受け手側に行間や言外を読む余地など無いままに、ただ、ひたすら受け手への親切な説明が度を越してしまったのが今のプロレスだ。
大技や、目まぐるしい動きや、激しさや、そういう目に見える言語だけを用いて、プロレスが言語コミュニケーションの世界になってしまったのだ。
プロレス言語の最たるものは、危険な大技の乱発や激しい痛みを伴う打撃技と言う説得力である。
その説得力というプロレス言語を持ってしか、今のプロレスは今のファンに説明するものを持たない。
猪木の延髄斬りが空振りしたのに関わらず、相手が一回転して勝敗は決した。
説得力のかけらも無い結末である。
しかし昔はそれで良かった。
ファンが馬鹿だったからではない。
ファンがプロレスの中の目に見える言語だけを持ってプロレスを読み取らなかったからだ。
言外や行間を読めていたのである。
(管理人より)
ka-lei-do-scope weblog様
函館望郷ブログ Life is a Journey! 様
に当ブログの事をご紹介いただきました。
大変嬉しく思います。
ありがとうございました。
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