アントニオ猪木はプロレスは上手くないと思っている。
立場、スター性なとで華やかなショーマン振りを見せつけてきたものの、何の装飾も無い試合で名勝負を創り上げられる職人的な上手さ等無かった。
前田日明も同様である。
彼らのショーマンとしての魅力とはプロレスのうまさとは対極のところにあったからだ。
強さや闘う姿勢、緊張感、リアルな人間的魅力が重なり、独特の色気を醸し出していた事は周知の事実で有る。
しかし、もう一つ忘れては成らないのが、彼らの運動能力や弱々しさではないだろうか?
猪木と前田のドタバタしたマットワークぶりを見るにつけ、彼らの不器用振りがよく垣間みれた。
同時に、受けに廻った時の弱々しい倒れ方も特徴あるものであった。
人間はただ強いだけの選手には感情移入出来ないものである。
強さや闘う気持ちを持っていたからこそファンのリスペクトを得られ、肉体的な見栄え、
スター性でファンの憧れを得て、同時に不器用さ、弱々しさでファンの情を得た。
猪木と前田の魅力に対して、ふと、そう思う時が有る。
2007/08/25掲載
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2007年10月05日
アントニオ猪木と前田日明の魅力
posted by shingol at 11:21| 私的・猪木ゲノムの正体を探れ!
アントニオ猪木のドタバタした世界
アントニオ猪木のドタバタした世界
私はアントニオ猪木の試合として、昭和五十一年から昭和五十四年にかけての試合ほどスリリングで余韻の残る試合はなかったと思っている。
タイガージェットシン以降これといったライバルのいない猪木のライバルの座を狙って次から次へとアントニオ猪木に対して強豪が襲い掛かって行く。
しかし、ビリー・グラハム、ボブ・ループ、レロイ・ブラウン、ケン・パテラ、ジェシー・ベンチュラ…結果として誰ひとりとして猪木のライバル足り得なかった。
皆が役不足なのではない。
猪木が下手なのだ。
なんとか猪木を引き立たせようとする外国人選手たちの気遣いをよそに、試合の要所要所でミスを繰り返すのは猪木の方である。
アントニオ猪木とは、ほうきを相手にしても試合を成立させられる名人であるが、相手が少しでも動くほうきならば、名勝負等創り上げられないレスラーでもあるのだ。
全日本プロレスのマットワークとは比較に成らない技術で、念密な打ち合わせも無く、
流れるような技術の攻防など見せられる訳は無いのだ。
結局、アントニオ猪木の試合とは、数年に何回かの名勝負を除いて、そういうドタバタ感に溢れたお世辞でも名勝負足り得ない試合が多かったものだ。
やがて手の合う日本人対決主流に成り、長州力、マサ斎藤といった気心の知れた連中と時に流れるような攻防を見せてくれる事も有った。
しかし、そこにはアナログ感も、余韻も無かった。
アントニオ猪木の試合とは計算され尽くした試合とは対極のアナログのドタバタ試合であった。
しかし、そこに多くの猪木ファンは魅せられて来たのではなかろうか?
前回、IGFの試合の多くでアントニオ猪木の試合を見るかのような懐かしいドタバタした試合を多く見る事が出来た。
どうせ次回もプロレスの下手な選手たちのドタバタした試合になるであろう。
ならば、アントニオ猪木のように、試合の中、我を、我をの、自己主張を掲げてもらいたいものだ
2007/08/19掲載
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私はアントニオ猪木の試合として、昭和五十一年から昭和五十四年にかけての試合ほどスリリングで余韻の残る試合はなかったと思っている。
タイガージェットシン以降これといったライバルのいない猪木のライバルの座を狙って次から次へとアントニオ猪木に対して強豪が襲い掛かって行く。
しかし、ビリー・グラハム、ボブ・ループ、レロイ・ブラウン、ケン・パテラ、ジェシー・ベンチュラ…結果として誰ひとりとして猪木のライバル足り得なかった。
皆が役不足なのではない。
猪木が下手なのだ。
なんとか猪木を引き立たせようとする外国人選手たちの気遣いをよそに、試合の要所要所でミスを繰り返すのは猪木の方である。
アントニオ猪木とは、ほうきを相手にしても試合を成立させられる名人であるが、相手が少しでも動くほうきならば、名勝負等創り上げられないレスラーでもあるのだ。
全日本プロレスのマットワークとは比較に成らない技術で、念密な打ち合わせも無く、
流れるような技術の攻防など見せられる訳は無いのだ。
結局、アントニオ猪木の試合とは、数年に何回かの名勝負を除いて、そういうドタバタ感に溢れたお世辞でも名勝負足り得ない試合が多かったものだ。
やがて手の合う日本人対決主流に成り、長州力、マサ斎藤といった気心の知れた連中と時に流れるような攻防を見せてくれる事も有った。
しかし、そこにはアナログ感も、余韻も無かった。
アントニオ猪木の試合とは計算され尽くした試合とは対極のアナログのドタバタ試合であった。
しかし、そこに多くの猪木ファンは魅せられて来たのではなかろうか?
前回、IGFの試合の多くでアントニオ猪木の試合を見るかのような懐かしいドタバタした試合を多く見る事が出来た。
どうせ次回もプロレスの下手な選手たちのドタバタした試合になるであろう。
ならば、アントニオ猪木のように、試合の中、我を、我をの、自己主張を掲げてもらいたいものだ
2007/08/19掲載
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posted by shingol at 11:14| 私的・猪木ゲノムの正体を探れ!
猪木ゲノムのアナログ感/闘えるけどプロレスが下手な選手集まれ
私が二十代半ばの頃であったろうか、香港映画界にウォン・カーウァイという奇才が出現した。
役者に必要最低限の指示しか与えず殆どあってないような脚本。
おまけに計算され尽くしたアングルとは無縁のクリストファー・ドイルの手持ちカメラの前で己の感性とアドリブだけを頼りに役者たちが演じた世界は、まるでドキュメンタリー映画を観ているかのような錯覚にも陥った。
計算やデジタルとは無縁のアナログ感たっぶりの世界に私は衝撃を受けた。
斬新な手法であったが、プロレス界では馴染みの手法で有る。
アントニオ猪木のプロレスがそうであったからだ。
良くも悪くも外国人選手に直接ギャラを渡し、ゴルフにも一緒に出掛ける
ジャイアント馬場の世界と、意地悪なMr.高橋に焚き付けられた外国人選手たちに
きつい攻めを受ける猪木のプロレスとは正反対の世界であった。
プロレスの方程式に基づいて完成度の高いプロレスをじっくり味わえる馬場の世界と
比べ、猪木のでたとこ勝負、最低限の取り決めだけを持ってリングに上がる世界は
実に消化不良の多い、あっけない世界であった。
しかし、実際には、そういうアントニオ猪木の世界に我々は惹かれて来たのである。
真剣勝負でないなら、そういうアドリブの世界も、綿密なブックのプロレスと何ら変わ
らない世界ではないかという声も有る。
ひどいのは真剣勝負の世界が人気を得る今の時代にプロレスが必要なのかとの意見である。
リアルで無ければいけないなら、世の中に小説も映画も存在しない。
リアルで無ければ、真面目にやってはいけないなら、世の中の小説も映画も、バラエティー
と化さなければならないのだろうか?
しかし、実際には小説も映画も衰退などしていない。
その中で、ウォン・カーウァイのようなアナログ感たっぷりのプロレスがあっていい。
ちなみにウォン・カーウァイが注目した東映のヤクザ映画の手持ちカメラ。
カーウァイ、東映映画、両方にインスパイアを受けたタランティーノが計算づくめで
アナログ感を演出したのが「キル・ビル」であった。
しかし、そこで感じたのは刹那的な消費主義だけである。
アナログ感による余韻は計算されない世界でしか起こりえないからだ。
K1のお下がり、シウバ、プレデターといったプロレスが上手くない連中が、プロレスを、しかもアドリブプロレスをしたとして結果は目に見えている。
それでも、猪木はアドリブの世界にこだわり、本当に闘える人間たちをキャストに添える
事にこだわる。
私はアントニオ猪木の世界が好きである。
2007/08/08掲載
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役者に必要最低限の指示しか与えず殆どあってないような脚本。
おまけに計算され尽くしたアングルとは無縁のクリストファー・ドイルの手持ちカメラの前で己の感性とアドリブだけを頼りに役者たちが演じた世界は、まるでドキュメンタリー映画を観ているかのような錯覚にも陥った。
計算やデジタルとは無縁のアナログ感たっぶりの世界に私は衝撃を受けた。
斬新な手法であったが、プロレス界では馴染みの手法で有る。
アントニオ猪木のプロレスがそうであったからだ。
良くも悪くも外国人選手に直接ギャラを渡し、ゴルフにも一緒に出掛ける
ジャイアント馬場の世界と、意地悪なMr.高橋に焚き付けられた外国人選手たちに
きつい攻めを受ける猪木のプロレスとは正反対の世界であった。
プロレスの方程式に基づいて完成度の高いプロレスをじっくり味わえる馬場の世界と
比べ、猪木のでたとこ勝負、最低限の取り決めだけを持ってリングに上がる世界は
実に消化不良の多い、あっけない世界であった。
しかし、実際には、そういうアントニオ猪木の世界に我々は惹かれて来たのである。
真剣勝負でないなら、そういうアドリブの世界も、綿密なブックのプロレスと何ら変わ
らない世界ではないかという声も有る。
ひどいのは真剣勝負の世界が人気を得る今の時代にプロレスが必要なのかとの意見である。
リアルで無ければいけないなら、世の中に小説も映画も存在しない。
リアルで無ければ、真面目にやってはいけないなら、世の中の小説も映画も、バラエティー
と化さなければならないのだろうか?
しかし、実際には小説も映画も衰退などしていない。
その中で、ウォン・カーウァイのようなアナログ感たっぷりのプロレスがあっていい。
ちなみにウォン・カーウァイが注目した東映のヤクザ映画の手持ちカメラ。
カーウァイ、東映映画、両方にインスパイアを受けたタランティーノが計算づくめで
アナログ感を演出したのが「キル・ビル」であった。
しかし、そこで感じたのは刹那的な消費主義だけである。
アナログ感による余韻は計算されない世界でしか起こりえないからだ。
K1のお下がり、シウバ、プレデターといったプロレスが上手くない連中が、プロレスを、しかもアドリブプロレスをしたとして結果は目に見えている。
それでも、猪木はアドリブの世界にこだわり、本当に闘える人間たちをキャストに添える
事にこだわる。
私はアントニオ猪木の世界が好きである。
2007/08/08掲載
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posted by shingol at 10:22| 私的・猪木ゲノムの正体を探れ!
2007年10月04日
アントニオ猪木の環状線理論2/ブームの果てに
昭和の新日本プロレスブームというものがあった。
毎週のゴールデンタイムでの視聴率は20パーセントを突破し、1万人規模の会場は常に満
員、そればかりか元日にもゴールデンでの特番が組まれる人気であった。
国民の娯楽や趣味のジャンルの細分化は今程では無かったので、一概に比較は出来ないが
、それでも広く国民に浸透したブームという意味では、全盛期のK1人気、格闘技人気を
遥かに凌駕するものであった。
しかしブームが起こる前の新日本プロレスというものは堅い固定ファンの熱を核とした
確かなジャンルとして存在していたものだ。
通常のシリーズではそれなりの視聴率で、逆に良いカードが有れば視聴率も高く、会場も
満員に成る。
ブームとは無縁の身の丈に有った確かなジャンルとして存在していたのである。
アントニオ猪木の環状線理論というものがある。
この環状線理論を間違って解釈しているのが実はアントニオ猪木自身であった。
環状線の一番外側つまり世間のファンを取り込もうと、肝心の核のファンの熱は考えず、
一般受けすることばかりを考えた核無き空洞化理論である。
少し前の曙対サップ、最近のHERO'Sと、K1さえも、最近は空洞化理論に空回りしてしまっ
ていた観も有るが、逆に初期のK1、そしてPRIDEと、共に確かなマニアの核の熱気に支えられながら外側への広まりを見せた理想的な環状線理論であった。
核の熱気が膨張し、一般受けを狙わなくとも、一般のファンが飛びついたのである。
似たような現象はゴールデンで放映しながらも、頑にNWAといった権威を大切にし、
オープンタッグといったマニアの核の熱からファンクスファンという外側の新しいファン
を取り込んだかつての全日本プロレスなども強いて挙げればそうであっただろうと思う。
昭和の新日本プロレスのブームが空洞化理論か、理想的な環状線理論であったかは、定か
では無いが、長州対藤波、タイガーマスクといったファンの耐性を養わない売れ線的、
商業主義的な試合内容であったことは事実である。
ブームが去って、残ったファンもいただろうが、その時期より、会場を埋めた環状二号的
な静かな大人のファンの姿が一気に消えてしまった気がする。
残ったファンにより、環状線の広がりを持たず、完全なマニアやファンだけの世界として
完結してしまったのだ。
今のプロレス界はアントニオ猪木の誤解した環状線理論による空洞化は無い。
逆に、あまりにも、内輪の感性だけの小さな世界である。
かつての環状線理論は、マニアの核といったところで、その核が熱さえ発すれば、世間に
届くような感性と個性を持ち得たからこそ外側への広まりを見せたのである。
しかし、今のプロレス界はファン、マニアの一層しかない核で完結している場所である。
プロレスを救うのは深い深いプロレス頭であろうが、その対象が狭いプロレス村の内輪受けするようなプロレス頭ばかりであることが、今のプロレス界の現状ではないかと思う。
2007/08/27掲載
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毎週のゴールデンタイムでの視聴率は20パーセントを突破し、1万人規模の会場は常に満
員、そればかりか元日にもゴールデンでの特番が組まれる人気であった。
国民の娯楽や趣味のジャンルの細分化は今程では無かったので、一概に比較は出来ないが
、それでも広く国民に浸透したブームという意味では、全盛期のK1人気、格闘技人気を
遥かに凌駕するものであった。
しかしブームが起こる前の新日本プロレスというものは堅い固定ファンの熱を核とした
確かなジャンルとして存在していたものだ。
通常のシリーズではそれなりの視聴率で、逆に良いカードが有れば視聴率も高く、会場も
満員に成る。
ブームとは無縁の身の丈に有った確かなジャンルとして存在していたのである。
アントニオ猪木の環状線理論というものがある。
この環状線理論を間違って解釈しているのが実はアントニオ猪木自身であった。
環状線の一番外側つまり世間のファンを取り込もうと、肝心の核のファンの熱は考えず、
一般受けすることばかりを考えた核無き空洞化理論である。
少し前の曙対サップ、最近のHERO'Sと、K1さえも、最近は空洞化理論に空回りしてしまっ
ていた観も有るが、逆に初期のK1、そしてPRIDEと、共に確かなマニアの核の熱気に支えられながら外側への広まりを見せた理想的な環状線理論であった。
核の熱気が膨張し、一般受けを狙わなくとも、一般のファンが飛びついたのである。
似たような現象はゴールデンで放映しながらも、頑にNWAといった権威を大切にし、
オープンタッグといったマニアの核の熱からファンクスファンという外側の新しいファン
を取り込んだかつての全日本プロレスなども強いて挙げればそうであっただろうと思う。
昭和の新日本プロレスのブームが空洞化理論か、理想的な環状線理論であったかは、定か
では無いが、長州対藤波、タイガーマスクといったファンの耐性を養わない売れ線的、
商業主義的な試合内容であったことは事実である。
ブームが去って、残ったファンもいただろうが、その時期より、会場を埋めた環状二号的
な静かな大人のファンの姿が一気に消えてしまった気がする。
残ったファンにより、環状線の広がりを持たず、完全なマニアやファンだけの世界として
完結してしまったのだ。
今のプロレス界はアントニオ猪木の誤解した環状線理論による空洞化は無い。
逆に、あまりにも、内輪の感性だけの小さな世界である。
かつての環状線理論は、マニアの核といったところで、その核が熱さえ発すれば、世間に
届くような感性と個性を持ち得たからこそ外側への広まりを見せたのである。
しかし、今のプロレス界はファン、マニアの一層しかない核で完結している場所である。
プロレスを救うのは深い深いプロレス頭であろうが、その対象が狭いプロレス村の内輪受けするようなプロレス頭ばかりであることが、今のプロレス界の現状ではないかと思う。
2007/08/27掲載
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posted by shingol at 19:57| 私的・猪木ゲノムの正体を探れ!
アントニオ猪木の怒りのパフォーマンス
日本プロレス時代のアントニオ猪木は、胸板へのナックルパートに後の「燃える闘魂」のイメージを感じさせる程度で、テクニックとスピードでそのルックスにふさわしい若々しいファイトを展開していただけの感があった。
アントニオ猪木がその「燃える闘魂」の名にふさわしいアピールや怒りのポーズを中心に試合を構成するようになり、猪木の個性が確立され、ショーマンぶりが発揮されだしたのは、新日本がテレビを付け安定しだした時期からである。
今となればアントニオ猪木のショーマンぶりをアメリカンスタイルじゃないかという声もあるようであるが、私はアメリカンスタイルとは全く対極のものであると思っている。
かつてダスティ・ローデスが新日本初参戦を前にしてゴング誌のインタビューに応じたことがあった。
その時ローデスは「猪木の闘い方は独特であり、相手を睨み付ける様は戦争のようだ」とコメントしたが、当時の典型的なアメリカンスタイルのローデスからすれば、あれだけリアルに怒りを表現するパフォーマーとしてのレスラーを見たことは無かったのであろうと思う。
当時のアメリカのレスラーの怒りのパフォーマンスは、淡々とした空気の抜けた無機的なものであった。
(実際、当時のアメリカのレスラーは無表情なニヒル系が多かった)
あるいは逆に頭をかき乱して怒りを表現するオーバーアクションかのどちらかである。
つまり、どちらにしても、怒っている(ふりをしている)本人が、プロレスはショーであることを前提とした意識の中で、怒りをポージングしているだけなのである。
私はアントニオ猪木のパフォーマンスの特徴として、怒りを表現しているときのアントニオ猪木の意識は「怒っている自分に成り切っている」のではないかと思うときがある。
下手すれば見ているこちらが恥ずかしくなるくらい成り切るパフォーマンスを
アントニオ猪木の試合からは多く見てきた。
先日も書いたが、逆に、総合格闘技などから転向してきた選手に多いのが、プロレスだからと自分の感情をセーブすることを意識して、極力感情を省いたパフォーマンスに徹していることである。
彼らの試合が結局は気の抜けたビールのようにしかならない原因がそこにあるのではないかとも思う。
プロレスのマットワークや方程式は下手でも、感情を込めたパフォーマンス、
技の溜め、エプロンでの攻防など、アントニオ猪木が先駆者となったプロレスの表現は多い。
私は、ひょっとして妻であり役者であった倍賞美津子の影響でもあったのかと、ふと思ってしまった。
2007/08/28掲載
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アントニオ猪木がその「燃える闘魂」の名にふさわしいアピールや怒りのポーズを中心に試合を構成するようになり、猪木の個性が確立され、ショーマンぶりが発揮されだしたのは、新日本がテレビを付け安定しだした時期からである。
今となればアントニオ猪木のショーマンぶりをアメリカンスタイルじゃないかという声もあるようであるが、私はアメリカンスタイルとは全く対極のものであると思っている。
かつてダスティ・ローデスが新日本初参戦を前にしてゴング誌のインタビューに応じたことがあった。
その時ローデスは「猪木の闘い方は独特であり、相手を睨み付ける様は戦争のようだ」とコメントしたが、当時の典型的なアメリカンスタイルのローデスからすれば、あれだけリアルに怒りを表現するパフォーマーとしてのレスラーを見たことは無かったのであろうと思う。
当時のアメリカのレスラーの怒りのパフォーマンスは、淡々とした空気の抜けた無機的なものであった。
(実際、当時のアメリカのレスラーは無表情なニヒル系が多かった)
あるいは逆に頭をかき乱して怒りを表現するオーバーアクションかのどちらかである。
つまり、どちらにしても、怒っている(ふりをしている)本人が、プロレスはショーであることを前提とした意識の中で、怒りをポージングしているだけなのである。
私はアントニオ猪木のパフォーマンスの特徴として、怒りを表現しているときのアントニオ猪木の意識は「怒っている自分に成り切っている」のではないかと思うときがある。
下手すれば見ているこちらが恥ずかしくなるくらい成り切るパフォーマンスを
アントニオ猪木の試合からは多く見てきた。
先日も書いたが、逆に、総合格闘技などから転向してきた選手に多いのが、プロレスだからと自分の感情をセーブすることを意識して、極力感情を省いたパフォーマンスに徹していることである。
彼らの試合が結局は気の抜けたビールのようにしかならない原因がそこにあるのではないかとも思う。
プロレスのマットワークや方程式は下手でも、感情を込めたパフォーマンス、
技の溜め、エプロンでの攻防など、アントニオ猪木が先駆者となったプロレスの表現は多い。
私は、ひょっとして妻であり役者であった倍賞美津子の影響でもあったのかと、ふと思ってしまった。
2007/08/28掲載
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posted by shingol at 19:47| 私的・猪木ゲノムの正体を探れ!
猪木ゲノムという闘うプロレス。
猪木ゲノムの第二弾が近づいている。
何とか小粒ながらも個性的な面々を揃えつつある。
猪木がこだわる強い選手、闘える選手たちであるが、彼らが本当に猪木が求める闘いの意識を理解すれば、かつてのプロレスとして(シュートの試合でなく)の小川対橋本のあの緊張感にも負けない闘いを醸し出せると信じている。
何度も記すようであるが、格闘技出身の選手の難点は、プロレスだからと感情を抑制する点である。
プロレスだからこそ、格闘技以上に感情を表現する必要があるのに関わらず、プロレス=フェイクの意識があるのか、感情のこもらない中身の空っぽの上っ面だけの闘いのポーズがプロレスだとカン違いしているのである。
小川対橋本の戦いは、内に秘めた感情がものすごい緊張感を編み出していたことである。
シュートの小川対橋本は感情が暴走した失敗作である。
かといってそれ以降の小川対橋本が反省を踏まえ、プロレスとして割り切った手の合う予定調和の試合をこなしたわけでもなかった。
シュート試合後の一連の試合において、小川対橋本は感情を暴発させず
感情を維持することで試合に緊張感を抱かせた。
抱いた感情はシュートではなく、プロレス技や表情のパフォーマンスに昇華し爆発した。
私はあのとき、アントニオ猪木の理念の集大成の試合を見た気がする。
今の新日本は言わずがな、棚橋対真壁といった学生プロレス出身者たちがものすごく完成された上手いプロレスを展開する場所である。
感情を表現するとすれば、緊張感無き胸板へのチョップ合戦である。
これが今風のプロレスならば、それでいいが、残念なのは、そういうプロレスを見て育ったファンが、そういう尺度で猪木ゲノムの試合を見ても、もう意味など分からないだろうということである。
見る基準が、上手いか下手か、沸くか沸かないか、スイングしたかしなかったか、そういうものを求めるなら、猪木ゲノムには何一つ求めるものは無いと
早くから知っておいたほうが良い。
また逆に猪木ゲノムに格闘技性、リアル性を求め、もしくはシュートへの発展を期待するなら、それらも同様に期待しても無駄である。
猪木ゲノムとはただ闘いをテーマにしたプロレスにすぎないからである。
しかしながら猪木の理念の集大成ともいえる小川対橋本の試合レベルまでは程遠い。
寄せ集めのファイターたちが、猪木の真意など理解するには時間がかかるものだ。
しばらくはドタバタした無機的な試合か、格闘技風プロレスといった試合を見せられるはめになるだろう。
しかし、その先には、シュートになることもなく、プロレス的好試合になることも無い。当然格闘技プロレスなどでもない。
アントニオ猪木の、あるいは小川対橋本の試合がやがて出現するだろう。
もう一つ記しておきたいが、イベントしての満足度、完成度を猪木ゲノムに求めないほうがよいだろうという事である。
平成の新日本やプライドの完成されたイベントを猪木ゲノムに求めても無理である。
好勝負も会場の一体感も洗練された演出による気分の高揚も無いだろう。
何から何まで観客に満足を提供する姿勢などアントニオ猪木にあるわけは無い。
そもそも私が子供の頃よりアントニオ猪木がからむ試合やイベントに満足して会場を出れることなど昔から皆無に等しかったからだ。
猪木ゲノムに受身的な気分、満足度は保障されない。
しかし余韻は必ず存在している。
その余韻をどんな意味にも受け取れるのは私たちファンである。
その時私たちの意識は受身でなく能動的になれる。
猪木ゲノムが単なる格闘技風のドタバタプロレスに見えるか、その先に何か見えるのか、結局はファンしだいなのである。
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何とか小粒ながらも個性的な面々を揃えつつある。
猪木がこだわる強い選手、闘える選手たちであるが、彼らが本当に猪木が求める闘いの意識を理解すれば、かつてのプロレスとして(シュートの試合でなく)の小川対橋本のあの緊張感にも負けない闘いを醸し出せると信じている。
何度も記すようであるが、格闘技出身の選手の難点は、プロレスだからと感情を抑制する点である。
プロレスだからこそ、格闘技以上に感情を表現する必要があるのに関わらず、プロレス=フェイクの意識があるのか、感情のこもらない中身の空っぽの上っ面だけの闘いのポーズがプロレスだとカン違いしているのである。
小川対橋本の戦いは、内に秘めた感情がものすごい緊張感を編み出していたことである。
シュートの小川対橋本は感情が暴走した失敗作である。
かといってそれ以降の小川対橋本が反省を踏まえ、プロレスとして割り切った手の合う予定調和の試合をこなしたわけでもなかった。
シュート試合後の一連の試合において、小川対橋本は感情を暴発させず
感情を維持することで試合に緊張感を抱かせた。
抱いた感情はシュートではなく、プロレス技や表情のパフォーマンスに昇華し爆発した。
私はあのとき、アントニオ猪木の理念の集大成の試合を見た気がする。
今の新日本は言わずがな、棚橋対真壁といった学生プロレス出身者たちがものすごく完成された上手いプロレスを展開する場所である。
感情を表現するとすれば、緊張感無き胸板へのチョップ合戦である。
これが今風のプロレスならば、それでいいが、残念なのは、そういうプロレスを見て育ったファンが、そういう尺度で猪木ゲノムの試合を見ても、もう意味など分からないだろうということである。
見る基準が、上手いか下手か、沸くか沸かないか、スイングしたかしなかったか、そういうものを求めるなら、猪木ゲノムには何一つ求めるものは無いと
早くから知っておいたほうが良い。
また逆に猪木ゲノムに格闘技性、リアル性を求め、もしくはシュートへの発展を期待するなら、それらも同様に期待しても無駄である。
猪木ゲノムとはただ闘いをテーマにしたプロレスにすぎないからである。
しかしながら猪木の理念の集大成ともいえる小川対橋本の試合レベルまでは程遠い。
寄せ集めのファイターたちが、猪木の真意など理解するには時間がかかるものだ。
しばらくはドタバタした無機的な試合か、格闘技風プロレスといった試合を見せられるはめになるだろう。
しかし、その先には、シュートになることもなく、プロレス的好試合になることも無い。当然格闘技プロレスなどでもない。
アントニオ猪木の、あるいは小川対橋本の試合がやがて出現するだろう。
もう一つ記しておきたいが、イベントしての満足度、完成度を猪木ゲノムに求めないほうがよいだろうという事である。
平成の新日本やプライドの完成されたイベントを猪木ゲノムに求めても無理である。
好勝負も会場の一体感も洗練された演出による気分の高揚も無いだろう。
何から何まで観客に満足を提供する姿勢などアントニオ猪木にあるわけは無い。
そもそも私が子供の頃よりアントニオ猪木がからむ試合やイベントに満足して会場を出れることなど昔から皆無に等しかったからだ。
猪木ゲノムに受身的な気分、満足度は保障されない。
しかし余韻は必ず存在している。
その余韻をどんな意味にも受け取れるのは私たちファンである。
その時私たちの意識は受身でなく能動的になれる。
猪木ゲノムが単なる格闘技風のドタバタプロレスに見えるか、その先に何か見えるのか、結局はファンしだいなのである。
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posted by shingol at 19:46| 私的・猪木ゲノムの正体を探れ!
私的・1976年のアントニオ猪木2/猪木を語った時間
普段、私はプロレスの話を友人たちとする事は無い。
レスリング関係の友人の中にはプロレスファン、格闘技ファンは多いが、感性が違うと
話していても虚しさを感じるだけである。
プロレスに対しての考え方で、似た人と出会うのは殆ど無い。
しかし、出版物を通して、僭越ながら同じ感性を持っているのではないかと思える人と
出会う事も有る。
そういう意味で、今年出版された「1976年のアントニオ猪木」は私が空想の世界として
かしか認識出来なかったアントニオ猪木の神話をリアルな検証で実証し、かつ、能動的な
洞察力でその神話を取り巻くアントニオ猪木の世界観を記してくれた最高の名著であった。
その本の出版後、雑誌「ナンバー」で著者がアントニオ猪木に挑んだ記事も忘れがたい。
その記事に関して私はブログで、プロレスも格闘技も関係ない世界観を持つアントニオ猪木に
執拗に食い下がる著者に対して、半ば呆れ気味の感想を記した事が有る。
しかし、口の堅い昭和のレスラー、アントニオ猪木の口から「リアル…」と口を割らせた
著者は、少なくともアントニオ猪木に真っ向から対峙し、リアルな闘いを挑みつつ、逆説的に
アントニオ猪木の魅力を再認識させてくれたと思った。
「1976年のアントニオ猪木」の著者、柳澤健氏と梅田でゆっくりと語り合う事が出来た。
猪木対ビル・ロビンソン戦の歯車の合わない歪でリアルな、それでいてアントニオ猪木の
魅力が溢れ出た試合。
大木金太郎との共有する想い出を背負い闘った後の涙。
格闘技イベントのファンの本質。
レスリングの事。
私が驚いたのは、プロレスジャーナリズムでない柳澤氏のプロレス、格闘技への知識、
洞察力であった。
まさに我々に答えを示さず闘って来たアントニオ猪木の謎掛けを解くに相応しい能動的な
感性溢れるジャーナリストなのだと思った。
そういう柳澤氏と猪木を語り合えた夜は、アントニオ猪木を見つめて来た私にとって、夢
のような時間であった。
2007/08/31掲載
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レスリング関係の友人の中にはプロレスファン、格闘技ファンは多いが、感性が違うと
話していても虚しさを感じるだけである。
プロレスに対しての考え方で、似た人と出会うのは殆ど無い。
しかし、出版物を通して、僭越ながら同じ感性を持っているのではないかと思える人と
出会う事も有る。
そういう意味で、今年出版された「1976年のアントニオ猪木」は私が空想の世界として
かしか認識出来なかったアントニオ猪木の神話をリアルな検証で実証し、かつ、能動的な
洞察力でその神話を取り巻くアントニオ猪木の世界観を記してくれた最高の名著であった。
その本の出版後、雑誌「ナンバー」で著者がアントニオ猪木に挑んだ記事も忘れがたい。
その記事に関して私はブログで、プロレスも格闘技も関係ない世界観を持つアントニオ猪木に
執拗に食い下がる著者に対して、半ば呆れ気味の感想を記した事が有る。
しかし、口の堅い昭和のレスラー、アントニオ猪木の口から「リアル…」と口を割らせた
著者は、少なくともアントニオ猪木に真っ向から対峙し、リアルな闘いを挑みつつ、逆説的に
アントニオ猪木の魅力を再認識させてくれたと思った。
「1976年のアントニオ猪木」の著者、柳澤健氏と梅田でゆっくりと語り合う事が出来た。
猪木対ビル・ロビンソン戦の歯車の合わない歪でリアルな、それでいてアントニオ猪木の
魅力が溢れ出た試合。
大木金太郎との共有する想い出を背負い闘った後の涙。
格闘技イベントのファンの本質。
レスリングの事。
私が驚いたのは、プロレスジャーナリズムでない柳澤氏のプロレス、格闘技への知識、
洞察力であった。
まさに我々に答えを示さず闘って来たアントニオ猪木の謎掛けを解くに相応しい能動的な
感性溢れるジャーナリストなのだと思った。
そういう柳澤氏と猪木を語り合えた夜は、アントニオ猪木を見つめて来た私にとって、夢
のような時間であった。
2007/08/31掲載
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posted by shingol at 19:40| 私的・猪木ゲノムの正体を探れ!
アントニオ猪木の罪・徳・努力
アントニオ猪木ほど希代のエゴイストであり、冷酷さ、嫉妬深さ、ずるさ、身勝手さ、
残虐性と、人間の負の部分がこれほどおおやけにスキャンダルや言動とともに世間に認知
されているスターも珍しい。
人生を狂わされ傷ついた多くの側近の人々。
自らの格闘技が猪木の踏み台、かませ犬になる姿を耐えるしか無かった多くの格闘家。
私には何の宗教観も無いが、それでもアントニオ猪木の多くの人に対する罪の深さを考え
るにつけ、要所要所のマスコミでの叩かれ方や、人気の凋落といった程度で、清算出来る
ほどの罪の軽さではないとも思ったりする。
その事を承知で、あえて私はアントニオ猪木とは努力と徳の男であると記したい。
少なくともアントニオ猪木はことファンに対してはフィクションとしてのアントニオ猪木を
徹底的に誠実に演じ続けている男なのである。
もちろん、長年ファンとして猪木を見るにつけ、盲目的に猪木に憧れ続けているわけでは
無い。
しかし、仮面ライダーが作り物だった、裏切られたと言うような理屈で猪木と決別する
事も出来ないし、決別する必要も無い。
我々は所詮、アントニオ猪木のファンでしかないからだ。
側近としてアントニオ猪木に関わる事等何よりも恐ろしい事であるが、ファンとして猪木
に関われば人生に勇気や知恵や愉しみを与えてくれる。
ファンとして距離を置けば、猪木に失望することなど無いのである。
また猪木もファンに対しては確実な距離を置く人間である。
その距離感が、側近たちの証言と、ファンへ与えてくれた感動との間に確かな塀として
存在している。
我々は映像で裏の猪木、負の猪木の姿を見た訳ではない。
記憶に残る映像は、アントニオ猪木が我々ファンの為にリアルな血を流し、汗を流し、
実際の熱量を持って闘い続けてくれた姿でしかないのだ。
ファンとの孤独な距離感の中で、猪木が常にファンに見せるものは、側近に見せる裏の顔
ではなく、肉体的・精神的な消耗つまり実際の熱量を伴ったフィクションのアントニオ猪木の姿でしかない。
ファンに対しては動詞の愛を貫く男なので有る。
アントニオ猪木の人生は、多くの側近たちを傷つけて来た罪の借金よりも、今のところ、
ファンに対して様々な感動や勇気といったものを与えて続けてきてくれた歴史に置ける
徳と努力の貯金のほうがやや上回っているのではないか。
いまだにファンに愛される猪木を見るにつけそう思ってしまう。
そしてIGFを通じて猪木自身は自らの徳と努力の蓄えを再び増やすはずである。
2007/09/01掲載
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残虐性と、人間の負の部分がこれほどおおやけにスキャンダルや言動とともに世間に認知
されているスターも珍しい。
人生を狂わされ傷ついた多くの側近の人々。
自らの格闘技が猪木の踏み台、かませ犬になる姿を耐えるしか無かった多くの格闘家。
私には何の宗教観も無いが、それでもアントニオ猪木の多くの人に対する罪の深さを考え
るにつけ、要所要所のマスコミでの叩かれ方や、人気の凋落といった程度で、清算出来る
ほどの罪の軽さではないとも思ったりする。
その事を承知で、あえて私はアントニオ猪木とは努力と徳の男であると記したい。
少なくともアントニオ猪木はことファンに対してはフィクションとしてのアントニオ猪木を
徹底的に誠実に演じ続けている男なのである。
もちろん、長年ファンとして猪木を見るにつけ、盲目的に猪木に憧れ続けているわけでは
無い。
しかし、仮面ライダーが作り物だった、裏切られたと言うような理屈で猪木と決別する
事も出来ないし、決別する必要も無い。
我々は所詮、アントニオ猪木のファンでしかないからだ。
側近としてアントニオ猪木に関わる事等何よりも恐ろしい事であるが、ファンとして猪木
に関われば人生に勇気や知恵や愉しみを与えてくれる。
ファンとして距離を置けば、猪木に失望することなど無いのである。
また猪木もファンに対しては確実な距離を置く人間である。
その距離感が、側近たちの証言と、ファンへ与えてくれた感動との間に確かな塀として
存在している。
我々は映像で裏の猪木、負の猪木の姿を見た訳ではない。
記憶に残る映像は、アントニオ猪木が我々ファンの為にリアルな血を流し、汗を流し、
実際の熱量を持って闘い続けてくれた姿でしかないのだ。
ファンとの孤独な距離感の中で、猪木が常にファンに見せるものは、側近に見せる裏の顔
ではなく、肉体的・精神的な消耗つまり実際の熱量を伴ったフィクションのアントニオ猪木の姿でしかない。
ファンに対しては動詞の愛を貫く男なので有る。
アントニオ猪木の人生は、多くの側近たちを傷つけて来た罪の借金よりも、今のところ、
ファンに対して様々な感動や勇気といったものを与えて続けてきてくれた歴史に置ける
徳と努力の貯金のほうがやや上回っているのではないか。
いまだにファンに愛される猪木を見るにつけそう思ってしまう。
そしてIGFを通じて猪木自身は自らの徳と努力の蓄えを再び増やすはずである。
2007/09/01掲載
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posted by shingol at 19:36| 私的・猪木ゲノムの正体を探れ!
猪木対ビル・ロビンソン、ボブ・バックランド/闘うプロレスの原点
私が限りなく子供のころ観たアントニオ猪木対ドリー・ファンク・ジュニアの試合は、限りなくアメリカンスタイルの試合であった。
猪木の表情に感情は入っておらず、形だけのガッツポーズを作り、演武としての古きよきクラシックスタイルに大技を散りばめた典型的な70年代アメリカ型の正統派プロレスであった。
そういえば体型すらも、受け身の為の脂肪をまとい手足も短く見えるほどのアメリカンプロレス体型であった。
新日本旗揚げ後、猪木の体型は急激に変化した。
受身に必要な脂肪をカットし、手足が長く見え、細くなった上半身が余計に肩幅の広さを強調した。
なにを持って極端にアントニオ猪木の体型が変化したかは、分からないが、私にとっては日本プロレス時代のドリー戦の様な、予定調和の有酸素プロレス的アメリカンプロレスとの決別を、その体型の変化を持って示しているように思えた。
実際、新日本で繰り広げられたロビンソン戦は、180度ドリー・ファンク・ジュニア戦とは醸し出す雰囲気の異なる試合であった。
ミスター高橋本の中でリアルでない試合だからこそ、あれだけ流れるような攻防が出来たと、プロレス的名勝負の典型であると記された一戦であったが、ミスター高橋は例えるべき試合を間違ったはずである。
私の観た印象は全く別である。
流れるような一戦どころか、ギクシャク感の漂うすさまじくリアルな攻防だったのである。
プロレスでもなく、格闘技でもない。
リアルでも、フェイクでもない。
そんなのはどうでもいいことである。
60分間の大部分をプロレスの約束事とは程遠い攻防の中で闘っていたということである。
今の気の抜けた格闘技風プロレスを持って、プロレスは純プロレスでなければと短絡的に嘆くファンも多い。
プロレスはリアルでもフェイクでもない。
そういうプロレスが昔はあったのだと知りたいなら、猪木対ロビンソン戦を観ることをお勧めする。
そういう闘いの中で、スター猪木は、大観衆の前で、ロビンソンという強者相手に格闘技者としての自信を失くすほどボロボロにされてしまう。
60分の殆どをである。
何故、社長であり、スターである、アントニオ猪木が、そういう試合をこなさなければいけないのか?
どうせ結果は決まっているのだ。
ならばドリー・ファンク戦と同じく、闘いとは程遠い、演武としてのプロレスをこなしていけば良かったではないかと、私は思う。
しかし猪木はプロレスの展開や約束事の攻防に逃げようとせず、ロビンソンに必死の攻防を挑んだ。
挑んではやられ、挑んではやられである。
数年後、ボブ・バックランドとの試合でも似た攻防が続いた。
アメリカンプロレスのお約束のマットワークとは程遠い、バックランドのリアルな「ファイヤーマンズ・キャリー」でバックランドに翻弄されまくった。
おそらく猪木の心の骨を折る魂胆まるみえのいやらしい投げっぷりであった。
どちらの試合も、アントニオ猪木があまりにもリアルな弱々しさをさらけだした試合であったが、リアルな弱々しさというのは、逆に、闘わなければ醸し出せないものである。
アメリカンスタイルの試合を何時間やったところで上手いか下手かしか分かるまい。
小学生を卒業するまでに、見れたその二つの試合は、アリ戦、ペールワン戦を覗くどんな格闘技戦よりも、私のプロレス観にあくまで「プロレスは闘いである」という基本原則を植えつけてくれた試合であった。
2007/09/10掲載
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猪木の表情に感情は入っておらず、形だけのガッツポーズを作り、演武としての古きよきクラシックスタイルに大技を散りばめた典型的な70年代アメリカ型の正統派プロレスであった。
そういえば体型すらも、受け身の為の脂肪をまとい手足も短く見えるほどのアメリカンプロレス体型であった。
新日本旗揚げ後、猪木の体型は急激に変化した。
受身に必要な脂肪をカットし、手足が長く見え、細くなった上半身が余計に肩幅の広さを強調した。
なにを持って極端にアントニオ猪木の体型が変化したかは、分からないが、私にとっては日本プロレス時代のドリー戦の様な、予定調和の有酸素プロレス的アメリカンプロレスとの決別を、その体型の変化を持って示しているように思えた。
実際、新日本で繰り広げられたロビンソン戦は、180度ドリー・ファンク・ジュニア戦とは醸し出す雰囲気の異なる試合であった。
ミスター高橋本の中でリアルでない試合だからこそ、あれだけ流れるような攻防が出来たと、プロレス的名勝負の典型であると記された一戦であったが、ミスター高橋は例えるべき試合を間違ったはずである。
私の観た印象は全く別である。
流れるような一戦どころか、ギクシャク感の漂うすさまじくリアルな攻防だったのである。
プロレスでもなく、格闘技でもない。
リアルでも、フェイクでもない。
そんなのはどうでもいいことである。
60分間の大部分をプロレスの約束事とは程遠い攻防の中で闘っていたということである。
今の気の抜けた格闘技風プロレスを持って、プロレスは純プロレスでなければと短絡的に嘆くファンも多い。
プロレスはリアルでもフェイクでもない。
そういうプロレスが昔はあったのだと知りたいなら、猪木対ロビンソン戦を観ることをお勧めする。
そういう闘いの中で、スター猪木は、大観衆の前で、ロビンソンという強者相手に格闘技者としての自信を失くすほどボロボロにされてしまう。
60分の殆どをである。
何故、社長であり、スターである、アントニオ猪木が、そういう試合をこなさなければいけないのか?
どうせ結果は決まっているのだ。
ならばドリー・ファンク戦と同じく、闘いとは程遠い、演武としてのプロレスをこなしていけば良かったではないかと、私は思う。
しかし猪木はプロレスの展開や約束事の攻防に逃げようとせず、ロビンソンに必死の攻防を挑んだ。
挑んではやられ、挑んではやられである。
数年後、ボブ・バックランドとの試合でも似た攻防が続いた。
アメリカンプロレスのお約束のマットワークとは程遠い、バックランドのリアルな「ファイヤーマンズ・キャリー」でバックランドに翻弄されまくった。
おそらく猪木の心の骨を折る魂胆まるみえのいやらしい投げっぷりであった。
どちらの試合も、アントニオ猪木があまりにもリアルな弱々しさをさらけだした試合であったが、リアルな弱々しさというのは、逆に、闘わなければ醸し出せないものである。
アメリカンスタイルの試合を何時間やったところで上手いか下手かしか分かるまい。
小学生を卒業するまでに、見れたその二つの試合は、アリ戦、ペールワン戦を覗くどんな格闘技戦よりも、私のプロレス観にあくまで「プロレスは闘いである」という基本原則を植えつけてくれた試合であった。
2007/09/10掲載
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posted by shingol at 19:19| 私的・猪木ゲノムの正体を探れ!
私的・猪木ゲノムの正体を探れ!〜外伝〜新日本スタイルらしさは何所へ?
私は小学生のとき、新日本を旗揚げしたアントニオ猪木のプロレスに洗礼を受けた
人間である。
プロレス的約束ムーブ、予定調和、体型とは遠くかけ離れたアントニオ猪木のプロレスを
見れたからこそ、自分の揺るぎないプロレスファンとしての基盤を得る事が出来た。
自分のファンとしての基盤が揺るがなければ、他のプロレスも愛せるものである。
私は実は全日本プロレスも心底楽しんだファンでも有った。
その辺りの事は何度か記事にしているので御覧頂きたい。
※70年代全日本プロレスと言う桃源郷
自分の生活の中、心の中にアントニオ猪木がデーンと居座ってしまえば、全日本プロレスの
純プロレス的な世界も、全く、別世界の事として楽しめるものだ。
私は豪華外国人集うまるで桃源郷のようなプロレスの夢を70年代全日本プロレスで味わう
事が出来た。
アントニオ猪木がロープワークに失敗する場面は何度も見た。
しかし全日本プロレスでは一度も無かった。
私はアントニオ猪木の不規則性、アナログ感とは正反対の規則性と計算され尽くした
プロレス的約束ムーブの芸術作品としての純プロレスを全日本によって楽しめた。
60分のフルタイムの試合が何度も有った。
試合のハイライトなど、ゴングが鳴ってせいぜい40分は経過した頃であった。
まだか、まだかと試合が動き出すのを待ちわびながら、動きだしたと思えば、ハーリー・
レイスもドリー・ファンクも、馬場も、鶴田も、またもフライングメイヤーからグランド
で相手を締め付ける展開がしばらく続く。
今思えばそういう退屈なプロレスであった。
しかし、アントニオ猪木であれ、全日本プロレスであれ、ファンとの優位性において、
圧倒的にレスラー側が優位であった時代である。
私はただ、60分の内の数分のハイライトシーンを楽しむためだけに野球中継で深夜に
放送された「全日本プロレス中継」の画面を小学生の身で凝視していた。
古き良き時代のプロレスとはそういうものである。
私たちは自分の思い通りにならないものにこそ夢中になるものである。
なのに今のプロレスは、ファンとの関係に置いて、絶対的にファンの優位性の中で存在
している。
レスラーたちが、何より、ファンの為に、ファンの望む良い試合を心がける。
アントニオ猪木が今のプロレスを「ファンに媚を売るだけ」と嘆く言葉の意味もそこに有る。
ファンの為に、ファンが一番等、プロレスラーが言う言葉かと思う。
プロレスラーが第一に考えるべきは一見さんである。
昭和のプロレスラーもそうであった。
都会の目の肥えたファンに媚を売るでなく、地方のファンを大切にした。
都会のファンたちにリードされるプロレスラー等いなかった。
プロレス界のカリスマである力道山、アントニオ猪木、長州力、前田日明、彼らに共通
していることはプロレスファンに媚を売らない事であった。
細かく言えばプロレスが上手くないのだ。
私は断言出来る、プロレスの上手さに必死になるプロレスラー等がジャンルを越える
カリスマになれる事は間違っても無い。
所詮、プロレス村だけに好まれるプロレスラーになるのがオチである。
世間の人はプロレスファンが思う程、プロレス的ベストバウトに心打たれないものである。
話は少しそれてしまったが、全日本プロレスの話で有る。
中身は入れ替わってしまったが、武藤を中心とした新日本に有っては、プロレスが上手い
選手たちによって、純プロレスの伝統は引き継いでいるようにも思える。
新日本である。
元々アントニオ猪木の創った団体である。
プロレスの約束ムーブ、プロレスの上手さにおいて、全日本、ノアに勝てる訳は無い。
しかし、どういうわけか新日本プロレスが純プロレスにおいて、プロレス村のファンの
支持を得るのに必死なようである。
しかし、アントニオ猪木は純プロレスが下手な人間である。
その下手な遺伝子を継いだ新日本が闘いを忘れ、純プロレスに精を出す。
純プロレスとはアントニオ猪木の劣性遺伝子である事を気付かずにだ。
もったいない話である。
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人間である。
プロレス的約束ムーブ、予定調和、体型とは遠くかけ離れたアントニオ猪木のプロレスを
見れたからこそ、自分の揺るぎないプロレスファンとしての基盤を得る事が出来た。
自分のファンとしての基盤が揺るがなければ、他のプロレスも愛せるものである。
私は実は全日本プロレスも心底楽しんだファンでも有った。
その辺りの事は何度か記事にしているので御覧頂きたい。
※70年代全日本プロレスと言う桃源郷
自分の生活の中、心の中にアントニオ猪木がデーンと居座ってしまえば、全日本プロレスの
純プロレス的な世界も、全く、別世界の事として楽しめるものだ。
私は豪華外国人集うまるで桃源郷のようなプロレスの夢を70年代全日本プロレスで味わう
事が出来た。
アントニオ猪木がロープワークに失敗する場面は何度も見た。
しかし全日本プロレスでは一度も無かった。
私はアントニオ猪木の不規則性、アナログ感とは正反対の規則性と計算され尽くした
プロレス的約束ムーブの芸術作品としての純プロレスを全日本によって楽しめた。
60分のフルタイムの試合が何度も有った。
試合のハイライトなど、ゴングが鳴ってせいぜい40分は経過した頃であった。
まだか、まだかと試合が動き出すのを待ちわびながら、動きだしたと思えば、ハーリー・
レイスもドリー・ファンクも、馬場も、鶴田も、またもフライングメイヤーからグランド
で相手を締め付ける展開がしばらく続く。
今思えばそういう退屈なプロレスであった。
しかし、アントニオ猪木であれ、全日本プロレスであれ、ファンとの優位性において、
圧倒的にレスラー側が優位であった時代である。
私はただ、60分の内の数分のハイライトシーンを楽しむためだけに野球中継で深夜に
放送された「全日本プロレス中継」の画面を小学生の身で凝視していた。
古き良き時代のプロレスとはそういうものである。
私たちは自分の思い通りにならないものにこそ夢中になるものである。
なのに今のプロレスは、ファンとの関係に置いて、絶対的にファンの優位性の中で存在
している。
レスラーたちが、何より、ファンの為に、ファンの望む良い試合を心がける。
アントニオ猪木が今のプロレスを「ファンに媚を売るだけ」と嘆く言葉の意味もそこに有る。
ファンの為に、ファンが一番等、プロレスラーが言う言葉かと思う。
プロレスラーが第一に考えるべきは一見さんである。
昭和のプロレスラーもそうであった。
都会の目の肥えたファンに媚を売るでなく、地方のファンを大切にした。
都会のファンたちにリードされるプロレスラー等いなかった。
プロレス界のカリスマである力道山、アントニオ猪木、長州力、前田日明、彼らに共通
していることはプロレスファンに媚を売らない事であった。
細かく言えばプロレスが上手くないのだ。
私は断言出来る、プロレスの上手さに必死になるプロレスラー等がジャンルを越える
カリスマになれる事は間違っても無い。
所詮、プロレス村だけに好まれるプロレスラーになるのがオチである。
世間の人はプロレスファンが思う程、プロレス的ベストバウトに心打たれないものである。
話は少しそれてしまったが、全日本プロレスの話で有る。
中身は入れ替わってしまったが、武藤を中心とした新日本に有っては、プロレスが上手い
選手たちによって、純プロレスの伝統は引き継いでいるようにも思える。
新日本である。
元々アントニオ猪木の創った団体である。
プロレスの約束ムーブ、プロレスの上手さにおいて、全日本、ノアに勝てる訳は無い。
しかし、どういうわけか新日本プロレスが純プロレスにおいて、プロレス村のファンの
支持を得るのに必死なようである。
しかし、アントニオ猪木は純プロレスが下手な人間である。
その下手な遺伝子を継いだ新日本が闘いを忘れ、純プロレスに精を出す。
純プロレスとはアントニオ猪木の劣性遺伝子である事を気付かずにだ。
もったいない話である。
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posted by shingol at 19:10| 私的・猪木ゲノムの正体を探れ!
私的・猪木ゲノムの正体を探れ!〜14〜/猪木対オレッグ・タクタロフ戦の謎
私がアントニオ猪木の試合において、猪木以外出来ない芸当だろうと思った試合が有る。
ロサンゼルスの興行で行われたオレッグ・タクタロフとの試合である。
一騎打ちと言う訳でなく、非常時に備えた万全のパートナーであるダン・スバーン、
藤原喜明を双方のパートナーにしての安全なタッグマッチでもあった。
私は、この試合でオレッグ・タクタロフがプロレスの試合であるという事を理解していたのかが未だ定かでは無い。
ひょっとするとタクタロフはこの試合はフェイクでは無く、リアルファイトのエキシビション的な試合との意識を持って試合に挑んだのではないかと思ってしまう。
それほどタクタロフの表情はリアルで、臨戦態勢であったからだ。
そんなタクタロフを猪木が挑発しまくるプロレス的なオーバーアクションの技でなく、
プロレスラーで無いタクタロフをかっかさせるに相応しいリアルな技を出しまくる。
オクタロフが怒る。
怒ると何故かオクタロフのパートナーの藤原が必死にオクタロフをなだめコーナーに
引きずり戻す。
正に安全地帯で行われた片八百長かと思わせるかのような実験試合であった。
何故、アントニオ猪木はこういう試合を好んでマッチメイクするのか?
信用置けない相手との異種格闘技戦では普段、必要最低限の打ち合わせしか行わないと
言われるアントニオ猪木が万全を期して、徹底的に予行演習を行ったと聞く。
ルスカ戦、ウィリー戦がそうであった。
しかし、そういう試合の虚しさ、純プロレス的な世界を、アントニオ猪木が望んでいたとは私は思えない。
IGFに猪木は何を求めているのか?
プロレス的な上手さの技法に頼らず、試合を創り上げる。
その為のいくつかの猪木流ショーマンシップの世界を記して来たが、
次回から、その為にプロレスラーに必要な強さの秘密に迫って行きたいと思う。
2007/09/27掲載
ロサンゼルスの興行で行われたオレッグ・タクタロフとの試合である。
一騎打ちと言う訳でなく、非常時に備えた万全のパートナーであるダン・スバーン、
藤原喜明を双方のパートナーにしての安全なタッグマッチでもあった。
私は、この試合でオレッグ・タクタロフがプロレスの試合であるという事を理解していたのかが未だ定かでは無い。
ひょっとするとタクタロフはこの試合はフェイクでは無く、リアルファイトのエキシビション的な試合との意識を持って試合に挑んだのではないかと思ってしまう。
それほどタクタロフの表情はリアルで、臨戦態勢であったからだ。
そんなタクタロフを猪木が挑発しまくるプロレス的なオーバーアクションの技でなく、
プロレスラーで無いタクタロフをかっかさせるに相応しいリアルな技を出しまくる。
オクタロフが怒る。
怒ると何故かオクタロフのパートナーの藤原が必死にオクタロフをなだめコーナーに
引きずり戻す。
正に安全地帯で行われた片八百長かと思わせるかのような実験試合であった。
何故、アントニオ猪木はこういう試合を好んでマッチメイクするのか?
信用置けない相手との異種格闘技戦では普段、必要最低限の打ち合わせしか行わないと
言われるアントニオ猪木が万全を期して、徹底的に予行演習を行ったと聞く。
ルスカ戦、ウィリー戦がそうであった。
しかし、そういう試合の虚しさ、純プロレス的な世界を、アントニオ猪木が望んでいたとは私は思えない。
IGFに猪木は何を求めているのか?
プロレス的な上手さの技法に頼らず、試合を創り上げる。
その為のいくつかの猪木流ショーマンシップの世界を記して来たが、
次回から、その為にプロレスラーに必要な強さの秘密に迫って行きたいと思う。
2007/09/27掲載
posted by shingol at 12:45| 私的・猪木ゲノムの正体を探れ!
私的・猪木ゲノムの正体を探れ!〜13〜/闘うか?逃げるか?オクタゴンの黎明期のパイオニア
多くの哺乳動物の原始的行動パターンの本能は脳の奥底に刻み込まれている。
「闘うか」「逃げるか」反応である。
多くの哺乳動物は脳の奥底に宿る遺伝子の記憶に従って、闘うか逃げるかを決める。
外敵と出会ったとき、原始的本能の選択肢は二つしか無かったとき、動物は、記憶の中の残像を用いて、闘うべきか、逃げるべきかを瞬時に判断する。
判断の決め手となるものは基本的には大きさである。
正確には体重である。
例えば、あなたが職場で喧嘩にならざるを得ない相手に勝てるかなと考えたとする。
その時、あなたは相手に聞くまでもなく、喧嘩になりそうな相手の体重が自分より重いか、軽いかを瞬時に判断出来るであろう。
体重が自分より軽い相手にはあなたは間違いなく精神的に優位になれるはずである。
それが動物の闘うか逃げるかを判断する材料でもあるからだ。
そして、相手の体重が自分より軽いか思いかを判断出来るのも記憶の中に刻まれている
人間の本能で有る。
しかし、例外も有る。
例えば貴方が素人に対して自由自在に打撃を放てるような格闘技経験者であったとする。
貴方は自分より体重の思い相手にも精神的に劣る事は無いであろう。
貴方は大型草食獣に対する肉食獣。
つまり牙を持つ人間であるからだ。
それはレスリングの片足タックルを始め鋭利な技を使いこなせる選手にもいえるだろう。
余談であるが、哺乳動物の闘うか逃げるか反応という全ての本能の源となる
信号をおろそかにするとストレスが一気に襲いかかって来る。
まさか、職場で、喧嘩して勝てる相手だからと喧嘩出来る人間等いないであろう。
かといって、喧嘩して勝てない人間から逃げる事も出来ない。
人間社会のストレスが複雑化した要因でもある。
人間は森の中で見知らぬ外敵と出会ったとき、一気に自身の体の緊張を求めた。
闘った時、出血多量で死ぬ事の無いように、自らの血の流れを遅くさせる為である。
もはや人間社会に外敵も獣もいない。
人間にとって不要となった自身の体への緊張は、もはや多くの病気をもたらす源にも
なりつつある。
総合格闘技黎明期、多くの漢たちがオクタゴンに挑んだ。
しかし挑めるのは、腕自慢たちが殆どであった。
格闘家は潜在的に自分より本質的に強い相手を回避する能力、危ない場所を避ける
能力が長けているからである。
あの市原が今、考えれば何をオーバーなといった覚悟を持ってオクタゴンに挑んだ。
あの時の市原の覚悟と比べれば、現在、総合格闘技に挑む覚悟の重さは雲泥の差である。
覚悟が無いとは間違っても言えない。
しかし、多くの選手が、市原はじめパイオニアの選手たちの闘った残像の記憶を元に、オクタゴンを目指せる時代になった。
全て後だしジャンケンの世界で有る。
今の格闘技界が、多くのパイオニアへのリスペクトの念無く、今と昔はレベルが違うと言えるのが私には到底理解出来ない。
2007/09/27掲載
「闘うか」「逃げるか」反応である。
多くの哺乳動物は脳の奥底に宿る遺伝子の記憶に従って、闘うか逃げるかを決める。
外敵と出会ったとき、原始的本能の選択肢は二つしか無かったとき、動物は、記憶の中の残像を用いて、闘うべきか、逃げるべきかを瞬時に判断する。
判断の決め手となるものは基本的には大きさである。
正確には体重である。
例えば、あなたが職場で喧嘩にならざるを得ない相手に勝てるかなと考えたとする。
その時、あなたは相手に聞くまでもなく、喧嘩になりそうな相手の体重が自分より重いか、軽いかを瞬時に判断出来るであろう。
体重が自分より軽い相手にはあなたは間違いなく精神的に優位になれるはずである。
それが動物の闘うか逃げるかを判断する材料でもあるからだ。
そして、相手の体重が自分より軽いか思いかを判断出来るのも記憶の中に刻まれている
人間の本能で有る。
しかし、例外も有る。
例えば貴方が素人に対して自由自在に打撃を放てるような格闘技経験者であったとする。
貴方は自分より体重の思い相手にも精神的に劣る事は無いであろう。
貴方は大型草食獣に対する肉食獣。
つまり牙を持つ人間であるからだ。
それはレスリングの片足タックルを始め鋭利な技を使いこなせる選手にもいえるだろう。
余談であるが、哺乳動物の闘うか逃げるか反応という全ての本能の源となる
信号をおろそかにするとストレスが一気に襲いかかって来る。
まさか、職場で、喧嘩して勝てる相手だからと喧嘩出来る人間等いないであろう。
かといって、喧嘩して勝てない人間から逃げる事も出来ない。
人間社会のストレスが複雑化した要因でもある。
人間は森の中で見知らぬ外敵と出会ったとき、一気に自身の体の緊張を求めた。
闘った時、出血多量で死ぬ事の無いように、自らの血の流れを遅くさせる為である。
もはや人間社会に外敵も獣もいない。
人間にとって不要となった自身の体への緊張は、もはや多くの病気をもたらす源にも
なりつつある。
総合格闘技黎明期、多くの漢たちがオクタゴンに挑んだ。
しかし挑めるのは、腕自慢たちが殆どであった。
格闘家は潜在的に自分より本質的に強い相手を回避する能力、危ない場所を避ける
能力が長けているからである。
あの市原が今、考えれば何をオーバーなといった覚悟を持ってオクタゴンに挑んだ。
あの時の市原の覚悟と比べれば、現在、総合格闘技に挑む覚悟の重さは雲泥の差である。
覚悟が無いとは間違っても言えない。
しかし、多くの選手が、市原はじめパイオニアの選手たちの闘った残像の記憶を元に、オクタゴンを目指せる時代になった。
全て後だしジャンケンの世界で有る。
今の格闘技界が、多くのパイオニアへのリスペクトの念無く、今と昔はレベルが違うと言えるのが私には到底理解出来ない。
2007/09/27掲載
posted by shingol at 12:43| 私的・猪木ゲノムの正体を探れ!
私的・猪木ゲノムの正体を探れ!〜12〜/ブロック・レスナーとカート・アングルの熱戦への失望
これまで、アントニオ猪木のプロレス業界特有の約束的動きに頼らない、ショーマン性について記してきた。
かつて蝶野正洋が「アントニオ猪木こそアメリカンプロレスじゃないか」と発言したことがあったが、猪木の側近として関わってきた蝶野さえも抱くショーマン猪木への誤解は、同時に多くのファンが持つアントニオ猪木への誤解でもある。
プロレス的な動き、約束事、プロレス的な受身を行うための肉体。
アントニオ猪木はそういう業界の取り決めとは関係の無い部分で、自己の演出性を創り上げてきた。
プロレス的名勝負を創り上げるための効率性として、業界が決めたプロレス的な取り決めを、極力省くことによって、アントニオ猪木のプロレスは効率性の変わりにアナログ感を得た。
そういうアントニオ猪木のプロレスの継承者ともいうべきレスラーは殆ど存在していない。
体型、ドタバタ感から来るアナログ性に猪木に近いものを感じさせる小川直也に、かすかな期待をかけてしまうが、まだまだ小川がアントニオ猪木の求める世界を理解しているとは思えない。
もう少し細かい部分で、アントニオ猪木の観客を掌に乗せるショーマン性は必要であろうが、かといって、アントニオ猪木もプロレス的な上手さに頼る小川など見たくも無いであろう。
プロレス的な約束事、上手さ、顧客満足への意識、それらは最上級のショーマンでもあったアントニオ猪木が毛嫌いした「客に媚びるプロレス」につながるからである。
小川に求めるものは「闘う気持ち」である。
アントニオ猪木の求めるプロレスはリアルファイトではない。
それでも最低限の条件として、闘える人間、闘えるプロレスラーたちが行うべきプロレスである。
しかし闘えるプロレスラーや格闘家たちが、これは「仕事だから」「これはプロレスだから」とテンションと闘う気持ちを置き去りにして、空虚なアクションショーを演じようとしたところで、大根役者のなんちゃって格闘技にしかなりえない。
所詮、格闘技ファン、現在のプロレスファンの嘲笑の対象としかならない。
かといって闘えるプロレスラーたちがプロレス的な約束ムーブ、プロレスの上手さで、いかにもプロレス的な熱戦を展開する事など昭和のファンはもっと望んではいないだろう。
カートアングルやレスナーの試合がそうであった。
アントニオ猪木の求めるものとしては、高いレベルのネームバリューと強さを持つはずの二人が、典型的なファンに媚びる純プロレスを行ったのだ。
自分が毛嫌いするような試合で、皮肉にも興行が締まらざるを得なかった事に、アントニオ猪木は内心、忸怩たる思いではなかったかと私は思う。
アントニオ猪木の求めるショーマン性と強さへのこだわり。
強さを持った選手たちが、闘う気持ちを維持したまま、プロレスの約束事に頼らずショーとしてのプロレスと闘いを魅せる。
そのためには小川も他のプロレスラー、格闘家たちもIGFに出る以上、もっと闘いを前面に押し出すことである。
では「闘い」とはそもそも何なのか?
次回から記して生きたいと思う。
2007/09/25掲載
かつて蝶野正洋が「アントニオ猪木こそアメリカンプロレスじゃないか」と発言したことがあったが、猪木の側近として関わってきた蝶野さえも抱くショーマン猪木への誤解は、同時に多くのファンが持つアントニオ猪木への誤解でもある。
プロレス的な動き、約束事、プロレス的な受身を行うための肉体。
アントニオ猪木はそういう業界の取り決めとは関係の無い部分で、自己の演出性を創り上げてきた。
プロレス的名勝負を創り上げるための効率性として、業界が決めたプロレス的な取り決めを、極力省くことによって、アントニオ猪木のプロレスは効率性の変わりにアナログ感を得た。
そういうアントニオ猪木のプロレスの継承者ともいうべきレスラーは殆ど存在していない。
体型、ドタバタ感から来るアナログ性に猪木に近いものを感じさせる小川直也に、かすかな期待をかけてしまうが、まだまだ小川がアントニオ猪木の求める世界を理解しているとは思えない。
もう少し細かい部分で、アントニオ猪木の観客を掌に乗せるショーマン性は必要であろうが、かといって、アントニオ猪木もプロレス的な上手さに頼る小川など見たくも無いであろう。
プロレス的な約束事、上手さ、顧客満足への意識、それらは最上級のショーマンでもあったアントニオ猪木が毛嫌いした「客に媚びるプロレス」につながるからである。
小川に求めるものは「闘う気持ち」である。
アントニオ猪木の求めるプロレスはリアルファイトではない。
それでも最低限の条件として、闘える人間、闘えるプロレスラーたちが行うべきプロレスである。
しかし闘えるプロレスラーや格闘家たちが、これは「仕事だから」「これはプロレスだから」とテンションと闘う気持ちを置き去りにして、空虚なアクションショーを演じようとしたところで、大根役者のなんちゃって格闘技にしかなりえない。
所詮、格闘技ファン、現在のプロレスファンの嘲笑の対象としかならない。
かといって闘えるプロレスラーたちがプロレス的な約束ムーブ、プロレスの上手さで、いかにもプロレス的な熱戦を展開する事など昭和のファンはもっと望んではいないだろう。
カートアングルやレスナーの試合がそうであった。
アントニオ猪木の求めるものとしては、高いレベルのネームバリューと強さを持つはずの二人が、典型的なファンに媚びる純プロレスを行ったのだ。
自分が毛嫌いするような試合で、皮肉にも興行が締まらざるを得なかった事に、アントニオ猪木は内心、忸怩たる思いではなかったかと私は思う。
アントニオ猪木の求めるショーマン性と強さへのこだわり。
強さを持った選手たちが、闘う気持ちを維持したまま、プロレスの約束事に頼らずショーとしてのプロレスと闘いを魅せる。
そのためには小川も他のプロレスラー、格闘家たちもIGFに出る以上、もっと闘いを前面に押し出すことである。
では「闘い」とはそもそも何なのか?
次回から記して生きたいと思う。
2007/09/25掲載
posted by shingol at 12:41| 私的・猪木ゲノムの正体を探れ!
私的・猪木ゲノムの正体を探れ!〜11〜/アントニオ猪木と小川直也の体型の秘密
アントニオ猪木がかなりの時間を共に過ごす事が出来た小川直也に、何故、プロレスを教
えなかったのか?
純プロレス的な動き、約束事を教えず、何を教えようとしていたのか?
その点を考えた時、アントニオ猪木は何を持ってショーとしてのプロレスを構成して来た
のかは、これまでの記事で記して来た。
もう一つ、重要な事が有る。
受け身が前提であるはずのプロレスで、しかも、ヘビー級の小川の体重を絞らせたのである。
ジャイアント馬場が純プロレス的な試合を出来るように、太り過ぎのジョンテンタに
減量の支持を与えたのとは全く別の類いの減量をである。
結果、小川直也は、プロレスの受け身に必要な脂肪を最低限まで削り取った鋭角的な
肉体を手にした。
このことから、アントニオ猪木にとって、激しい技を乱発する、プロレスの受け身は
重要視されていない事を意味している。
しかも、その脂肪を削り取った肉体は猪木と同じく、ウェートトレに頼らないナチュラルな
ソップ型の体型でもある。
私はアントニオ猪木が日本プロレスにおいてドリー・ファンク・ジュニアらと純プロレスを
展開して来た時の体型と、新日本旗揚げ後の体型は全く別物であると思っている。
純プロレスを展開する為に身に纏うためにウェートトレで頑丈な肉体を手にしていた時の
アントニオ猪木の肉体は手足の短く胸板の厚い典型的なプロレス体型であった。
新日本を旗揚げ以後、プロレスのスタイルの変化とともに、体型までもが、大きな変化を
遂げた。
受け身の必要の無い体型に変身したのである。
私はただ単に受け身が必要でないだけで、アントニオ猪木があれだけの体型の変化を成し
遂げたとは思っていない。
極論すれば見栄えである。
アフリカの黒人の話で有る。
何故、アフリカの黒人の手足は長くスタイルが良いのか?
元はといえばアフリカの黒人全てがスタイルが良かった訳ではない。
手足が長くスタイルの良い人間だけがもてたために、結果的に、アフリカの黒人が皆、
手足が長くスタイルがよくなってしまったのである。
それは何故か?
手足が長いという事は、それだけ大地から内臓までの距離が長い事を意味する。
内臓までの距離が長ければ長い程、アフリカの大地のあらゆる菌やウィルスからの
感染に強い事を表しているからである。
つまり、遺伝子の強さを示しているという事である。
当のアフリカの黒人たちが、遺伝子の力うんぬんを知っていた事は無いだろうが、
人間には遺伝子の力を性的魅力に変換し無意識に悟っているものでもある。
逆に、中国人、韓国人等の北方モンゴロイド系は寒さに適応出来る表面面積の広い
体型が遺伝子の強さの信号として性的魅力をもたらした。
結果、手足の短いガッチリ体型がもてはやされたのである。
しかし、北方モンゴロイドが大部分を成す日本人の先祖が日本に来た所で、寒さに
対応出来る表面体積の大きな人間に憧れる時代は過ぎ去った。
結果、日本人の潜在的な遺伝子の強さの信号としての性的魅力は、手足の長さに
比重が置かれる事に成る。
アントニオ猪木が何をもって日本プロレス時代とはうってかわって新日本旗揚げ後、
ソップ形のスリム体型に変わってしまったのかは定かではない。
しかし日本プロレス時代とは別人の如く、手足の長さを増してスリム化したアントニオ
猪木の体からは同性から見る性的魅力(同性愛的という事ではない)が醸し出されていた。
しかも、そのスリムな肉体に観客が感情移入出来るもう一つの大きな利点が有った。
観客の母性本能である。(こちらも男性、女性の区別は無い)
人間とは絶対的な肉体と強さを維持した人間には絶対に感情移入出来ない人間なのである。
スリムでか細いアントニオ猪木が、重い相手の技に片膝を付き、耐えている。
そこに反応してしまうのが人間の本質で有る。
余談であるが、前田、長州に観客が反応したのもこの部分であると思っている。
アントニオ猪木の肉体の美的感性が、意識されたものであったかどうかは分からない。
しかし、残念ながら、今のプロレス界は、横に広い頑丈な肉体を持って、受け身重視の強い体作りに夢中である。
プロレスラーたちは大いに勘違いしている。
誰よりも逞しい肉体を持ったプロレスラーになど観客が実は感情移入等出来ない事にである。
アントニオ猪木がシンメトリー、ネオテニーの法則を持って、小川に痩せろと支持したかどうかは分からない。
しかし、少なくとも受け身に必要な脂肪を小川に削り取らせた意味が、純プロレスを展開させる為にでない事だけは事実である。
長州力は先ほどの遺伝子レベルでいうと元々の体型から日本人の潜在的な意識に訴えかける
体型を持つ人間である。
なのに、長州と同じ体型でない人間たちが、こぞって長州体型を目指す。
勘違いも甚だしい世界であると私は思う。
2007/09/23掲載
えなかったのか?
純プロレス的な動き、約束事を教えず、何を教えようとしていたのか?
その点を考えた時、アントニオ猪木は何を持ってショーとしてのプロレスを構成して来た
のかは、これまでの記事で記して来た。
もう一つ、重要な事が有る。
受け身が前提であるはずのプロレスで、しかも、ヘビー級の小川の体重を絞らせたのである。
ジャイアント馬場が純プロレス的な試合を出来るように、太り過ぎのジョンテンタに
減量の支持を与えたのとは全く別の類いの減量をである。
結果、小川直也は、プロレスの受け身に必要な脂肪を最低限まで削り取った鋭角的な
肉体を手にした。
このことから、アントニオ猪木にとって、激しい技を乱発する、プロレスの受け身は
重要視されていない事を意味している。
しかも、その脂肪を削り取った肉体は猪木と同じく、ウェートトレに頼らないナチュラルな
ソップ型の体型でもある。
私はアントニオ猪木が日本プロレスにおいてドリー・ファンク・ジュニアらと純プロレスを
展開して来た時の体型と、新日本旗揚げ後の体型は全く別物であると思っている。
純プロレスを展開する為に身に纏うためにウェートトレで頑丈な肉体を手にしていた時の
アントニオ猪木の肉体は手足の短く胸板の厚い典型的なプロレス体型であった。
新日本を旗揚げ以後、プロレスのスタイルの変化とともに、体型までもが、大きな変化を
遂げた。
受け身の必要の無い体型に変身したのである。
私はただ単に受け身が必要でないだけで、アントニオ猪木があれだけの体型の変化を成し
遂げたとは思っていない。
極論すれば見栄えである。
アフリカの黒人の話で有る。
何故、アフリカの黒人の手足は長くスタイルが良いのか?
元はといえばアフリカの黒人全てがスタイルが良かった訳ではない。
手足が長くスタイルの良い人間だけがもてたために、結果的に、アフリカの黒人が皆、
手足が長くスタイルがよくなってしまったのである。
それは何故か?
手足が長いという事は、それだけ大地から内臓までの距離が長い事を意味する。
内臓までの距離が長ければ長い程、アフリカの大地のあらゆる菌やウィルスからの
感染に強い事を表しているからである。
つまり、遺伝子の強さを示しているという事である。
当のアフリカの黒人たちが、遺伝子の力うんぬんを知っていた事は無いだろうが、
人間には遺伝子の力を性的魅力に変換し無意識に悟っているものでもある。
逆に、中国人、韓国人等の北方モンゴロイド系は寒さに適応出来る表面面積の広い
体型が遺伝子の強さの信号として性的魅力をもたらした。
結果、手足の短いガッチリ体型がもてはやされたのである。
しかし、北方モンゴロイドが大部分を成す日本人の先祖が日本に来た所で、寒さに
対応出来る表面体積の大きな人間に憧れる時代は過ぎ去った。
結果、日本人の潜在的な遺伝子の強さの信号としての性的魅力は、手足の長さに
比重が置かれる事に成る。
アントニオ猪木が何をもって日本プロレス時代とはうってかわって新日本旗揚げ後、
ソップ形のスリム体型に変わってしまったのかは定かではない。
しかし日本プロレス時代とは別人の如く、手足の長さを増してスリム化したアントニオ
猪木の体からは同性から見る性的魅力(同性愛的という事ではない)が醸し出されていた。
しかも、そのスリムな肉体に観客が感情移入出来るもう一つの大きな利点が有った。
観客の母性本能である。(こちらも男性、女性の区別は無い)
人間とは絶対的な肉体と強さを維持した人間には絶対に感情移入出来ない人間なのである。
スリムでか細いアントニオ猪木が、重い相手の技に片膝を付き、耐えている。
そこに反応してしまうのが人間の本質で有る。
余談であるが、前田、長州に観客が反応したのもこの部分であると思っている。
アントニオ猪木の肉体の美的感性が、意識されたものであったかどうかは分からない。
しかし、残念ながら、今のプロレス界は、横に広い頑丈な肉体を持って、受け身重視の強い体作りに夢中である。
プロレスラーたちは大いに勘違いしている。
誰よりも逞しい肉体を持ったプロレスラーになど観客が実は感情移入等出来ない事にである。
アントニオ猪木がシンメトリー、ネオテニーの法則を持って、小川に痩せろと支持したかどうかは分からない。
しかし、少なくとも受け身に必要な脂肪を小川に削り取らせた意味が、純プロレスを展開させる為にでない事だけは事実である。
長州力は先ほどの遺伝子レベルでいうと元々の体型から日本人の潜在的な意識に訴えかける
体型を持つ人間である。
なのに、長州と同じ体型でない人間たちが、こぞって長州体型を目指す。
勘違いも甚だしい世界であると私は思う。
2007/09/23掲載
posted by shingol at 12:40| 私的・猪木ゲノムの正体を探れ!
私的・猪木ゲノムの正体を探れ!〜外伝〜/アルティメット・ロワイヤル
私の好きなアントニオ猪木のプロレスとは混沌のプロレスであった。
観客の求めるハッピーエンドな結末、お腹いっぱいのプロレスとは程遠い、
不満足、納得のいかない結末を提示されるだけであった。
しかし、今と違い、ファンよりもプロレスラー側に優位性があった時代である。
やむを得ず納得のいかない、腹八分目のプロレスを見た後に、私が出来たのはその試合が残してくれた余韻を辿り、想像力を働かすだけであった。
今のファンのプロレス的名勝負を絶えず求める姿勢、そんなファンに優位性において
劣るプロレス側の、あまりにもファン重視の姿勢。
私はやむを得ないと思ってはいる。
しかし、私は変わっているのか。
ファンの満足とは程遠い、あまりにも、消化不良の試合を観た時に、大きな余韻を
感じてしまう性質である。
そういう意味で、アントニオ猪木が手がけたプロレスファンにとっての嘲笑の対象でしかない試合の中で、鮮烈な印象を持つ試合が有る。
あの「アルティメット・ロワイヤル」である。
アントニオ猪木に取ってプロレスラーの前提は受け身が出来る事でも、プロレスが上手い事でもない。
強い事である。
そんな最低限の強さを持ったプロレスラーたちが、リアルで無く、かつ、プロレスでもない不思議な闘い模様を醸し出した。
観客等置いてけぼりの実験試合のドタバタしたリング上の風景に、私は釘付けに成った。
2007/09/22掲載
観客の求めるハッピーエンドな結末、お腹いっぱいのプロレスとは程遠い、
不満足、納得のいかない結末を提示されるだけであった。
しかし、今と違い、ファンよりもプロレスラー側に優位性があった時代である。
やむを得ず納得のいかない、腹八分目のプロレスを見た後に、私が出来たのはその試合が残してくれた余韻を辿り、想像力を働かすだけであった。
今のファンのプロレス的名勝負を絶えず求める姿勢、そんなファンに優位性において
劣るプロレス側の、あまりにもファン重視の姿勢。
私はやむを得ないと思ってはいる。
しかし、私は変わっているのか。
ファンの満足とは程遠い、あまりにも、消化不良の試合を観た時に、大きな余韻を
感じてしまう性質である。
そういう意味で、アントニオ猪木が手がけたプロレスファンにとっての嘲笑の対象でしかない試合の中で、鮮烈な印象を持つ試合が有る。
あの「アルティメット・ロワイヤル」である。
アントニオ猪木に取ってプロレスラーの前提は受け身が出来る事でも、プロレスが上手い事でもない。
強い事である。
そんな最低限の強さを持ったプロレスラーたちが、リアルで無く、かつ、プロレスでもない不思議な闘い模様を醸し出した。
観客等置いてけぼりの実験試合のドタバタしたリング上の風景に、私は釘付けに成った。
2007/09/22掲載
posted by shingol at 12:38| 私的・猪木ゲノムの正体を探れ!
私的・猪木ゲノムの正体を探れ!〜10〜/プロレスの「溜め」を活用せよ!
しばらく、アントニオ猪木が、プロレスの約束的な動き、プロレスの上手さに頼らず、
魅せるプロレスを展開出来てきた理由について記して来た。
最後に記したい事がある。
感情の表現方法、余韻を残す方法、エプロンサイドを利用した攻防、機械仕掛けに成らない
不規則性、アナログ感の演出などである。
最後に「溜め」について記して行きたい。
人間が何かの大きな力を放つ前には、その力の方向に「溜め」を作る。
その「溜め」の間に、多くの観客はその後に行われる展開に向かって視線を釘づけにする。
せっかくそういうものがあるのに、多くのプロレスラーは「溜め」など関係なく、
次から次へと目にも留まらぬ早さの技の展開を目指そうとする。
目にも留まらぬからこそ、その動きに感情移入できないにも関わらずだ。
私的にはアントニオ猪木の「溜め」の技術の最たるものとしては、エプロンにいる相手に
向かって髪の毛を鷲掴みにして鉄柱に叩き付ける際の「溜め」が好きであった。
エプロンと言う前に記した特殊性、非日常性を持ち、かつ、攻守交代の大きな要を持つ
場所で、アントニオ猪木が思い切り、自身の体を弓なりに反らす。
エプロンと言う舞台と、溜めの、両方の要素が醸し出すダイナミズムでもあった。
あるいはお馴染みの弓を弾く鉄拳制裁というものもある。
弾くということ行為自体そのものが「溜め」の最たる動作でもある。
また、アームブリーカーなどもそうである。
他の選手で言うと大木金太郎の一本足頭突きなどもそういう類いであった。
今のプロレスも「溜め」を使っていないとはいえない。
胸を出して、チョップ合戦をもの凄い気合いと共に耐える。
その後に怒りを爆発させて反撃する。
しかし、そんなものに感情の「溜め」も無ければ、反攻撃の「溜め」も無い。
やられている段階で、感情を使い切っているのだ。
大木金太郎の頭突きを受けながら、何度も、膝をつき、転倒する猪木は感情を
セーブしている。
セーブする感情の中に、しっかりと自分の心の中に疑似的にでも抱いた感情については
静かに露出して行く。
猪木の感情が静かな炎と成って観客にも伝わって行く名シーンであった。
アントニオ猪木のエプロンサイドでの攻防の記事でも触れたが、橋本真也が受け継ぐ
猪木イズムとは「強さ」ではなく、ショーマン・アントニオ猪木の自己演出の方法である。
「溜め」の表現一つとっても他の選手とはダイナミズムが違った。
ミドルキックを叩き込む前に、慢心の力を込めて怒りを表現する。
ものすごい「溜め」の瞬間である。
観客の視線をその間に一気に集める。
しかし、肝心なのは、力を溜め観客の視線を集める間の表情である。
感情を露出していないのである。
正しくは露出をセーブしているのである。
露出していないのに、力を自身に溜め込もうとする橋本の怒りは観客に充分に伝わっている。
それが何故かと言われれば、これまでの私の記事を読んで頂きたい。
橋本真也が三銃士の中で猪木イズムを一番受け継いでいるといわれていた。
しかし、一番受け継いでいるのは強さではなく、アントニオ猪木のショーマンとしての
部分だと私は思っている。
2007/09/22掲載
魅せるプロレスを展開出来てきた理由について記して来た。
最後に記したい事がある。
感情の表現方法、余韻を残す方法、エプロンサイドを利用した攻防、機械仕掛けに成らない
不規則性、アナログ感の演出などである。
最後に「溜め」について記して行きたい。
人間が何かの大きな力を放つ前には、その力の方向に「溜め」を作る。
その「溜め」の間に、多くの観客はその後に行われる展開に向かって視線を釘づけにする。
せっかくそういうものがあるのに、多くのプロレスラーは「溜め」など関係なく、
次から次へと目にも留まらぬ早さの技の展開を目指そうとする。
目にも留まらぬからこそ、その動きに感情移入できないにも関わらずだ。
私的にはアントニオ猪木の「溜め」の技術の最たるものとしては、エプロンにいる相手に
向かって髪の毛を鷲掴みにして鉄柱に叩き付ける際の「溜め」が好きであった。
エプロンと言う前に記した特殊性、非日常性を持ち、かつ、攻守交代の大きな要を持つ
場所で、アントニオ猪木が思い切り、自身の体を弓なりに反らす。
エプロンと言う舞台と、溜めの、両方の要素が醸し出すダイナミズムでもあった。
あるいはお馴染みの弓を弾く鉄拳制裁というものもある。
弾くということ行為自体そのものが「溜め」の最たる動作でもある。
また、アームブリーカーなどもそうである。
他の選手で言うと大木金太郎の一本足頭突きなどもそういう類いであった。
今のプロレスも「溜め」を使っていないとはいえない。
胸を出して、チョップ合戦をもの凄い気合いと共に耐える。
その後に怒りを爆発させて反撃する。
しかし、そんなものに感情の「溜め」も無ければ、反攻撃の「溜め」も無い。
やられている段階で、感情を使い切っているのだ。
大木金太郎の頭突きを受けながら、何度も、膝をつき、転倒する猪木は感情を
セーブしている。
セーブする感情の中に、しっかりと自分の心の中に疑似的にでも抱いた感情については
静かに露出して行く。
猪木の感情が静かな炎と成って観客にも伝わって行く名シーンであった。
アントニオ猪木のエプロンサイドでの攻防の記事でも触れたが、橋本真也が受け継ぐ
猪木イズムとは「強さ」ではなく、ショーマン・アントニオ猪木の自己演出の方法である。
「溜め」の表現一つとっても他の選手とはダイナミズムが違った。
ミドルキックを叩き込む前に、慢心の力を込めて怒りを表現する。
ものすごい「溜め」の瞬間である。
観客の視線をその間に一気に集める。
しかし、肝心なのは、力を溜め観客の視線を集める間の表情である。
感情を露出していないのである。
正しくは露出をセーブしているのである。
露出していないのに、力を自身に溜め込もうとする橋本の怒りは観客に充分に伝わっている。
それが何故かと言われれば、これまでの私の記事を読んで頂きたい。
橋本真也が三銃士の中で猪木イズムを一番受け継いでいるといわれていた。
しかし、一番受け継いでいるのは強さではなく、アントニオ猪木のショーマンとしての
部分だと私は思っている。
2007/09/22掲載
posted by shingol at 12:37| 私的・猪木ゲノムの正体を探れ!
私的・猪木ゲノムの正体を探れ〜9〜/一拍空くダイナミズム
アントニオ猪木は、プロレスが上手かったのか下手であったのか定かではないが、
少なくともプロレスの約束事の動きから、離れたショーマンシップを持って、多くの支持
を得て来た。
これまでの記事で記して来た、感情の表現方法、エプロンサイドの利用法、余韻の残し方
を持って、ファンを魅了し続けて来た。
先に記したアントニオ猪木のアナログ感について再び、記して行きたい。
プロレスの約束ムーブとは、アメリカンスタイルであれ、欧州スタイルであれ、ルチャで
あれ、規則正しい動きである。
今のようなアクロバットショー、機械仕掛けのような早さやデジタル感を醸し出す者では
なかったものの、プロレスが商業化した後、プロレスの動きはまるで演武のような
約束的な動きを持って構成されて来た。
プロレスブームが終わり、プロレスファンだけが残ったプロレス村の価値観は、
あくまでプロレスが上手いか下手かだけである。
言い換えてみれば、プロレスを演じるのが上手いか下手かの世界で有る。
プロレスとはあくまで、強いレスラーたちが商業的にショーとしてのプロレスを行う
世界である。
上手いか下手かだけが判断基準と成ったプロレスの世界には、もはや、レッスルする
=格闘するという語源の必要性等無くなったのである。
少なくとも相手をテイクダウンさせられる技術を持っていても、プロレスが上手くなければ
学生プロレス出身のプロレスラーより低い評価しか得られない。
悲しい事である。
プロレスの約束ムーブに頼り、機械仕掛けの規則性を保った動きに、世間のファンが
魅了されるとでも思っているのであろうか?
目にも留らぬ早さで技の攻防を行う。
目にも留まらぬ早さだからこそ、観客の頭の中に何も映像の余韻として残るものはないの
にだ。
アントニオ猪木のプロレスとは、スピードに頼らぬ、規則性に頼らぬプロレスであった。
プロレスの約束ムーブに頼らず、ギクシャクとした攻防の果て、息の合わぬ攻防の中で、
唐突に訪れるフィニッシュ。
アントニオ猪木の卍固めを思い出していただきたい。
足をかける段階から完成系に至るまでの一拍以上空く時間。
その時間に観客は、卍固めと言う技へのダイナミズムを感じ、感情移入出来るのである。
規則性、約束ムーブに頼らずプロレスを構成し、猪木のプロレスに近いものを一番感じさせているレスラーは小川直也である。
ハッスル時代はともかく、IGFなどプロレスに挑む小川直也の試合を無料で貴方たちは
見れるとする。
貴方たちがさんざん酷評するプロレスの下手な小川の試合を見ないままで済むだろうか?
まだ金を取るレベルには至ってはいない。
しかし小川直也の不思議なアナログ感もまた発展途上なのである。
2007/09/20掲載
少なくともプロレスの約束事の動きから、離れたショーマンシップを持って、多くの支持
を得て来た。
これまでの記事で記して来た、感情の表現方法、エプロンサイドの利用法、余韻の残し方
を持って、ファンを魅了し続けて来た。
先に記したアントニオ猪木のアナログ感について再び、記して行きたい。
プロレスの約束ムーブとは、アメリカンスタイルであれ、欧州スタイルであれ、ルチャで
あれ、規則正しい動きである。
今のようなアクロバットショー、機械仕掛けのような早さやデジタル感を醸し出す者では
なかったものの、プロレスが商業化した後、プロレスの動きはまるで演武のような
約束的な動きを持って構成されて来た。
プロレスブームが終わり、プロレスファンだけが残ったプロレス村の価値観は、
あくまでプロレスが上手いか下手かだけである。
言い換えてみれば、プロレスを演じるのが上手いか下手かの世界で有る。
プロレスとはあくまで、強いレスラーたちが商業的にショーとしてのプロレスを行う
世界である。
上手いか下手かだけが判断基準と成ったプロレスの世界には、もはや、レッスルする
=格闘するという語源の必要性等無くなったのである。
少なくとも相手をテイクダウンさせられる技術を持っていても、プロレスが上手くなければ
学生プロレス出身のプロレスラーより低い評価しか得られない。
悲しい事である。
プロレスの約束ムーブに頼り、機械仕掛けの規則性を保った動きに、世間のファンが
魅了されるとでも思っているのであろうか?
目にも留らぬ早さで技の攻防を行う。
目にも留まらぬ早さだからこそ、観客の頭の中に何も映像の余韻として残るものはないの
にだ。
アントニオ猪木のプロレスとは、スピードに頼らぬ、規則性に頼らぬプロレスであった。
プロレスの約束ムーブに頼らず、ギクシャクとした攻防の果て、息の合わぬ攻防の中で、
唐突に訪れるフィニッシュ。
アントニオ猪木の卍固めを思い出していただきたい。
足をかける段階から完成系に至るまでの一拍以上空く時間。
その時間に観客は、卍固めと言う技へのダイナミズムを感じ、感情移入出来るのである。
規則性、約束ムーブに頼らずプロレスを構成し、猪木のプロレスに近いものを一番感じさせているレスラーは小川直也である。
ハッスル時代はともかく、IGFなどプロレスに挑む小川直也の試合を無料で貴方たちは
見れるとする。
貴方たちがさんざん酷評するプロレスの下手な小川の試合を見ないままで済むだろうか?
まだ金を取るレベルには至ってはいない。
しかし小川直也の不思議なアナログ感もまた発展途上なのである。
2007/09/20掲載
posted by shingol at 12:35| 私的・猪木ゲノムの正体を探れ!
私的・猪木ゲノムの正体を探れ〜8〜/ファンを満足させるな!アントニオ猪木の余韻のプロレス
私は前回までの記事で、ショーマンとしてのアントニオ猪木がいかにプロレス的な上手さ、
あるいはプロレス的な約束ムーブに頼らずして、魅せるプロレス、観客を掌に乗せるプロ
レスを行って来たかを記した。
その方法として、機械仕掛けの動きに頼らない一拍遅れるアナログ感、感情の表現方法、
そしてエプロンサイドを利用した攻防などについて記した。
しかし、まだまだアントニオ猪木がプロレス的約束ムーブに頼らず、観客を魅了して来た
術はあるのである。
今回、私が記したいのはアントニオ猪木の余韻のプロレスについてである。
Mr.高橋が著書の中で、興味深い一文を記した。
どちらの価値も落とせないながらも勝敗を決めなければいけない時、回転エビ固めなどの
瞬時の返し技で勝敗を決める事がよくあったとの内容の一文であった。
なるほど勝負に勝って試合に負ける勝敗の決め方ならば、相手の価値も落とさない実に
プロレス的な結末の方法で有る。
格的に同じレベルの選手を相手にする試合で、どうしても勝敗をつけな
ければいけない試合ならば、確かにそういう方法がベストであったのだろう。
ところがアントニオ猪木は格的に遥か下の相手にまで、呆気なく、返し技で勝ってしまう
事が多く有った。
アントニオ猪木は観客に何を残そうとしたのだろうか?
余韻である。
今のプロレスは観客を満足させる為に、実に誠実に、真剣に、リング上でいかに良い試合
を演じられるかに意識を集中させている。
棚橋のような上手いプロレスラーがファンに対して誠実に愛を持って闘っているのは
分かる。
しかし、アントニオ猪木のプロレスにファンに対する誠実さ等無かった。
皆さんに聞きたい事が有る。
異性に惚れる時、何でもかんでも自分の求めるものを満たしてくれる異性。
あるいは自分の為に努力してくれる異性に魅力を感じるであろうか?
もし魅力を感じるとすれば、それはそれで誠実な愛の世界で有る。
今のプロレス村も、そういう愛の世界で成り立っている。
ファンの為にベストを尽くすレスラーたち。
それに感謝し、レスラーを応援するファンたち。
レスラーがファンの顔色を伺い、ファンの満足するような試合を、カウント2.9のお腹い
っぱいのプロレスを提供しようとしている実にファン優位の世界で有る。
しかしアントニオ猪木が、そういう世界を「ファンに媚を売るな」と毛嫌いしたのも当然
であった。
少なくともプロレスブーム以前のアントニオ猪木の試合にファンが満足する世界等無かった。
いつも呆気無く唐突に終わるフィニッシュ。
観客の期待通りは成らない試合展開。
そういうファンの求める満足感等決して満たしてくれない中で、猪木がファンに与えてくれた
ものは満足感ではなく、余韻と謎掛けだけであった。
その余韻と謎掛けにファンは、私たちに不誠実で冷たいアントニオ猪木から目を離せら
れなくなりいつまでも追い求めてしまったので有る。
私が何も考える事無く満足出来たアントニオ猪木の試合等小林戦だけであった。
(逆に言えば、猪木としては異例の純プロレス的完成度の高い作品を残したという事は、
いかに小林戦との大一番に失敗は許されないと考えたかを教えてくれるものであるが)
皆さんは自分の前でいきなり裸で現れる異性等に惚れるだろうか?
これでもかと自分を満足させてくれる異性に惚れるだろうか?
そんな異性に相手も応え、レスラーとファンの双方の信頼関係を築き上げたのが馬場的
プロレスの世界で有る。
しかし、アントニオ猪木のプロレスとは違った。
ファンに冷たく、ファンの想い通りにならないプロレスを続けて行く事で、
あるいはファンに満足ではなく、余韻や謎掛けを与える事で、
逆説的に、ファンの視線を自分のものにし続けているのである。
ファンをお腹いっぱいにさせない事。
ファンに全てを見せない事。
ファンの期待通りにはさせない事。
ファンに余韻を残す事。
アントニオ猪木とファンの関係は、絶対的に猪木が優位性を保っているのである。
2007/09/15掲載
あるいはプロレス的な約束ムーブに頼らずして、魅せるプロレス、観客を掌に乗せるプロ
レスを行って来たかを記した。
その方法として、機械仕掛けの動きに頼らない一拍遅れるアナログ感、感情の表現方法、
そしてエプロンサイドを利用した攻防などについて記した。
しかし、まだまだアントニオ猪木がプロレス的約束ムーブに頼らず、観客を魅了して来た
術はあるのである。
今回、私が記したいのはアントニオ猪木の余韻のプロレスについてである。
Mr.高橋が著書の中で、興味深い一文を記した。
どちらの価値も落とせないながらも勝敗を決めなければいけない時、回転エビ固めなどの
瞬時の返し技で勝敗を決める事がよくあったとの内容の一文であった。
なるほど勝負に勝って試合に負ける勝敗の決め方ならば、相手の価値も落とさない実に
プロレス的な結末の方法で有る。
格的に同じレベルの選手を相手にする試合で、どうしても勝敗をつけな
ければいけない試合ならば、確かにそういう方法がベストであったのだろう。
ところがアントニオ猪木は格的に遥か下の相手にまで、呆気なく、返し技で勝ってしまう
事が多く有った。
アントニオ猪木は観客に何を残そうとしたのだろうか?
余韻である。
今のプロレスは観客を満足させる為に、実に誠実に、真剣に、リング上でいかに良い試合
を演じられるかに意識を集中させている。
棚橋のような上手いプロレスラーがファンに対して誠実に愛を持って闘っているのは
分かる。
しかし、アントニオ猪木のプロレスにファンに対する誠実さ等無かった。
皆さんに聞きたい事が有る。
異性に惚れる時、何でもかんでも自分の求めるものを満たしてくれる異性。
あるいは自分の為に努力してくれる異性に魅力を感じるであろうか?
もし魅力を感じるとすれば、それはそれで誠実な愛の世界で有る。
今のプロレス村も、そういう愛の世界で成り立っている。
ファンの為にベストを尽くすレスラーたち。
それに感謝し、レスラーを応援するファンたち。
レスラーがファンの顔色を伺い、ファンの満足するような試合を、カウント2.9のお腹い
っぱいのプロレスを提供しようとしている実にファン優位の世界で有る。
しかしアントニオ猪木が、そういう世界を「ファンに媚を売るな」と毛嫌いしたのも当然
であった。
少なくともプロレスブーム以前のアントニオ猪木の試合にファンが満足する世界等無かった。
いつも呆気無く唐突に終わるフィニッシュ。
観客の期待通りは成らない試合展開。
そういうファンの求める満足感等決して満たしてくれない中で、猪木がファンに与えてくれた
ものは満足感ではなく、余韻と謎掛けだけであった。
その余韻と謎掛けにファンは、私たちに不誠実で冷たいアントニオ猪木から目を離せら
れなくなりいつまでも追い求めてしまったので有る。
私が何も考える事無く満足出来たアントニオ猪木の試合等小林戦だけであった。
(逆に言えば、猪木としては異例の純プロレス的完成度の高い作品を残したという事は、
いかに小林戦との大一番に失敗は許されないと考えたかを教えてくれるものであるが)
皆さんは自分の前でいきなり裸で現れる異性等に惚れるだろうか?
これでもかと自分を満足させてくれる異性に惚れるだろうか?
そんな異性に相手も応え、レスラーとファンの双方の信頼関係を築き上げたのが馬場的
プロレスの世界で有る。
しかし、アントニオ猪木のプロレスとは違った。
ファンに冷たく、ファンの想い通りにならないプロレスを続けて行く事で、
あるいはファンに満足ではなく、余韻や謎掛けを与える事で、
逆説的に、ファンの視線を自分のものにし続けているのである。
ファンをお腹いっぱいにさせない事。
ファンに全てを見せない事。
ファンの期待通りにはさせない事。
ファンに余韻を残す事。
アントニオ猪木とファンの関係は、絶対的に猪木が優位性を保っているのである。
2007/09/15掲載
posted by shingol at 12:33| 私的・猪木ゲノムの正体を探れ!
私的・猪木ゲノムの正体を探れ〜7〜/エプロンサイドの攻防
私は前回の記事で、ショーマンとしてのアントニオ猪木がいかにプロレスの伝統的な
約束ムーブやプロレスの上手さに頼らずして、観客を掌に乗せる事が出来たかとして、
アントニオ猪木が試合中に魅せる感情の表現法について記した。
また、猪木ゲノムに参戦する格闘家たちが、所詮プロレスだからと、闘う感情をあらかじ
め捨て去ってプロレスをこなそうとする事がいかにもったいないかを記した。
余談であるが私のその記事に関連する事であるが、K-1心中様のヤマケンの記事
を是非読んでいただきたい。
私自身、前述した記事で記した事に関連するが、どこか憂いの表情を醸し出しながら、何か
を内に秘めているのか、不思議な色気を感じさせるヤマケンのファンでも有った。
さて、前回記したアントニオ猪木のショーマンシップについてである。
感情の表現法に続いて、私が記したいのは、アントニオ猪木のリングの使い方で有る。
ロープワークの攻防、コーナー際の攻防無くして今のプロレス等有り得ない。
しかしアントニオ猪木のプロレスとは、エプロンサイドの攻防を多用したプロレスでもあ
った。
エプロンサイドとは、リングと同じ高さで有りながらも、リングのキャンパスとは明らかに
異なる非日常の空間でもある。
私が思うに、視覚的にも見やすく、なおかつ、通常のリング内とは異なる場所で行われる
攻防は明らかに観客の視線を集めるはずである。
しかもリング外への落下のスリルも感じさせる、「美味しい攻防場所」で有る。
しかし、どういうわけか、今のプロレスラーはそういう美味しい攻防場所を利用する事は
あまり無い。
猪木の場合、エプロンサイドの攻防をよく攻守のスイッチとして多用した。
エプロン際でブレーンバスターをされれば切り返す。
エプロン際でリング内にいる相手の頭を鷲掴みにして鉄柱にぶつける。
今から試合が佳境に入る信号として観客にも充分分かりやすく、また、ダイナミズムや
非日常性(リング内での攻防よりは)を感じさせるエプロンサイドの攻防ほど美味しい
ものは無い。
このエプロンサイドの攻防を無意識的に知っているのが橋本である。
小川直也との引退を賭けた試合で、花道と合体したエプロンサイドで、リング上の
小川直也に対して、水面蹴りを放った。
瞬間、観客の声援は最高潮に達した。
攻守のスイッチ、あるいは、クライマックスへの予感として、これほど分かりやすく、ダイナミズムを感じさせてくれる名シーンは無かった。
アントニオ猪木とはエプロンサイドでの攻防がいかに観客を掌に乗せられるかを充分に
知り尽くしたプロレスラーであった。
しかし、アントニオ猪木の観客を掌に乗せる術はまだまだあるのである。
2007/09/14掲載
約束ムーブやプロレスの上手さに頼らずして、観客を掌に乗せる事が出来たかとして、
アントニオ猪木が試合中に魅せる感情の表現法について記した。
また、猪木ゲノムに参戦する格闘家たちが、所詮プロレスだからと、闘う感情をあらかじ
め捨て去ってプロレスをこなそうとする事がいかにもったいないかを記した。
余談であるが私のその記事に関連する事であるが、K-1心中様のヤマケンの記事
を是非読んでいただきたい。
私自身、前述した記事で記した事に関連するが、どこか憂いの表情を醸し出しながら、何か
を内に秘めているのか、不思議な色気を感じさせるヤマケンのファンでも有った。
さて、前回記したアントニオ猪木のショーマンシップについてである。
感情の表現法に続いて、私が記したいのは、アントニオ猪木のリングの使い方で有る。
ロープワークの攻防、コーナー際の攻防無くして今のプロレス等有り得ない。
しかしアントニオ猪木のプロレスとは、エプロンサイドの攻防を多用したプロレスでもあ
った。
エプロンサイドとは、リングと同じ高さで有りながらも、リングのキャンパスとは明らかに
異なる非日常の空間でもある。
私が思うに、視覚的にも見やすく、なおかつ、通常のリング内とは異なる場所で行われる
攻防は明らかに観客の視線を集めるはずである。
しかもリング外への落下のスリルも感じさせる、「美味しい攻防場所」で有る。
しかし、どういうわけか、今のプロレスラーはそういう美味しい攻防場所を利用する事は
あまり無い。
猪木の場合、エプロンサイドの攻防をよく攻守のスイッチとして多用した。
エプロン際でブレーンバスターをされれば切り返す。
エプロン際でリング内にいる相手の頭を鷲掴みにして鉄柱にぶつける。
今から試合が佳境に入る信号として観客にも充分分かりやすく、また、ダイナミズムや
非日常性(リング内での攻防よりは)を感じさせるエプロンサイドの攻防ほど美味しい
ものは無い。
このエプロンサイドの攻防を無意識的に知っているのが橋本である。
小川直也との引退を賭けた試合で、花道と合体したエプロンサイドで、リング上の
小川直也に対して、水面蹴りを放った。
瞬間、観客の声援は最高潮に達した。
攻守のスイッチ、あるいは、クライマックスへの予感として、これほど分かりやすく、ダイナミズムを感じさせてくれる名シーンは無かった。
アントニオ猪木とはエプロンサイドでの攻防がいかに観客を掌に乗せられるかを充分に
知り尽くしたプロレスラーであった。
しかし、アントニオ猪木の観客を掌に乗せる術はまだまだあるのである。
2007/09/14掲載
posted by shingol at 12:32| 私的・猪木ゲノムの正体を探れ!
私的・猪木ゲノムの正体を探れ〜6〜/感情を露出するな、色気を醸し出せ!
試合内容については全く評価の得られないIGFで有るが、幸いな事に観客動員については
堅い営業力を持って満員の動員を続ける事に評価は高いようである。
試合前とも成れば、糖尿病のアントニオ猪木がリング外で体を張って営業を続けている。
試合に挑む選手は所詮十数分の仕事である。
もう少し自分を追い込んで行っても良いはずで有る。
満員の観客とはいっても普段プロレスとは程遠い一見さんのファンの数が殆ど有る。
プロレス会場らしい熱気や一体感があるかといえば、観客の数に対して、いかにもプロレ
スファンの空洞化現象を醸し出す会場の雰囲気で有る。
私はこれで良いと思っている。
何を持ってプロレスらしいというかは分からぬが、良い興行や良い試合の価値観が、現在
のプロレスの影響を多く受けたプロレスファンが集う会場よりは、普段プロレス等観ない
ファンが会場を支配してくれたら良い。
一般のファンならば、プロレスの小さな村社会の中の価値観をIGFに求める事も無いで
あろう。
そういったファンの中に、昭和を知るプロレスファンが少しでも重なれば良い事である。
間違いなく断言出来るが、今の上手いか下手か、良い試合かどうだったか、会場の一体感、
そんなものに価値を求める今のプロレスファン等IGFには、いらないではないか。
私はそう思う。
今のプロレス村に頼らなくてもアントニオ猪木は日々、営業努力を絶やさず、プロレス村
とは関係のないファンを動員しているではないか。
初めて見るプロレスがIGFなら素晴らしい事である。
一から十まで見ている側に頭を使わせる事無く、親切丁寧な純プロレスの世界に洗脳される
事も無く、先入観無く、プロレスを知る事に成る。
私はIGFは今のプロレス村とは遠く離れた世界に行って欲しいと思っている。
さて、前回の続きである。
アントニオ猪木は何故、小川直也と長い時間を共にしながら、プロレスの基本的ムーブを
教えなかったのか?
小川直也にさせたかったのはリアルファイトでは無かったはずである。
時代の流れの中で、小川の総合出陣を強いる事も多々、有った。
しかし基本的に猪木が小川直也にさせたかったのはリアルファイトでは無かったはずである。
ならばリアルで無いプロレスを行う上で、必要なプロレスの約束ムーブ、基本的なマット
ワークを何故教えなかったのか?
簡単な事である。
アントニオ猪木自身がプロレスの上手い小川等見たくないのだから。
アントニオ猪木の口癖に、「ファンを掌に乗せる事」「ファンに媚を売るな」の二つが有
る。
ファンを掌に乗せる事とは何か?
猪木はファンを掌に乗せて会場を熱気に包む為には何が必要なのかを常に考えている人間
である。
そんな猪木が、ファンを掌に乗せる為に絶対的にプロレスの上手さ、約束ムーブの基本が
必須であると思えば小川にそれらを教えていたはずである。
しかし、猪木は教えなかった。
そんなもの、つまり、プロレスの約束ムーブや基本等無くても、ファンを掌に乗せれると
思っているからである。
なら、猪木は何を持って観客を掌に乗せれると考えたのであろうか?
プロレスの下手なアントニオ猪木が、どうして、ショーマンとしても、観客を掌に乗せ続
け、多くの支持を得ていられたか?
アントニオ猪木の事をアメリカンスタイルという人もいるが、ショーマンとしてのアント
ニオ猪木も又、アメリカンスタイルとは程遠いスタイルである。
アントニオ猪木のオリジナルのプロレスの見せ方をいくつか記していきたい。
一つは、感情の表現法である。
プロレスラーは感情を出せ、出しまくるのがストロングスタイルだとの声も有る。
しかし、アントニオ猪木は感情を心の内にしまいこむ事で実は観客の注目を集めているのだ。
感情を消し去っているのではない。
感情を心の内では絶対的に維持している事。かつ、その感情を安易に露出しない事で、
忍ぶ色気を醸し出しているのだ。
感情の出し所を上手くわきまえているともいえる。
やられてやられて最後に怒りを爆発させてのパターンは力道山以来の日本のプロレスの
スタンダードでもある。
しかし、今のプロレスは違う。
感情を爆発される前に、もう既に感情が露出している、漏れてしまっているのである。
試合中、常に怒りや気合いの表情を醸し出す事に必死で、感情を安売りしてしまっている
のである。
忍ぶ色気や、感情を徐々に露出して行くストリップとしての色気も無い。
いたずらに気合いを入れ、感情を醸し出す事に夢中で、感情のストリッパーとしての
プロレスの色気を放棄してしまっているのである。
アントニオ猪木の燃える闘魂とは燃え盛る赤い炎ではなく、静かな青い炎の世界で有る。
燃え盛るのではなく、淡々と、内に秘めた炎を静かに燃やしながら、一気に爆発させる。
ところが、今のプロレスラーとは猪木顔負けの全編燃える闘魂ショーの世界で有る。
そんなものに色気等あるわけが無い。
内に秘めた青い炎の如くの感情を燃やし続けながらも、必要時以外は、絶対に露出させない。
露出させない事で、感情を忍ぶ色気を醸し出す。
皆さんはそういうプロレスラーを他に思い当たらないであろうか?
そう前田日明である。
感情全開の男と思われる前田であるが、新日との対抗戦であれ、何であれ、僅かの
セメント試合を覗き、内に秘めた感情を出来るだけ、表に出す事無く、出来るだけ
プロレスを行おうとしていた。
感情を出さずとも、内に秘めた感情は何かしらの雰囲気を漂わせるものだ。
後もう一人いる。
意外な男であるが、長州力である。
それこそ全編クライマックスシーンの如く、感情を全開にさせるプロレスと思われがちで
あったが、長州は自身の持つ本当の激しい気性をプロレスに用いた事等無い。
その気性を内に殺し、プロレスとしてのギミックとしての感情を演出しているだけである。
しかし、観客は無意識に長州が内にプロレス的とは別の激しい気性を隠し持っている事を
知っている。
隠していても隠しきれない気性のオーラを内から醸し出しているからである。
昔のプロレスには感情を剥き出し手にして向かい合って張り手合戦、水平打ち合戦のよう
なものは無かった。
張り手を返すくらいなら、内に怒りを秘めて耐えれば良いのだ。
ところが今のプロレスラーはすぐ反撃するか、もしくは気合いもろともの感情満点の
表情で耐える。
内に何かの感情を抱きながらも、静かにメラメラと耐えているレスラーの方に観客の
視線は向かうはずである。
それがプロレスの色気ではないか。
心内に感情を抱く事。
しかし、感情を簡単に露出させない事。
それらを意識出来るプロレスラーは絶対に色気を醸し出せるはずだ。
ではIGFでの感情の使い方とはどうか?
いたずらに感情を全開しての激しいプロレス。
あるいは、内に感情を抱く事をせず、感情のポーズだけを取り繕う格闘家。
どちらかでしかない。
本来、闘う気持ちを持った格闘家たちが、その闘う気持ちを、けして消し去る事無く、
内に抱いていれば、そして、かつ、抱いた感情をいたずらに表に出さなければ、かなりの
色気を醸し出せるはずである。
ところが、感情を内に秘める、抱くどころか、これはプロレスなんだと最初から闘う感情を
捨て去ってしまってるのである。
もったいない事である。
そういえばUWFでの前田もそうであった。
仲間内とのUWF流約束ムーブ、プロレス的激しい試合を専念する事に頭が一杯で、
心の中に秘めるべき感情等内に秘めていなかったのか何一つ色気を醸し出していなかった。
新日本との対抗戦と比べて、UWFの前田に色気が無かった原因でもあると思っている。
IGFに参加する格闘家たちは絶対に心の内に「闘う魂」を維持して行く事だ。
そして、かつ、それを絶対に簡単に露出しない事だ。
そうすれば今のプロレスラーが無くした、忍ぶ者の色気が醸し出せれるはずである。
2007/09/13掲載
堅い営業力を持って満員の動員を続ける事に評価は高いようである。
試合前とも成れば、糖尿病のアントニオ猪木がリング外で体を張って営業を続けている。
試合に挑む選手は所詮十数分の仕事である。
もう少し自分を追い込んで行っても良いはずで有る。
満員の観客とはいっても普段プロレスとは程遠い一見さんのファンの数が殆ど有る。
プロレス会場らしい熱気や一体感があるかといえば、観客の数に対して、いかにもプロレ
スファンの空洞化現象を醸し出す会場の雰囲気で有る。
私はこれで良いと思っている。
何を持ってプロレスらしいというかは分からぬが、良い興行や良い試合の価値観が、現在
のプロレスの影響を多く受けたプロレスファンが集う会場よりは、普段プロレス等観ない
ファンが会場を支配してくれたら良い。
一般のファンならば、プロレスの小さな村社会の中の価値観をIGFに求める事も無いで
あろう。
そういったファンの中に、昭和を知るプロレスファンが少しでも重なれば良い事である。
間違いなく断言出来るが、今の上手いか下手か、良い試合かどうだったか、会場の一体感、
そんなものに価値を求める今のプロレスファン等IGFには、いらないではないか。
私はそう思う。
今のプロレス村に頼らなくてもアントニオ猪木は日々、営業努力を絶やさず、プロレス村
とは関係のないファンを動員しているではないか。
初めて見るプロレスがIGFなら素晴らしい事である。
一から十まで見ている側に頭を使わせる事無く、親切丁寧な純プロレスの世界に洗脳される
事も無く、先入観無く、プロレスを知る事に成る。
私はIGFは今のプロレス村とは遠く離れた世界に行って欲しいと思っている。
さて、前回の続きである。
アントニオ猪木は何故、小川直也と長い時間を共にしながら、プロレスの基本的ムーブを
教えなかったのか?
小川直也にさせたかったのはリアルファイトでは無かったはずである。
時代の流れの中で、小川の総合出陣を強いる事も多々、有った。
しかし基本的に猪木が小川直也にさせたかったのはリアルファイトでは無かったはずである。
ならばリアルで無いプロレスを行う上で、必要なプロレスの約束ムーブ、基本的なマット
ワークを何故教えなかったのか?
簡単な事である。
アントニオ猪木自身がプロレスの上手い小川等見たくないのだから。
アントニオ猪木の口癖に、「ファンを掌に乗せる事」「ファンに媚を売るな」の二つが有
る。
ファンを掌に乗せる事とは何か?
猪木はファンを掌に乗せて会場を熱気に包む為には何が必要なのかを常に考えている人間
である。
そんな猪木が、ファンを掌に乗せる為に絶対的にプロレスの上手さ、約束ムーブの基本が
必須であると思えば小川にそれらを教えていたはずである。
しかし、猪木は教えなかった。
そんなもの、つまり、プロレスの約束ムーブや基本等無くても、ファンを掌に乗せれると
思っているからである。
なら、猪木は何を持って観客を掌に乗せれると考えたのであろうか?
プロレスの下手なアントニオ猪木が、どうして、ショーマンとしても、観客を掌に乗せ続
け、多くの支持を得ていられたか?
アントニオ猪木の事をアメリカンスタイルという人もいるが、ショーマンとしてのアント
ニオ猪木も又、アメリカンスタイルとは程遠いスタイルである。
アントニオ猪木のオリジナルのプロレスの見せ方をいくつか記していきたい。
一つは、感情の表現法である。
プロレスラーは感情を出せ、出しまくるのがストロングスタイルだとの声も有る。
しかし、アントニオ猪木は感情を心の内にしまいこむ事で実は観客の注目を集めているのだ。
感情を消し去っているのではない。
感情を心の内では絶対的に維持している事。かつ、その感情を安易に露出しない事で、
忍ぶ色気を醸し出しているのだ。
感情の出し所を上手くわきまえているともいえる。
やられてやられて最後に怒りを爆発させてのパターンは力道山以来の日本のプロレスの
スタンダードでもある。
しかし、今のプロレスは違う。
感情を爆発される前に、もう既に感情が露出している、漏れてしまっているのである。
試合中、常に怒りや気合いの表情を醸し出す事に必死で、感情を安売りしてしまっている
のである。
忍ぶ色気や、感情を徐々に露出して行くストリップとしての色気も無い。
いたずらに気合いを入れ、感情を醸し出す事に夢中で、感情のストリッパーとしての
プロレスの色気を放棄してしまっているのである。
アントニオ猪木の燃える闘魂とは燃え盛る赤い炎ではなく、静かな青い炎の世界で有る。
燃え盛るのではなく、淡々と、内に秘めた炎を静かに燃やしながら、一気に爆発させる。
ところが、今のプロレスラーとは猪木顔負けの全編燃える闘魂ショーの世界で有る。
そんなものに色気等あるわけが無い。
内に秘めた青い炎の如くの感情を燃やし続けながらも、必要時以外は、絶対に露出させない。
露出させない事で、感情を忍ぶ色気を醸し出す。
皆さんはそういうプロレスラーを他に思い当たらないであろうか?
そう前田日明である。
感情全開の男と思われる前田であるが、新日との対抗戦であれ、何であれ、僅かの
セメント試合を覗き、内に秘めた感情を出来るだけ、表に出す事無く、出来るだけ
プロレスを行おうとしていた。
感情を出さずとも、内に秘めた感情は何かしらの雰囲気を漂わせるものだ。
後もう一人いる。
意外な男であるが、長州力である。
それこそ全編クライマックスシーンの如く、感情を全開にさせるプロレスと思われがちで
あったが、長州は自身の持つ本当の激しい気性をプロレスに用いた事等無い。
その気性を内に殺し、プロレスとしてのギミックとしての感情を演出しているだけである。
しかし、観客は無意識に長州が内にプロレス的とは別の激しい気性を隠し持っている事を
知っている。
隠していても隠しきれない気性のオーラを内から醸し出しているからである。
昔のプロレスには感情を剥き出し手にして向かい合って張り手合戦、水平打ち合戦のよう
なものは無かった。
張り手を返すくらいなら、内に怒りを秘めて耐えれば良いのだ。
ところが今のプロレスラーはすぐ反撃するか、もしくは気合いもろともの感情満点の
表情で耐える。
内に何かの感情を抱きながらも、静かにメラメラと耐えているレスラーの方に観客の
視線は向かうはずである。
それがプロレスの色気ではないか。
心内に感情を抱く事。
しかし、感情を簡単に露出させない事。
それらを意識出来るプロレスラーは絶対に色気を醸し出せるはずだ。
ではIGFでの感情の使い方とはどうか?
いたずらに感情を全開しての激しいプロレス。
あるいは、内に感情を抱く事をせず、感情のポーズだけを取り繕う格闘家。
どちらかでしかない。
本来、闘う気持ちを持った格闘家たちが、その闘う気持ちを、けして消し去る事無く、
内に抱いていれば、そして、かつ、抱いた感情をいたずらに表に出さなければ、かなりの
色気を醸し出せるはずである。
ところが、感情を内に秘める、抱くどころか、これはプロレスなんだと最初から闘う感情を
捨て去ってしまってるのである。
もったいない事である。
そういえばUWFでの前田もそうであった。
仲間内とのUWF流約束ムーブ、プロレス的激しい試合を専念する事に頭が一杯で、
心の中に秘めるべき感情等内に秘めていなかったのか何一つ色気を醸し出していなかった。
新日本との対抗戦と比べて、UWFの前田に色気が無かった原因でもあると思っている。
IGFに参加する格闘家たちは絶対に心の内に「闘う魂」を維持して行く事だ。
そして、かつ、それを絶対に簡単に露出しない事だ。
そうすれば今のプロレスラーが無くした、忍ぶ者の色気が醸し出せれるはずである。
2007/09/13掲載
posted by shingol at 12:31| 私的・猪木ゲノムの正体を探れ!