2007年10月04日

ハッスルか総合か/プロレスラーの大舞台

かつてプロレス界には新日本プロレスという大きな惑星団体が有った。
いくらインディーが増えても、惑星団体が健在である限り、
インディー団体の選手たちの「ハレ」の舞台は有ったのである。

しかしジャンル自体がインディー化したプロレス界には惑星団体等無い。
プロレスラーが「ハレ」の舞台を探すとなると
「ハッスル」か「総合格闘技イベント」しか無いのが現状である。

私は前の記事でも書いたが、日本の格闘技バブルが崩壊した今こそ、
「最大公約数のファン」を相手にした総合格闘技イベントの主役足り得るのは
プロレスラーしかいないと思っている。
かつてのUWFのように修斗から「歌謡曲」扱いされても良い。
格闘技バブル崩壊した今、本来の本格的格闘家たちの場所はもっとミニマムで
マニアックな世界である。
少なくともテレビで放送する総合格闘技イベントは総合格闘技界の歌謡曲で有る。
その歌謡曲のイベントに満ちたる華を持つ選手はプロレスラーが筆頭である。

このチャンスをプロレスラーたちはものにして欲しいと思っている。

2007/07/15掲載

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総合格闘技バブルの崩壊

私は前二回の記事でも書いたが、日本における総合格闘技のバブルは完全に
崩壊したと思っている。
日本人はお祭り好きであり冷めやすくも有る。
プライドの会場に出向き、派手な演出の中、観客にまでアドレナリンが沸き上がり、
非日常の興奮を体感する。
カードを見れば出し惜しみしないマッチメイクの連続である。
スタッフの熱も相当だと聞いた。
我々にとっては夢のような空間であったとしても、人間の熱を維持するのは赤い炎で
無く、青い炎である。
プライドのような一回一回のイベントが赤く燃え盛るようなイベントが永遠に
続く訳は無かったのだ。
プライドのピーク時、あまりの好カード、熱戦の連続、豪華な演出に興奮冷めやらぬまま、
会場を後にした。
不思議な疲労感を覚えた。
同時に、一回一回の大会に、余りにも刹那的で消費的なものを感じた。
少し熱の度合いは違うが、90年代の新日本の東京ドーム大会と同じく、記憶に残る
イベントにならなくなってしまっていたのだ。

どこのスポーツ選手でも流した汗の量やキャリアと同等の名声や対価を求めるのは
当然である。
しかし、何故、総合格闘家たちだけがそれらを手に出来たのであろう。
もちろん、それらを手にする過程が恐ろしく激しい競争の末だとも分かっているが、
それとて、どのスポーツ界も同様である。

マニアの世界であった総合格闘技にプロレスラーが参戦した。
プロレスラーたちがマーケットとしての総合格闘技を開拓した。
そこで発散した熱が世間に伝播し、
より世間の感覚に近い等身大のスターを生み出し続けた。
その中でイベントの主催側も、ファンも、バブルに踊ったのである。

他のスポーツよりも名声や対価を得られる。
一万人規模やゴールデンでの場所で名声を得られる。
総合格闘技のマーケットとは決してそういう場所では無いはずである。
なのに、全てのマニアも、格闘家たちも格闘技バブルに踊ってしまったのである。

HERO’Sはせっかく築き上げた総合格闘技マーケットを維持しようという
気持ちは本当であろうと思っている。
しかしHERO’Sがまだ過去の総合格闘技バブルのパターンを踏襲すれば、唯一残った
格闘技の晴れ舞台さえ消してしまいかねないだろう。

大会場で地上波で行う総合格闘技は歌謡曲の世界であらなければならない。
万人に愛される大衆歌手の場でなければいけない。
ただ格闘技の力の強さや等身大のお洒落さを持ってスターとあがめられて来た
格闘技バブルは終わったのだ。

プロレスファンとして渇望するのは、今こそ、プロレスラーたちが本来持つ、常人
離れしたオーラを持ってすれば歌謡曲としての総合格闘技を席巻できるのではないか
という期待である。
少なくともHERO’S関して言えば色の無い選手たちに誇張した看板をつけ
分かりやすさを演出しなければいけないような事も、プロレスラーには不要である。

格闘家のスターたちに醸し出せないプロレスラーのオーラの正体とは、
プロレスラーは自分の為でなく、誰かの為に闘っているという、たった、
それだけの事である。
今のプロレスラーたちにそういう意識があるのかどうかは分からないが、
少なくとも田村と柴田にはそういうプロレスラーらしい雰囲気を感じる。
だからこそ、今大会がこれほどプロレスファンの熱を中心に期待されているのである。


2007/07/16掲載

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私的雑感HERO’S観戦記

田村潔司の試合は残念であった。
試合直前、秋山うんぬん、船木うんぬんのコメントを発する時点で、何とも
目の前の試合への集中力が欠けているような感も有った。
金はK1時代から徹底的に対戦相手への戦略を練る努力家でもあった。
田村に関しては良くも悪くも相手が誰であっても田村流を崩さない
姿勢が今回は裏目に出たとも言える。
ただし私の私見では金は田村の攻撃を凌いだだけであって、勝ったとは思っていない。
逆に田村は勝てなかったが負けてはいなかったというのが私の極私的な考えである。

技術論について記すのは好まないが、一つだけ記す事をお許し頂きたい。
田村のタックルが良いタイミングで何発も入った。
タックルでテイクダウンした時に、脱力を意識している金の足はまだ生きていない。
(生きていないというのはレスラーが脱出困難なガードポジション以外の全ての下から
の柔術的な動きの事とさせてもらう)
金の足がガードポジションをとるまでの間に、田村がすべき事であった、テイクダウン
した時の外側の頭と同じ側の足の踏み込み、また反対側の手を廻すという必須事項が
全く出来ていなかった事である。
あれでは何度テイクダウンしてもパスガードは出来なかったであろう。
タックルしてせっかくテイクダウンし、かつガードポジション以外の柔術的な
動きを相手がしてくれているのに、そこからのコントロールを知らないのだ。

田村のタックルに関してはグラップリングやレスリングの中でのレベルはともかく、
総合での試合に関しては一つの形を成している大きな武器である。
また粘る相手をテイクダウンさせるフォームも田村流ながら完成している。
なのに、相手をタックルで転倒させても、そこからのコントロールを知らないが為に
相も変わらずガードポジションに阻まれ、多くの勝てる試合を落としてしまっている。
上記した技術論は柔術でなく、レスリングの基本パターンである。
タックルで倒す段階ですぐガードを取られるなら、まだしも、私的な経験からも
このレスリングのコントロール技術は柔術家も意外に知らず、サイドを取れる技術で
ある。
格闘技ファンの多くはレスリング出身選手はテイクダウンしてもそこから先は何も
出来ないといった先入観があるだろうが、意外とサイドをとるまでの選手は多い。

日体大レスリンク部に出稽古し汗を流した経験を持ち、かつ、プロレスラーとしての
技術を持つ田村だけに、細かい技術を確認して欲しいと願う。

(追記)
私ごときがプロの試合の技術面等論ずる事、田村への想い強かった
ファンの独り言としてお許し下さい。

2007/07/16掲載

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PRIDEとHERO’S二つの商業団体

世の中にはPRIDEと比較してHERO’Sの商業主義ぶりを嘆くファンも多いが、
所詮PRIDEとて商業格闘技に変わりはなかった。
何度も記すがバブルの果てにダイナミズム溢れるあのようなイベントを
維持する限り商業主義を捨て去る事等出来ない。
問題なのは、その商業主義が余りにも分不相応なレベルだったと言う事である。
たかが格闘技のイベントに何故、あれだけのファイトマネーが生まれ、あれだけの
大会場でのイベントが必要なのか?

ブームやバブルのやっかいな所は、その熱の核がどれほどの部分を占めるにせよ、
核の中心はマニアックな世界であるという事である。
正道会館がK-1以前、地道にマニアの熱を高めるようなイベントを開き、核の熱を高めた。
連動して全日本キックがマニアの熱高かったロブ・カーマンやピータースミットなどを
軸にしたカードで同じくキックボクシングの熱を高めた。
プライドとて同様である。
原点は世間に届かすつもりもないマニアの世界の熱で有った。
結果、各々その熱がK-1、総合格闘技となりバブルやブームを巻き起こす。
マニアの核の熱無くして世に届くブームは有り得ない。

PRIDEに関しては熱というものが核となるマニア層無くして成り立たないという事を熟知
していた感は有る。ブームの最中でも、格闘技の熟練ファンであっても見逃せない
闘いを持って、その核の熱に上手く一般ファンを載せたのだ。
問題は載せられた元々は一般ファンだった人たちが、自分たちこそ熟練ファンで
有り、マニアで有ると勘違いしている点で有る。

そういうPRIDEのファンたちが見下す材料というのは見事にHERO’Sには揃っていた。
HERO’Sにはマニアや熟練ファンも満足させる核は無かった。
核の熱無くして表面だけ世間に届かす事で必死であった。
曙で視聴率を稼ぎ、ファンに元々リスペクトされない秋山をスター候補に仕立て上げ、
核の熱等考えない空洞化の中、HERO’Sがファンに愛される事は無かった。

ところが、そのHERO’Sが昨日、結果はともかく、初めて核の部分からの熱を放った。
その核の熱の部分を構成したのは、PRIDEの偽熟練ファンたちが格闘技を知る
はるか昔の総合格闘技黎明期からプロレスラーたちの勝利を渇望し続けて来た層の熱気
である。
その熱気が気に喰わずやけにPRIDEと比べてHERO’Sの大衆性、歌謡性を批判する
向きも有るが、私はもっともっとプロレスラーたちがHERO’Sのリングを支配すれば
良いと考えている。
少なくともプロレスファンが出る限り「闘うプロレスラー」に渇望して来た古くからの
ファンの確かな核が有るからである。

PRIDEもHERO’Sも所詮商業格闘技である。
本当の通の格闘家ファンならばマニア心を満たしたいなら、
競技性を維持しながらも分相応の商業性を求める修斗やパンクラスを求めれば良い。
それらの団体規模、選手たちの対価、市場規模、それらこそ適正な
格闘技マーケットの姿なのではないか。
私はそれらの団体こそ格闘技バブルに左右されず生き残ると思っている。

バブルが消えた後、テレビで流れるような総合格闘技イベントは無理が有る。
かつてのマニア層の核の熱に載っかっていたようなファンがいくら期待しようと
紅白歌合戦のような大衆歌謡にならざるを得ない。
なのに何故HERO’Sにマニア性を求めるのか?
私には馬鹿馬鹿しい考えに思えて来る。

2007/07/17掲載

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PRIDEとHERO’S二つの商業団体/2 

私がレスリングに没頭していた頃、心拍数が180を越える試合の中で、自分の頑張りを
確認出来た試合の共通点というのが有る。
それは自分の為に頑張る試合でなく、誰かの為に闘ったという事であった。
人間の頑張り等たかが知れている。

意地や根性、怒り等、心拍数が180にもなれば何の意味も持たない。
そんな時頑張れるのは自分の為でなく、他人の為に頑張る気持ちである。
アマチュアレベルの人間であっても自分の為か他人の為かが頑張りの分かれ目と
成る。

プロとも成れば、自分と他人どころでは済まないだろう。

金 泰泳が昨日、仲間と共に喚起のガッツポーズを決めた。
そこに仲間以上の誰かがいたのか?
古くは吉田秀彦が勝利後、リング上から友人のミュージシャンに呼びかけた。
そこにファンはいたのか?
秋山となれば自分だけの為に闘っているとしか思えない。

多くの格闘家たちが自分の為だけに闘って来たとは思わない。
仲間や友人への想いもあっただろう。

しかしプロレスラーは友人や仲間を越えて限りなく広い先の人間たちの為に
闘ってくれている。
より多くの誰かの為に闘うのがプロレスラーである。
自分の為に闘うだけでは生活出来なかったプロレスの歴史そのものを背負っている
からである。

最強を求めたり、高度な技術を求めるなら、もっとそれにふさわしい
場所が格闘技ファンにはあるではないか?
PRIDEとは元々は私たちプロレスファンの為に闘った高田をプロレスファンが応援した
場所である。
黎明期よりプロレスラーの出陣無くして大きなイベント成り得なかった場所である。
そこで生まれた熱に上手く載り、プロレスラーとプロレスファンのPRIDEから
格闘家と格闘技ファンがPRIDEを支配した。

しかし、そこに、より多くの誰かの為に闘う意識を持ったファイターたちがいたのか?
高額なファイトマネーをもらうに値する意識を持った選手たちがどれほどいたのか?

私は最後にもう一度記すが、格闘技バブル亡き後、
テレビで放映されるような大きな格闘技イベントの主役はプロレスラーで無ければ務ま
らないと思っている。

そこが最強とは程遠い歌謡ショーの場であってもいいではないかと思っている。

2007/07/17掲載

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新日本プロレスファンの分岐点

90年代新日本に熱狂したのは紛れも無い「純プロレス」のファンであった。
であるのにUインターとのゴツゴツとした「純プロレス」とはいえない抗争に
熱狂したのも同じファンたちであった。

プライドが出来、かつての闘いを求める昭和のファンたちがこぞって移籍した。
それでも新日本にはまだ「闘い」を求めるファンたちが過半数を占めると思ったとき、意外な事があった。
プライドで活躍した藤田が初めて新日本に凱旋した挨拶時のあまりにも空虚な熱の無さにであった。
それでも永田のミルコ戦、安田の大晦日の4日後の凱旋時と、格闘技とリンクを保つ強さへの熱を維持していた新日本であったが、以降、
しだいに「格闘技は格闘技、プロレスはプロレス」の考えのファンと、
「強さを求める新日本」のファンに別れてしまったようである。

問題はその後新日本から駆逐された「強さを求める新日本」のファンたちである。
IGFで一時、姿をみかけたが、その後、どこに現れるのか?

私はHEROSの会場に静かにプロレスラーたちへの声援を送る、それらのファンたちの
姿を見かけていくような気がする。

2007/07/19掲載

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プロレスファンの両価性

私は私自身がプロレスファンである事を認識して、あえて記すが、
プロレスファンほど両価性を認めない人間たちはいないであろうと思っている。
愛する対象には、どのようなものでも「良い対象」と「悪い対象」が
共存している。
良い歳をした大人ならば、その二つのバランスを保ち、失望とは無縁の
確立した世界を持って愛する対象を見つめているはずである。
なのに、プロレスファンだけは「夢見る少女」の如く、プロレスという
ジャンルの両価性を許さず、失望自慢、傷つけられ自慢を繰り広げる。

幼き頃見たテレビ番組のヒーローに対して、あれは嘘だった。
裏切られたと大人になっても延々と自分が犠牲者の如く振る舞う
プロレスファンが最近は多い気がする。

プロレスラーがリアルな場所で負けた。
いちいち愛する対象の敗北に失望していたら野球ファン、サッカーファンはどうなるのか?

自らが傷つかないでいいよう純プロレスを愛するファンたちと、
純プロレスを純粋に愛するファンとは違うような気がしている。

2007/07/19掲載

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HERO’S/お化けの投票箱

私は常々、総合格闘技イベントとはバブルだと記し続けて来た。
大の男が組んず解れつ取っ組み合う競技が、何故、21世紀になって急に人気を
博したのか?
ボクシングの世界王者でさえ直前まで副業を持たざるを得ないのに、総合格闘技という
ジャンルだけが己の身の丈を忘れ、競技者もファンも大会場での英雄を夢見る。
プロレスラーの人気と集客力を頼りに大会場でのイベント型開催を基準としてしまった
ゆえにである。

私はバブル直撃世代の一人で有る。
味も分からずイタリアンを出してくれる高級店に通い、ビリヤードを出来もしないのに
プールバーの雰囲気を楽しんだ。
バブルという現象のやっかいな事はそのジャンルの根っこの「核」が非常にマニア性と
希少価値を保っている事である。
つまり一般ファンのマニア心を満足させながらも、その「核」にはもっとマニアが
いるので、飛びついた一般ファン層に入りやすさと分かりやすさを与える為に
「ゴージャス感」と「非日常感」を持たなければ、
成り立たないのがバブルの典型的パターンである。

修斗やパンクラスには行かず、音楽に例えればアシッドジャズやヒップホップの
小箱クラブには目もくれず、バブル時代での大型ディスコに流れるユーロビートの
音響と証明に熱狂する。
我こそ音楽ファンであるという自己満足と共にバブルに利用され振り廻された人びとの
集いが格闘技に例えればプライドであったと思っている。

そういうバブルに踊った人びとはいつまでもプライドがバブルであった事にも気付かず、
己が好きなはずの競技の市場規模も分からず、いつまでも格闘家たちを大会場での
イベントで見たいと願い、大会場でのイベントの熱狂こそ総合格闘技なのだと
信じきってしまっているのだ。

総合格闘技市場はバブルが弾け適正な市場規模に戻りつつある。
ロックが好きなら内田裕也のニューイヤーロックフェスティバルで弾ければ良い。
なのに紅白歌合戦でトリを飾って欲しい、そう思うファンが格闘技バブルに踊らされた
ファンたちなのである。
総合格闘技がテレビで放映され、大会場で催される以上、大衆性は否めない。
なのにテレビ放送される歌謡番組の中に格闘家たちを求めるのだ。

バブルが終わり、私は大衆性を持つ格闘技イベントにふさわしいのはプロレスラー
しかいないと思っている。
紅白歌合戦のトリは歌謡曲の歌手で無ければならないと思っている。
それがヒクソンとのトリを務められた高田と船木であり、そういうバブル以前の
総合格闘技イベントに戻りつつ今は市場規模からしても適正な事だと思っている。

私はその場所を創造するHERO’Sという団体に期待もしている。

しかしHERO’Sのやっている事は紅白歌合戦にモラルを忘れたNHKでも
出させないような歌手を参加させようとしているような事である。
谷川というプロレスファン出身のプロデューサーならば、大衆に愛される方向性と
いうものが分かっているはずである。
なのに共産主義の独裁国家でもあり得ないような「世界で一番信じられない投票箱」を
利用し、世論操作に精を出す。
ひょっとしたら当事者のカムバック試合は会場を埋めた「サクラ」のファンたちの
大「ア○ヤ○」コールで世論操作に更に精を出されるかも知れない。
この情報の時代にそういう世論操作がまかり通る。

しかし、それがバブルに踊った総合格闘技というジャンルの実態ではないか。

核のファンたちがとれほど叫ぼうと一般のファンたちは世論調査で簡単に欺ける。

HERO’S側にはそういう意識しか無いのであろう。

2007/07/20掲載

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蝉の鳴く体/船木誠勝の世界

船木誠勝が復帰に際し「負け犬」のまま終わりたくないと言った。

私は船木の言葉に私自身も負け犬で終わりたくないと感じたファンの一人である。
プロレスラーに憧れレスリングに熱中した。
最後の試合をハッピーエンドで終え、引退したものの、格闘技ブームの最中、
格闘技の試合でカムバックしてしまった。
勝つときも有れば負ける時も有った。
最後は負け試合であった。

もう違う事で頑張れば良い。何度自分に言い聞かせても、悔しさや無念というものは
それを味わった同じ場所でしか晴らせないものである。

蝉の鳴く体というものをご存知だろうか?
自らの肉体をとことん痛めつけた時、体の中で蝉が鳴くような音を感じる。

そんな日々に帰りいく船木のおかげで、私も負け犬のままレスラー人生を終えたくない
気持ちになれた。

船木誠勝という魅力的なレスラーと同時代を生きれる事に感謝している。

2007/07/21掲載

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三沢と小橋の強さの印象

プロレスで不可欠なのはこういう言い方は好きではないが、シュートの技術であると
言われて来た。
いざという時の為に懐に刃を持つ人間はなめられる事は無いという意見を多く聞いて
来た。

もちろん相手が明らかな攻撃で持ってプロレスの範疇を越えて攻撃したときは
刃を使う事は当然であろうし正当防衛の手段であろう。
しかし、どれだけ相手の攻撃がきつくても、それがプロレスの範疇の中であれば
刃を取り出す事はマット界では許してもらえない。

いってみれば刃を絶対禁止としたプロレス試合において相手に圧倒的な恐怖と圧力を
感じさせるプロレスラーは橋本真也とビッグ・バン・ベイダーであった。
当然、二人ともリアル・ファイトの場で評価に値する刃を持って等いない。
彼らの武器は鋭利な刃物でなく、重くて痛いものの正当なプロレス技であるからである。

プロレスの範疇の中に置いて、おそろしく重く痛い攻撃を繰り出した所で、
プロレスの範疇を越えているわけでは無い。
そのため、いくらきつい攻撃を受けた選手も懐から刃を取り出し使う権利は無い。
そういう条件の中で、あの二人と闘う時の選手たちのプレッシャーは相当なものが
あったと思われる。

下手に痛い技を返せば、何十倍もの痛い技が返って来る。
職務としてその技をかわす事は出来ない。
キレようにも相手の攻撃は「刃」では無いので「刃」を取り出せない。
自ずと橋本とベイダーの前で弱々しさを醸し出す試合を展開せざるを得なかった
「シュートでは強い」といわれる選手たちを私は何人も見て来た。

私は普段ノアや四天王時代の全日本プロレスは観ないが、ベイダーと闘う三沢や小橋たち
を見て驚いた事が有る。
あのベイダーにも怖れず「痛い技」には「痛い技」で返し、少しベイダーを
ひるませたかのように見えた。
プロレス内の試合でベイダーに負けない強さを醸し出していた事である。


2007/07/22掲載

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格闘技は誰の為に闘っているのか?格闘技イベントは誰の為に存在しているのか?

我々が娯楽として楽しんでいる殆ど全てのジャンルは、人間の5Fという基本的な欲求レ
ベルを、人間らしい知的な水準に昇華させたものである。
5Fとは闘う(攻撃・支配)・逃げる・群れる・食べる・性交の本能である。
人間は種の保存の為になる行為を行えば、その見返りとして、快感を得る。
本来は種の保存の為の御褒美として得られた快感を、人間は、種の保存とは関係の無い
遊びの場に用い出した。

その遊びが発展していったものが現在の多くのスポーツである。
中でも、その5Fの要素を最も多く占めるものが、球技である。
集団で闘い、逃げ、そして何らかの投擲を行い勝負を決める。

かつて集団で石や槍などを用いて、動物を追い詰め狩りをしていた頃の、原始的な時代。
闘争本能の表現法は「ものを投げること」すなわち投擲という行為で現れた。
すなわち、どのような取っ組み合いや殴り合いよりも、はるか以前より、存在していた人
間の戦闘する術とは「ものを投げること」だったのである。

集団で闘い・逃げ、ものを投げる行為によって、多くの勝ち負けを決める事が多い球技
スポーツは、その5Fにおける闘・逃・群れの本能を備えた限りなく原始的な快感をもた
らしてくれるスポーツなのである。

しかも大きな部分は、その快感が実際にゲームを行う選手たち以外にも及ぶということで
ある。
獣を追い詰め狩りを成功してくれれば自分たちの食も満たされる。
隣の群れとの戦いに勝利してもらうことは自分たちの安全を保障してくれる。

人間の分配本能というものが有る。
人に何かを与え、何かを頂く。

その分配本能や群れの欲求が昇華されているのが現代における愛の形だと言われている。
スポーツにおいて、その分配本能および5Fが最高のバランスで確立されているのが、
プロの球団とファンの関係でもある。
しかも、球技と言う特性上、投てきと言う行為は先ほども記したが、人間の闘争本能の原
点ともいえる高揚を、プレーヤーばかりか見ている人たちにも与える。

闘争のダイナミズムが有り、人間の創り出した知的なゲーム性が有り、なおかつ、分配
要求に基づいたファンとの関係が有る。

世界中で野球かサッカーの違いこそあれ、球技が人気に置いてナンバーワンスポーツで
ある要因だと私は思っている。

獣を追い掛け仕留める、あるいは違う群れとの闘い。
大切なのは何度も記すが、その闘いには期待している、勝利を切実に願う応援者たちが
いたということである。

格闘技はどうか?
格闘を専門にしながらも、人類が遺伝子の中に原始的な闘争本能の想い出として持つ
「投てき」ほどの記憶への刻印は無い。
自分の遺伝子の保存を賭けて、男同士の激しい闘いも有っただろう。
それらが当然、格闘技の闘いのルーツでもあったはずである。
村社会が出来れば、名誉的な人間らしい闘いの舞台で雌雄を決する事もあっただろう。

しかし、それは「投てき」を用い、生活の為に、多くの人の為に、獣を追い掛けて
言った群れの闘いと比べては、所詮、限りなく、個人的な闘いであったのである。

私は、私自身が、格闘技に熱中して来た。
格闘技を球技より一ランク下げて考えている意識等全くない。

それでも、これだけは言える。

アマチュアであれ、プロであれ、自分の為だけでなく、誰かの為に闘うと言う意識に
おいては、球技の足下にも及ばないと。

ただでさえ、原始的な闘争本能のダイナミズムにおいて球技には叶わない。
それにもプラス、それぞれの競技のルーツを辿れば、群れで闘い、その勝った褒美を
他者にまで分配していた投てきの闘いと、あくまで自分の遺伝子の為、名誉の為に個人の
競技を行って来た闘いとは、あくまで他者に対する意識等異なって当然なのだ。

格闘技が球技に負けない普遍的なメジャー・スポーツになる方法は一つしか無い。
自分の為ではなく、人の為に闘う事だ。
自分の為に闘っているとは記したくない。
それでも誰の為にかと広げた所で、家族のため、仲間のためといった程度までの意識で
闘う選手が殆どではないのか?

ヒクソン・グレイシーのように自分のため、家族のため、一族のため、それらを
心の支えに闘い、自分の価値を上げるのもいいであろう。

しかし、もっと広い愛の対象は無いのか?

より多くの人の為に、大衆の為に、自分が闘っていると思える選手等どこにいるであろう。

プロレスが人の為つまり偽の闘いでありながら、日本において長く大衆的な人気を得て
来た理由はそこに有る。
力道山が例え自身の名誉欲、金銭欲を第一と考えながらも、行為自体は多くの人ひどの
心を勇気づけて来た。
プロレスラーには、そういう大衆を意識した、自分たちの公的な責任感というものが、
少なくとも猪木・馬場世代まではあったはずなのである。

今のプロレスラーは大衆の為にではなく、プロレスファンの為に闘っている選手が殆どで
ある。
誰の為に闘うかと問われれば、限りなく、狭い対象の中でしか闘ってはいないのである。

しかし不思議な事が有る。
プロレス村から一歩離れたプロレスラーたちが、総合格闘技の舞台に上がれば、格闘家の
選手たちよりは、愛の対象をかなり広く持つ事に成る。

何故なら、格闘家は「プロレスファンのために闘う」プロレスラーよりももっと小さな愛の
対象の世界でしか闘っていない事を、多くの人が気付いているのだ。

私はプロレスファンでもあり、格闘家でもある。
(もっとも格闘家などという言い方等虫酸が走る。私はレスラーであるからだ)
当然、格闘技のファンでも有る。
格闘技のスターを夢見る多くの若者たちとの接点を持ってもいる。
私は彼らがプロ一本で生活出来る環境が、格闘技界に出来れば良いとも思っている。

しかし、それは無理な話かもしれない。
多くの格闘家たちは、限りなく、自分の名誉の為に、自己確認の為に、どんな理由であれ、
自分の為に闘っているからである。

例えば巨人に憧れ、巨人に入った選手がいる。
巨人の為に闘いたいと思うだろう。
そこには巨人の為でなく、多くの巨人ファンの為にもつながっていく。

愛の対象の広がりが、ただでさえ、限りなく狭い格闘技に置いて、多くの人の支持を得て、
多くの人の人気を普遍的に得る為には、誰の為に何を提供出来るのかをもっと考える
事である。

アマチュア臭漂うプロの格闘家たちが、自分たちの身の丈も考えず、大きな格闘技
マーケットを目指す。
ならば、自分たちの強さや技術以外の何を観客に提示出来るかを考えるべきなのである。

純粋に強さを競い合う舞台を見たいと言う格闘技ファンがいる。
残念ながら、そういう人たちは、自分たちがそういう舞台を大きなアリーナで見れた
実体を知っているのであろうか?
なんの経済的実体もなく、身売りを余儀なくされた。


総合格闘家の中で、興行のペイに見合うだけの適正な対価を得ている人間等、山本KID
くらいではないか。


多くの身の丈を忘れた格闘家と格闘技ファンに問いたい。
格闘技団体は貴方たちのボランティアではないのだ。
格闘技団体は慈善事業ではないのだ。

2007/09/19掲載

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秋山復帰とHERO'S/格闘技イベント存続への可能性

HERO'S韓国大会で秋山の復帰が確実のようである。
私的には、所詮、どれだけ多くの人が復帰に反対しようとも、HERO'S側は間違いなく
秋山を復帰させるであろう。
ならば韓国での復帰が妥当であるとは思っている。

私は秋山にはこのままプロとして大舞台の格闘技イベントに上がる資格は無いと考えて
いる。
それでも、一時は、多くの柔道少年の憧れを集めた男である。
少なくとも秋山と一緒に入場した少年柔道家たちに、国内での復帰で激しいブーイングに
さらされる秋山を見せる必要も無いのだ。

柔道少年たちの為にも、国内でいかなる姿もさらす事は無い。
黙って消えてしまうべきことをしたのだと私は思う。

かといって復帰がどうしようもない流れならば、国内で、悪者の姿をさらけだす必要等
無いのだ。
秋山の為ではない。
秋山を信じて一緒に入場して来た子供たちの為にだ。

私は昨年の大晦日前、秋山と一緒に入場することを誇らしく語る少年たちと触れ合った事が
有る。
私的な意見であるが、彼らに秋山は悪い事をしたと伝えたい気持ちは無い。
信じる心はそのままにしてあげればいいのだ。

だから秋山よ、もう国内では子供たちの前にいかなる姿も見せるな。
黙って消えてくれとの想いが本音である。


しかし、それにしても、これだけの世論に反して、秋山復帰にこだわり続ける
HERO'S側の意図とは何であろうか?
一部に伝えられているようにスポンサーの関係が大きいのだとしか思えない。

所詮、格闘技団体等スポンサー無くして有り得ないのだ。


プライドも、あれほどの集客力と熱を持ちながら、実際には赤字興行を続けざるを得なか
った。
ビジネスとして成り立っていなかったのである。
成り立っていないものにファンが群がる。
私が格闘技イベントの矛盾に苦言を呈し続けて来た根本的な理由である。

90年代の新日本はまだ堅実では有った。
しかし盛況に見えて、選手のギャラの沸騰に追われ、意味の無い消費的・刹那的なイベン
トを連発せざるを得なかった。

私が子供の頃より、どれだけの在阪球団が身売りを余儀なくされたであろうか?
いくら選手がチームの勝利に貢献した所で、興行的にペイ出来なかったのである。
オーナー会社の営利とは反対にある好意であれ、広報的な意味合いであれ、結局は
身売りされたのである。

身売りとなり多くのファンが嘆いた。
私は学生時代、閑古鳥の鳴く大阪球場のナイター後の掃除のアルバイトをしていた。
その時の応援席付近のゴミの多さや汚れと、それ意外の綺麗な客席のギャップを知る者
として強く思う。
貴方たちがいくら応援しようが興行的に成り立たなかったのだと。

格闘技イベントとて同様である。
興行的に成り立たないものに、一部のファンが熱狂し、もっとマニアックに、もっと演出
をと求める。
もっと、やっかいなのは、会場が満員に成ってすらペイ出来なかった格闘技イベントの
本質である。
出血大サービスを繰り返す瀕死の状態のイベントに、これ以上、何を求めるのか?

格闘技ファンが何を求めようと、もう、格闘技ファンだけでは大きなイベントをペイ
できる力は無いのだ。

格闘技ファンがどれだけ集まろうと、大規模なイベントは興行的に成り立たない。
それが適正な市場規模なのだ。
それでも、多くの格闘技ファンは大規模型の興行の夢が忘れられないでいる。

それならば、方法は二つしか無い。

スポンサーを容認する事である。
スポンサーを引っ張ってこれる秋山さえ認める事である。

あるいは、スポンサーに頼らずとも、興行をペイ出来る本物のスターを育てる事である。

しかし、本物のスターがどういうタイプであれ、今の格闘技イベントがジャンルのファ
ンの適正規模でないならば、ジャンルを超えた規模のイベントを成功させる為には、
ジャンルのマニアの嗜好から外れた選手が必要である。
それだけは気付くべきだと私は思う。

2007/09/21掲載

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浜口京子よ/気合いを捨てろ!

私がレスリング経験者でありながら、レスリングの記事をエントリーしなかったのは理由
が有る。
私ごとき三流レスラーが、一流レスラーの舞台に対して、ああだこうだと記すのは、恥ず
かしい事このうえないからである。
しかし、見てられない事が有る。
浜口京子である。

私は個人的に長州力の大ファンであった。
その長州力の最高のパートナー、アニマル浜口の娘さんがレスリングの舞台で王者となった。
応援せざるを得ないはずである。

気合いで王者となってきた。
しかし、もう気合い等捨ててしまえ。
心底、そう思う。
お父さんから離れるのだ。

お父さんが悪いのではない。
お父さんはお父さんで厳しい闘いの世界を生きて来た。

しかし浜口京子が今、闘っている舞台とは別の厳しさの舞台で闘って来た人なのである。

レスリングとは瞬発力や気持ちの強さ無くして勝利は有り得ない。
しかし、同時に筋弛緩無くしてかからない技が半分はある事は事実である。

気合いだ、気合いだと、試合前から自分の心臓を攻めてどうするのか?
自分で攻めずともレスラーの心臓は、試合中、心拍数180の世界に引きずり込まれるので
ある。

自分くらい自分の心臓に優しくしてあげれば良いのだ。

笑いビクスというのも正にわらいものである。
本当の筋弛緩法を身につければ良い。

自分で自分の体に気合いを入れる事で、自分の体を堅く緊張させ、結果的に気持ちとは
裏腹に、攻撃が出せないのだ。


北京までお父さんと離れれば良いのだ。
お父さんに置く尊敬の念を持って、赤石光生、金浜良、この二人のレスリングに全面的に
師事すれば良いのだ。

アニマル浜口は偉大な男だ。
偉大な闘う男である。
しかしルチャは知らない。

ルチャを知らない男にルチャを教えてもらう必要などない。
それと同じ理屈だ。

独り立ちすれば良いのだ。
独り立ちした後、必ず金メダルを得られる。

得られた後、お父さんの偉大さを必ず再認識できるはずである。

お父さんも一人で闘って来たのだから。

2007/09/23掲載

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オクタゴンの彼方へ/壁の有る闘い

プライド出身選手たちがオクタゴンで苦戦を強いられている。
私は金網に入った事は無い。
それでも勝手な妄想ながら金網なら平面だけのマットよりは楽だろうなという気持ちは有る。

かつて全国的に名の知れたレスリング選手が私に語ってくれた事が有る。
「自分の適正を考えたら、総合をやるなら金網です」と。

まず金網でグラップラー…というよりもレスリング選手にとって、タックルで走りきる
目安がつける事が大きい。
ある程度タックルを切られる事を前提に置いても、金網までとにかく走りきれば良い
のである。

またレスリング選手にとっては、相手の後ろに大きな壁=金網が存在している事は、
精神的、肉体的にかなりの利点を持ちながら、攻め込む事が出来る。

逆に壁も何も無い平地で打撃系の選手と闘うよりは、打撃に対する恐怖心もましなはず
である。
いくらオクタゴンがリングよりも広くてでもある。

まぁ、これはオクタゴン等経験する事も無い私の勝手な妄想として聞いていただければ
良い。

ならば、なぜ、レスラーのダン・ヘンダーソンがジャクソンに負けたのかの話になる。
ランベイジ・ジャクソンのベースはレスリングだからとしか私はいえない。
壁に対しての恐怖を持たないジャクソンは心理的ブレッシャーを感じる事無く、
打撃を放てたはずである。

私は格闘技ファンの嘲笑の中の永田対ミルコで気付いた事が有った。
差しに行った永田を全身を硬直させて、突っぱねて逃げたミルコは平面世界の
闘いに救われたのだと思った事が有る。

突っぱねたが最後、壁の有る闘い、いつまでも相手のタックルやアタックを防げる
バランスを保てる事は無いと私は思っている。

逆にオクタゴンと比べて平面世界であるプライドのリングで、ミルコを追いつめたのが、
ケビン・ランデルマンである。
ミルコを逃がさずコーナー際まで押し込む事に成功し、プレッシャーを与えた。
コーナーを離れた展開に置いても、壁の有る闘いのプレッシャーをミルコに与えたと
私は思っている。
2007/09/25掲載


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浜口京子よ/プロレス昭和異人伝管理者の願い…絶対に勝ってくれ!

前回に続いて自分のレスリングの実績は置いといて浜口京子への意見を記させてもらう。
また、K-1心中様がレスリングの記事を書いて頂ける事は、レスリング者として本当に嬉しく思います。

私の浜口京子が闘う舞台とは程遠い、つたないレスリングキャリアから記す事を許して
もらえば、お父さんの存在が今の浜口京子のスランプを招いている。
お父さんはプロレスと言う立派な舞台でトップを勤めて来た立派な男である。
しかし、返す返すレスリングは知らないのだ。
アニマル浜口の努力家ぶり、根性、気合いを持ってすれば、おそらく、アニマルが
若かりし頃、レスリングに没頭すれば、必ずトップ級に躍り出た人間である。
その事は同じ血を持つ京子が証明している。

しかしレスリングはした事は無いのである。
自ずとありきたりの精神論に偏ってしまうはずである。

ヒクソン・グレイシーの強さの秘密が分かる人は分かる。
簡単な事である。
多くの格闘技者が疎かにするスポーツ心理学を大切に実践しているからである。
徹底したイメージトレの中に落とし穴がある。
イメージトレの中に、いかなる苦境に陥っても挽回出来るイメージを繰り返す事で、
ヒクソンは自ずと高田、船木と、己のレベルとはかなり劣る相手との戦いにさえも、
苦境を導くのである。

浜口も同様である。

気合いだ、気合いだと、ただでさえ心拍数180を越えるレスリングの試合で自分を
追いつめ、苦境に勝つ自分をイメージする事で、苦境を招く。
気合いで攻める自分をイメージする事で、気合いで自らの体を堅くさせ、自分の技が
出せない。
こんなこと、多くのレスリング経験者なら分かる事である。

なのにアニマル浜口に遠慮して誰も言えない。
それだけアニマル浜口は偉大な男なのである。
頼むから、もっと偉大な男にして欲しい。

浜口京子にスポーツ心理学の最低限の基本を教えて欲しい。
もう気合いも新しい技もいらない。

それさえ勉強すれば必ず金メダルは取れる。

2007/09/27掲載

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posted by shingol at 20:39| スポーツナビ版アーカイブズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

昭和のプロレス者・プライドに散った谷津嘉章/改稿板

私が中学1年か2年かの6月、新日の特番がワールド・プロレスリングとは別に、水曜スペ
シャルか何かの枠で放送された。
新日初登場のブッチャーと、この年を最後に新日を去ったハンセンが夢のタッグを結成し
て、猪木とレスリング出身の大型新人谷津のタッグと闘った。
この試合前、半年ほどアメリカ東部マットで、プロの試合運び、ゼスチャー、マットワー
クを習った谷津に対して、ブッチャーとハンセンの新人いじめとも思える暴れっぷりは
壮絶を極めた。
谷津に本物の流血の洗礼を浴びせながら、その流血した傷口にブッチャーは爪をえぐり
こませた。
ハンセンの肉体的猛攻とブッチャーのラフ・ファイトに失神寸前の谷津は、ついに本物の
血と共に、本物の涙を流しながら、断末魔の叫びを上げてしまった。
最後、ハンセンのラリアットが決まったが、受身を知らぬ谷津の体はマットと水平の状態
を保ちながら壮絶な吹っ飛び方をした。
私は以後、これほどまでに鮮烈で凄惨な試合は見たことが無い。
この試合を観戦していたレスリング全日本監督で金メダリストの富山英明は後に著書の中
で「プロレスはショーとはいえ凄まじいものがあった」と記した。

この試合でプロの洗礼を浴びたかに思えた谷津であったが、以降も、この試合がトラウマ
の如く、天龍のにらみつけにマット上でリアルに固まり、ブロディの額に置いた自分の
左拳に対して力の無い右のナックルを連発してぶつけていった。
それらの姿は、よほど国内デビュー戦で懲りたのか、プロレスの予定調和を必死に守ろう
としているかに思えた。
国内デビュー戦を最初で最後に、ハードな試合を自身の試合から省いた谷津は、以後、
当たり障りの無い「型」としてのプロレスを生業としていたかに思えた。
ところが、突然プライドに登場した谷津は、国内デビュー戦に等しいハードな試合を余儀
なくされる。
グッドリッジの猛攻に試合を投げ出さず、職務を最後まで遂行した。
フラフラになりながらの、その姿に、国内デビュー戦において、瀕死の状態からハンセン
のラリアットを受けて職務を遂行した若き日の谷津の姿を見た。
            (2005年09月13日本サイト投稿記事)

2007/09/30掲載

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posted by shingol at 20:37| スポーツナビ版アーカイブズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

昭和のプロレス者・ジャック・ブリスコのハイクラッチ/改稿板

ジャック・ブリスコは、その力強さなど微塵も感じさせない身体つきとは裏腹に、対戦相
手から、その強さを讃えられていたレスラーである。
足4の字固めを得意としていたが、プロレスのリングに、アメリカのカレッジ・レスリン
グ特有の「ハイ・クラッチ」と呼ばれるタックルを初めて持ち込んだレスラーでもある。
試合の序盤、必ず、一度は相手の右肘を上げ、滑り込むような動きで右足から両足と捕獲
するアマチュア・レスリングの技で相手を倒し、そのまま相手の足を痛めつける動きは、
当時、多かったアマレスとプロレスの複合ムーブの一つであった。
ドリー・ファンク・ジュニアも地を這うように相手の足に飛びつく様は、明らかにアマチ
ュア・レスリングの動きであった。
アマチュア・レスリングを賞讃する訳ではないが、当時のレスラーは皆、そういった説得
力のあるつなぎ技をこなすレスラーが多かった。
猪木のあの長い足を生かした小内刈りは、私も実際にアマチュア・レスリングの試合で真
似て使った事が有る。
現在、伝統的なスタイルの定義というのが、誤解されているような気がする。
決してクラシックなスタイルというのはプロレスの型として存在している訳ではない。
単にプロレスの型など役者や学生でも出来る。
しかし、プロレスの伝統的なフォームとは相手を実際にテイクダウン出来る技術を持つ
人間たちのディフォルメされた動きである。
ディフォルメされた動きだけを型として演じるレスラーは所詮、クラシックなスタイル
のギミックでしか無いのだ。

2007/09/30掲載
posted by shingol at 20:36| スポーツナビ版アーカイブズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

裸のプロレスラー

最近、解散したCTUなるユニットもそうであったが、このところのマット界では、等身
大かつ自然体のふざけキャラというものが増えて来たような気がする。
ふざけた連中でなくとも、マスコミの前で妙に自然体の姿でリラックスした姿を見せつけ
るインタビュー等が増えた。

しかしマスコミ相手に等身大の姿を見せる事がとれほど自分たちの神秘性や色気を無くし
ているのか今のプロレスラーたちは分かっているのだろうか?

おふざけキャラの真骨頂ともいえるケンドーカシンであるが、彼の場合は逆におふざけ
キャラを演出しているのであって、洒落の効いた言葉に埋め込む本音以外は、神秘性を
保つ人間である。
素の自分を見せる事が無いからだ。
逆にカシンの本音インタビュー等あれば、かなり価値の有る代物ではなかろうか?
自身のキャラクターを貫き通し、素の自分を見せる事が無いという意味では、マスコミ
とも対峙しているのである。

今のプロレスの市場規模と同じく狭いプロレス村の中で、やけにオフレコの姿を見せて
いるプロレスラーを見ていると色気のかけらも無いなと感じてしまう。
友達の前ではしゃぐような姿をファンの前で見せる時点で終わってしまっているのである。

そういう意味では、長州力、船木誠勝、ケンドー・カシンといったレスラーには、それぞれ
形は違えど、素の自分を安売りしないプロ意識というものを強く感じる。

2007/08/27掲載

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posted by shingol at 19:59| スポーツナビ版アーカイブズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

私、プロレスの味方です/格闘技ファンへの問題提起/桜庭対柴田より

いよいよHERO'Sが日本人プロレスラー同士の闘いに打って出る。
谷川プロデューサーのどこか潜在意識の中でプロレスラーに対するリスペクトがあるのは
事実である。
またHERO'Sにプロレスファン…というよりもプロレスファンの難民層を取り込みたいと
いう魂胆も垣間見えてしまう。
何より、プロレスラー同士が闘う世界は、そういった難民層には感情移入のなかなか難し
いカードであるが、同時に、プロレスラーが他の格闘家に破れるショックは和らぐ。
勝つのもプロレスラー、負けるのもプロレスラーならば、差し引きゼロのリスクの少ない
世界で有る。
谷川プロデューサーのずるさの真骨頂である。

私は常々、テレビで、大会場で行うような格闘技イベントにはプロレスラーの投入無くして
有り得ないと記して来た。
人間は体格一つ取っても、自分と同体重の人間たちにショースポーツとしての非日常を
感じられない生き物である。
競技性と商業性が大規模の会場、テレビ中継で成り立つほどの格闘技の市場規模は存在
していないと私は思っている。
始めて観た格闘技がプライドであった格闘技ファンには同情する。
気分を高揚させる非日常の演出、大会場でのスペクトル感に洗脳された、ただのバブル
ファンではないかと思っているからだ。
軽中量級をメーンにした格闘技の市場の適正規模はパンクラスであり、修斗であると思って
いる。

HERO'Sが目指すものは大衆向けの娯楽スポーツである。
格闘技ファンが何をいおうが、プロレス難民層のファンの取り込み、及びプロレスラーの
出場無くして、そういった大衆性は有り得ないはずである。

プロレスラーが格闘家に技術面で遅れている月日の倍は、逆に、格闘家たちはプロレスラー
たちに大衆に支持される意識の持ち方に対して遅れているからである。
プロレスラーはファンの為を考え闘う存在である。
プロレスが長くファンに愛されて来た理由をもう少し考えてみれば良いのだ。

私が理解出来ないのは、プライドやHERO'Sといった最大公約数向けの格闘技イベントに、
競技性を求め、プロレスラーたちを拒絶する連中である。
彼らは紅白歌合戦に音楽性の高いミュージシャンが何故出場しないかと嘆いているような
ものである。
ライブハウスや、好きな歌手のコンサートに行けば、自分たちの満足する世界があるだろう。
なのに、何故、頑に紅白歌合戦に固執するのか?
格闘技ファンといったところで結局は競技性云々ではなく、大会場でのスペクトラム感、
演出による高揚感の世界を目当てにする大衆性目当てのミーハーファンでは無いのか?
佐藤ルミナのように黙って、プライドやHERO'Sには目もくれず己の闘いを満たしてくれる
場所を探せば良い。
しかし、佐藤のような、自分たちの競技の適正な市場規模を知る格闘家もファンも殆ど
存在していない今、彼らが格闘技イベントはバブルだったと気付くにはもう少し時間が
かかりそうである。
バブルだったからこそ中量級にまでスポットが当たった。
本来、大衆に愛されるスター無くして大衆ジャンルが成り立たないことを知るべきである。

2007/08/28掲載

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posted by shingol at 19:44| スポーツナビ版アーカイブズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ゴッチさんメモリアル/鈴木みのるとゴッチ式パイルドライバー

今でこそ、プロレスラーとしての自我を身に付けた鈴木みのるであったが、デビュー
当初はアマチュア・レスリングへのこだわりを持つ男であった。
片足タックルからドロップキック。プロレスには意味の無さそうなアンクルホールド。
UWFに行けば、タックルを全面に押し出した。
そんな鈴木みのるのアマチュア・レスリングへのこだわりとプロ入り後の師ゴッチさんとの
出会いによる融合技がゴッチ式パイルドライバーである。
実はゴッチ式パイルドライバーとは、アマチュア・レスリングのレッグ・ホールドそのも
のの技である。
ネルソンと同じく当時の高校生必須の基本技でもあった。
当然、鈴木もその技をプロ入り前から身に付けていたであろう。
しかし、そういう技をプロレス技として昇華させるに至ったヒントはゴッチさんとの出会い
に他ならないのだと思う。
私事だが、私の下手くそなレスリング技術の中で、片足タックルのカウンターとしての
レッグ・ホールドは試合でポイントを取れる数少ない技であった。
ゴッチさんに追悼の意味を込めて、これからはその技をレッグ・ホールド改めゴッチ式
パイルドライバーと呼びたいと思った。

2007/08/28掲載

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posted by shingol at 19:43| スポーツナビ版アーカイブズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする