2007年10月04日

船木の復帰・K-1・格闘技雑感

船木誠勝の復帰には予想通り、格闘技ファンの中からのパッシングがひどい様子である。

もっとも価値観の確立された格闘技ファンなら、わざわざ船木の批判をするほど暇ではないはずである。
船木の事など批判の対象にもならないくらい、眼中に入らないくらい、UFCを楽しみ、修斗を楽しみ、パンクラスを楽しめば良いからである。

船木というスターを必要とするHERO'Sという歌謡曲のリングと、自分たちが楽しむべき本格的格闘技団体のリングとは違うことを知っている格闘技ファンからすれば、船木の復帰など批判の対象にもならないくらい関係ない事なのである。

結局、船木の復帰をとやかくいうファンたちは、格闘技の商業性を批判しながらも、実は商業性たっぷりのイベント型格闘技大会への未練が強いのではないだろうか?

イベントの演出に受身的に高揚し、大きなハードが無ければ、ソフトとしての格闘技の試合など楽しめないなら、最初から格闘技など観なければいいのだ。

私はそういうプロレスラーを未だに批判の矛先にする格闘技ファンが存在していることが信じられないのだが、かつても似たような状況があった。

かつてのUWF信者たちである。

商業性まるだしの格闘技風プロレスに夢中になりながら、既存のプロレスラーを批判する事に夢中になっていた連中である。
本格派、マニア気取りで商業性を批判し、その実、それらの団体の商業性にこそ取り込まれているのである。

そういう意味では、K-1は人気も安定しつつ成熟したジャンルになりつつあると感じる。
時に過剰な商業性(モンスター路線など)に走ることもあるが、一競技の最高峰の場所として立場と、大衆性が、他の格闘技団体よりはバランスが取れていることは事実である。

総合格闘技には、まだ競技レベルと大衆性のバランスがとれた舞台は存在していない。
プライドが人類最強の男を決めるというキャッチフレーズでトーナメントを開いたところで、K-1グランプリの格式には遠く及ばない。
煽らなければ認知されないトーナメントのまま終焉を迎えた団体と、長く競技としてのトーナメントを続けてきた団体とでは、同じ大衆向けの商業団体という点では同じでも競技性、競技レベルの認知度という点では全く異なるものである。
K-1は、K-1という一つの団体、ジャンルの中に、技術を論じる核のファンからテレビがあるときは欠かさない大衆ファンまで、何層にも分かれた
ファンに支えられている固定ジャンルであることは事実である。

実はこの大衆性と競技性の一致した姿というのは、ブームが起き形を崩す前の昭和の新日本プロレスと同じなのである。
(当然、新日本の競技性というのはジャンルの専門性という意味に置き換えて欲しい)
週刊ファイトを読みふける深いファンから、テレビ中継だけは欠かさず見るファンと、一つのジャンル、一つのコンテンツを何層にも分かれたファンが取り囲んでいる。

一つのジャンル、コンテンツに、マニアから一見まで何層ものファンが取り囲む安定したジャンルは格闘技関係に関して言えば、かつての新日本とK-1以外存在していないというのが私の考えである。


HERO'Sに関して言えば、そういう幅広いファン層に包まれるコンテンツの可能性を感じている。
つまり大衆性と競技性を両立したコンテンツを目指すのである。
ただし、その場合の競技性は専門性と置き換えるほうが良い。

強さや競技レベルでなく、歌謡曲としての音楽の専門性を追及するのである。
歌謡曲といっても口パクはしない楽譜の読める歌手たちが集まるのである。
テレビで観るリアルファイトならプロレスラーがふさわしい。
私はテレビの一見さんが船木誠勝をどのように観るのか楽しみである。

2007/08/29掲載

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プロレスに満足等必要なのか?

プロレスとは本来、想像力を働かさなくては意味の無いジャンルである。
見えないものから、何かを見つけ出す。
意味の無い者から意味を見いだす。
私がプロレスに対して、そういう考えを持つに至った理由は、昭和の(ブーム以前の)
プロレスファンだからである。

私が観て来たプロレスは商業スポーツ、はっきりいえば胡散くさいショーでありながら、
観客を満足させない事、もしくは期待通りの満足を与えない事に関してショーらしからぬ
不思議なジャンルであった。

アントニオ猪木の試合には求める満足感等ほとんど無かった。
いつも唐突にフィニッシュが訪れ、呆気なさに包まれながらも、プロレスとはそういうもの
だと私は思っていた。

今のプロレスと格闘技は、顧客満足を第一の目標に掲げる色気無きジャンルである。
観客を満足させる為のベストバウト、熱戦、好試合。
観客を高揚させるための非日常感たっぷりの演出。

今のファンに耐性や想像力等必要ないのである。
全てにおいて団体から与えられた満足や刺激による受け身的な情動しか持ち得ないからだ。

根気よく、つまらない試合、呆気ない試合、失敗したアングル(力不足故プロレス用語を
使うが)、それらを受け止め、想像力を働かす事はまず無い。
常に満足する演出、好試合、受け身的になるしか、プロレスを、格闘技を楽しめなくなっ
ているからである。

映画、小説、プロレス、全てにおいて私は満足等求めたりはしない。
私が求めるのは余韻だけである。
余韻さえ残してくれれば、受け身的でなく、能動的に、その事象について考えさせてくれ
る。

その余韻の楽しみを伝えられるプロレスラー等今は皆無であろう。

2007/08/30掲載

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プロレス隠語は使わない

私がプロレスの事を記す上で、一番恥ずかしい事は、プロレス界の隠語を用いる事である。
伝えたい事を記すとき、そういう隠語を便宜的に使用する際、自分のボキャブラリーの無
さや文章力、伝達力の無さを痛感してしまう。

シュートやセメント等のプロレスの本質を語る上で欠かせない言葉も有る。
しかし、プロレスラーでもないファンが、ブックやら、ワークやら、ジョブやら、
それらの言葉を恥ずかしげもなく多用しているのを見ていると、なんとも、こちらまで
恥ずかしい気分になってくる。

芸能人でもないのに業界用語を使う勘違いファンと何所が違うのかと思ってしまう。

プロレスの裏側や隠語は暴露本の世界から伝達された言葉であって、公にプロレス側から
発信された言葉ではない。
そういう意味では、プロレスの本質はどうであれ、いまだに現役の業界側はプロレスの
本質や隠語を一度たりとも語っていないのである。

私はブックとやらの言葉を使うくらいなら、取り決めや台本と記したい。
ワークなる言葉を使うくらいなら、プロレスと記したい。
真剣勝負か否かはリアルかフェイクかでいい。
いずれにしてもプロレス業界人の隠語等使いたくない。

それがプロレスの本質に対して勝手にファンとしての想像力を膨らますコラムを記す私のプロレスへの最低限の私的なルールであるからだ。

同時に暴露本に言葉を教えてもらう事ほど、情けない事は無いと思っているからでもある。

2007/08/31掲載

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プロレスと言う孤独なジャンル

人間とは他者との絶対的な孤独感無くしては、路頭に迷う生き物である。
人間が淋しいと感じるのは、ほ乳動物の特性としての群れる本能を遂行する為の信号でしかない。
群れることで種の安全を守り、性交することで種の保存を守る。
そのための情動として与えられた信号が、淋しさや恋愛である。

信号としての意味しか持たないのに、人間によって情緒溢れる世界と化した生活の中で
孤独感を覚えてしまいがちなのが人間である。
その孤独感を救えるのは、また、どんな心理学や脳生理学の本でもなく、情緒を満たした
小説や映画である。

私の場合はそれにプラス、プロレスが有る。
かといって今の群れる本能丸出しのプロレスラー、格闘家は大嫌いである。
同じ自分が誰一人としていない。
そういう世界を生きて来たアントニオ猪木、前田日明、長州力、船木誠勝、他者との絶対
的な孤独を感じるレスラーを包むものは色気である。

絶対的な孤独を癒すものは、他者との触れ合いの中に見つける、ほんの少しの同じ情動で
しかない。
前田日明は、月を美しいと感じる他者の心にたった一つの共感と言う同類項を見つけ、
それだけで孤独を癒してきた人間である。

プロレスと言う孤独な人間たちの救いとして最も適したジャンルが、群れた集団だらけの
プロレスラーたちによる、世間に何も提示しないジャンルと成りつつ有る。

悲しい事である。

2007/09/01掲載

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前田日明がプロレスラーに成った日

前田日明は現役時代の大半においてプロレスラーでもなく、格闘家でもなく、「格闘家願
望を抱き続けるプロレスラー」であった。

その中途半端な魅力が最大限に発揮されたのは新日本への出戻り時であった。
抑圧された条件と、旧態依然のプロレスという比較対象と、二つの条件の揃う中で、
前田日明は「格闘家願望のプロレスラー」として自己矛盾の無い世界で輝いたのである。

その輝きがUWF時代には消え失せてしまった。
「格闘家になりたい」前田を阻害する抑圧条件も無く、新日本と決別した事でプロレス
という比較対象も無い。
格闘技を出来るのにしない前田は「格闘家願望のプロレスラー」としての魅力を失って
いたのである。

前田が後に言うように、UWF時代から初期のリングスにかけて、格闘技風のプロレスを
行う事で、プロレスファンを取り込み、かつ、ファンへの格闘技の素養を身に付けてもら
う時期だったという言葉は事実だったかも知れない。
時が来ればリアルを行うつもりだったとも受け取れる発言も有ったが、結局は自分が
格闘家としての姿を見せる事は無かったのだ。
リングスの世界は格闘技演武会の様相だった初期から、後のKOKルールまで、リアルから
リアルでないものまで、混在する、私にとっては魅力的な団体であった。
しかし、その中でも前田はリアルを闘わなかった。
このまま永遠に格闘家願望を抱き続けるプロレスラーで終えるかと思ったが、違う形で
格闘家へのコンプレックスは消え去る事に成る。

確実な格闘技のバックボーンを持つ選手たちによる演武会的プロレス、若手選手による
実験的なリアルファイト、後にプライドで評価される選手たちの発掘と、リアルであれ、
プロレスであれ、いずれにしろ格闘家たちが集い様々な格闘技世界を表現するリングスと
いう場所の創造主として、自身はリアルを闘う事無く、格闘技界における地位を手に入れ
たのである。

そういう意味で、格闘技経験の無い前田が自信を持って格闘技評論家を気取れる理由が分
かる気がする。
創造主としての自負と権威が前田を格闘家へのコンプレックスから解放しているのである。

そこに至るまで格闘技願望を抱き続けた前田が、自身の属性をプロレスラーである事に
求めた事等無かった。
だからこそプロレスファンは片思いするかのように前田を追い掛け続けたのではないか。

しかし私は最後の最後に成って、前田が格闘家願望を抱くプロレスラーとしてではなく、
純粋にプロレスラーとしての自我を持ちリングに上がる姿を見る事が出来た。

カレリン戦の前に前田は「こと、新日本プロレスの受け身の技術は世界一だった」と自分
に言い聞かせるようにコメントしたのである。

私はカレリンという余りにもリアルな格闘家と闘う恐怖と不安の中で、前田が自身の
頼れる心と技術のバックボーンを必死に探し続けているような気かした。

結果、格闘家であろうと願い続けた自身の頼れる支えが、自身が否定し続けて来たプロレ
スの象徴である受け身であったことは、あまりにも皮肉であった。
リングスの創造主としての自負と権威により、前田は格闘家へのコンプレックスから解放
された。
しかし、初めてリアルな闘いを行う格闘家としての自己同一性を果たした事では、格闘家
願望を持つプロレスラーとしての矛盾が消える事で、逆に、プロレスラーとしての属性を
取り戻したのである。

属性を取り戻したからこそ初めてリアルを闘えた。
格闘家願望をも正規の形で成し遂げた。
前田日明とは間違いなく最後の最後になって、ようやくプロレスラーであり格闘家である
自分を成就した劇的な男なのである。

2007/09/03掲載

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極私的雑感・プロレスラーよHERO'Sを目指せ。

私のような昭和の亡霊のプロレスファンにとって、HERO'Sは久々に感情移入出来る試
合の多いリングである。
私のようなファンが求める「闘うプロレスラー」が揃っているからだ。

格闘技ファンとやらは相変わらずHERO'Sのミーハー化を嘆くが、本当に格闘技が
好きなら大衆イベント、歌謡曲イベントであるHERO'Sの名前を出す事すら、
自分たちのマニア度を低下させてしまうと考えれば良い。
ロックの好きなファンが紅白歌合戦のミーハーぶりを嘆くようなものである。
黙って、もっと本格的な格闘技団体を楽しめば良い。
あるいは自分で格闘技をする事である。

テレビに映る以上、強いだけでない付加価値のある選手が必要なのである。
強さ、技術だけで、歴史の長いボクシングの平均よりもはるかに多いファイトマネーを
手にして、美味しい思いを出来るだけの格闘技市場等存在していない。
そんなものを求める選手やファンが、私は本当に青臭く思えてしまう。

しかも、そんなものしかない選手を商業コストの最たるPRIDEやHERO'Sに求めても、
プロの格闘技市場は成り立たないのである。

元々、プロレスラーの知名度、集客力を持って規模の基準を設定したイベント型総合格闘
技のリングで有る。
バブルの果てに、強さや技術だけの対価として不相応の待遇を経ていた格闘技選手たちが
その規模に乗っかっていたが、再び元の適正な規模に戻れば良いのだ。

プロレスラーが出るHERO'Sを商業性が強いという意見も多いが、私はそうは思わない。
プロレスラーこそ、強さや技術以外の様々なものを投げかけ見せつけてくれる、買い手に
とってお得な良品だからだ。
しかも今のプロレスファンはHERO'Sに出陣するプロレスラーを応援する事も無く、
商業的な集客力に結びつくとも思えない。

同様に、本来、小さなカテゴリーの中で大衆ファンの目を気にせず、強さや技術を磨く
世界でこそ、格闘技に賭ける選手やファンの願望を満たす誠実でお得なリングはあるのだ。
しかし自分たちの経済的対価、付加価値を忘れ、皆が、自分の強さ、技術だけを頼りに
「身分不相応なスター」を求めて未だに大型格闘技イベントに執着する。

ならば強さや技術意外の付加価値をもっと身につける事である。
一般のファンが無条件に飛びついた格闘技バブルは終わったのだ。

自分のため、応援してくれる仲間たちの為、そんなものはアマチュアの世界ではないか。
プロなら、より多くの人の為に闘えば良いのだ。
より多くの人の心に、人生に、どれだけの力と知、衝撃と薫習を与えられるか。
そういう意識が大きい程、自分の商品価値も正当な形で上がり、大型イベントの晴れ舞台
を踏めるのである。

私がプロレスラーしか感情移入出来ない理由はそこである。
私の中の定義では、人の為に闘うのがプロレスラーであるからで有る。

闘うプロレスラーが本領を発揮出来るのは、もうプロレスのリングでは無く、HERO'S
のような大衆的格闘技イベントしか有り得ない。

そんなリングに、私が先ほど非難した純粋でピュアなアマチュア精神の格闘家たちが
上がるのならまだしも、秋山と言う自分の為だけに闘う最たる男がリングに上がる。

谷川プロデューサーは結局はプロレスラーの素晴らしさの本質は分かっていないようで
ある。

2007/09/03掲載

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田村対モンターニャ・シウバに感じるプロレスの予感

私はプロレスの殺気や緊張感というのは選手の気持ちの「溜め」であると思っている。
勝つ事にのみ集中出来る競技でないからこそ、というよりも、勝っては行けない制約の
中でこそ殺気や緊張感とが生じる場合もあるのである。

田村としてみれば、モンターニャ・シウバという重い相手の攻めを受けなければいけない。
痛い蹴りを放てば、シウバがいつ切れるか分からない。
そういう過酷な状況の中で、競技でない以上、シウバ相手に自分の懐の刃を持ち出す事
は出来ない。
シウバは確か新日本プロレスで通常のプロレスを行った事もあるものの、プロレスと
割り切るには少々スティッフな田村の痛い蹴りを受けても、プロレスの仕事を
淡々とこなすほど大人しいファイターではないと思っている。
恐怖を感じたとき暴走したK1時代の前歴も有る。
そういう意味で、刃を振り回すシウバよりも、刃を懐にしのばせるシウバのほうが
爆発前の不気味さは有る。
そういうシウバに気を使い、気の抜けた演技としてだけのプロレスしか展開出来ないよう
であれば、田村のプロレスラーの資質は結局は、手の合う相手、切れない相手としか出来
ない身内レベルのものでしかない。

しかし田村はUインター時代、リングス時代と、刃を懐に忍び込ませながらも、山本、
あるいは多くの危ない外国人選手と真剣勝負ではなく、プロレスを成立させた男である。

二人の試合は気の抜けた格闘技風プロレスになることは無いと思っている。

私は、アントニオ猪木がこの試合は自身とアンドレとの試合でなく、前田とアンドレの
試合に通じる緊張感を醸し出す試合である事を期待しているのではないかとふと思って
しまう。

2007/09/04掲載

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極私的・私が長州力を好きな理由

私にとって長州力は最大の憧れのレスラーで有る。
かといって長州のファイトスタイルが好きなわけではない。
アントニオ猪木のプロレスを見て育ったファンに取って、ああいう売れ線的なファンに
耐性を与えない試合は好きではない。

私は長州力と言うプロレスラーが好きなだけである。
私的な事を記させてもらえば、私は在日韓国人として生まれ、プロレスファンと成り、
レスリング競技にも没頭した。
私の全ての属性を満たす人間が長州力であるからである。
かといって属性を満たすだけでファンになったわけでもない。
長州の生き方、醸し出す暖かさ、優しさ、頑固さ、強さ、全てが私の憧れで有る。

在日の社会で長州力は間違いなく成功者である。
五輪に出た事で一生分のアスリートとしての信用を勝ち取った。
私たちの流れている激しい血を、社会性の伴った格闘技での成功に昇華させた。
激しい血を暴力に陥れなかった人生の成功者なのである。

そんな長州を勝手に自分の長兄のように見つめて来た。
当然、次兄は前田日明である。
となれば父親はアントニオ猪木である。
私はそういう馬鹿で幼稚なプロレスファンとして、三人の後ろ姿を見つめ、実人生を歩める
事が出来た。

成功者・長州の人生がWJの失敗を機に傾き始め、心身ボロボロの状態で、若い選手と
ともに、リングに上がり続けている。
先は分からないが、長州の人生が成功者として終わる事を信じながらも、今でも闘う長州
から力をもらっている自分を感じている。

2007/09/04掲載

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二つのゴング誌復活

私のような昭和のプロレスファンに取って二つのゴング誌上が
同じ日に発売されるという事は生活上のささやかな楽しみを纏
った一日であった。
予想通り「G魂リング」誌のほうは週刊ゴングの流れを受け継
いだ良くも悪くも消費的なラフな作りながらも、誌面にはしっ
かりとしたこだわりが感じられる雑誌であった。
「G魂リング」誌にも期待しつつ、私のような40手前の昭和の
プロレスファンはどうしても月刊ゴング、別冊ゴングの丁寧な
作りを思い出させてくれる「Gスピリット」誌に見入ってしまう
のも事実である。
私くらいの年齢に成ると日常生活に置けるプロレス関係に費や
す時間や財布の割合は出来るだけ限られたものにしたいと思っている。
プロレス以外のものに触れ、人生の様々な愉しみを覚えつつ、
それでも、ふとプロレスに帰れる雑誌があればいい。
そういう意味で、スローライフ誌を目指すと言った清水編集長
の言葉そのものの素晴らしい月刊プロレス誌が完成したと思った。

2007/09/05掲載
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佐々木健介が無くした艶

佐々木健介が初めての海外遠征に出掛けたとき、雑誌のインタビューで、橋本真也への
大胆な挑発を行った。
すでに仲良しこよしの身内の群れと成りつつ有った新日本プロレスの中で、その群れの
ボス橋本真也に対して投げつけた辛辣な言葉は、当時としては珍しく、本音まじりの
シュートなインタビューでもあった。

帰国後、肉体と表情の逞しさを醸し出したものの、そのファイトスタイル自体は前座時代
と殆ど変わらない、装飾感の無いファイトぶりであった。
しかし三銃士という個性的な面々が揃い出した事で、逆に装飾感の無さが一つの個性と成り
得る事にもなる。
新日本の一つの側面で有る、ストイックさ、真面目さといったイメージの縛りを、結果的に
佐々木健介が受け継ぐ事で、三銃士といった前面に立つスター選手たちが、新日本らしか
らぬ各々の個性を自由に発揮出来たとも私は思っている。

その真面目さ、ストイックさを最も感じさせてくれたのは、ホークと組んでの福岡ドーム
での橋本、蝶野組との闘いであった。
ふざけ気味、茶化し気味に、リングに立った相手に、控え室で尋常ではない怒りを爆発さ
せた佐々木健介を見るにつけ、私は、当時の新日本の自由な選手たちとは相容れられない
佐々木のレスラーとしての生育歴と考え方をはっきりと感じた。

その真面目さ故に、気迫溢れるファイト振りが無機的かつ、やや前時代的なものとして、
揶揄の対象となったことも有る。
しかし、帰国当初の前座自体と変わらぬ逆一本背負いを主体とした無骨なスタイルと、
新日本を埋めるファンたちの要求通りのラリアートスタイルとは別物である。
真面目さ故に、己の本来の無骨のスタイルを、ラリアートプロレスという売れ線に
変えてしまったのだ。

しかし、表向きのスタイルが変わった所で、新日本に真面目さや堅さを求めるファンに
とって、佐々木健介の発する気迫、ストイックさは多少の艶を醸し出していた事も事実
で有る。

新日本を出て、苦労を経て、今のプロレス村にふさわしいアットホームなキャラクターと
して成功している。
それはそれで佐々木健介の事が嫌いではなかった私としては、嬉しい気持ちである。
多くの若手を抱える甲斐性有る男でもある。


しかし凱旋帰国時、黒のショートタイツでパイオニア戦士相手にリアルな武者震いを起こ
しなから堅い試合を展開した佐々木と今の佐々木は別人でもある。
自由になる、堅苦しくなくなる、孤独で無くなる。
そういう事が、一レスラーの艶をこれほど無くしてしまう事を、佐々木健介を見て
改めて感じた。

2007/09/06掲載
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posted by shingol at 19:27| スポーツナビ版アーカイブズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

プロレス昭和異人伝管理者の独り言

私にとってプロレス雑誌の類いは、大人に取って人生に何のクオリティももたらさない
消費雑誌としか思えないので、ここ数年はプロレス雑誌は全て立ち読みで済ませていた。
どうせクオリティが無いなら徹底機に馬鹿馬鹿しい方が良いので、大阪スポーツを会社
からの帰路、たまに買う程度である。
しかし月刊「Gスピリット」誌は読み応え有る雑誌だったのでつい購入してしまった。
月刊ゴングや別冊ゴングを思い出させる丁寧な雑誌作りと見応えの有る記事は、久々に
プロレス少年時代を思い出させてくれるようなプロレス回帰の時間を与えてくれた。
私が嬉しかったのは、保永昇男のインタビューで有った。
プロレス村だけしか知らなければ撮れないような、保永の人間味ある表情を一ページ大の
大きさで掲載した雑誌作りを見たとき、この雑誌は大人のプロレスファンが楽しむものだ
と思った。
武藤とケンドーナガサキの対談とて同じである。
海外武者修行時代の最後の残党で有る武藤と、海外在住組の筆頭であったナガサキの対談
からは私が子供の頃憧れた、世界各地で自由に縦横無尽に生き抜くプロレスラーのダイナ
ミズムとまさしくフリーダムな世界観を感じさせてくれた。

果たしてこういう雑誌が、今のプロレス村相手に商業ベースに乗るかどうか不安であるが、
私のようなファンからすれば何とか存続して欲しい雑誌である。

その雑誌に付録のDVDがあった。
その中の愚乱・浪花対ゴルゴダ・クロスの試合を観て、驚愕した。
かなり前の試合であるが、それでもかなり前に行われたあの試合を観て、ああ、プロレス
ファンはこういうプロレスを見て来たのだな、私があれこれ今のプロレスを嘆く事は意味
の無いの事かと言う想いである。
まして、その試合が東北のインディー団体で行われていたと思うと、なんとも驚愕しか無
かった。
二人のプロレスに対する姿勢、必死さは文句の付けようが無い。
ああいう「文句の付けようが無い」カウント2.9のプロレス、大技の応酬を、平成のプロ
レス界はメジャー含め繰り広げていた事を改めて実感した。

私はプロレスファンとして実に幸せだったと思っている。
私の時代にはああいうファンを喜ばせてくれるジェット・コースターのようなプロレス等
無かった。
ハイライトなどほんの僅かで呆気なく終わる試合が殆どであった。
文句の付けようが無いどころか、文句をつける事等許されないレスラー側のリードの
試合であった。
呆気なく終わるからこそプロレスについて想像出来た。
余韻に浸れる事も出来た。

私は真剣に、平成のプロレスファンに同情してしまう。
プロレスラーが自分たちの期待通りの試合や動きをしてくれる事が、どれだけ虚しく、
余韻の無い刹那的な消費物であるかを知っているからだ。

私が違う形で同情するのは、例えば田村対モンターニャ・シウバの試合が、リアルファイ
トでない格闘技風のプロレスでしかない。
だからつまらないと決めつけるファンである。
刃を全開出来るのが格闘技なら、刃を懐にしまっているのがプロレスである。
ところが刃を懐にしまうどころか、刃を自分の体から捨て去ってしまっているのが今
のプロレスであり、かつ、勘違いした格闘家たちによるプロレスの解釈で有る。

しかし刃を懐にしっかり納め、有事を覚悟しながらも、かつプロレスを成立させよう
とするレスラーの試合ほど魅力的なものは無いのに、刃を懐にもしまわずプロレスだか
らと試合に挑む勘違いした格闘家たちが演じるのが気の抜けた格闘技風のプロレスで有る。
しかし、ここで気になる事が有る。
リアルで無い格闘技風のプロレスであるのに殺気を充満していた田村潔の過去である。
UWFは痛い蹴りをかましても決して喧嘩には成り得なかった身内同士の手の合う信頼
プロレスである。
その伝統を踏襲したのがUスタイルであるが、田村にはもう一つの側面が有る。
信頼出来ない、手の合わない連中と、ギクシャク感と殺伐さを醸し出しながらもプロレス
を成立させて来たUインターでのオブライト戦、ベイダー戦、そしてリングス参戦初期で
有る。
田村以外では永田・石沢対金原・桜庭の試合もそういった感が有った。
猪木がベストバウトと公言したその試合の雰囲気と同じく田村はプロレス内でも最も
ギクシャクと殺伐とした雰囲気を出せる選手の一人で有る。
刃を全開に出来る総合格闘技での田村。
刃を捨て去って信頼性のもと激しいプロレスを展開するUスタイルでの田村。
刃を懐にしまい込みながらも気を抜かず有事に対応しようとするプロレス内での危険な
田村。
どの田村が一番魅力的かは昭和のプロレスファンなら分かる事である。

私はモンターニャシウバとの闘いでは、久々に刃を懐に忍び喧嘩試合の覚悟も辞さない、
それでいてプロレスを成立させようとする田村が見れそうな気がする。

(追記)
今回は趣向を変えてテーマを決めず独り言のように色々書かせていただきました。

前回、田村対モンターニャ・シウバの記事を書きましたが、私の意図する想いを
読み取っていただき紹介していただいた
K-1心中様には感謝の気持ちで一杯です。

2007/09/06掲載

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posted by shingol at 19:26| スポーツナビ版アーカイブズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

秋山を倒す為に/脱力を粉砕せよ

谷川プロデューサーの言動を見るにつけ、秋山のHERO’S復帰は時間の問題であると言え
る。
谷川プロデューサーにとって幸いな事が二点有る。
格闘技を経験した事の無い前田日明の過剰な贔屓と、格闘技の問題が=朝青龍並の話題と
成らない社会の盲点である事である。
これだけ秋山の件が問題視されても、社会に問題提起されない小さなジャンルである事を
谷川プロデューサーは喜んでいる事だろう。
ここまで谷川、前田が秋山に執着しているなら、もうリングに上がってもいいのではない
かと思ってしまう。
誰でも潜在的に秋山の姿をもう一度見たいはずである。

しかし、現段階で秋山を倒せる中量級日本人選手はいないはずである。
秋山の武器は柔道を前面に押し出す事でなく、柔道で培った腰の強さを持って、安心して
打撃に専念出来る事である。
しかし、所詮、着衣アリの格闘技で有る。
裸体のレスリング相手にどれだけ腰の強さとやらが発揮出来るか私は見たいと思っている。
過去、体重の違う永田の片足タックルを、そして、タックラー石沢の両足をしのいだ経験
が有る。
私はレスリングのスペシャリスト永田と石沢の盲点を見た気がする。
単純な事である。
普段、責め合う事を前提に、タックルを打ち合う競技の中であまりにも慣れすぎた為に、
あのようにタックルを防ぐ秋山に面食らっただけなのである。
実際、私のような三流レスラーの例を出して申し訳なく思うが、私も柔道出身者、柔術家
、総合格闘家に同じようなタックルの対処をされ面食らった事が有る。
しかし、面食らった後に仕組みを知れば面白いようにタックルが決まった。
単純に言えば秋山は、腰に触れられた瞬間、足を取られた瞬間、脱力で相手の勢いを殺し
ているだけなのである。
相手のタックルを切るか、抵抗するかのディフェンスではなく、上手い具合、自分の力を
抜き、相手の力の方向への勢いを消し去ってしまっているのである。
その方法はロープが有ればなおさらであろう。
実は、私は秋山のその作戦は、桜庭相手には通じないと思っていた。
桜庭のタックルはレスリングの主流のタックルではなく、ノーパワーの代名詞とも言える
かかとを取るローシングルである。
であるからして、秋山の脱力は通じないと思っていた。
しかし、憎い事に、その事を一番知っていたのは秋山自身なのである。
結果、脱力で防ぎきれない桜庭のタックルを防ぐ為に、あのような暴挙に出たと私は
思っている。

今のHERO’Sで秋山を転倒させられる、テイク出来る選手はいるだろうか?
レスリング出身者が、あの脱力の仕組みを分かれば一発でテイク出来るはずであるが、
レスリングの強者のいないHERO’Sの現状を見るにつけ、秋山は安心してテイクダウンを
怖がらず腰の入った打撃を打ち続けられるだろう。

あの脱力を防いでテイクダウンさせられるヒントは金網である。
金網の中であの脱力が通じない事は一目瞭然であるからだ。
ならば、秋山の懐に入れば最後、押し切る事である。
そういえばヒカルド・アローナもそういう押し切るタックルが得意であった。

テイクダウンへの恐怖さえ感じさせれば秋山はあれほど打撃を打てないはずである。
誰か秋山を倒してくれる日本人選手の出現を待っている。

(追記)

この記事は秋山問題に対して真摯な問題提起を行って来たK-1心中様にインスパイアされて記しました。
いつも記事や読み物への意欲を刺激させてくれるK-1心中様ありがとうございます。

2007/09/07掲載

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UWFの真実/私的・田村潔司の本質

私自身が格闘技をしてきた中で、試合あるいはスバーリングをして楽しいと思える相手のタイプは確かにいる。
手が合うと言うか、自分の動きが出来やすい、技が発揮しやすい相手と言おうか。
そういう相手とは、動きが固まる事が無いので、適度な動きを維持出来、当然、身体的な
エネルギーを気持ちよく消費する事に成る。
田村潔司も、この気持ちよく消費出来るエネルギーの発散場所として、Uスタイルという
ものにこだわって来た。

そもそも、UWFというものは信頼関係無くして有り得なかったプロレスのスタイルで有
る。
外国人選手とコミニュケーションが取れ、こういう試合をするからと伝え、納得するなら
ばある程度の外国人プロレスラーであっても、ああいう試合は出来たはずである。
プロレスなのに、やや、ハードヒッティングな攻防をする意味が当時の外国人選手には理
解出来なかったのであろう。
例えば天龍が激しいプロレスの最中、誤ってスタンハンセンの顔面を蹴ってしまった。
ハンセンが激しいプロレスの意味を理解出来ていれば、あれほど取り乱す事も無かった
であろう。
あるいは橋本の重いキックを喰らってスティーヴ・ウィリアムスが一瞬仁王立ちに成って
橋本を睨みつけるというようなリアルな光景も、ウィリアムスが橋本の蹴りもプロレスの
範疇である事を理解出来ていなかったからである。

そういう意味でUWFとは激しい攻防においても、その最中のアクシデントに対しても、
絶対トラブルにはならない仲間内の信頼プロレスであったと言える。

気持ちの上でも信頼がある上に、レスリング面でもっとも手の合う同士の闘いでもあった。
例えば欧州風のチェーンレスリングを知らない選手が、欧州の選手とチェーン・レスリン
グが出来るはずも無い。
ロープワークが出来ない相手に、ルチャの選手の持ち味を発揮出来る訳では無い。

そういう意味で、UWFのスタイルの攻防自体が、ある種、仲間内のロープワーク、
チェーンレスリングと同じ意味としての約束事として成立していたのである。

ルチャの選手はルチャの得意な選手とやるのがベストだろう。
欧州選手なら欧州選手とやるのがベストである。
同様に田村が見せたいプロレス作品としてのUWFスタイルの相手としては、信頼の置ける
UWFスタイルを知る選手でなければ行けない。

まさしく手の合う相手、信頼出来る相手としか試合しない、安全地帯のショープロレスで
ある。

猪木と言う男は、そういう手の合う相手としか試合しない事を最も嫌う男である。
自身の経験から、猪木自身が、手の合わない相手とのギクシャクとした雰囲気の中で、
リアリズムを醸し出して来た選手であるからだ。

田村潔司とは頑に自分のスタイルで有るUWFにこだわってきた。
真剣勝負、スポーツ風のプロレスにと言うわけではなく、様々なプロレスのスタイルの
内の自分のスタイルとしてのこだわりである。

しかし何故か、何度も記して来たが、意図する試合とは正反対のギクシャクとした猪木的
世界観と同様の試合に巻き込まれて来た事も数多い。

怪我への恐怖の中で、ベイダーに痛い蹴りを浴びせた闘い。
オルブライトとの歪な一戦。
リングスに上がれば、オランダ勢、山本といった相手との信頼の出来ない相手と
一触即発の中、それでも最後にはプロレスを成立させて来た。

私はこの二面性を持つ田村の想いの原点に、自身のデビュー戦が有ると思っている。
信頼出来る仲間内との闘いのはずであった前田日明との「プロレス」で、前田の膝蹴りに
眼下てい骨折に追い込まれた試合である。
以後、どこかに有事に対しての緊張感、忍ぶ感情を漂わせる田村であるが、だからこそ
安全地帯としての仲間内とのUスタイルで気持ちの良い呼吸と汗を得る事にこだわり続け
ている一方、自身のレスラーとしての原体験での潜在意識が、望むか望まざるに関わらず
有事やトラブルを含んだ試合に巻き込まれて行くのだ。

私は中学程度の相撲のバックボーンしか無く、長年(UWFという)プロレスだけを
してきた男が、総合格闘技の中でも認知されている事は、プロレスファンとして大変
嬉しく思う。

しかし、総合格闘家として、あるいはUWFスタイルのプロレスラーとしてではなく、
ギクシャクとした手の合わない相手と闘う事で、本来の魅力を最大限に発揮するのが
田村だと信じている。

今日は田村潔司の過去を知らないファンが驚く田村潔司の本質が観られるはずである。

2007/09/08掲載

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スティーヴ・ウィリアムスとハイ・クラッチ・タックル/改稿版

もう何年前の事かは忘れてしまったが、アメリカのマットで行われたスティーヴ・ウィリ
アムス対リック・スタイナーの試合を観た記憶が有る。
なかなかスイングしない展開のまま、ギクシャクと、試合は進んで行った。
コーナーにスタイナーを追いつめたウィリアムスが突然もの凄い平手打ちをスタイナー
の頬に見舞った。
日本人が行う平手打ち以上に刺激的な意味を持つスラッピングを喰らったスタイナーは
顔面を紅潮させてもの凄いダブルレッグタックルで、ウィリアムスを吹っ飛ばした。

共にNCAAレスリング出身のエリートが、仕事でしかないプロレスを遂行する中で、
仕事以上の感情を爆発させたシーンであった。

私は以前にも記したが、スティーヴ・ウィリアムスは外国人選手の中で最も艶を感じさせ
てくれるレスラーであったと感じている。
ウィリアムスの艶の正体は押しとどめた感情である。
感情を解放するのではなく、心の内に秘める事によって、忍ぶ色気を醸し出している点であ
った。
秘めた感情の正体はものすごい闘う気持ちであったと私は思っている。

NCAAの上位の常連と言う経歴を持ちながら、職業としてのプロレスを淡々とこなす
時期も有った。
レスリングエリートのプライドが、逆にウィリアムスの心内から闘う感情を完全に消し去
っているかに思えた。
私はロシアのレッドブル軍団が来日した時、ウィリアムスが闘う意識を全開させてくれる
のではないかと期待したが、ハシミコフ、ザンギエフといったレスリングの強者相手に、
淡々と無機的なプロレスに終始することになる。
新日本相手との試合も同様であった。
軽量の新日本選手に気をつかってかドタバタとした動きの中で醸し出すウィリアムスの
試合はあまりにも無機的であり、心の内に秘めたものなど捨て去っているかのようで
あった。

しかし、全日本移籍後、体格で上回る全日本の選手相手に、激しいプロレスを強いられる
事に成るウィリアムスは心内に秘めるべき感情を取り戻した気がした。
真剣であったのだ。

NCAAレスリング出身の誇りと闘う気持ちを、リアルファイトで無いプロレスで
昇華させる事が出来たのだ。
ウィリアムスが、アメリカでスタイナーに喰らったようにダブルレッグタックルを相手
にぶつける事などなくても、己の刃としての闘う気持ちを取り戻し、かつ、その刃を取り
出す事無く、心内に秘め、必死に全日本の激しいプロレスについていった。

ところどころでウィリアムスの動きが止まる事が有った。
疲れて止まったのではない。私はその時のウィリアムスの憂いの表情が忘れられない。
激しい攻防の中、NCAAのエリートとして、プロレスラーに対して舐めるなとばかりに
ガツンと喰らわしたい気持ちも有っただろう。
飛び出しそうな感情を再び心内に納めるかのようなウィリアムスの表情が私は好きであった。

刃を振り回す事無く、捨て去る事も無く、心内にしまいこみながら闘う事が、これほど忍ぶ
者に近い艶と色気を醸し出す事を外国人レスラーでは私はウィリアムスを通じて知った。

数年後、総合格闘技のリングに上がった。
「ボーンインザUSA」か全日本時代のテーマ曲であつたか、どちらのテーマで入場したか
はよく覚えていないが、いつもウィリアムスの羽織っていたスポーツ選手らしいフード付
きのガウンを見た時、私は全米のカレッジスポーツとプロレスの両方でアスリートとして
のトップを努めて来たウィリアムスのこれまでのキャリアを想い胸に来るものがあった。

刃をしまいこむどころか、全開に出来る闘いを前にして、ウィリアムスはリング上で、
アメリカ・レスリングのお家芸ハイ・クラッチ・タックルのシャドーを繰り返した。
自身の体と家族を、咽頭ガンから守るべく、己を守る術を大学時代にまで遡り求めた
ので有る。

リングで自ら寝たのか、仕事をしたのかは、私は分からないが、私にとって最高に格好
の良い外国人レスラーはその試合以降、未だにスティーヴ・ウィリアムスで有る。

2007/09/09掲載

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運動能力の怪物 ジャンボ鶴田/改稿版

平成に入ってからのジャンボ鶴田は「体力の怪物」であったが、昭和50年代の鶴田は
「運動能力の怪物」であった。
プロレスにおいて、最もファンが沸くのは自分の願望に近い動きをレスラーがしてくれた
時である。
プロレスファンは想像力が豊富である。
ファンなら、一度は観客を驚かす技の一つ二つ、あるいは観客を沸かす試合展開を頭の中
で創作したはずである。
そういう意味ではプロレスラーは常にファンの想像とも闘って行かなければならない。
しかし、想像以上のもの、想像すらしないものを見せてはどうなるか・・・
人間は頭の中に記憶や比較の材料が無い物を目の前に出されると呆気にとられる。
呆気にとられたファンが、これはすごい事なのか何なのか、比較する材料も記憶も無い中、
館内を包むのは静寂だけである。
そういう意味でジャンボ鶴田の出現は、当時は運動能力の怪物として時代的にもったいな
かった、早すぎた感がしてならない。
今、あれだけの身長で、スタイルも良く、ほどよくシェイプされた肉体を持つ選手はいる
だろうか・・・。
その選手が驚くほど打点の高いドロップキックを放つ。
さば折りから持ち上げて、溜めを作って、真後ろに放り投げるフロントスープレックス。
当時のファンの想像の範囲外の運動能力にファンは驚きや歓声を上げる事は無かった。
人間は歓声や評価で、張り切り飛び跳ねる人間である。
観客もマスコミも見た事も頭にイメージした事も無い動きの数々を見せつけられても、
うまく驚く事も、評価することも出来なかった。
自身の運動能力が歓声に変わる事の無い中、脅威の運動能力を見せつけた鶴田の期間は凱
旋帰国後2、3年間と短かい期間であった。
ところが、その運動能力が一夜だけ蘇った時がある。
54年のオールスター戦において、会場の歓声そして一緒に飛ぶパートナーのマスカラス、
藤波へのライバル意識からか、彼らとのトリプルドロップキックにおいて、「モノ」が違う
運動能力、跳躍力を見せつけた。
比較材料が見事に揃っている現在のプロレス界に、凱旋帰国時の鶴田がいたらどうなるか、
殆ど全てのレスラーの技が色あせ、鶴田の一人勝ちのような気がしてならない。
(2005年06月09日投稿記事を加筆訂正)

2007/09/09掲載

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HERO’S柴田勝頼と桜庭和志/人の為の闘い

いよいよ明日、HERO’Sのリング上においてプロレスラー同士の大一番が実現する。
プロレスラーの共喰いならではの、どちらの敗戦も見たくないながらも、どちらにも感情
移入出来る闘いで明日の二人はどんな闘いを見せてくれるだろうか?
私は柴田勝頼がこのところ総合初戦の時と一転して、プロレスラーの自我を大いにアピール
している事が気になる。
合宿所や前座も経験して来た。
強くなる為の最短距離を走って来た訳ではない。
それでも遠回りした余分な道のり程、他の格闘家と一線を画す魅力を持つ男である。

最近の柴田の言葉からは、無意識的に、自分の為に闘うのが格闘家であり、より多くの
人の為に闘うのがプロレスラーである事を気付いて来たようなニュアンスの発言が多い。
そういう発言を聞くにつけ、今後、さらに柴田の魅力は増して行くような気はする。

ただし、誰が見ても、柴田はプロレスラーなのである。
いちいち自分からプロレスラーとしての意識を声明する事も無い。
インタビューでの内容から、察するに、おそらく、出稽古で他の格闘家たちに圧倒もされ
ただろう。
前回の敗戦と合わせ、悔しさの中で、自分の心の拠り所としてのプロレスやファンの有り
難さも再確認したのだろう。
やけに殊勝で謙虚な柴田からは、そういう雰囲気を感じてしまう。

けれど、今はまだ、プロレスラーうんぬんの時期でもない。
プロレスラーでもない格闘家でも無い、柴田勝頼個人として、余計な属性等取っ払って
属性に頼らず、強気で闘って欲しい。

プロレスラーがリアルファイトに挑むとき、必要以上に、自分の属性をプロレスラーである
事に求めたところで、勝つ事等ほとんど無い。
自分の属性を苦しい時の心の拠り所にしてはいけないのだ。

黙って闘えばいいのだ。
勝ったとき、自分がプロレスラーだと言ってくれれば、プロレスファンはそれで良いのだ。
そして、負けたところで闘うプロレスラー柴田を恥じるファン等いないであろう。

桜庭も又、自分よりキャリアの浅い新人相手に、我々が思う以上のプレッシャーは感じて
いるはずである。
私は同世代のレスリング人として、プロレスファンとして、桜庭を応援し続けて来たが、
終着駅の先は見えない状態である。
やれ打撃や、肉体改造やでなく、単純に、宝刀のローシングルのスピードさえ、戻れば、
桜庭の勢いは蘇ると未だに信じている。
それでも桜庭が大学のレスリング部に出向いてタックルのカンを取り戻す作業等行う
事は無いであろう。
我々が思う以上に桜庭にとって、プロ入り後の月日の積み重ねの期間は大きなプライドの
期間なのである。

同じように合宿所の雑用、意味の無い補強などを経てきた、二人が、単に強さの最短距離
を走って来た他の選手の揃う興行の中で、どのようなプロとしての魅力的な試合を、そして
人の為の闘いを見せてくれるか、私は大いに期待している。

2007/09/17掲載

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HERO'Sの核と主役を奪い取れ!/昭和のプロレスラーの懐メロ枠

HERO'Sの直前イベントで、前田日明、船木誠勝、桜庭和志が、ヒクソンと共に一枚の
写真に納まった。
私のような昭和のプロレスファンなら、その画像を見ただけで、感慨深い気持ちになって
しまうものだ。

しかし、同時に、何ともいえぬ虚しさを感じ得る事も事実である。
かつてならば、格闘技雑誌の一面を飾るであろう豪華な4人のそろい踏みの風景す
ら、現在の格闘技ファンの目にとっては過去の人間という冷ややかな対象でしかない。
私が感慨に浸れば浸る程、それらのファンとのギャップを感じてしまう。
逆説的に、所詮、私のようなプロレスファン、昭和世代でしか、興味を持ち得ない
過去の4人の姿を見て、虚しくなったのだ。

主催者のHERO'S側もまた、格闘技市場の開拓者であり、功労者である、彼らに対して、
尊敬の念を持っての待遇を保障しながらも、同時に、彼らを格闘技ファンの核から大き
く外れた「懐メロ」としての特別枠にしっかりと追いやっているような気がして成らない。

HERO'S側は所詮、少し前のように格闘家たちをあくまで主役としたイベントを構成した
いのである。
あくまで格闘技バブルが忘れられないのである。

しかし、私が何度も記して来たように格闘技バブルは崩壊している。
格闘技の核はあくまで格闘技ファンである。
しかし格闘技イベントの核と成るのは元々プロレスファンなのである。
黎明期、すでに伝説の男と化していたヒクソン・グレイシーの対戦相手として、商業的に
ペイ出来るのはプロレスラーしか有り得なかった。
また、イベントの会場規模もプロレスラーの集客力、プロレス人気を当て込んで設定した
規模のマーケットで有る。

その中で、しだいにプロレスラーを用済みとばかりに追いやり、前田、高田、船木、桜庭
たちが開拓して来た格闘技イベントの市場はしだいに格闘家たち、格闘技ファンに乗っ取
られていった。
バブルの果てに、本来の商品価値、経済的価値の身の丈を遥かに越えた扱いの中で、
多くの格闘家たちが踊り、また、ファンも踊ったきた。
次第にイベントの核を無くし、ジャンルの空洞化現象が起きて来た。
核無きジャンルはやがて滅びる。

HERO'S側は、その事に気付いているのかいないのか、あくまで、イベントの核とは
格闘家たちにしたい様子である。
しかし、少し前のような求心力、集客力は、今の格闘家たちには間違っても無い。
多くの格闘家も、コアの格闘技ファンも、もう既に自分たちの居場所を適正な規模の
場所に戻しつつ有る。

核と成る格闘家たちの闘いの路線では足りないものを、船木、桜庭を用いた特別に
用意した「懐メロ枠」で補いたい様子である。
足りない部分をプロレスラーの話題と集客力で補いたい。
プロレスラーに視聴率はさほど期待出来ないので、番組としては大きく扱わない。
補いたいだけで、HERO’S側があくまで考えている主役と核は格闘家たちなのである。
しかし、それは大きな誤りである。

格闘技イベントは歌謡曲の舞台で有る。
その歌謡曲の核は、中心は、あくまでプロレスラーなのである。

なぜ、日本の格闘技イベントがプロレスラー無しでは成立出来なかったのか、
バブルの熱気に乗っかり、勘違いし、もうプロレスラー無しでも大丈夫と勘違いし、
実体のない、核に無いイベントを続けて来た。
なぜ、プロレスラーが去った格闘技イベントがバブルと共に弾けたのか?
もう少し考えれば良いのだ。

「懐メロ」という特別枠に追いやっている桜庭と船木の影を持つ柴田の闘いが、実は今回
のHERO'Sの熱気の核で有る事を主催者側は知っているだろうかとも思うが、意外と
谷川プロデューサーはかしこい男である。

プロレスラーをイベントの熱気の核と客寄せパンダとして利用し、イベントを維持しな
がらも、次の格闘技界のスターの登場を待つ。
あくまで格闘家を中心にしたいのだ。

プロレスラーたちに黎明期と同じ役目をさせてたまるかと私は思う。

しかしそのような心配も不要と成りつつ有る、おそらく本日の桜庭と柴田の試合の
会場の熱気、二人の放つ光を見て、HERO'S側も、格闘技イベントの主役と核はあ
くまでプロレスラーである事に改めて気がつくであろうからだ。

2007/09/17掲載

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昭和プロレスファンの夢・柴田勝頼が勝利する為に・素人の戯言

他の方のブログを読んでいると時に感心する記述に出会う事も有る。
なるほどと思ったのが、HERO'Sにおいての記事で、格闘家をアスリート系、プロレスラ
ーたちをレスラー系と記していた事だ。
そのブログの執筆者の方には全く、他意は無かったかと思うので、皮肉ではなく、
本当になるほどと思った。
しかし、私的には何を持ってレスラーがアスリート系の対として表現されなければいけ
ないのかを考えてしまう。
レスラーが主流に成れば、まるでアスリートではないような系列の中に入れられてしま
う事もあるまい。
悪いのは結果を出せないプロレスラーなのである。

そういう意味で、柴田勝頼にはプロレスファンとして、レスリング競技者の末端として、
心底頑張ってもらいたいと私は思う。

私が、柴田勝頼の存在を強く頭に焼き付けたのは、新日本プロレスで行われたK-1の武蔵
との試合であった。
あくまでプロレスの枠内としての異種格闘技戦スタイルの試合であったが、その記者会見
か調印式か何かで、柴田は武蔵をスリーパーで絞めてしまうという暴挙に出た。
まさに競技ではないプロレスの枠内だからこそ許される実際に手を出しての挑発行為で
あった。

今回もヒクソンからの花束を会場に投げ捨てるという無礼な態度で、観客を沸かしてくれた。
一部では、ニールセン戦での前田の行為の再現とも記されているが、私的には、おそらく、
猪木ボンバイエで武蔵から花束をもらった村上和成が、武蔵に花束を投げつけ返したあの
シーンの再現を柴田は狙ったのだと考えている。
そういえば、村上のセコンドだった柴田か、怒る武蔵の胸を小突き、もの凄い剣幕で退散
を求めていたシーンも印象深い。

まさにリアルファイトの競技の場で、純粋なアスリートの対として記されるにふさわしい
柴田の暴挙ぶりであるが、残念ながら試合の結果がついていっていないようである。

柴田が船木についている限り云々という意見も有るが、柴田の利点は、大海での敗戦を
重ねている事である。
小さな舞台で、勝利を重ねても、大舞台に出れば勝てない選手もいる。
少なくともキャラクター専攻ながらも大舞台にエントリーされるギリギリの資格を持つ
柴田はまだ敗戦を重ねてもいい時期でもある。

今の格闘技ファンが何を持って、総合の技術論を記すのか私は分からない。
私は総合におけるテイクダウン至上主義者である。
テイクダウンの技術を持たずして、いくら決めの技術をもったところで砂上の楼閣で
あるという考えである。
幸いにも柴田には高校の3年間とはいえ培ったテイクダウン技術も有る。
同時に腰のバランスも有る。

今はその土台を捨てて、勝負に出ているが、どうなのであろうかとも思う。
もう少し、例えば、今程の立ち腰でない状態で、打撃を行えないものか。
(この辺り、正直、web新様に教えてもらいたいところであるが…)

最近はレスリング出身者があまりにもレスリングの利点を忘れた立ち方をしていることが
多々目につく。
こう書けば、いかにも格闘技ファンからは、レスリングのあの低い姿勢で云々と
ステレオタイプの反論が来るのは分かっているが、レスリングのステレオタイプなあの低い構えをイメージしているのは、あくまで格闘技ファンだけである。

宮田にしろ、あれだけ寝技を嫌がり、腰の引けた状態では、柔術家にも転倒させら
れるだろう。
山本も初めてといえる同じ程度の身長の相手に、あれだけの高い姿勢から打撃を放てば
タックルに入られるだろう。

私ごときの3流レスラーの体験を記しても仕方ないが、レスラーは普通にしていれば
絶対にテイクダウンされる事は無い。
しかし、あまりに寝技を嫌がると、どうしても腰がひけてしまい、猪突猛進して
突っ込んでくる柔術家程度にも転倒される事も有るのである。

柴田とて同様である。
まして打撃に頼る柴田の被テイクダウン率は高い。

私が打撃を習い始めた時、同じクラウチングスタイルのボクシングがレスリング出身者には
相性が良いと聞いた事が有る。

そういえば高橋和生のスタイルもそういう風情であった。
高橋がすごかったのは打撃を放ちながらも、決してテイクダウンをもらわなかった事だ。

その理由が、腰の位置に有るのかどうか私はまだまだ打撃に関しては素人なので
分からないが、これだけは言える。
レスラーがレスラーとしての腰の軸を忘れなければ、テイクダウン等もらうことなど
無いのだ。

柴田は下に成って相手の攻撃を防ぐようなタイプでもないし、そんな技術も無い。
もっとレスリングで培った被テイクダウン力を生かしながら打撃に行って欲しいと
思う。
極端な話、今は下からの技術等知らなくて良いではないか。
自分の利点を生かし、打撃を放ちながら、いかに本来のレスラーとしての被テイクダウ
ン率の低さを維持出来るかではないのか?

何とかして柴田には格闘技ファンの知らない技術論の盲点をついて痛快に勝利を納めて欲しい。
それがプロレスファンとしての、レスリング経験者としての私の願いである。

2007/09/27掲載
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posted by shingol at 19:14| スポーツナビ版アーカイブズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

近藤有己という波動

私はパンクラスにいる選手の中では近藤有己が一番好きである。
自分がプロレスラーであると声高に叫ばなくても、そのキャリアがプロレス団体の新弟子
として格闘家の最短距離を歩まなかったというだけで、プロレスラーである事を物語って
いるからである。
近藤の特徴はその波動感である。
闘いに似つかわしくないほどソフトで平和な物腰とたたずまいであるにも関わらず、
殺気を醸し出す選手たちの何倍もの不思議な色気を醸し出す。
近藤はきっと私たちが知らない部分で、深い精神世界を生きている人間であると思う。

私は酒と共にコーヒーが好きである。
純喫茶で安っぽいアイスコーヒーを飲みながらスポーツ新聞を読むのも楽しみであるが、
カフェで美味しいラテやエスプレッソを飲むのも好きである。
同じ値段を払うなら、間違ってもメガカフェや無機質なコーヒーショップのチェーン店
でコーヒーを飲む程、時間とお金に対してもったいないことは無いと思っている。
飲むなら純喫茶かカフェである。
個人経営の若いオーナーが手がける牧歌的でアナログなカフェで流れるアンビエントな波
動感。
そんな空気を感じる度、濃いいエスプレッソを飲みながら、近藤有己の不思議な波動感を
思い出してしまう。

今、近藤は自身の精神世界の闘いにおいて、エンジンが空回りしている段階である。
闘いのストレスから抜け出る為に、リラックスしきった近藤の精神と肉体が、リラックス
し筋弛緩した肉体と精神そのままで、サイキングアップし、ほとばしる汗とともにラッシ
ュを仕掛けられるとき、近藤の精神世界は完結するはずである。

プロレスファンなら是非、近藤有己を応援してもらいたい。

2007/08/15掲載

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posted by shingol at 19:11| スポーツナビ版アーカイブズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

本田多聞という無我

本田多聞は無我の男で有る。
あれだけのレスリング界の大物が記者会見も無く、静かに全日本プロレスに入団していた
時は驚いた。
アマチュア出身を大事にする馬場が、何故、本田に対してそういう扱いだっかのは分から
ないが、会場でマスコミに囲まれても「あまり騒がないで欲しい」と語った本田からは
プロレスに対して謙虚かつ真摯な姿勢で挑もうとする決意が感じられた。
しかし、私は、本田が年齢的に早くないデビューであることと、膝の古傷を抱えている事
も有って、プロ入りしても最前線で本田が活躍出来るイメージが出来なかった。
私自身、なにより本田のあまりにも長期間のアマチュアでの活躍を知っていただけに、本
田にフレッシュさを感じる事が出来なかったのも事実である。
アマチュアでの長い闘いを終えた本田が、輝ける場所としてか、就職口として求めたのか
、どちらであるのかは分からないものの、自身の最後の場所として静かにプロを選んだ。
そういう印象を受けた。

私がプロ入り後の本田について印象に残っている言葉が有る。
小橋との激闘を経て、本田の口から出た「小橋さんがアマチュアレスリングをしていたと
しても私は勝てなかっただろう」との言葉であった。
私は多分にリップサービスを含んだ言葉であるとも思いつつ、その言葉に本田多聞の本質
を感じたような気がする。
小橋の精神と肉体のポテンシャルを、本田多聞という確かなアスリートだからこそ確認出
来た上での言葉でもあったのだろうし、なおかつ、その言葉を言えるのは、五輪に三度も
出場した長いアマチュアでの闘いの歴史が、本田多聞にとっては、揺らぐ事の無い自身の
支えや誇りとして心の内で昇華されてしまっているからではないかと思った。

本田はそういった闘いの歴史と、多くの趣味を持つことによって、プロレスを職業として
淡々と、我を持つ事も無く、しかしながら入団時の印象のように、誰よりも謙虚かつ真摯
な姿勢で誠実にプロレスに取り組んでいる事は確かなようである。

三沢が小川直也と闘う前、なにげに「うちにも多聞がいるけど」とコメントした。
アマチュアでの激闘で傷ついた体と年齢的なものさえなかったなら、本田は総合に出て、
簡単に相手をパスガードし、そして袈裟固めだけで相手をタップさせているだろう。


2007/08/17掲載

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